(Sudbury Valley School)
|グリーンバーグ氏「日本訪問記」|古山明男さんのスクール訪問記|サドベリー 素描 |
※グリーンバーグ氏の講演記録はポップンポールさんのサイトにも詳細があります。
| 学校改革の世界的モデル校 サドベリー・バレー・校は、米国・東海岸、ボストンに近いフラミンガムの町にあります。開校は1968年。コロンビア大学で科学史を教えていたダニエル・グリーンバーグ氏らが創設した、手づくりの学校です。4歳から18歳までの子どもたち、200人が生きるコミュニティー。そこにはテストもなければ時間割も、学年もなければ固定カリキュラムもありません。そんな自由のなかで、子どもたちは育っているのです。ここではまた、デモクラシーが徹底しています。学校の運営に子どもたちが直接参加しているのです。 そんな「学校らしくない学校」が、大きな成果をあげている。 サドベリーは、既存の「学校」モデル(工場・収容所型)を超えた、21世紀の学校です。 →サドベリー・バレー校のホームページ |
《エディター注》
当センターにサドベリー・バレー校のダニエル・グリーンバーグ氏より、4月の来日を総括する「日本訪問記」が寄せられました。同氏の許可を得て、エディターの大沼の翻訳で全文、掲載します。
| 日 本 訪 問 記 |
ダニエル・グリーンバーグ
妻と私は二週間にわたる、スケジュールびっしりの日本旅行から、つい最近、帰って来たばかりです。この間、私たちは日本の九つの都市で、サドベリー・バレーの哲学と実践について講演を求められました。それは深く感動的な経験でした。私たちの国、アメリカの状況とも大いに関わる、重大な意味をもった旅でした。
日本の学校と、私たちサドベリー・バレーの学校モデルの違い以上に、コントラストのある学校の組み合わせを想像することは難しいと思います。日本の学校は厳しい規律に根ざしています。その規律は入学した瞬間から学校を去るときまで、あらゆる子どもたちに課せられているのです。日本の学校はまた、子どもたち全員に、同じ情報ベースを吸収させようとする、厳格なカリキュラムにも根ざしています。生徒個々の学習の達成を、仲間との相対評価で格付けする、一連の試験も、日本の学校の根にあるものです。そして、集権化された中央政府の官僚機構から発せられる、複雑に階層化した権威に根ざしてもいる。
これに対してサドベリー・バレー校は、次ぎのような考えに基礎を置いています。
子どもは誰も、物心ついたときから、自分自身の教育に個人として責任を持つべきである。したがって、子ども自身の選択、活動に対し、外部からの評価はあってはならない。卓越さと創造性、学習の良き習慣、自分が選んだ分野への情熱的な献身を育む最善の道は、子ども一人ひとりに自分の技能・関心を伸ばす完全な自由を与えることだ。学校は、私たちニューイングランド地方の伝統あるタウン・ミーティングをモデルとする、完全なデモクラシーによって運営されなければならない。学校運営に関する決定に、子どもたち全員がスタッフと同じ一票を行使する学校デモクラシー……。
日本の学校とサドベリーとはこんなにも違うのに、どうして私たちは日本に招かれたのでしょう? なぜ、私たちサドベリー・バレーの本が三冊も日本語に翻訳され、さらに二冊が翻訳作業の途中なのか? 私たちがどうして行く先々で歓迎され、入場料を払った聴衆で各会場は埋まったのか? 聴衆のすべてが私たちの発表に、じっと耳を傾け、温かな共感を何故、示してくれたのか? ラジオやテレビ局、そして新聞社が、あれほどの関心を示し、どうして私たちを取材の対象としたのか? 事実、私たちの滞在時間の多くは、とても有能なレポーターによる、徹底したインタビューによって費やされたのです。
