厳島の戦い 晴賢TOPへ
 さて、謀反を成功させた晴賢が次の狙いとしたのが、石見三本松城の城主である吉見正頼でした。
 吉見正頼と晴賢は以前から相容れないほどの関係であり、また、正頼は大内義隆の姉婿に当たる立場であったため、晴賢が義隆を誅してからは、対立が更に深まっていたのです。
 そんな中、1553年に正頼が晴賢打倒のために挙兵。そのため晴賢は、翌1554年3月に、大軍を率いて石見に出陣。三本松城を攻囲しました。
 三本松城を攻囲した晴賢は、毛利元就に更なる援軍を要請しました。
 しかし実はこの時、正頼からの救援を求める使者が、元就のもとに赴いていたのです。
 そこに今度は晴賢者からの使者がやってきたわけですから、元就の家中では、晴賢につくか正頼につくか、という議論が行われました。
 そして元就は息子である隆元の意見を容れ、同年5月12日、正式に晴賢と断行。その日のうちに兵を進め、晴賢方の城である銀山城・草津城・桜尾城を次々と陥落させました。これらはすべて5月12日の一日での出来事でありました。
 晴賢はこの報をきくと、大いに動揺しました。というのも、この状況では前には正頼、後ろには元就と、二つの軍勢に挟まれている形になってしまっているからです。そのため晴賢は兵を動かすことが出来ず、進退窮まってしまったのです。
 そんな中同年8月に、城内の食糧不足に悩んだ正頼から、「和議を結ばないか?」という話が持ちかけられます。晴賢はこれに同意し、三本松城の包囲を解除。
 そして晴賢は、家臣の一人である宮川房長七千の大軍を持たせ(一説に三千)、元就の討伐に向かわせたのです。

 折敷畑の戦い
 さて、この戦いは厳島の戦いには厳密には含まれていないものの、厳島の合戦に至るまでの過程に影響を与えた戦いであり、「厳島合戦の前哨戦」とも言われる戦いです。
 宮川房長は、七千の兵と共に、その時元就が入っていた桜尾城に向かいます。房長は、その途上にある折敷畑という場所に陣を敷きました。
 それに対し元就は、三千の兵と共に桜尾城を出て、長男毛利隆元・次男吉川元春・三男小早川隆景と共に進撃を開始。同年9月15日、油断していた房長軍に奇襲をかけたのです。
 突然の敵の来襲に房長軍は総崩れとなり、房長自身をはじめ多くの武将が討ち取られてしまいました。
 更に小早川隆景の水軍が若山城を攻めようという動きを見せていたこともあり、晴賢は一旦若山城に引き、体勢を立て直すことにしました。
 その間に元就は大いに動き、翌1555年3月〜4月頃までには、安芸の全てを平定したのです。

 江良房栄誅殺事件
 さてそんな中、晴賢の家臣の一人である江良房栄について、晴賢の周辺で妙な噂が流れ始めました。それは「房栄は悪逆無道の晴賢を、毛利元就と図って討とうとしている」というものでした。これは毛利元就が離間のために流させた嘘の噂でありましたが、晴賢もそこはさすがに見抜いており、それを信じることはしませんでした。
 ですが結局晴賢は、房栄を誅することになります。
 そこに至るまでの一連の流れで有名な話は、次のようなものでしょう。
 
 房栄裏切りの噂が流れていた頃、若山城の中に一通の手紙が落ちていました。それは「元就殿と晴賢殿が戦う際には、自分は晴賢を裏切り、元就殿のために働きます。それを先日元就殿に申したところ、元就殿は自分に防州一国を賜ると仰ってくれました。自分としては本望でございます」という、房栄の筆跡で書かれたものでした。実際にはこの手紙は元就が、房栄の筆跡を真似させて書かせた偽手紙であったのですが、これを見た晴賢は房栄の裏切りを確信し、家臣らの咎めもきかずに房栄を殺害してしまいました。

 さてこの話なのですが、これは「隠徳太平記」という、信憑性が薄いといわれている史料に出ている逸話なので、そのまま信じることは出来ません。
 更に、実は房栄の裏切りというのは、どうやら本当にその動きがあったことのようなのです。
 なので、この事件の真実は、次のように考えられています。
 
 房栄は元就の実力を正当に評価していたので「元就と戦う晴賢は、おそらく滅亡してしまうだろう」と考え、元就に内通しました。
 元就は喜び、房栄に領地を与えたのですが、房栄はそれで満足せずに、更に加増を要求したのです。
 そのため元就は房栄を「欲が強く、褒賞の度合いによって容易に裏切る者」と警戒。ですがここで房栄を晴賢のもとに追い返すのは、晴賢の陣営を充実させてしまうだけです。なので元就は間者を晴賢のもとにやり、晴賢の家臣に「房栄裏切り」との情報を与えます。その家臣からそれをきいた晴賢は先手を打ち、房栄を殺害したのです。
 
