『哲学雑誌』1999年原稿
『どこでもないところからの眺め』の中で、トーマス・ネーゲルは「我々」と「想定不可能な実在」の関連について次のように書いている。
この考え方[実在論]と対立する観念論は、次のように考える。存在するものとは、我々がそれについて思考したり思い浮かべたりすることができるもの、或いは、我々や我々の子孫がそれについて思考したり思い浮かべたりすることができるようになる可能性があるもののことであると。そして、このことが必然的に正しい理由は、我々が考えたり思い浮かべたりすることが可能性としてもあり得ない何ものかという観念は、まったく意味をなさないからであると。その「我々」というのが重要なのである1。
もっとずっと広い意味での心―もしあるとすれば無限の心まで含めた意味での心―と実在は相関的なのだ考える見解、これもまた観念論と呼ばれるが、それには私は手を着けずにおく。 [ .... ] 私が擁護している実在論は、世界は我々の心にとって想定不可能かもしれないと語り、私が対立している観念論は、世界が我々の心にとって想定不可能ということはあり得ないと語るのである2。
この箇所は、実在論と対立する観念論の考え方を述べているが、本論考では、「我々」をどう捉えるかということと「実在」との相関に注目しよう。ネーゲルは、「我々」を無限者として扱わないと述べている。他の箇所の叙述も参照するならば、ネーゲルは、「我々」を特定の有限者でもなく、また無限者でもなく、拡張可能な有限者として捉えようとしていることが分かる3。いわば、ネーゲルの「我々」は、特定の有限集合(例えば20世紀に生きる或る文化圏に属する者)でも無限集合でもなく、拡張可能な任意の有限集合である。そして、ネーゲルの実在論によれば、「実在」とは、そのような拡張可能な有限者として最大の「我々」を考えたとしても、その「我々」にも想定不可能かもしれないものである。
その「想定不可能性」を、ネーゲルは「ネガティヴな仕方での想定不可能性」として特徴づけている。
私が主張しているのは、ポジティヴに想定不可能であると分かっているもののかなりのものが―丸い四角形のように不可能であることがわかるものが―それでも可能かもしれないということではない。[ .... ] 私がここで関心があるのはむしろ、我々にとってネガティヴに想定不可能な諸々の可能性や現実性である。ネガティヴに想定不可能であるとは、それらのことについて何の概念も全く持っていないし持つことができないという意味においてである4。
ネーゲルとの対照によって、本論考が提示する「我々」の捉え方をあらかじめ述べておこう。「我々」とは、特定の有限集合でも無限集合でもなく、またネーゲル流の拡張可能な任意の有限集合でもなく、むしろ遂行的な無際限の反復運動である。比喩的に言えば、特定の自然数でも任意の自然数でも、また自然数という無限集合でもそして絶対的な無限でもなく、後続者を産出していく無際限の反復自体として、「我々」はある。そして「実在」とは、そのような無際限の「我々」の作用域に入ってこない何か―その反復自体の未出現―と考えたい。その場合、「実在」の想定不可能性に含まれる否定性は、ポジティヴな仕方での否定性でもネガティヴな仕方での否定性でもない、別の否定性であることになるだろう。
ネーゲル自身は、観念論の問題を通して「我々」に焦点を当てているが、本論文では、まず相対主義を純化する議論から無際限なあり方としての「我々」を取り出す。さらに、ネーゲル的な実在論の強度をさらに上げることによって極限的な実在論を導き出し、相対主義と実在論は、それらの極限において一致することを示す。
一般に、相対主義という考え方からは、複数のパースペクティヴや概念枠の併存・並立が帰結すると考えられている5。しかし、相対主義の論理を内側から徹底し純化する過程からは、むしろ複数性が意味を失う境界線なき「我々」と、その「我々」の有限性こそが析出される6。
1. 相対主義から対称性と概念枠という考え方を除去する
まず、相対主義を「真理は概念枠に対して相対的であって、ある言明Sは概念枠Xにおいては真であり、一方別の概念枠Yにおいては偽である」というテーゼであると想定してみる。この相対主義は、概念枠XとYを併存する対称的なエレメントとして扱っているので、「対称的な概念枠相対主義」と呼ぶことができる。
対称的な概念枠相対主義は、同一の言明Sを前提にしている。同一のSを前提にするからこそ、概念枠XとYが真理値について対称的でありうる。さてそれでは、その同一のSはいったいどの概念枠において捉えられているのか、Sの同一性はいったいどの概念枠において成立しているのだろうか。このような再帰的な問いは、相対主義の論理を徹底しようとする限りは、避けることができないだろう7。そして、この問いが発生してしまうならば、対称的な概念枠相対主義の「対称性」は、必然的に放棄されることになる。次のように。
