伊藤幸司(いとう・こうじ)略歴
………2005.2.11現在


■1945年生まれ。早稲田大学文学部卒。大学時代は探検部・写真部に所属。フリーランス・エディター&ライター。
■雑誌のライターとしてはカメラ系、電気・電子機器系のルポが中心。
■編集者としては写真集・ビジュアル系の企画・編集が多い。
■単行本としてまとまるものはアウトドア系、とくに登山に関わるものが多い。

■1984年から中高年登山の指導にたずさわる。
朝日カルチャーセンター横浜(講師5人) 1983.11-1995.9。40期
朝日カルチャーセンター立川(富士山/北海道シリーズ) 1986.6-1989.7。6回
八王子そごう友の会 1992.6-2001.7。53回
東急セミナーBE(第1期) 1994.10-1995.9。36回うち実技12回

■1995年に私的な山歩き講習会「糸の会」を創設。現在に至るワンマンシステムを確立。
糸の会(1995.11-2005.3現在)――379回
朝日カルチャーセンター千葉(1996.4-2005.3現在)――242回
東急セミナーBE(第2期)――1996.10-1999.6。33回
東武カルチュアスクール――2000.4-2005.3(終了予定)。60回

■著作(編集)一覧
1980.8――『地図を歩く手帳』――山と溪谷社
1980.12――『富士山・地図を手に』――東京新聞出版局(雑誌「岳人」連載)
1982.5――『旅の目カメラの眼』――森谷トラベル(トラベルジャーナル新書)
1983.7――『アウトドア事典』――主婦と生活社(編著)
1984.1――『カメラマン手帳』――朝日新聞社(編集・執筆)
1985.12――『歩く本』――日本実業出版社
1987.5――『初めての山歩き』――主婦と生活社
1990.7――『トレーニング不要! おじさんの登山術』――朝日新聞社(共著)
1992.3――『[新版]カメラマン手帳』――朝日新聞社(企画・編集・執筆)
1993.12――『ネイチャーパイロット』――1994.11(第3巻)――集英社(「スーパージャンプ」連載コミック・協力+指導)
1997.7――『自然と遊ぶ・中高年の山歩きガイド』――成美堂出版
1998.7――『がんばらない山歩き』――講談社
1999.5――『新版・初めての山歩き』――主婦と生活社
1999.8――不定期雑誌『毎日カメラ読本』で巻末連載(2002.6まで)――毎日新聞社
2001.1-12――『週刊日本百名山』(全50巻)でガイドを担当――朝日新聞社
2001.3――岩波現代文庫『宮本常一、アフリカとアジアを歩く』に――「宮本先生とあるいた44日間」(「あるくみるきく」1976.1から)再録
2001.11――『世界遺産』(全12巻。2002.2完結)を編集――毎日新聞社
2002.4――『日本百名山ビジュアル登山ガイド』(上下巻・共著)――朝日新聞社
2003.7――『ゼロからの山歩き もっとゆっくり登りたい』――学習研究社
2004.1――毎日新聞夕刊グラフ面で月1回連載(2005.3までの予定)――「民俗学者宮本常一の写真・昭和30年代の日本」――毎日新聞社
2005.3――『宮本常一 写真・日記集成』(全2巻・別巻1。編集)――毎日新聞社


■足跡をまとめてみれば……

●大学在学中に探検部と写真部に在籍。3年の夏に韓国合宿。その後、ナイル河遠征の計画にたずさわり、3年の秋から隊を編成。出発準備に1年をかけて4年生の秋に装備・技術担当の副隊長で出発。ボートでの川下りはウガンダからスーダンへの入国ができずに中止。隊を2つに分けて1隊は現地交通で地中海までナイルの流れに沿って下り、もう1隊は源流部での調査活動をおこなった。遠征期間は全7カ月。持ち出し外貨1人500ドルの時代。帰国後、約1年かけて独力で報告書づくり。本づくりのおもしろさを知った。
●大学6年目の1970年に、「あむかす=あるくみるきくアメーバ集団」の創設に参加。全国の大学山岳部・探検部の若手OBが集まり、資料収集活動や情報センター活動をおこなう。そのとき以来の仲間が、現在各方面で活躍している。「あむかす」では海外遠征技術の実験ツアーとして、一般募集による探検学校もおこなった。1971年夏の第1回の北ボルネオでマネージメントリーダー。1772年夏には第6回カメルーン探検学校をひとりで実施。20人の参加者に中央アフリカのカメルーンでまず40日間の現地トレーニングをして分散。本隊を引率してコンゴ川を遡り、ナイロビから帰国。