こうした疑問に答えることは、今日の教育状況を語ることにつながります。実際のところ日本の人々はこれまで一定の間、自分たちの学校について懸念し続けて来たのです。まず第一に、自分たちの学校の卒業生から何かが失われていることに、日本人たちは気付いています。ポスト産業期における日本経済の未来、そしてグローバル・ヴィレッジ(地球村)における日本社会にとって大変、有害な、革新と独立、個人的な責任の不在に気付いている。おまけに私たちは、中学校における校内暴力やいやがらせ、いじめ、自殺、小学校における「学級崩壊」についても、さんざん聞かされたのです。これを言いかえれば、日本人もまた私たちと同じ種類の問題に直面し、可能な解決策を求め議論を続けていたわけです。
もちろん、日本のなかにはこれらの困難を、これまでのやり方を強化して適用することで克服し得ると考えている人々もいます。しかし、こうした考え方がこの国の支配的ムードになる気配はないようです。日本人の多くの人々は、すでに気付いているようです。グローバル化する社会のなかで、個人の権利、デモクラシー、自由、そして社会の構成員一人ひとりに独自の潜在能力を最大限、発揮させることで得られる利益を強調する大転換が目の前で起きていることに気付いているのです。子どもたち個々の独自の才能や関心を伸ばすために、生徒の裁量の大幅拡大を許容する、新しい学校教育のかたちに深いまなざしを投げかけているようなのです。
私たちは、あれほど熱狂的な歓迎を受けようとはまったく思いもよりませんでした。行く先々で、日本の聴衆は全く新しいアイデアに喜んで浸る、真摯な願いを表したのです。だからといってそれは、日本の教育が一晩のうちに一八〇度、針路を変え、日本の学校が完全に変わってしまう、ということでは勿論ありません。しかし、それは、教育者や父母、政治家、ビジネスマンら、日本の知的層が、過去一世紀にわたって日本の学校を支配して来た前提のすべてを問い直すことに恐れを抱いていないことを明確に意味するものです。日本の教育を抜本的に新しくデザインする歴史的な任務から腰を引いていないわけです。
こうした日本の状況は、私たちアメリカにおける最近の傾向とコントラストを描くものです。私たちアメリカ人は、暴力、規律の欠如、標準カリキュラム教科における成績不振、思わしくないテスト結果など、私たちの学校に蔓延する諸問題に気付けば気付くほど、子どもたちを学校にねじで締め付けることを好むのではないでしょうか。連邦政府も州政府も、地方当局も、アメリカの学校を良くするには古い原則をもっと厳格に適用すればいいという考えで一致しているようなのです。それで制服を導入したり、授業時間数を増やしたり、テストの成績が悪い生徒にペナルティーを課したり、学校に警察官を配置したり、金属探知機を置いたり、校則違反への処罰を重くしたりしている。言いかえれば、これは結局、日本人が何年もの間、試行し続け、今の状況に合わなくなった教育モデルに対し、私たちが向かっている、ということになるわけです。
私たちは日本型の学校モデルの素晴らしさを聞かされ続けて来ました。その日本で、私と妻が耳にしたのは、日本型学校モデルへの真摯な問い直しであり、それに代わる新しいモデルに対する称賛の声だったのです。
日本が目覚めたいま、何がアメリカの目を覚ますのでしょうか?