「相対性」を徹底しようとするならば、同一のSを概念枠に依存しない絶対的なものとして例外扱いすることはできない。しかしまた、同一のSが、XともYとも異なるZという概念枠において捉えられるのだと考えるならば、こんどは概念枠Zが、XやYと併存するのではない或る特権的な概念枠にならざるをえず、概念枠の対称性・併存性は失われる。したがって、相対主義の徹底と概念枠の「対称性」は、両立しがたい。
それでは、「ある言明Sは、概念枠Xにおいては真であり、一方別の概念枠YにおいてはSに対応するものがなく、YにおいてはSは表現不可能であり、真でも偽でもない」と考えたらどうだろうか8。このように考えるならば、概念枠XとYは比較を拒むほどに質的に異なっていることになる。つまり、「対称性」を放棄した「非等質的な概念枠相対主義」である。この相対主義によれば、非等質的な概念枠どうしは通約不可能であり、我々は我々自身の概念枠の内側から、何かを理解したり表現したりする以外手はないということになる。
しかし、もし異なる概念枠の間には橋渡し不可能なギャップがあり、我々は我々自身の概念枠の内側から進んでいく以外の方法がないのだとすれば、複数の異なる概念枠について語ることはそもそも可能なのだろうか。さらに、複数の異なる概念枠について語ることが全く不可能な所では、概念枠という考え方そのものが存在理由を失うのではないだろうか。「非等質的な概念枠相対主義」に向けたこのような疑問は、D.デイヴィドソンの「概念枠という考え方そのものについて」9の中に見出すことができる。
論点はこうである。概念枠という考え方を認めるならば、我々の概念枠が特別な仕方で特権的でなければならないが、我々の概念枠が特別な仕方で特権的ならば、それは同一平面で他の概念枠と対峙することは決してあり得ない。そこで、我々の概念枠は、多くの中の一つの概念枠であるという意味を、すでに喪失している。それ故、我々の概念枠は、そもそも「概念枠」でさえない。こうして、「概念枠」という考え方自体が蒸発し消失する。
相対主義から概念枠の対称性を除去し、非等質性の方へと相対性を徹底するならば、今度は「概念枠」という考え方自体が消え去ってしまう。それでは、相対性を徹底しようとする非等質的な相対主義は、単純に自壊してしまうという結論になるのだろうか。そうではないだろう。相対主義の考え方に含まれている相対化の徹底というエレメントは、形を変えて回帰する。
2. 概念枠ではない「我々」
概念枠という考え方が蒸発することを見て取るためは、自らがその内に入り込んで遂行的に了解しなければならないようなあり方が一つある。それは、「我々(自身)の概念枠」という表現に現れている「我々」である。「我々」という概念は、出発点においては概念枠という考え方に所有格として付加されて現れるが、概念枠と共に蒸発することはない。なぜならば、複数の中の一つではあり得ないことによって「枠」が「枠」ではなくなり解除され内破してしまう、まさにその過程こそが「我々」に他ならないからである。そのような「我々」を自ら遂行するのでない限り、概念枠という考え方の消失過程をそもそも辿ることができない。
そのような「我々」は、例えば次のような箇所でも遂行されている。
クーンは、革命以前には状況はどのようであったかを、革命以後の我々の用語を使って(他に何を使うというのか)、極めてうまく述べている10。(強調は引用者)
それ[相対主義]は、「SがFにおいては真であり、T(S)がF' においては偽であるといういことが正しいのは、一体どの枠組みにおいてなのかという問いへの解答を実際に与える。もちろん、答えは、我々自身の枠組みにおいてである11。[FとF 'は枠組みであり、T(S)はSの翻訳されたものである] (強調は引用者)
「我々」は一見「革命」以後の人々を指すように見えるかもしれない。しかし実は、革命以前の人々と以後の人々との差異づけそれ自体が、その「我々」のタームにおいてなされているのだから、その「我々」から排除されているのは「革命以前の人々」ではない。彼らは「革命以前の人々」として既に「我々」という作用域の中に位置づけられている。つまり、「我々」ではない者のように見えるものも、すでに「我々」のタームの中で輪郭づけられている。従って、「我々」は何かをその外へと排除するかのようにして「我々」として浮かび上がりながら、その「我々」には対立併存する別の選択肢あるいは外部はない。それは、「我々」が外と内を区分する境界線ではなく、そのような境界線を更新する反復自体だからである。
もう一つの引用においても同様である。「我々」は、いったんは「我々自身の枠組み」という仕方で、一定の「枠組み」に寄生した形で出現する。しかし、その「枠組み」は、「我々自身の」であることによって、実はFでもF'でもF''でもF'''でも .... あり得ず、一つの「枠組み」としてはどこまでも確定しないままである。つまり「我々」は「枠」として完結しない12。そして、そのF'でもF''でもF'''でも.... ないという確定をすり抜ける反復だけが、「我々」として残る。