●1974年ごろから「あむかす・旅のメモシリーズ」という手書きのガイドをつくりはじめる。旅から帰った人が、つぎに出る人のために書き残す赤表紙のミニ本。紀伊國屋書店(新宿本店)とマップハウス(渋谷パルコ、のちに三省堂本店)にながく置かれることになる。89冊出て、1988年で廃刊。
●1975年の夏に第8回の東アフリカ探検学校。日本の偉大な旅人であった民俗学者・宮本常一先生の最初の海外旅行を弟子たちでプレゼントしようと企画したもの。探検学校を開催して、フリーチケットを捻出。晩年の先生を小型バイクの後ろに乗せて、サバンナの道をよたよたと走った。学問の弟子ではないが、大きな人物とはじめて出会った感じがした。このころ、宮本先生が所長をしていた日本観光文化研究所(あむかす事務局はそこにあった)が編集・発行していた近畿日本ツーリストのPR誌「あるくみるきく」で長い原稿を書かせてもらって、原稿を書くことが好きになってきた。一時期はその編集長役もやらされた。
●1976年の秋には打ち止めの探検学校ということで第10回のインド亜大陸。「100のテーマで 100のルートで 100の体験がひとつに……」とうたって、最終的に40人。マネージメントリーダーを担当。「次にはひちりで歩けるようになるための旅の学校」がこれで終わる。
●1976年夏、定期航空路開設直前のサイパンに近畿日本ツーリストはチャーター機5機を飛ばしたが、その受け入れイベントの「サイパン・サンフラワー村」を企画、仲間2人と1カ月滞在して早朝から深夜までの遊ばせ役。台風の日がつらかった。
●1978年の秋から冬にかけてインド・パキスタンに70日ほどの新婚(?) 旅行。パキスタンに行くのに、わずかな飛行機代を節約してカルカッタで下りたため、インド横断に1カ月もかかってしまった。村を歩き、機織りを見て、その日その日を足まかせ、風まかせ。子どもも宿った。帰って「アサヒグラフ」で7回の連載。6/22号から1)一国一城のあるじたち、2)二等列車に自由あり、3)二億頭の牛の群れ、4)サリーを着た女たち、5)清浄感ただよう泥壁の村、6)重厚な石の肌あい、7)花火で迎えるハレの日(8/3号)。映画用のカラーネガフィルムで撮影してカラーラッシュで入稿して「アサヒグラフ」のB4見開きサイズで使用するという格安材料での画期的な結果を得る。
●1979年から83年にかけて朝日新聞・森林文化協会の機関誌「グリーン・パワー」で取材をする。日本を見たいという気持ちを満たしてくれる人々と出会った。
●1979年秋に地平線会議が誕生。「あむかす」の運動が新展開するという要素があったため、創設の1年間は留守番電話をつかった全国ネット&24時間の「地平線放送」を担当する。これはある日電話局の交換機がパンク寸前になった事件によってとん挫。交換機がステッブ・バイ・ステップ型で、もちろんダイヤルQ2のような便利な仕掛けもなかった時代。
●1980年の夏に、山と溪谷社の山溪手帳シリーズの1冊として『地図を歩く手帳』が出る。編集の仕事を5冊受けたのが1冊を書くことに。これが初めての自著。年末には「岳人」に16回にわたって連載していた「5万分の1地形図『富士山』を歩く」が本になった。編集もレイアウトもみなやらせてもらい、原稿も完全に清書しなおした。たっぷり時間をかけて活版印刷の『富士山・地図を手に』は完成した。
●1982年にオートバイで世界を走ってきた仲間の『賀曽利隆のオートバイ・ツーリング』という本の編集をしたのだが、独立直後の鈴木一誌というブックデザイナーと出会う。鈴木一誌さんとはその後、1993年には朝日新聞社の「アサヒカメラ教室」編集、1989-90年にNHK出版の「NHK大形ドキュメンタリー・北極圏」(全6巻)の写真編集などをおこない、1996年以来私の山歩き講座「糸の会」にかれが参加、1998年の『がんばらない山歩き』では装丁・デザインを担当していただいた。