古山明男さんのサドベリー・バレー・スクール訪問記
「休み時間だけでできてる学校」
■エディター注:千葉市でホームスクーリングサポート「たらんと広場」を主宰する古山明男さんが、通信「たらんと広場」(第23号)に、米国サドベリー校訪問記を書いています。抜粋を紹介させていただきます。
□「4年ほど前に(中略)ボストンに行きました。その学校はボストン郊外の小さな町にありました。見学に来る人は多いので、スタッフの人が手慣れた感じで、「この本とこの本を読んでもらえば、当校のことがわかります」と紹介してくれます。それらの本は、当校がどのように考え、どのような経過でこうしているのかを、包み隠さず徹底的に公開していました。『見学できますか?』と尋ねると、それはミーティングにはからなければならないとのこと。もし見学可能だったらこちらに連絡してほしいと、宿泊先の電話番号を渡しておいたら、じきにオーケーだと言う連絡がありました」
「当日朝、校内を案内してもらい、『生徒たちに質問しないこと。カメラを向けないこと。タバコは所定の場所で』と言われたあとはご自由に、とのこと」
「生徒たちは9時頃から三々五々やってきて、2時頃から三々五々かえっていきます。野外でスポーツしている者たち。一室で料理をやって、できたものを売っている者たち。釣りに熱中している者たち。一室にこもって数学をやっているものが約一名。とくに何をするでもなく、たむろしてだべっている者たち。納屋の一角でコンピュータをいじっている者たち。それぞれの自由が保証されています。みんないい感じでやってるなという印象でした。ようするにこれは、普通の学校の休み時間と同じだ、休み時間を安心して続けていられる学校なのだと思いました。勉強の必要があるときは、生徒から先生に交渉して授業が成立するそうです」
「外で遊んでいる子どもたちが、異年齢でいっしょになって、きれいに流れているなあという印象でした。年長者が年少者によく配慮しています。熱中しているのですが、ど突きあいのようなものがなくて、すうっとやっています」
「司法委員会とミーティングが開かれる日で、そこも見学させてくれました。司法委員会では『自分の靴を持っていかれて、カエルの容器にされた』という訴えを処理していました。他人の持ち物を勝手に使うのはルール第何条だかに違反するという結論で、違反した子には3日間だかの池への立入禁止。その裁決を本人が承諾すればサインしていくし、不服なら、ミーティングに上訴できる仕組みでした。ところが、靴を使われた子も、とんでもないところに靴を置きっぱなしにしていたようで、これが問題になる。それから、カエルを靴に入れていたのは『生き物をいじめてはいけない』というルールに違反するかどうか議論になっていました」
「この学校のほんわりと自由に花咲いている部分は、きっちりした法治システムに大きく負っているのだなと思いました。普通の大人に保障されている法の保護を、徹底的に子どもにも差し伸べたものです。生徒が教師をリコールする権利まで保障しています。意見対立はこもらないようになっています」
「運営にあたって、なぜそうするか、ということを徹底的に明示し、まずいことが起こったときのフェアーな処理システムを完備する。これが、子どもたちに安心と明晰さを生み出しているのだなと思いました。子どもたちは、自然に物事へ純粋な取り組みをするようになります」
「ミーティングの中に小柄なおじさんがいて、それがグリーンバーグ氏でした。ミーティングから出てきた氏をつかまえてお話を伺えるかと尋ねたら外出するところだとのこと、そこを5分だけとお願いしたら応じてくれました。『御著書を読んだら、1970年頃フリースクールがたくさんできたが今ではほとんど消えてしまったとあった。なぜでしょうか』と尋ねたところ、即座に『ほとんどではない、全部だ』と言ってから、氏の考えを説明してくれました。理由は3つあると。一つは、それらのフリースクールに政治色があったこと。はじめから立場を明確にして人を募ったならかまわないが、政治と関係ありませんと言いながら政治色があった。次に、計画・運営がずさんであった。特に経済面で。金に困ってから寄付金集めやバザーに走り回ったところでどうにもなるものではない。さらに、文化を創り出さなかったこと……」
大沼安史
はじめに
サドベリー・バレー・スクール……。その名の通り、サドベリー渓谷(地名)にある学校である。場所は米国東海岸、ボストン西郊、フラミンガムの町外れ。緑豊かな校地をサドベリー川の支流が流れる。
その学校、「サドベリー」を知る人は、日本ではまだ少ない。しかし、アメリカ本国はもちろん、世界的にはすでに有名である。デンマークやオーストラリアなどの国々には、とっくに評判が伝わっていて、はるばるサドベリー・バレーへ見学者を送り込んでいる。
「サドベリー」とはつまり、新たな学校モデルとして、世界的にその名を知られつつある存在だ。教育改革の新しいモデルとして、影響力を米国内外に及ぼしつつある。
そんな「サドベリー」とは何か?