3. 先立ち続ける一致としての「我々」
異なる世界像AとBを想定しよう。それは、世界を捉える二つの異なる枠組みである。例えば、Aという枠組みの下ではx, y, zだけが本当の意味で存在するのに対して、枠組みBの下ではx, y, zに加えて x+y, y+z, z+xも本当の意味で存在する。この二つの世界像は、唯名論と実念論のように対立するだろう13。しかし、異なる世界像として両者の対立を想定する時にはすでに、両者は或るレベルで一致していなければならない。それは、Aという枠組みの下ではx, y, zだけが存在することが導かれ、Bという枠組みの下ではx, y, z, x+y,
y+z, z+xが存在することが導かれるという「導出の仕方」における一致である。それは、概念枠が同じことでも、同じ帰結を受け入れることでもない。世界像Aからは例えばXという帰結が、世界像BからはYという帰結が導かれるという、その導出自体が受容されているレベルでの一致である。この受容レベルでの一致とは、概念枠から帰結へ至るステップ自体の一致であって、通常は「一致」として可視化されることすらない一致であり、いつもすでに踏み終わっているはずのステップである。では、可視的な「一致」以前の透明な一致が、「一致」として見えるようになるのはどのようにしてだろうか。
世界像AからはXという帰結が、世界像BからはYという帰結が導かれる。この二つの世界像は、枠組みと帰結においては異なるが、枠組みから帰結を導出するステップの踏み方において一致している。いや、そのレベルで一致しているからこそ、両者は異なりうる。規則のレベルでの差異・対照こそが、規則への従い方のレベルでの一致を逆照射する。こうして、規則のレベルでの差異・対照を経由することによってのみ、その差異に先行していたはずの透明な一致が「従い方の一致」として可視化する。逆に言えば、規則のレベルでの差異の可能性がそもそもないところでは、それに先行する一致は「一致」として浮かび上がることさえない。
しかし、このように規則への従い方の「一致」として、透明な一致が可視化されたならば、それはもはや、(不一致の可能性さえない)原・一致ではなくなる。なぜならば、従い方の「一致」を語る限りは、従い方の「不一致」の可能性を同時に呼び込んでしまうからである。つまり、「一致」していることが可視化されるならば、その従い方とは別の従い方の可能性が開かれてしまう。少なくとも、その可能性をあらかじめ根絶することはできない。例えば、従い方の「一致」が、世界像Aの下ではXを世界像Bの下ではYを導出する、その導出の仕方の「一致」として顕になるならば、その従い方とは違う別の従い方を想定することが可能になる。別の従い方を適用して、世界像Aの下では(Xではなく)XXを、世界像Bの下では(Yではなく)YYを導出するというように。つまり、世界像AにこれまでのようなA'という仕方で従うならばXが帰結するが、一方A''という別の仕方で従うならばXXが帰結するというように。これは、規則への従い方の「一致」の挫折、すなわち従い方の「不一致」である。
確かに「一致」は、可視化される代償としてメタレベルでの「不一致」の可能性を背負い込むことになる。しかし同時に、透明な一致は、さらにそのメタレベルでの「不一致」にも先行する。世界像AにAユという仕方で従うならばXが帰結し、世界像AにAユ'という別の仕方で従うならばXXが帰結するというメタレベルでの「不一致」にこそ、さらに「世界像+従い方のメタ規則」への従い方の一致が先行してしまう。つまり、規則とメタ規則から帰結が導出される、そのステップ自体においてはあらかじめ一致していることになる。
こうして、規則、メタ規則、メタメタ規則 .... への従い方の一致は、「一致」と「不一致」の相互転位に対してこそ先立ち続ける。従い方の一致は「一致/不一致」以前の不可視の一致であるが、しかしそれは、あらかじめすべてに一挙に先行して「ある」のではない。むしろ、従い方の一致は、「一致」と「不一致」の弁証法的な反転に対して、それにこそ先立つという仕方で反復され続ける。いわば、「一致」に対してのメタレベルが不可避的に出現し続ける中でこそ、一致に対してのメタレベルの不可能性も反復される。
この一致の先行性14は、概念枠ではない「我々」が、概念枠に寄生しかつそれに先立ち続ける反復であるという仕組みと同型である。「我々」とは透明な一致に他ならない。「我々」は、特定の概念枠によって境界づけられる領域でも、さらに諸概念枠が共有する高次の同一性でもなく、むしろその同一性が躓く可能性にこそ先行する、同一性以前の「一」だということである。「一致」以前の一致が、「一致」の可視化に伴う「不一致」の可能性に対してこそ先行し続けるという仕方で反復されるように、「我々」というあり方は、当の「我々」という括りが伴ってしまう「我々」の外部という可能性に対してこそ先行し続けるという仕方で反復される。したがって、「我々」に外部がないのは、「我々」が絶対的な閉域だからではなく、外/内の境界線を更新し続ける反復だからである。
