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私 の 雑 記 帳

All Rights Reserved by Itsuro Umemoto

2009年11月10日 火曜日   またまた20年前

ちょっとシツコイけど、20年前の「あの時」シリーズ。最近では職場の周りでは、「あの時小学生でした」というようなヤツが多いので、まあオジサンのつまらん昔話をやってみよう。

89年11月9日の夜(あれは木曜だったはず)、ワタシはハンブルクにあったオフィスで働いておりました。この日は、東独社会主義統一党(SED)の中央委員会が開かれていて、東独テレビを見ながらそのニュースを待っていたわけです。SEDは10月に「建国40周年」を祝ったものの、相次ぐデモでホーネッカーじいさんが失脚し、大混乱に陥っていましたな。後任のエゴン・クレンツは単なるお調子者で、何もちゃんとした言葉が言えないダメ男。とってもこんな状況で人心を掌握することはできない感じでした。

ということで、この日の中央委員会について記者会見(これが行われるということも当時の感覚では驚き)が行われ、出てきたのは政治局イデオロギー担当のシャボスキーという男でした。「ちゃんと話せる」のはこの人だけ。後に首相になったモドローは、当時はドレスデン地区書記にすぎず、この時点では一切メディアには出てこなかったな。

このシャボスキー会見で、「東独国民は前提条件無しで出国ビザを取得できる」「施行は即時だ」という発言が出てきたんですが、これを聞いていた人はワタシを含めて、だれも言葉通りには信用しなかったと思います。ワタシもいつものようなレトリック、リップサービス、「またかよ」と軽く受け流しておりました。だってね、この年の5月だったか6月だったかに西独を訪問したゴルビーが記者会見で、「壁は開くのか」というストレートな質問に、「条件がそろえば…」とか、うまくごまかしてましたしね。この期に及んでも「100年は壁は立ち続ける」と言い放ったホーネッカーじいさんの方が正直な感じがしましたわ。

ところが、西ドイツの夜のテレビニュースが、シャボスキーの言葉を素直に報じまして、それで東の人たちが、(彼らはこのころは仕事も手がつかず、何が起こるかと毎日外をうろつく日々でありました)、ちょっと見に行けと壁の検問所に押し掛けたわけですな。

検問所には、「とにかく騒ぎを起こすな」という指令だけはきていたようです。だから誰も発砲はおろか、阻止もしもしなかった。それで通り抜ける人が出てしまったわけです。目撃者の話が、西ベルリンのラジオを通じて広がって、大騒ぎになり、大勢が検問所に押し寄せたというわけです。西独テレビの興奮の現場中継が始まったのは、かなり深夜だったと思います。東独テレビは完全な沈黙。ワタシも慌てましたが、そこは冷静なる記者さんですから、「きょうは徹夜である。まずはメシを確保せねば」と、オフィスから飛び出して、街まで買い出しに出ました。この時間になると、(当時)ドイツでは何も買えないんです。近くで開いていたのはマクドナルドだけで、あの晩はハンバーガーで仕事したのことはよ〜く覚えてます。

ということで、「壁崩壊」などと言いますが、だれも「壁を取っ払え」と決断した人もいないし、命令した人もいない。成り行きでそうなっちまったのが真相でしょう。「東独駐留のソ連軍が暴れないか」、そこがこの日のキモだったわけですが、壁が開くことを信じなかったワタシも、不思議とそういう心配をあまりしませんでした。なんたってオフィスを空けてハンバーガー買いに行っちゃったわけだし。駐留軍を動かさなかった、この点で世界はゴルビーに感謝すべきでしょう。

ま、壁崩壊に至る東独のデモでも、50万人とかそれ以上の規模だったのに、参加者にも治安当局側にも暴れるヤツが一人もいなかったことも特筆に値するでしょう。このころ、ヨーロッパではだれもが、赤軍兵士に至るまで、暴力による分断に倦んでいたということですね。

壁が開いた後、サッチャーやミッテランがドイツ統一に抵抗しますが、これも尻つぼみでした。最大の理由は、英国でもフランスでも、国民の大半が壁崩壊の歓喜を共有、それにひたっていたから。きょうの毎日新聞に、「ミッテランは統一を支持していた」な〜んていう仏外交文書の記事が出ていましたが、あれは絶対ウソよ。ミッテランはその年の12月に、もう寿命が切れた東独を「公式訪問」しておる。でも、東独政府からも全然相手にされず、同行したテレビクルーも、ミッテランそっちのけで、ブランデンブルク門のオープニング式典を取材に行っておった。ま、ミッテランは正確にはこの時点では「迷ってた」んでしょう。なんたってドイツに3回も戦争仕掛けられた国です。大統領として国を預かる立場では、浮かれてはいられません。ちなみに「私はドイツが好きだ。だからドイツが2つあるのはいいことだ」と言ったのもフランス人だったな。