「サドベリー」とは、学校を超えた学校である。
「学校」という既成概念を打ち破り、管理と選別の制度的な呪縛を脱して、まるで収容所のような「校舎」の塀をヒョイと飛び越えた地点に生まれた《学校》である。
「サドベリー」は、固定したカリキュラム、時間割の圧制から、子どもたちを解放した自由の学校だ。同時にまたそれは、子どもたちが自己の権利を行使し、責任を引き受けて、直接参加で学校社会を運営していくデモクラシーの学校である。
子どもたち個々の自由が学校デモクラシーのなかで秩序を生み出し、その秩序のなかで個々の自由が守られるデモクラティックな環境……それが「サドベリー」である。
その実践的な内容については、同校の創始者であるダニエル・グリーンバーグ氏の著書、『「超」学校』(一光社)に詳しい。あるいは、同氏の教育観については、同じく一光社刊の『「超」教育』に網羅されている。
したがって本稿では、重複を避けるため、違った角度から「サドベリー」の実像に迫ってみることにする。この学校の外的な特長を、ただ単に列記するのでなく、この学校で育ち、巣立って行った人々の証言を紹介・検討することで、「サドベリー」なるものの核心に踏み込んでいきたい。
そうした手法を採るには他でもない。「サドベリー」で少年・少女時代を過ごした彼(女)ら心に生きる「サドベリー」……その主観的な記憶・事実の総和にこそ、「サドベリー」の真実が存在するはずだからだ。
T 「サドベリーで学んだこと、それは生きること」
コロンビア大学で科学史・物理学を教えていたダニエル・グリーンバーグ氏らが中心となって、「サドベリー」を開校したのは、いまから30年前の1968年。それから20年近く経った1986年、「サドベリー」が卒業生の心に育てたものを探ろうと、「インタビュー回想録プロジェクト」が始まった。
インタビューの記録は、同校出版会発行の『こども期の王国』などにまとめられている。
卒業生の一人(女性)は、インタビューに対して、こんなふうに語っている。しばらく、彼女の回想(訳は要約。以下、同じ)に耳を傾けてみよう。
「……遊び場はいっぱいありました。私たちはどこに行くのも自由、何をするのも自由でした。外へ出たくなければ部屋にいればいいだけのことです。でも、それはそうだけど、外の方がいいに決まっています。だって、部屋にいるより、ずっと自由ですもの。いろんなところを歩き回ったりして。誰もいないところで独りきりになることもできる。独りで好きなことをはじめることもできる。仲間と一緒に遊ぶこともできる。したいことはできるんだ、といった感じはありました。好きなことをするスペースはありましたから……」
「私たちは一日中、遊んでいました。プレールームには、私のような、ちっちゃな子がたくさんいて……。ゲームをしたり、本を読んだり、パズルをしたり、外を駆け回ったり、座ってお喋りしたり。台所に、マーガレット(料理の先生)と一日中こもることもあれば、美術館へ出かけることもありました。夏は木登り、冬はそり遊び。一日中、滑りっぱなしです……男の子たちは砦をつくっていました」
この学校の校舎は前世紀に建てられた邸宅(別荘)跡。校地を流れる小川はダムでせき止められ、池になっている。周囲は林。
「校舎」らしくない校舎に、「校地」らしくない「校地」。「教室」がなくて、代わりに「部屋」がある……サドベリーは外的な教育環境からして、“学校”らしくない学校なのだ。その開放性が、子どもたちに内面化され、心の風景の枠組みをかたちづくる。
4歳から18歳までの子どもが通うこの学校は、公立ではなく私立だが、寄宿舎はない。児童・生徒数、200人。順番待ちの入学希望者をたくさん抱えている。
米国の私立学校に多いエリート校とちがって、入学選抜(選別)を行っていない。空きがある限り、来るものは拒まず。ふつうの公立と同じだ。管理主義の学校で落ちこぼれたり、荒れてしまった子どもでも、わけ隔てなく受け容れている。