相対主義はその純化の過程で、対称性と概念枠という考え方を放棄し、「我々」というあり方を浮上させた。それでは、非等質性はどうなるのだろうか。もともと概念枠どうしの通約不可能性として現れた非等質性は、どのように形を変えて回帰するのだろうか。あるいはこう言ってもいい。境界線のない「我々」にとって、決定的に通約不可能で非等質的なものとは何なのだろうか。
1. WE ACCEPTあるいは空集合
「我々」が先立ち続ける一致であるということは、「我々」が一番外側で働き続ける透明な受容(WE ACCEPT)であると言い換えることができる。そして、「我々」に対立する別の選択肢・外部が存在しないことは、一番外側で働き続ける受容(WE ACCEPT)には、通常の否定形が存在しないことに相当する。WE ACCEPTに否定形が存在しないのは、否定もまたWE ACCEPTの作用域内で働いてしまうからである。つまり、WE DON'T
ACCEPT ... も、ただちに WE ACCEPT we don't accept ... あるいは WE ACCEPT .... not ... に転位し、WE ACCEPT は透明な肯定として一番外側へと先立ち続ける。WE ACCEPTが透明な肯定としてあらゆる言表行為に浸透していることは、空集合がすべての集合の部分集合として、任意の集合の中に透明に遍在していることに似ている(φ⊂A)。そして、大文字のWE
ACCEPTが空集合φという第一段階に対応するならば、その作用域内で登場する小文字のWE ACCEPT / we don't accept は、第二段階である「空集合のみを要素とする集合{φ}」に対応する。WE ACCEPTと空集合、WE ACCEPT と空集合のみを要素とする集合という対応関係は、IIで述べた透明な一致と可視的な「一致」との循環構造を明示するのに役立つ。つまり、第一段階(始源)と第二段階との間の「落差」を反復し続ける構造。
「考えていることが何もないこと」(空集合)は、第一段階として思考されてしまう限り「考えていることが何もないことを考えること」という第二段階に転落する。しかし、そもそも第一段階は、そのような第二段階の思考が生じる以前であることによって第一段階なのであり、それゆえ第二段階の思考を抹消しそれに先行し続ける。その思考の運動は、第一段階へと遡行しながら第二段階へ至り続ける循環の中にある15。同様に、大文字の受容(WE
ACCEPT)という第一段階は、小文字の受容(WE ACCEPT)という第二段階を経由した後に初めて、その第二段階に先立つものとして遡行的に可視化される。しかし、その可視化によってこそ、大文字の受容(WE ACCEPT)は小文字の受容(WE ACCEPT)へと転落し続けてしまう。それゆえ、その転落に対してさらに透明な受容が先立ち続ける。
「我々」というあり方は、まさにこの循環構造の中で反復される「落差」の遂行に他ならない。
2. 「我々」と非等質的なもの
WE ACCEPTとφ、そして不可視の一致の水準が第一段階であり、WE ACCEPT / we don't accept と{φ}、そして可視化された「一致/不一致」の水準が第二段階である。そして、第一段階と第二段階は「落差」を反復しつつ循環している。この循環運動の遂行的な主体に他ならない「我々」にとって、非等質的なもの・通約不可能なものは、もはや別の概念枠や「我々」に対立する「彼ら」ではあり得ない。しかも、非等質的な概念枠という考え方を純化することによって「我々」が炙り出されるのだから、今度はその「我々」にこそ、概念枠の異質さとは別の非等質的なものが回帰してくるはずである。
第一段階と第二段階の循環関係すなわち「我々」にとって、もっとも他性の強い<他なるもの>とは、その循環の中に決して入り得ないものである。それは、遂行的な反復がそもそも発生していない段階、すなわち「我々」の未生である。その水準を、第0段階と呼ぼう。
WE ACCEPTという透明な受容の第一段階には、否定形はあり得なかった。否定することは、同時にその否定行為の受容になってしまうので、否定はWE ACCEPTの作用域内でしか、つまり第二段階でしか生じない(WE ACCEPT
we don't accept / WE ACCEPT .... not .... )。したがって、第一段階に対する第0段階の先行性は、作用域内の否定ではなく作用域そのものの未出現を表す否定となる。WE DON'T ACCEPT ではなく、BEFORE WE ACCEPT である。いわば、WE ACCEPTという透明な空気すら存在しない真空状態が、第0段階である。