●1982年からダイヤモンド社「ダイヤモンドBOX」でカメラ、OA機器、文具、アウトドア用品などのライターとしてかなり広範な仕事をさせていただく。それが休刊となる1992年まで続く。
●この1982年には「トラベルジャーナル新書」が創刊され、旅行学入門シリーズの5冊目として『旅の目カメラの眼』が出る。旅の写真論だが、これがきっかけとなって1983年からの朝日新聞社での「アサヒカメラ教室」の企画・編集につながっていく。
●1982年に主婦と生活社から『サバイバル読本』が出たが、それは探検部の現役が手分けして書きたいということではじまった企画。GOサインを出す役として監修ということになった。しかしこれがきっかけで翌年には『アウトドア事典』の編著者となり、1987年には『初めての山歩き』が出た。この『初めての山歩き』は書店での棚ぞろえにも恵まれてロングセラーとなり、1999年に改訂。
●1983年は編集者として大きな2つの仕事にべったりはりついていたが、どちらも年末にひっくり返った。ひとつは朝日新聞で「アサヒカメラ教室」というシリーズ本の編集をすすめていて、取りつぶし。平凡社では大事典の地名項目写真を集めるプロジェクトを組んでいたが、これも出版環境の変化から取りつぶし。仕事が頓挫すると一緒にやってくれている仲間の生活にもかかわってくるという、苦い思いをダブルで経験した。なお朝日新聞での仕事は、翌年元旦付けで別巻の『カメラマン手帳』だけが出た。ミノルタα-7000 というカメラの登場前夜、カメラ業界がどん底の時期であった。なお、この『カメラマン手帳』は1992年3月に『新版・カメラマン手帳』としてパソコン上のデータベースを駆使して改版された。
●1984年から、朝日カルチャーセンター横浜の「山登りの手帳・40歳からの登山入門教室」の地図担当講師となる。これは1995年まで40回おこなわれ、長谷川恒夫、大宮求、根岸知、大蔵喜福、中山茂樹さんらの登山家と仕事をする。1990年に朝日新聞社から出た『トレーニング不要! おじさんの登山術』はこの講座の体験から生まれたもの。
●1984年から4年間、英国のチャールズ皇太子が提唱者となった世界規模の探検学校「オペレーション・ローリー」(ウォールター・ローリー卿記念大作戦)の日本委員会実行委員として派遣隊員の選出と国内訓練を担当。17歳からから24歳の男女を3カ月間、参加4,000人規模で「探検ごっこ」させるというもの。体験時間は全体で1,000年分となる。日本からは90人を世界各地に送り出し、1987年には120人(日本人参加者20人)規模の日本フェイズもおこなった。これに参加した若者たちはその後グローバルな活動を続けているが、比較的早く知られるようになったのは平野裕加里(元CBCアナウンサー)、桃井和馬(フォトジャーナリスト)、高野孝子(女流探検家)など。スポンサーは日本電装、仕掛人は電通。
●1985年の年末に日本実業出版社から『歩く本』が出た。この本は、タイトルのせいか、図書館に入ったものがかなりあり、文献データベースなどでも見つかりやすいため、マスコミからの問い合わせが多い。1991年からのテレビ番組のきっかけもこの本だった。
●1986年から89年にかけては朝日カルチャーセンター立川で、1987年に富士山、88年に大雪山、89年にトムラウシの各登山講座をおこなった。
●1986年から87年にかけて毎日新聞社の自然景観写真シリーズ「ふるさと日本列島」(全8巻)と1990年から91年にかけての人文景観写真シリーズ「街道紀行」(全6巻)の写真編集を担当。1993年から95年にかけて全28巻刊行された1国立公園1冊の写真双書「シリーズ日本の大自然」では巻末ルポ「国立公園物語」を担当。全28カ所の国立公園を、2泊3日で約1,000km走り回るというカミカゼ的取材を敢行した。
●1988年からはキヤノン販売広報部がマスコミ向けに発信する情報誌「キヤノン通信」の執筆・編集をはじめたが、その後各領域のフリーランスライターが集められてチームを組み、毎年8〜10冊を制作し、いま2001.10までに111号を発行。以後インターネット版に移行。たとえばその記事の集積としては、毎日新聞社の「'99カメラ買い物情報」に「特集・AF一眼レフの進化(2)キヤノンEOS-3」を再構成している。
