資 料

教育基本法改正のために――試案・レジュメ

 教育基本法の「改正」問題が高まりそうな気配です。文部省が中教審に諮問する予定にもなっています。
 「改正」へ、拒否反応も示す方も多いことでしょう。しかし忌避するだけでは事態は改善しません。私たちの前を、素通りしていくだけです。
 そうしないためにも、むしろ私たちの側から「対案」「試案」を出していく必要があるでしょう。
 以下の提案は、私(大沼)の個人的なものです。たたき台に過ぎません。ですが、「愛国心教育」を条文にどう位置付けるかといった“困難な”問題にも、私なりの「答え」を出しています。関心がおありの方は「六法」を参考に読んでください。 
            
                            
◇ 「試案」の基本的な考え方
  意見が鋭く対立する点(たとえば「愛国心」問題)は、調整的な立場で現実的に解決する。
 
◇ 位置付け ―― 教育「新憲法」を制定する。   

(1) 教育基本法は「準憲法的な性格」を持つといわれる。教育面における「新憲法」を制定する姿勢で、積極的に取り組む。
(2) 「教育再立国」あるいは新たなる「市民社会」づくりの精神的・制度的な柱とする。
(3) 「21世紀」を見据えた先進的な内容とする。「復古」とはしない。先進的な内容とするのが望ましい。

1. 新しい「前文」の創造    

(1) 昭和22年(1947)3月公布という時代的制約のなかでつくられた「前文」の内容、表現を、その趣旨を基礎としながら、現代風に改める。
(2) 現「前文」は200字詰め原稿用紙1枚ちょっと。短く、あまりにもあじけない。内容をより密度の濃いものとし、わが国の新しい「教育宣言」として、新しい「前文」を創造する。
(3) 新しい「前文」は、「新・基本法」に盛り込まれる新要素、改正内容を反映したものとする。
(4) 「前文」の起草には、作家・詩人らに参加してもらい、子どもたちが唱和するに足る、格調高い日本語とする。

2. 新しい「条文」――21世紀日本を築く教育の柱の創造  

(1) 第1条(教育の目的)に、新時代に合わせ、次の要素を加える。
―「国際」あるいは「国際社会」
―「ともに生きる」あるいは「共生」
―「創造」あるいは「創造性」
(2) 第1条(教育の目的)に、これまで欠落していた次の要素を加える。
―「国を愛する」あるいは「愛国心」
―「民主」あるいは「民主主義」「民主的」
(3) たとえば「平和的な国家を愛し、民主的な社会を築く担い手として」といった表現。

(4) 第2条(教育の方針)に、次の要素を加える。
―「あらゆる人々に対して」(「あらゆる機会に、あらゆる場所において」とは記されているが、対象が明示されていない。障害児教育、外国人教育のためにも、人的対象規定を加えるべきである)
―「学習の権利」(条文の「学問の自由」に付け加え、「学習の権利と学問の自由を尊重し」とする)
(5) 「学習の権利」は、「責任」論と対でなければならない。この点は後述。

(6) 第3条(教育の機会均等)に、次の要素を加える。
―「個性(に応ずる)」(現行の条文では「ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならない」としているが、この「能力」が結局は偏差値重視教育を煽ってしまった。そこで、新条文は「ひとしく、その能力と個性に応ずる」とする)
(7) 「個性に応ずる」とすることによって、「多様化」を推進。

(8) 第4条(義務教育)の第1項に、次の要素を追加する。
―「子女は普通教育を受ける責任と権利を持つ」(第1項は「国民は、その保護する子女に、9年の普通教育を受けさせる義務を負う」としているが、これに、たとえば、「これに対し、子女は9年の普通教育を受ける責任と権利を持つ」とする。)
(9) 第2条改正案で示した「学習の権利」を補強し、「学習権」を確立する。併せて、こども本人の「学習責任」も。学校側の「教育責任」については後述。

(10) 第5条(男女共学)は現行のまま。

(11) 第6条(学校教育)の第1項の「学校」概念を拡大する。「私学」への言及,評価を。
―「法律に定める法人のみ」を「法人等」として、NPOとなったフリースクールなどを「学びの場」として認め、公的支援を可能とする道を拓く。
― 条文に「私立学校」あるいは「私学」がないのは、教育の現状からして遺憾である。第6条に「私学」への言及を盛り込むべきである。