第一段階としての空集合φは、{ }と表されることからも分かるように、「考えていることが何もないこと」に相当する。しかし、そこには「ない」ということを一まとめにして捉える思考がすでに働いている。「考えていることが何もないことを考えている」ことによってこそ、「考えていることが何もないこと」になる。だからこそ、第一段階は第二段階({{ }})を経由してこそ、第二段階に先立ち続ける。したがって、第0段階とは、「ない」ことを空集合として一まとめに捉える思考以前、すなわち「考えていることが何もないこと」と捉える思考すらない程に「何もない」水準である。それは、第一段階と第二段階の循環自体に先立つ「空集合以前」(ante-φ)である。
第一・第二段階と第0段階との間には、通常の肯定/否定の関係でも、概念枠同士の異質性でもない、ギャップあるいは非等質性がある。第一段階は、第二段階に遅れて到来しながらその第二段階に先立ち続ける「透明」な水準であるのに対して、第0段階はそのような「透明」ですらない水準―非在の水準―である。空集合以前の「以前性」は、第一段階の第二段階に対する「先行性」とは通約不可能な「以前」であって、遡行と転落の循環を辿ることからは決して接近することのできない「以前」である。そのような仕方で、第一・第二段階と第0段階とは最も強い意味で「断絶」している。
結局、相対主義を純化する極限で抽出されるのは、透明な水準の「我々」(空集合に相当)と、「我々」が決定的にそこから隔てられている、「我々」の未出現(空集合以前に相当)、この二つである。概念枠が蒸発した後にも残る「非等質性」とは、その両者の間の断絶性のことである。「我々」はメタレベルによって相対化されるのではなく、いわば、「我々」の未出現という非等質的なプレレベルによってこそ相対化される。これが、相対主義を純化することによって行き着く極限である。
3. 「我々」の有限性
「我々」は、第一段階と第二段階の「落差」において、限界のない「一」として遂行的に反復される。「我々」は、何にも境界づけられず、併存する他の隣接項を持たないのだから、比較を絶するという意味で「絶対的」なあり方である。しかし、そのように「絶対的」であるからこそ(「絶対的」であるにもかかわらずではなくて)、「我々」というあり方は有限である。「絶対性」ゆえの「有限性」。それは、こういうことである。
「我々」が、境界線のない無際限の先行性として、すなわち「絶対的」なあり方として捉えられるということは、「落差」を反復し続ける循環―φと{φ}の循環―にすでに巻き込まれているということに他ならない。この循環は、第一段階から始まったのでも第二段階から始まったのでもなく、初めに「落差」の反復ありきという循環である。循環はつねにすでに始まっているしかなく、また始まっている限りは終われない。つまり、「我々」というあり方は、自らを反復することによってのみ、その反復のエネルギーを自給するような一種の「永久機関」である。したがって、「我々」というあり方は、自らの絶対性を反復し続けることによる絶対的である。すなわち「我々」は遂行的な仕方で絶対的なのである。遂行的に絶対的であるがゆえに、「我々」は「我々」として反復される限りは絶対的であらざるを得ない。
しかし、その遂行が発動する以前(空集合以前)という「永久機関」の外もまた、たとえそれを思考することはできなくとも(思考することは「我々」というあり方を遂行することになるから)、完全に消し去ることもできない。つまり、「我々」という反復はいつもすでに遂行的に始まってしまっているのだが、そのような始まりのない反復自体がそもそも生じていない可能性(「我々」の未出現)を、「我々」は肯定することも否定することもできない。「我々」の作用域の中に決して入って来ることなく、かつ「我々」の反復自体を無に連れ戻すような「それ」=「我々の未出現」こそが、「我々」にとっての究極的な<他なるもの>であると言ってよい。こうして、境界線のない「我々」は、絶対性を反復し続けると同時に、その<他なるもの>に対して有限であり、絶対性からは偶然性を消し去ることができない。
1. 実在論の区別
我々の把握から実在が独立している程度によって、まず二種類の実在論を区別しよう。ソフトな実在論とハードな実在論である。ソフトな実在論は、実在を、特定の有限者としての「我々」による特定の把握から独立のものとする。一方、ハードな実在論は、実在を、最大限に拡張された「我々」による任意の把握から独立のものとする。いわば、ソフトな実在論は、実在と「我々」の把握との間に、適度な距離を設定するのに対して、ハードな実在論は、到達不可能な大きな距離を設定する。ハードな実在論の観点からすると、ソフトな実在論の「実在」では、まだ独立性・想定不可能性が不十分ということになる。なぜならば、特定の有限者としての「我々」の特定の把握からは独立した「実在」であっても、それはなお、さらに拡張された「我々」の把握の内に位置づけられるかもしれないからである。ハードな実在論にとっては、拡張された任意の有限者としての「我々」がたとえどのような把握を行おうとも、その把握でさえ及ばない可能性のあるものが「実在」なのである。ハードな実在論は、ソフトな実在論よりも「我々」の範囲を拡張した上で、さらにその範囲の外へと「実在」を遠隔化している。この点で、ハードな実在論はソフトな実在論より過激になっている。ネーゲルの次のような叙述を見てみよう。