その意味で「サドベリー」は、公立学校に近い私立学校といってよい。
「私立」という言葉が誤解を招くようなら、地域の子どもたちのための「民立学校」といっても構わないだろう。
学校らしくないのは、校舎や校地といった外的条件だけではない。そこで行われている「教育」の内容もまた、学校らしくないのだ。
そのことは、この卒業生(女性)の回想のなかで、すでに明らかである。
「私たちは一日中、遊んでいました」
この何気ないひとことに、「サドベリー」なるものが集約されているのだ。
ゲームをしたり、読書にふけったり、お喋りしたり、何をするのも自由。ここでは、ふつうの学校のように、「時間割」と「教室」という仕掛けによって、時間的・空間的に縛り付けられることがない。
だから、外に飛び出して木に登る。
そうした自由のなかから、その子に固有の好奇心が生まれ、関心が育つのだ。
では、そうした子どもたちの“自分勝手”“好き勝手”が社会性のない、ばらばらな個人を生み出しているかというと、そうでもない。
卒業生の回想は、さらにこう続く。
「私たちは成長するにつれ、自分の時間というものを持つようになりました。美術室にこもったり、本を読みふけったり。しかし、12歳頃になると、みんなと一緒の時間を過ごすようになりました。なんだか、同じ部族の人間になったような感じです。私たちは相互に作用し合いました。仲間の経験に学び、話し合ったのです。そういうなかで自分のパーソナリティーが形づくられたのだと思います。ほかの子からもらった部分が、自分のなかに結構あるわけです。もちろん、何から何まで無批判に真似したわけではありません。これはいいな、と思うものを相手から採り入れる。そうして自分自身を築いていく……」
同学年の集団に組織され、さらには班にまで組み込まれて、毎日毎日、画一的な教育、同一な時間の流れに追い込まれている、どこかの国の子どもたちとは大違いなのだ。
自由な結びつきのないところで、本当の社会性が身につくわけがない。
管理された「クラス」、何者かによって支配された「集団」は、「社会」でもなければ、この卒業生の言う「部族」でもないのである。
「サドベリー」には、管理統制型画一教育の仕掛けとしての「学年」もない。年齢による上下関係、つまり年齢差別、年齢支配がないのだ。したがって、子ども同士はもちろんのこと、子どもと教師の関係も水平である。
この卒業生もまた、教師(大人)たちと対等でいられた、と当時を振り返る。
「私は大人が怖いと思ったことは一度もありませんでした。他の人を怖がるなんて、一体どうしたことでしょう。怖がらない、ということは、相手を尊敬しないということではありません。わたしは4歳のこどもを尊敬します。尊敬に差別はありません(中略)ですから、わたしたちは大人に反抗する必要もありませんでした。わたしたちにとって必要だったのは、『反抗ができる』ということだけだったのです」
こんなくだりを読みながら、学校教育における“法則”というか“常識”というべき、あの決り文句を思い出した人も多いことだろう。
「生徒に勝手なことばかりさせていると、手がつけられなくなる」という……。
事実は逆なのである。学校権力の抑圧がないと、かえって反逆がなくなるのだ。少なくとも、この「サドベリー」においては……。
ところで、何をするのも自由なこの学校で、いわゆる「学習」は、どんな形で生起しているか?
この女性の場合は、こうだった。
「わたしは、10代になっても、小さかった頃と同じことをしていました。一日中、遊んだりもしていたのです。でも、いま振り返ってみると、それ程たいした時間じゃなかったのですが、大学進学や、社会に出てから必要になるようなアカデミックな勉強にも時間を割きました。その大半は英文学でした。古典と呼ばれる大事な文学作品を読まなくちゃ、と思ったのです。もっと世界を知らなくちゃ、と思い立ったのです」
しかし、英文学を勉強するにせよ、どんな方法で学んでいったか?