(12) 第7条(社会教育)の強化。
―「生涯教育」の重要性に鑑み、第1項の「その他社会において行なわれる教育は、」の「教育は」を「生涯教育は」とする。
―同じく第1項の「国及び地方公共団体によって奨励されなければならない」を「奨励、推進されなればならない」として、生涯教育における公的機関の役割と責任を明記する。

(13) 第8(政治教育)、9条(宗教教育)はそのまま。

(14) 第10条(教育行政)に「教育責任」の要素を追加する。この「教育責任」には「情報公開」の義務も含まれる。
―たとえば第3項を新設し、「(3) 法律に定める学校は、児童・生徒の教育に対し教育責任と情報公開の義務を負わなければならない」として、いわゆる「アカウンタビリティー」を明記する。
 これにより、学校側に意欲を持たせ、低学力問題の解決を目指す。
第4条の「学習の責任」論と対。

(15) その他、新しい「前文」に新要素として付け加えるべき点。
―「子どもの権利条約」の精神
―「教育の多様化」
―新・基本法の枠組みのなかでの「教育改革の奨励」

以上


経済戦略会議の中間報告、教育改革部分の要旨
  98.12.24

(1) 画一的で競争のない義務教育に複 数選択性を導入。生徒が自らの適性に応じた学校を選択できる自由を与える。

(2) 各大学における教育・研究に客観的な評価を行う強力な第三者機関を設立。

(3)大学の研究・教育にかかわる政府予算は、原則として第三者評機関の評価に基づき配分。

(4) 国立大学については、独立行政法人化をはじめ将来の民営化も視野に入れて段階的に制度改革を進める。


  ミニ解説  

 経済戦略会議の「教育改革」の提言に、これといって目新しいものはない。おまけに、金融システムなど純経済的諸問題の「付け足し」のようで、はなはだ物足りない。これが「日本再生」の教育的シナリオかと思うと、情けなくなる。

 「大学」に関する部分はさておき、学校選択の「自由」(?)についても、あいまいなままだ。

 報告は、義務教育の現状を「画一的な競争のない」ものとしている。しかし、義務教育なるものが、自ら好んで「画一的」なものになったわけではない。義務教育を「画一化」しているものがあるから、そうなっているだけだ。

 「画一化」されているところに、個性の競い合いとしての「競争」はありえない。ありうるのは、画一化されたものさし(点数、受験など)の上での「競争」の激化だけだ。

 「画一化」のなかでの「競争」、選別(合否、偏差値)による敗者(「どうせ、おれは頭が悪いから…」)の大量生産――それが日本の教育の悲劇であることは今更、言うまでもなかろう。

 したがって、同会議が個性の競い合いとしての学校間の競争を求め、それによって日本の教育がよくなると言うなら、何よりもまず、「画一化」の元凶をなくさなければならない。

 つまり、言わずと知れた「学習指導要領」の廃止である。あるいは最低でも、その「法的拘束力」だけはなくさなければならないのではないか。
 そういう基本的な問題を放置して、学校選択の自由だけを進めたらどうなるのか。

 結局は、「画一化」のなかでの、学校間競争の激化である。とことん深刻化して学校を荒廃させた、「画一的」な尺度での、子ども間の競争激化に加え、こんどは学校間、教職員集団間の画一的な競争が始まる。

 「いい学校」「ましな学校」と思われたいために、進学実績を掲げ、校内秩序の安定ぶりを強調することになるのだ。

 社会全般になお「学歴信仰」が根強い以上、学校側はそうした尺度に沿って、売り込みを図る以外、競争に勝つことはできない。

 他の学校にはない個性を主張しようにも、「学習指導要領」でがんじがらめに縛られいるので、他にやりようがないのである。

 行き着くところは、管理教育の徹底と、小中学校の序列化であろう。

 しかし、子どもたちに何としても、学校選択の自由を与えたいというなら、ひとつやりようがある。

 それは、学校側に「教える自由」を保障することだ。教師たちに、「画一性」に縛られず、自分たちの教育を自分たちでデザインする自由を与えることである。

 恐らく、それによって、あるいは、それによってしか、個性ある学校は出現しないだろう。お互いに競う合い刺激し合う、多様な教育の共存は、それでしか、ありえない。

 そこにおいて初めて、子どもたちの側に、本当の意味での「選択の自由」が生まれるのである。どこそこの学校で、こんなふうに学びたい、という「学びの自由」が生まれるのだ。

 「教える自由」のないところ、本来的に「学びの自由」も「選択の自由」もありえない。

 その意味で、「画一化」の元凶に目をつぶる経済戦略会議の提言は、教育改悪の提言である。

大沼安史


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