 厳島の戦い
 さてそんな状況の中、毛利元就が突然厳島に上陸し、そこに宮尾城という城を築きました。
 厳島は、晴賢が安芸に海路から攻め入るには、戦略上必要な重要拠点です。
 更に元就は、晴賢の陸路からの侵攻を防ぐため、陸路の拠点である門山城を破壊しました。
 これにより、晴賢軍は陸路からの進軍も、海路からの進軍も、かならず城を落とさねばならない状況になったのです。
 そんな中、元就の居城・郡山城に放っていた間者から、次のような話が届けられました。
 それは「厳島に城を築いたのは失敗だった。もし晴賢が厳島に大軍を率いて渡ってきたら、とても勝ち目はない」という、元就が家臣たちにつぶやいた言葉でした。
 更に郡山城の留守役である桂元澄から「もし晴賢殿が厳島に渡るのならば、元就はあわてふためき、救援に赴くであろう。自分はその時に郡山城から出撃し、元就の背後をつく。晴賢殿と自分とで元就を挟み撃ちにしようではないか」という、元就を裏切るという密書が届きました。
 さらに民たちまでもが、「元就は厳島に大軍が渡ってこないように、ただただ祈ってばかりいるそうじゃ」という噂をしていました。
 これらのことを、晴賢は信用し、厳島に渡海する決意を固めます。
 しかしこれらは全て、元就の用意した周到な策でありました。
 元就の兵は晴賢のそれとくらべて非常に少なく、大軍に寡兵で勝つには、陸路での戦いではなく、どうしても厳島という狭い場所で戦う必要があったのです。
 そうとは気づかずに、1555年9月21日、晴賢は二万の大軍を率いて厳島に上陸しました。
 家臣達の中には、弘中隆兼など「元就が厳島に城を築いたことを後悔しているというのは偽りです。ここは陸路を通って攻めるべきです」という意見を言うものもいたのですが、晴賢はそれを斥けたといわれています。
 さて厳島に上陸した晴賢は、宮尾城の南にある塔ノ丘という場所に布陣します。
 しかし不思議なことに、この時、晴賢は宮尾城を攻撃していません。
 これはやはり、桂元澄の「晴賢殿が厳島に渡ったのならば、自分は元就の背後を襲撃する」という偽りの裏切りを信じていたからだと考えられます。
 さてその後9月28日、元就の本陣が厳島の対岸である地御前に現れました。しかし9月30日の夜まで毛利方には何の動きもなく、ただ時だけが過ぎていきました。
 しかし10月1日明け方。突如毛利軍が、晴賢軍の本陣に奇襲をかけてきたのです。
 実は9月30日の夜半〜10月1日の夜明け前までに、毛利軍は厳島にひそかに上陸していたのです。
 毛利軍は元就・隆元の部隊、小早川隆景の部隊、更には宮尾城の部隊全てを動員し、三方から一斉に攻撃を開始したのです。
 晴賢軍は、毛利軍が厳島に渡ってきたことなど知らないので、事前の準備もなく、あっという間に総崩れとなり、敗走しました。
 しかし二万の軍勢が狭い厳島に殺到していたために動きが取れず、また島からの脱出のために船に乗れたとしても、あまりにも多量の人間が一度に乗ったため船が転覆し、更に運良く転覆しないですんだ船も、待ち構えていた村上・伊予水軍にことごとく撃沈されてしまいました。
 こうして晴賢軍は、厳島において毛利軍に大敗したのです。
 晴賢は自刃しようとしましたが、家臣らに諌められて思いとどまり、島を脱出し再起を図るために大元浦・青海苔(いずれも厳島内の地名)などで船を捜しましたが、船は見つかりません。
 そんな中、ついに小早川隆景勢が晴賢勢に追いつきます。
 晴賢勢の殿を務めていた三浦房清は、晴賢を逃がすために、わずか30名足らずの軍勢と共に小早川勢に切り込み、晴賢脱出のための時間を稼ぎます。
 房清らは奮戦し、小早川隊の武将を五人以上討ち取るという激烈な戦を繰り広げたのですが、多勢に無勢、やがて力尽き、全員が討死を遂げました。
 その間に晴賢は最後の頼みにと大江浦というところにたどり着きましたが、やはり、ここにも船は見当たりません。
 ついに晴賢は己の武運の尽きたことを悟り、その場で家臣の介錯により、自害して果てました。
 その辞世の句は

 何を惜しみ何を恨まん元よりもこの有様の定まれる身に