●自動車1台丸ごととなるとむつかしいが、切り刻めばなんとかなるだろうというので1988年から89年にかけて「オートメカニック」誌で「伊藤幸司のパーツうんちく学」を連載。タイヤからはじまって、ワックス、バッテリー、ヘッドランプ、エンジンオイル、スパークプラグ、ヘッドガスケットなどなど。
●1990年からは「ビデオサロン」別冊として発刊された「ビバ・ビデオ」に参加、「VIDEO DETECTIVE File」というかたちになって93年まで10回連載。
●1991年から翌年にかけて、テレビ朝日の深夜番組「プレステージ」中のミニ情報番組でアウトドアシリーズを企画+出演で10回(10カ月)つづけた。一部で有名になった「ゴミ袋キャンプ」が第1回、以下新幹線+バス+タクシー+ヒッチハイク+宅配便利用の「MTBツーリング」、川の流れに身をゆだねる「ボディラフティング」、トランクひとつで2人の夜を実現する「豪華オートキャンプ術」、30分以上歩かないと入れない湯の宿を東北自動車道沿いにたずねる「徒歩温泉郷」、ポンコツ車でクラッシュ続出の激しいバトルを繰り広げる安価かつ安全な「軽自動車6時間耐久オフロードレース」、真冬に沖縄の島一周に挑戦した「海のピクニック」、雪の山中で「ゴミ袋キャンプ・冬版」、スキー場でスキーをはかずに新雪を遊び尽くす「雪上遊戯」、山小屋を楽しむ入門編「冬の北八ヶ岳縦走」。
●1993-94年には集英社の隔週刊コミック誌「スーパージャンプ」でアウトドア企画「ネイチャーパイロット」を連載。漫画家と編集者と3人でさまざまな思いつき企画を29回にわたって実験した。これが順次単行本になって3巻になった。
●1994年10月から渋谷の東急セミナーBEで山歩きの講座開講。3カ月で講義6回+実技3回をひとりでおこない、4期(1年間)続けた。同じ顔ぶれの受講者に、同じカリキュラムを4回続けた体験が、1997年に成美堂出版からでた『自然と遊ぶ――中高年の山歩きガイド』の下原稿となった。
●1995年から、東急セミナーの受講者を創設会員にして伊藤幸司の実験+取材型山歩き講座「糸の会」が発足。現在に続いている。1998年の『がんばらない山歩き』は糸の会の最初の1年間の試行錯誤がベースとなっている。
●1996年から、“山ナシ県”の千葉県では最初の登山教室ということで朝日カルチャーセンター千葉で平日の講座がはじまる。これは3カ月で講義3回+実技3回というかたちではじまったが、次第に変形し、最終的には講義1回+実技5回+公開実技(小屋泊り)1回という構造に到達。1998年からは「初級」「中級」「小屋泊り」の3部構成となった。
●1996年には東急セミナーBEでも新講座がはじまったが、こちらは平日の超入門講座。午前10時ごろ山手線駅集合で午後4時ごろ下山(現地解散)という「10-16時の山歩き」を試行錯誤。
●1998年のゴールデンウィークには朝日新聞出版局に詰めていた。大学写真部の同期で当時出版社新部長だった白谷達也さんから「パソコンでデータ管理できるよね」と呼び出されたのがサッカーワールドカップ・フランス大会に向けて「アサヒグラフ」が増刊する『ワールドカップ・ポケット版』の編集。朝日新聞社内でも3-4冊作られるというワールドカップ本の1冊で、写真エージェントによってかき集められる各国チームの写真から最終メンバーを予想しつつ選手名鑑をつくるというもの。いろいろ考えてみるとサッカー関係者はすでにどこかの仕事にかかわっていてどうにもならない。それじゃあということで清水出身のフリーライター夏目利明さんに声を掛けたらかれが一流の海外サッカー通で、最終的なナショナルチームメンバーをうまく絞り込みながら組み立ててくれた。わたしはとなりでハサミを持って、写真の切り貼り役。
●1998年には山歩き講座のなかで撮りためた写真から秋の山を選んで「アサヒグラフ」の巻頭特集「秋の1日山歩き」となった。(10月30日号)