彼女はさらに、こう述懐する。
「わたしは、もう一人の仲間と二人でクラスを持ちました。その子と二人で、系統立った読書を始めたのです。ギリシャの古典、ソウル・ベロウやヘンリー・ミラー、ジョン・アップダイクの小説など20世紀のアメリカ文学を、一週間に1冊ずつ読んでいきました。そして、二人で議論したのです。わたしたちは一週間をひとつの作品に充て、それに集中しました。この二人だけのクラスはT年半にわたって続きました。しかし、わたしたちはクラス解消後も、それぞれ読書を継続し、議論し合いました。自分ひとりで読んで行けるようになったのです」
友だちと二人でつくり、目的を達成し次第、解消してしまう「クラス」……。
「サドベリー」で成立している「クラス」は、関心があろうとなかろうと、子どもたちを時間的・空間的・内容的に管理する、あの“クラス”なるものとは、まったく性格を異にするものだ。
この学校では、子ども同志のクラスもあれば、教師を巻き込んだクラスもあるが、自ら学ぶ「自習」の意欲がその基礎にある。自分で学びたいから学ぶのだ。そのとき成立する仲間、教師との共同学習の場が、「サドベリー」流の「クラス」といえる。
子どもたち(あるいは子ども個人)と教師でつくる「クラス」には、二つの型がある。ひとつは、子どもたちが教師に申し出て成立するもの。もうひとつは、教師の方から呼びかけて、生まれるものである。
いずれのクラスも、参加者の「約束」が土台にある。何曜日の何時に、どの部屋に集まって何をするか約束し合うのだ。教える人と教わる人との間の、あるいは学ぶもの同士の「契約」といっていい。
この約束を、「サドベリー」では「取引(ディール)」と呼んでいる。「取引(ディール)」が成立すれば「クラス」が生まれ、共同学習が成立する。
このあたりの事情を、彼女はこう回想している。
「わたしは、何でも10時時間で習得してしまうという、校内ですっかり有名になったグループと一緒に、算数のクラスに参加しました。これが朝の8時半とか9時に始まるのです。週に2回、決まった時間に集合しなければなりません。遅刻や欠席は許されません。言い訳もきかないのです。ダニー(ダニエル・グリーンバーグ氏)は、もうこれ以上、無理というまで、わたしたちにドリルをさせました。それに宿題も少々。九九もまる暗記です。それは楽しく、厳しいクラスでした。参加した子の年齢もさまざまでした。それから暫く経ってわたしは、(大学進学のため)SAT(学力テスト)受験のための勉強をしましたが、そのときはクラスはありませんでした。兄と一緒に受験勉強をしたことを覚えています」
「取引(ディール)」にもとづくクラスというのは、けっこうキビシイものなのだ。そこには、「サドベリー」のような自由主義の学校に貼られがちな、「野放図でだらしない」イメージのカケラもない。そうした真剣さと集中が、物事の短期習得を可能にしているのかも知れない。
彼女はさらに、こう言う。
「この学校のいいところは、誰でも何かに関心を持ったなら、その関心がほんものであるかぎり、必ず援助してもらえることです。それを教えることができる教師がサドベリーにいなければ、ほかの誰かに頼むなど、必ず対策が採られるのです」
この女性の場合、フランス語の初歩をサドベリーの教師に就いて学び始めたが、その教師が教えきれない段階に進むと、代わりにフランス語が堪能な人が雇用され、クラスが継続したそうだ。
彼女の回想のなかに、こんな印象的な一節がある。「サドベリー」における「学び」の姿を結晶させたような美しい表現なので、最後に紹介しておこう。
「サドベリーで学んだこと、それは生きること……(中略)わたしたちはそれを、誰それから学んだのではなく、いっしょに学んだのです」
彼女の「サドベリー体験」とは、こういうものなのだ。
「サドベリーで学んだこと、それは生きること……」
翻って私たち、日本の子どもたちは今、このような学校体験をどの程度持ち得ているのか? こんな疑問を喚起させるに十分な、重みのある一言ではある。