この迷いは、シャボスキーの言葉をその通りに受け取らなかったワタシにも分かります。「冷戦思考」をそう簡単に振り捨てられるものじゃございません。それが普通と思うんですが。いまさら「壁は不自然だったと思ってたわ」などとのたまう、当時のドレスデン駐在KGB将校さんよ、もっと正直に当時のことを話しなさいってば。

きょうは時間もない、結論もありません。「あの時」、時代がひっくり返った時の人間の反応は、ホントに面白い。ほかにもいろいろありましたが、きょうはこれくらい。


2009年11月7日 土曜日   ノスタルジー

本日、この方から電話が入り、「ベルリンの壁崩壊の時に撮った写真持ってるか」とのご下問あり。

あのさー、時代が違うっての。「あのころデジカメなんてなかったんです」、「写真撮っても、その後現像して日本に電送機で送る機材もなかったし…」、「だから外国にいた時は取材にカメラ持っていく習慣はなかったんです」−とお答えしたわけです。

というわけで、街を歩く人の9割くらいがカメラ付き携帯を持っている現代では考えられないですが、壁崩壊後のベルリンをさすらうのに、写真機は持っていなかったんですわ。

考えてみればこの20年、身近なテクノロジーの進歩で生活習慣もかなり変化してしまった。ワタシらの仕事も随分変わってしまった。壁崩壊も大事件だったけど、いったい世の中を変えていったのは壁崩壊なのか、それともパソコン、インターネットなのか…。

あの頃…、
携帯電話はなかった。正確に言うと、弁当箱よりデカいアナログの車載用無線電話はあった。これを西ベルリンで借りると、電波が東ベルリンでも壁に近い場所なら辛うじて届くため、東ベルリン内から日本に電話ができた。ま、東への持ち込みは禁止だったけどね。壁が開いた後は、東の検問のオニイサンもうるさいことは言わなくなった。そして後からすご〜い請求が来たけど、バブル絶頂期、金満ニッポンのカイシャは文句も言わず払ったな。

あの頃…、
とは言え、日本に原稿を送るのはファクスが中心。西ベルリンZoo(ツォー)駅にあった公衆ファクスか、西ベルリンのホテルでフロントに頼むしかない。ホテルはだいたい、とんでもない料金をふっかけてくるけど、これも金満ニッポン人には別にこたえなかった。

あの頃…、
テレックスというアルファベット大文字と数字だけ送れる電信機器が、アルファベット使用圏では主流であったな。東ベルリン滞在中は、国営プレスセンターにあったのをずいぶん送稿に使いました。払いはもちろん西マルクよ。石川啄木「ローマ字日記」みたいなのを送ることになるので、入電した側では、「ローマ字起こし」と呼ばれる日本語への書き換え作業が必要であった。

あの頃…
東西の通信格差はひどかった。東ドイツから日本に電話するのは、申し込んでつながるのは翌日とか、事実上不可能であった。リトアニアの首都ビリニュス市内には、91年時点でファクスは2台しかないとのことであった。東ドイツの固定電話は10万だか20万回線しかなかった(人口1700万人)。これは盗聴のキャパシティーとも関連していたんでしょ。

あの頃…
どこへ行っても、しつこくこの歌がかかっていた。

あの頃…
ハンブルクから西ベルリンへ飛ぶ飛行機はパンナムだった。ボロボロの機体であった。

あの頃…
ベルリンの街には褐炭ストーブの匂いが充満していた。夜はスモッグがひどかった。

あの頃…
みな、いい顔をしていた。ま、自殺した党幹部も多かったらしいけど。

あの頃…
東独市民が大挙して西に出たため、東西マルクの闇交換レートは大幅に西>東に振れたんですね。記憶定かでないけど1:7〜8だったのが、1:20とか1:30くらいまでいったんじゃないかな。その後、90年7月に通貨統合(交換レート1:2〜1:1)することが決まると、一転して西<東に。あの時、カール・マルクスのお札を買い占めておけば、今ごろは…。ちなみに「ヤミ交換」と言いましたが、資本主義西ドイツでは「ヤミ」とは言いません。西ベルリンのメモリアルチャーチ(ゲデッヒニスキルヒェ)前に両替所があって、共産圏のあらゆる通貨が取引可能でした。