しかし、世界は、我々にできる諸々の捉え方からは強い意味において独立しており、我々の捉え方を超えて広がっていてもおかしくない。[ .... ] 換言すれば、私は次のような自然な傾向に抵抗したいのである。それは、実在している世界という観念を、観点の客観性が無際限に増すことにより、極限の所で露わになりうるものという観念と同一視する傾向である16。
私がここで関心を持っているのは、我々がいかなる概念も持っていないし持つこともできないという意味において、つまりネガティヴな仕方で想定不可能な諸可能性や諸現実を認めることなのである17。
ネーゲルは、「我々」を特定の有限者でもなく、また無限者でもなく、拡張可能な任意の有限者として捉えた上で、その「我々」の把握からさらに独立した「実在」を認めようとしている。その「実在」は、いかなる拡張された認識であってもその到達範囲の外に位置するものである。したがって、「実在」は、その内容を満たすことのできない「何かあるもの」という形式的な表現によってしか表せない。このように、ネーゲルの実在論は例えばパトナムの内在的実在論とは異なって18、「我々」と「実在」との距離あるいは無関係性の度合いがかなり大きい。それは、ハードな実在論であると言ってよいだろう。
「実在」は、「我々」によっては想定不可能なものである。ネーゲルは、その不可能性を、ポジティヴな仕方での想定不可能性と区別して、ネガティヴな仕方での想定不可能性であると強調している。ポジティヴに想定不可能なものとは、「丸い四角」のように、矛盾するがゆえに不可能であることが分かるものである。それに対して、ネガティヴに想定不可能なものとは、「我々」の認識の限界や概念の欠如ゆえに、不可能なものが何であるのかをポジティヴには言えないものである。
さて、ハードな実在論は、ソフトな実在論よりは過激になってはいるが、その過激化の可能性はまだ極点にまでは達していない。なぜならば、「我々」という概念、「想定不可能性」における否定性の概念が、まだ十分に極限的とは言えないからである。ハードな実在論を、更に過激化したものを「極限的な実在論」と呼ぶことにしよう。
ソフトな実在論は「我々」を特定の有限者として考え、ハードな実在論は「我々」を拡張可能な任意の有限者として考えた。しかし、極限的な実在論は、「我々」を特定の有限者でも任意の有限者としてでもなく、むしろ自らの境界線を無際限に更新し続ける反復自体であると考える。つまり、極限的な実在論の「我々」は、ハードな実在論の「我々」よりは「無限」に一歩近い所に、しかしもちろん「絶対的な無限者」ではない所に位置づけられる。ソフトな実在論が、「我々」を特定の自然数として考えることになぞらえることができるとするならば、ハードな実在論は、「我々」を任意の自然数nとして考えることに相当する。それに対して、極限的な実在論は、「我々」をnに対してn+1という後続者を続けていく反復行為そのものとして考えることに対応する。
便宜上、特定の有限者としての「我々」を「我々1」、拡張可能な任意の有限者としての「我々」を「我々2」、無際限な反復としての「我々」を「我々3」と表記しよう。「我々3」は、相対主義の純化によって炙り出された「我々」であることは明かである。こうして、まず「我々」の捉え方に関して、極限的な実在論と純化された相対主義は一致する。
2. 極限的な実在
ハードな実在論の実在は、「我々2」(拡張可能な任意の有限者)による把握の外部にあって、ネガティヴに想定不可能なものである。しかし、そのように想定不可能な実在も、「我々3」がその作用域内で「ネガティヴに想定不可能な何ものか」として受容してしまう。したがって、ハードな実在論の実在は、「我々3」の無際限に反復される作用域内にあり続けてしまうという意味において、まだ十分に過激ではない。
ハードな実在論の場合には、どんな認識によっても内容を満たすことのできない「何か」「何かあるもの」という形式語こそが実在の表現である。しかし、「何か」「何かあるもの」という表現は、たとえ内容物で満たすことのできない場所を指し示してはいても、内容物による充足を待つ形式である限りは、そこには様々な内容物が入り続けかつ却下され続ける。その反復が、まさに「我々3」の更新の運動に他ならない。それに対して、極限的な実在論の実在とは、そのような「我々3」の更新の運動の作用域にさえ入ってこない、受容不可能なものでなくてはならない。つまり、極限的な実在論の実在とは、「何か」「何かあるもの」のように内容の充足を待つことさえない何かであり、内容の充填が失敗し続けるというその反復自体が消え去る場所である。
