お祭りのあらまし
毎年11月3日〜5日の浅間大社の例大祭には、氏子たちが勇壮で賑やかな祭囃子を奏して、山車・屋台の引き廻し、手踊りなどが行われ、五穀豊穣・実りの秋を迎えた喜びを分かち合う秋祭りがくりひろげられます。

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3日 |
浅間大社拝殿前に祭典を実施するすべての区が参集し、祭りの無事を祈願し、「幣」と呼ばれる祭りのご神体を受け取る「宮参り」が行われます。拝殿前はひとで埋め尽くされ、奉納の囃子が一斉に鳴り響きます。この時拝領した「幣」をそれぞれ会所に安置し、山車・屋台の引き廻しがはじまります。

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4日 |
大社前の目抜き通りに各区の山車・屋台が集結し「共同祭事」が行われます。一斉に囃子を奏し、「富士宮音頭」等を合同で踊った後、祭囃子も賑やかに山車・屋台が引き廻され、勇壮な「競り合い」が各所で繰りひろげられ、秋祭りは一気にクライマックスを迎えます。
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富士宮囃子 |
(静岡県指定無形民俗文化財)
「富士宮囃子」は山車・屋台の引き廻しの際演奏されるもので、大銅1つ、金銅2つの太鼓、笛、鉦の5人編成(基本編成)で囃子を奏でます。富士宮囃子の特徴は、曲から曲の間が中断せず、切り替えつなげて演奏をつづけることが上げられます。囃子の終了は伝統的に伝えられた「止めの合図」の後、終了の切り替え(または切り返し)のフレーズを経て、初めて終了が許されます。
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競り合い |
本来競り合いはすれ違うのもままならない狭い道で、どちらが道を譲るのかを囃子で競ったもので、山車・屋台上で、「喧嘩囃子」と呼ばれる「やたい」という曲を勇壮に演奏しあうことです。以前はそれぞれに「玉」と呼ばれる変則的な調子を囃子に織り交ぜるなどして、どちらかの囃子が途切れるか、調子が崩れる事で勝負をつけていましたが、現在は事前の打ち合わせ(申し合わせ)により、時間と場所をきめて、互いに勝負にこだわらない競り合いを行うようになっています。
富士宮秋祭りの歴史
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起源秋祭りは豊作に感謝する民衆の集う祭りです。平安時代に書かれた「富士山記」に「貞観十七年十一月五日吏民仍旧致祭」とあり、旧にならって吏(役人)民(庶民)が祭りを行ったとあります。これが秋祭りの起源とは言えませんが、かなり古くから行われていたと考えられます。また、江戸時代末期には山車・屋台の引き廻しが行われていたと、大宮町の造り酒屋だった旧家に記録が残っています。祭りの中心となる浅間大社は、全国に1300余社といわれる浅間神社の総本宮で、その起源はたいへん古く、平成18年には鎮座1200年をむかえます。
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明治 |
時代にはいり、大宮青年団(お祭り青年団)が結成されたことをきっかけに、山車・屋台も盛んに造られるようになり、秋祭りは一層賑わいをみせるようになりました。その後、旧大宮町に蚕糸産業が起こり、近江絹糸が進出するなどし、蚕糸産業を中心とした産業が勃興し、まちに活気があふれるようになりました。市街地も周辺部へとさらに拡大し、山車・屋台を引き廻す区も増え、秋祭りの規模もさらに大きくなって行きました。当時にぎわいを見せた花町等の影響から、山車・屋台にも三味線が加わるなど、お囃子や踊りにも、いろいろな形態が見られるようになりました。

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昭和 |
30年代後半からしばらくは、競り合いを巡るけんかなどがあった影響で、競り合いが自粛されていた期間もあり、お祭りは低迷する時期を迎えます。祭りをやめることで、山車・屋台を失い、囃子の伝統が途切れた町内が少なからずあったようです。しかし、昭和61年に「秋祭り青年協議会」が発足し、これを機会にお祭りの見直しがすすみ、申し合わせによる競り合いの復活などが徐々に行われるようになりました。

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平成 |
時代に入り、秋祭りの復興が多くの町内でなされ、年々祭典実施区が増加しています。市制50周年(平成4年)の秋祭りには近年最多の20区が秋祭りを実施しました。現在秋祭りは、まさに絶頂期を迎えようとしています。
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