●1998年の冬、マイクロソフトの「バックオフィス」(PCサーバーシステム&アプリケーションセット)導入例を指宿市保健センター、野外科学株式会社(札幌)、焼津医師会、宮崎県こども療養センター、唐津市役所、三木特種製紙(愛媛県)、沖縄・ミハマセブンプレックス、NECテクノサービスなど、日本各地に取材。取材先は日本のごくごく平均的なものといえるが、それだけに地元のコンピューター販売会社がウインドウズNTで稼働するPCサーバーの爆発的な普及を支えているようすがはっきりと見えてきた。これは「週刊ダイヤモンド」での10回連載タイアップ記事。振り返えると1991年には、アップルジャパンのパンフレット制作で、志賀医大、東京女子医大、電通、博報堂、東京国際大学、明星小学校などにマックが草の根的に浸透していく事例を取材した。時代は怒涛のように流れている。
●1999年5月に主婦と生活社から『新版 初めての山歩き』。これは1987年に出た『初めての山歩きの』改訂版で、本文イラストはほとんどそのままにして、脚注を全面的に改めた。
●私がカメラマン志望になったのは中学生のときに「カメラ毎日」のコンテストに入賞したことによる。高校時代には写真部に所属し、「高校の部」の常連となってついその気になった。そのカメラ雑誌御三家のひとつ「カメラ毎日」が休刊になり、ムックとして細々と生きていたが、大学写真部同期の平嶋彰彦さんが出版写真部長からビジュアル編集室長に動く過程で最初に登場した仕事がその「カメラ毎日」の尻尾の編集だった。名前を「毎日カメラ読本」としたが、その編集に参加するとともに巻末連載「カタログ探検紀行」として1)カメラバッグ、2)運台、3)写真用額縁、4)カラーポジの整理システム、5)交換レンズ開発の考え方、6)コシナはなぜフォクトレンダーなのか、7)プリンターはどのように「写真」を考えているのか、8)写真フィルターの進化、9)CCDとの格闘現場、10)CCDとの格闘現場・続を執筆した。(1999.7-2002.9)
●2000年になると朝日新聞社の週刊百科のミニバージョン(50冊)で「日本百名山」をすることになり、なぜかそのガイド記事執筆がまわってきた。当時深田久弥の『百名山』の登頂経験は約2/3という事実を隠したわけではなく、初心者向けガイドとして机上プランを考えるということなら……というあいまいさで、決まったらしい。私が考案した○◇印のシミュレーションマップも消化不良の状態ながら毎回使ってもらった。
●毎日新聞社では平嶋さんのところに「世界遺産」の豪華写真集が作れないかという話が下りてきていた。毎日新聞社はかつて豪華本企画の先頭を走っていた。なかでも『国宝』と『御物』が直販システムによって20年にわたって売れ続けているというところから新しいシリーズとして『世界遺産』が企画されたのだった。世界遺産は年々登録されて最終的に1,000カ所程度までになるということと、ワンチャンスの特撮ではとてもとらえられないものも多く、集め写真で構成する……という豪華本には決定的なハンディをどう克服するかというところから始めて、最終的に全12巻(おまけビデオ付きで約18万円)という超重量級豪華本を刊行することができた。編集は1999年から始まり、刊行完結は2002.2であった。
●学研スポーツブックスとして「ゼロからの――」シリーズがあるのだが、スポーツ雑誌編集部デスクの柿本徹夫さんがその担当として、山歩きの本をつくりたいといってきたのが2001.10。それから細く長くやりとりを続けてできあがったのが『ゼロからの山歩き もっとゆっくり歩きたい』(2003.7)だった。カルチャーセンター的山歩き講座を続けながらすこしずつ進めてきた技術論がすこしずつ書く本の内容を変えていく。
●2001年の夏から準備が進められてきたのが毎日新聞社で刊行されることになった『宮本常一 写真・日記集成』(全2巻・別巻1)。亡くなって20年以上になる民俗学者宮本常一先生の未整理だった写真(昭和30-56年)をまとめる作業が進むうちに、未発表の日記(昭和20-56年)も出てきて、それもすべて翻刻することになった。毎日新聞社の平嶋彰彦さんが写真によって宮本常一と向かい合い、詩人の中村鐵太郎さんが日記によって宮本常一と向かい合うという真剣勝負をわきでたっぷり観戦というのが私の役目となった。写真集は結局セットで6万円と高価なものになったので、広報的意味を込めてを兼ねて、2004.1から毎日新聞夕刊紙上で月1回「民俗学者宮本常一の写真・昭和30年代の日本」を連載した。

★以上2005.2.11現在