「我々3」の作用域に受容不可能な実在の候補は、二つある。一つは、「我々3」という無際限の反復自体を超出するような「絶対的無限」である。その場合、自然数を生成する反復操作に対して、実数の無限集合が超出しているという程度の超出ではもちろん不十分である。「我々3」という無際限の反復は、単に自然数内の反復操作にではなく、アレフ0 , アレフ1 , アレフ2 , ....アレフn .... という数学的な実無限の系列を反復する操作自体に対応する。ゆえに、絶対的無限は、その操作自体を超出していなければならない。しかし、この「絶対的無限」という候補については、ここでは論じないでおこう19。
「我々3」の作用域に受容不可能な実在のもう一つの候補は、「我々3」という反復される受容自体の未出現である。つまり、IIIで述べた「空集合以前」である。逆説的であるが、極限的な意味での「実在」とは、「ない」という把握以前の「なさ」だということになる。
ネーゲルの「ネガティヴな仕方での想定不可能性」をもう一度思い出してみよう。それは、想定を行なう主体の認識能力や概念の「欠如」からくる想定不可能性である。例えば、論理学を知らない9歳の子どもにとって、ゲーデルの不完全性定理が表すことが想定不可能であるように、現在の我々にとっても、認識能力の欠如ゆえに想定不可能なことがあるかもしれない20。たとえ我々が更に高度な知的段階に達したとしても、その知的能力さえ及ばない想定不可能なことがあるかもしれない。ネガティヴに想定不可能なものは、ひょっとするとあるかもしれないと言える以外は、それについては何も語れないような「何かあるもの」である。
しかし、この場合注目しなければならないのは、「ネガティヴな仕方での想定不可能性」が成立するのは、「欠如」そのものからではなく、「欠如」があるという認識によってだということである。ただ単に「欠如」しているだけで、「欠如」があるということを知らないならば、「欠如」からくる想定不可能なものがあるかもしれないとさえ思わないだろう。したがって、「ネガティヴに」ではあっても、「ネガティヴに」であることはポジティヴに想定されざるをえない。つまり、何を知らないのかは分からないけれども、知らないということはポジティヴに分かっているのが、「ネガティヴな仕方」である。そのような「ネガティヴな仕方」のポシティヴィティは、「我々3」という大文字の受容の作用域の内側にあることに他ならない。これが、ハードな実在論の段階である。
極限的な実在論は、その段階より更に過激化する。極限的な実在とは、そのような受容WE ACCEPTの作用域の中にも入ってこないのだから、「ネガティヴに」でさえない仕方で(もちろんポジティヴにでもない)想定不可能性でなくてはならない。「ネガティヴに」でさえない仕方での想定不可能性とは、「欠如」があるというポジティヴな認識からではない仕方での想定不可能性である。つまり、「我々」の側の「欠如」や「不完全性」のポジティヴな認識に由来するのではない想定不可能性である。
無際限な「我々3」は、どこまでも透明な肯定性であって、決して自らの「欠如」に出会うことはない。むしろ、「我々3」は、外部のない無際限の更新だから、ある意味で「絶対的」である。そして、「我々3」は絶対性の遂行的更新だからこそ、その非-遂行は想定不可能である。これは、「我々3」に「欠如」があるために生じる、ネガティヴな想定不可能性ではなく、むしろ、「我々3」が無際限の肯定性だからこそ生じる、ネガティヴにさえ捉えられないという想定不可能性である。想定不可能性を(ポジティヴに或いはネガティヴに)考えること自体が、非-遂行(「我々3」の未出現)を遂行的に抹消し続けることになるので、その非-遂行の想定不可能性自体が受容不可能なのある。それは、「考えていることが何もないこと」という考えさえ生じていないことを考えることの不可能性と同様に、遂行的にネガティヴな想定不可能性である。ネガティヴに想定不可能なものとは、それについてポジティヴに「語る」ことが失敗するによって「示さ」れるものであるが、遂行的にネガティヴな仕方で想定不可能なものとは、そのように「示さ」れること自体が失敗し続けるものである。
こうして、「我々3」の未出現こそが極限的な実在であり、それは純化された相対主義における究極的な<他なるもの>と一致する。
V まとめ
まとめておこう。
相対主義は、対称性と概念枠という考え方を除去する過程を経て、無際限に先行し続ける一致としての「我々」と、その「我々」にとって非等質的である「我々」の未出現(究極的な<他なるもの>)へと純化された。
一方、実在論は、ソフトな実在論からハードな実在論へ、さらに極限的な実在論へと強度を上げる過程を経て、相対主義の場合と同様、透明な受容の無際限の更新としての「我々」と、その作用域に受容不可能な実在としての「我々」の未出現へと煮詰められた。
この一致は、相対主義・実在論それぞれに含まれる「論理」を先鋭化して自己適用することによって行き着く極限である。相対主義と実在論に差があるとすれば、それは焦点の違いである。「我々」という絶対的なあり方の有限性や偶然性に焦点を合わせるか、「我々」の未出現という<他なるもの>を極限的な実在として焦点化するかの違いである。しかしまた、その二つの焦点は、互いに切り離して論じることができないことも明かであろう。