U 「本当にやりたいことなら、やれば出来る……」
二番手として登場していただくのは、大学に進学して刑法学を専攻、優等で卒業して司法の仕事に就いている、これまた女性の卒業生である。
彼女の「サドベリー時代」と、その後の歩みを、彼女と一緒にたどってみよう。
「わたしは自分のことを内気だと思っていました。自分を敢えて恥ずかしがり屋に仕立てていたのかも知れません。でも、本当は内気でも何でもなかったのです。いまはもう、内気でも何でもありません(中略)サドベリーはわたしに、答案の上手な書き方や、こまごました文法を教えてくれませんでしたが、独立した個人になるよう育ててくれました。英語や数学のテストの点の取り方ではなく、自分の意見を表現することを教えてくれたのです」
「大学に進学する際、わたしは学部長に会いに行きました。面接を受けたのです。学部長は言いました。『この大学の何から説明したらいい?』。わたしは答えました。『もう、この大学に入ることにしているので、入学後、学生として教えてもらいたいけれど、学部長さん、わたしはあなたに、わたし自身のことを聞いてほしいと思います』。学部長はわたしの顔をまじまじと見たあと、『よろしい、そうしましょう』と言って、こう質問しました。『では、どうして刑法を学びたいの?』。わたしはサドベリーの司法委員会のことを説明しました。サドベリーで校内秩序がいかに維持されているか、それに対するわたし自身の関心、かかわりを説明したのです。黙って耳を傾けていた学部長は、最後にこう言いました。『新学期に会いましょう。でも、それにしても君のSATの英語と数学のスコア、ひどいもんだね』……」
彼女の回想を理解していただくため、ここでまず「サドベリー」の子どもたちの大学進学について、すこし補足をしておきたい。
「サドベリー」では、子どもたちを成績評価していないので、当然、成績証明書は出ない。推薦状も出していないのだ。
だから、大学進学を希望する者は、自分でSATを受験してスコア(点数)を取り、大学の面接を自力で通らなければならない。
なのに、それだけハンディを背負いながら、たいがい第一志望の大学に入学を許可されている。
それは、「サドベリー」の子どもたちの場合、大学で何を学ぶか心に決めているからである。面接に臨む気構えからして、ふつうのハイスクール卒業生とは違うのだ。
第二の補足は、「サドベリー」の司法委員会のことである。
その運営の実態については、ダニエル・グリーンバーグ著『「超」学校』に詳しいので、説明を省くが、この学校では一般社会同様の司法制度を持ち、デモクラティックなコミュニティーを維持しているのである。
大学で刑法を専攻しようという、彼女のような卒業生が出るのも当然のことなのだ。
この女性が結局、大学を優等で卒業したことは先に触れたが、その理由を彼女自身、こう見ている。
「わたしには自信がありました。やればできるという自信があったのです。サドベリーではスタッフに、こう言って励まされたものです。『本当にやりたいことなら、やれば出来る』と」
次に紹介する三番手は、30歳(インタビュー当時)の大学教授(男性、数学)である。この男性はちょっと晩生(おくて)で、サドベリーを出てから、人生の方向性を決めた人だ。
「わたしはサドベリーを17歳で出たあと、1年半、自然食品の店で働きました。その時点では大学にどうしても行きたいという気はなかったし、自然食品に興味を持っていたかです。その後わたしは、やはり大学に行きたいという気になりましたが、それは(数学を勉強することではなく)クラシック音楽をほかの学生と演奏したかったからです。それに大学がどんなところか一度、この目で確かめておきたかった。そんな大学生活のなかで、マサチューセッツ工科大学(MIT)の大学院に進んで、数学の勉強をしたいという思いが生まれました。それで、イギリスのケンブリッジ大学に留学後、MITの大学院へ進学したのです」