ネーゲルの実在論をめぐる議論は、拡張される「我々」概念を重要視した上で、「実在」と「我々」の距離をかなり大きく取ろうとしている点で、ハードな実在論として位置づけることができた。そのため、以上のような極限的な実在論へと向かう議論の「踏み台」として有効であった。そして、ネーゲルの実在論は、「我々」が拡張された有限者にとどまる点、「実在」がネガティヴに想定不可能なものである点において、極限化への中途に位置づけられるものであった。
* 本論考は、1998年12月6日の西日本哲学会第49回大会において口頭発表した原稿をもとに、新たに書き直したものである。
注
1 Thomas Nagel, The View from Nowhere , Oxford , 1986,
p.90. [ ] 内は訳者注(以下同様)。
2 ネーゲル同書 pp.90-91. [ .... ]は、中略(以下同様)。原文のイタリック体による強調は、傍点を付した(以下同様)。
3 ネーゲル同書 VI Thought and Reality.
4 ネーゲル同書 p.92.
5 相対主義の諸相や分類については、Hare, R. &.
K., Michel, Varieties of Relativism. Blackwell, 1996. を参照。
6 この純化の過程は、以下の拙稿によって辿られている。「相対主義の追跡」(『哲学者たちは授業中』共著、ナカニシヤ出版、1997年所収、pp.41-104.)、「メイランド的相対主義からの更なる一歩」(『山口大学哲学研究』第6巻、1997年、pp.53-74.)。本論考では、その結果をまとめると同時に、さらに修正を施して提示する。
7 相対主義に関する再帰的な問いによって、相対主義は自己論駁的であるかという問題も生じる。本論考では紙幅の関係でこの問題を扱うことができないが、自己論駁的であるという批判は独特の仕方で挫折すると考えている。前掲拙論に加え、Meiland, J. W.
(1980). On the Paradox of Cognitive Relativism. Metaphilosophy,ハVol. 11(No. 2),ハ115-126.(その翻訳「認識の相対主義のパラドクスについて」は、『山口大学哲学研究』第6巻、1997年、pp.75-92.に所収)も参照。
8 Chris Swoyer,
"True For", 1982, InハKrausz, M. and Meiland, Jack W. Ed., Relativism
Cognitive and Moral,
9 Donald Davidson, "On the
Very Idea of a Conceptual Scheme". Proceedings of the American
Philosophical Association , 47, 1973-74, pp.5-20. reprinted in Krausz, M. and Meiland, Jack W..ed. Relativism Cognitive and Moral.
10 デイヴィドソン前掲論文、p.67(ページは [Krausz, M. and Meiland,
Jack W.ed. 1982] による).
11 スウォイヤー前掲論文、 p.101.
12 「枠」として完結しないことは、相対主義の相対化が何に対しての相対化なのかを定式化しようとしても、当の「何」は無限後退し確定しないことに表れる。この点は、相対主義は自己論駁的であるかという問題と関連する。cf. 注7
13 Hilary Putnam, The Many Faces of
Realism, Open Court, 1995, p.18, p.32 からヒントを得ている。
14 一致の先行性については、拙論「「亀がアキレスに言ったこと」が示すこと―ルイス・キャロルのパラドクスの一解釈―」(『西日本哲学年報』第六号、1998年、pp.69-82.)も参照。
15 この循環と後述の「空集合以前」については、拙論「「ない」よりもっと「ない」こと」(『駿台フォーラム』第15号、1997年、pp.39-66.)も参照。
16 ネーゲル前掲書 p.91.
17 ネーゲル前掲書 p.92.
18 Hilary Putnam, Reason, Truth and
History, Canbridge, 1981. Realism and Reason, Canbridge, 1983. Realism with a Human Face, Harvard, 1990. 参照。
19 絶対的無限については、Rudy Rucker, Infinity
and Mind, Princeton, 1995. A..
20 ネーゲル前掲書 p.95.