コースが多少ジグザクしようと、平気で我が道を行くのは、「サドベリー」出身者によく見られることらしい。二番手の回想者である女性の場合も、卒業後、1年以上アルバイトをしてお金をため、フランスに行って半年滞在し、その後で大学に進んだ経歴の持ち主だ。
さて、お次の四番手は、シンガーソングライターになった卒業生(男性、インタビュー時、29歳)である。
こちらは真っ直ぐ、サドベリー時代から音楽の道を歩み続けた人だ。
「(サドベリーで)僕はミュージシャンになった。特別な勉強はしなかった。ただ、音楽をしてきただけのこと。演奏して来ただけのことです。あれは、11歳か12歳の頃だったと思う。僕が曲を書き始めたのは…。その頃、コードも弾けるようになった。でも、だからといって、将来、プロのミュージシャンになろうという気はなかった。音楽で人生を送ろうと思ったのは、自分でも本当にいい曲を書けたなと思った15,6歳のときだった。ほんとうにリアルな曲だった。それで卒業後、バンドを結成して活動を始めた……」
「僕は演奏も大好きだし、ツアーも大好きだ。人々の生活の場に入っていくのが好きだ。だから僕の歌はネブラスカやルイジアナといった田舎で働く人々に訴えかけるものでなくちゃならない、と思っている。彼らにとって身近な歌を、これからも歌って行きたい。ミュージシャンとしてのキャリアを大切にしながら、仕事に追われず、歌っていくつもりです」
この彼のように、創造的(芸術的)な仕事に飛び込む卒業生が多いのも、「サドベリー」の特長のひとつだ。
演劇、舞踊、写真、文芸、ファッションなど、さまざまなジャンルで活動しているが、いずれもその芽は「サドベリー」時代に遡る。
自分の興味、好奇心、趣味、関心の追求を正当な学習活動とみなす「サドベリー」の教育環境が、これらの才能を育てているのである。
おわりに
さて、「サドベリー」の子どもたちの“巣立ち”は実にユニークだ。学校の仲間や教師に、もう独り立ちしても大丈夫と認められないと、卒業証書を手にできないのである。
巣立ちの最後のハードルを超えるためには、自ら「卒業論文」を提出し、質疑に答えなければならない。そして、教師や仲間の4分の3以上の承認がないと、卒業証書を取得できない決まりになっている。
子どもたちの目を通して、「サドベリー」を描き出そうとした試みの終わりにあたって、97年6月17日の全校集会で、晴れの卒業証書を手にした30人のうちのひとりに、登場もらおう。
彼女の卒業論文の概要を、ここで是非紹介したいのである。
……わたしは公立学校をドロップアウトしてサドベリーに来ました。最初の日、わたしはどうしていいか分らず、神経質になっていました。サドベリーのスタッフは、そんなわたしの気持ちを見抜き、そっとしてくれたのです。わたしはサドベリーの哲学をだんだんと理解していきました。ここでは自分で自分自身を見つけなければなりません。サドベリーでわたしは自分の心の声に耳を澄ますことを学びました。わたしはここに来て、公立学校で自分の身の周りに張り巡らしていた警戒のガードを解くことができました。自分の行為を、いちいち他人に評価されずに済んだからです。もはや、わたしは“できの悪い生徒”ではありません。両親の過大な期待に反抗することもなくなったのです。
わたしは詩や散文を書き、サックスを吹いています。女神のいる宗教についても研究しています。ひとりで雑誌を創刊し、発行しています。
わたしはこの秋、大学に進学して、文学や神話学、ジャーナリズム、舞踊、数学などを学ぶつもりですが、その前にパン屋でアルバイトして貯めたお金でヨーロッパを旅する計画です(中略)。
この学校の温かさと信頼は、常にわたしの心のなかにあり続けることでしょう。
最後に、「サドベリー」を歌った、わたしの詩を読み上げ、感謝の意を表します。
命の種子を纏った水草と睡蓮の葉よ
午後の光は淡い緑に揺れ
汀に蛙たちは集い
始原の夢をうたう