あの頃…
ま、若かったね。ワタシは。


2009年11月6日 金曜日   あの時、ニッポン商社マンは

恐れ多いところに出没する輩もいるようである。

皇太子ご一家、タヌキを自然に帰す

11月6日12時31分配信 時事通信

宮内庁は6日、皇太子ご一家がお住まいのある赤坂御用地で1月から保護していたタヌキを自然に帰されたと発表した。
 同庁によると、雅子さまが1月に赤坂御用地を散策中、けがをして衰弱しているタヌキ1匹を発見、鳥獣保護法に基づく必要な手続きを取り保護していた。自力で生活できるまでに回復したため、専門家の意見を聞いた上で、先月29日に赤坂御用地内で放した。雅子さまはタヌキのけがの回復を喜んでいるという。 


かくのごとく、タヌキというのは日本中あらゆるところ(北海道は除く?)に生息しておるが、世界的には非常にめずらしい生き物である。日本人がラクーン(アライグマ)を見ると、「タヌキそっくり」と思うが、アメリカ人がタヌキを見ると「ラクーンそっくり」と思うらしい。タヌキの英語名はRacoon Dogである。日本を含む極東にしかいない…、と思ってウィキペディアを見たら、最近ではドイツまで野生種が進出しておるらしい。恐るべし、タヌキはどこにでもいる。

さて話題転換。先日、ベルリンの壁崩壊の時に、東ベルリンに駐在していた商社マン(OB)の方々と歓談する機会がありました。ちょうど20年ということで、「あの時何をしていたか」という話題になるわけですが、結論から言うと、ニッポン商社マンはあの時、「大挙して日本に帰ってしまっていた」のでありました。

ちょうど日本で、日本・DDR(なつかしいね、「デーデーエル」と読んでちょうだい)経済委員会とかが開催される直前で、東独経済大臣が東京へやって来るため、みーんな成田空港お迎えとかのため、一時帰国してしまったのである。「『テレビ見たか』と聞かれてあせった」、「社上層部から支店の方に情勢報告の要請がいってしまい慌てた」のであったそうな。

「情勢を読めずに日本に帰ってしまったわけで、忸怩たる思いだった」とのお話しもあり、何だかわれわれと似たような業界であるの〜と思いましたが、コール(当時西ドイツ首相)だってワルシャワ出張してたんですからね、まあ、だれにも読めませんわね。

当の経済大臣はちゃんと日本に来たそうですが、ということは「壁が開いた後で初めて外国に出現した東独要人、初めて外国メディアにさらされるかもしれない東独大臣」だったわけです。駐在ニッポン報道マンであったはずのワタシ、恥ずかしながらこのこと初めて知りました。うーん、あの時、日本のメディアは追いかけてたのかな。

ちなみにニッポン商社マンたちのオフィスがあった東ベルリン・フリードリヒシュトラーセのビルも、日本の建設会社が作ったもので、日本とDDRは、いまじゃだれも言わないが「いい関係」だったんですな。今回聞いたお話では、そのビル最上階には、もっと「いい関係」だった別の極東の国の方々が大勢いる、よくわからないオフィスもあったそうな。この方々は日本語ができると考えるのが相当なので、ビルの中では「聞かれている」ことに気をつけねばならなかったそうです。


2009年11月3日 火曜日   タヌキ出現

この日曜は幼稚園の父親参観であった。幼稚園へはJR駅方向へ徒歩5分。この駅近くの商店街は江戸時代には宿場として栄えていたらしいが、いまはシャッター商店街への転落寸前といった風情である。横浜でもこんな街があるのだ(日本全国推し量られる)。日曜の朝ということもあって、人の気配はさらに少ない。その宿場の裏通り、山の斜面の道を息子を連れて歩いていると、目の前をコロコロしたチャコールグレイが走っておる。

「ありゃ、タヌキ?」というわけで、ホンモノでありました。われわれに遭遇しても急いで逃げていく風でもなく、こちらが携帯付属カメラを取り出そうとすると、こっちを向いて「早く撮れ」と待ってます。「カシャ」とやったところで、「もういいな」と去っていきました。さすが、現代の人里に住むタヌキさん。撮影には慣れていらっしゃるようでした。子供も大喜び(だが、こいつにはいつもタヌキが化ける話をしているため、野生ホンモノが出てきても特にめずらしがるわけでもなく、バッタを見つけた程度の喜び方であった)。

なにしろ幼稚園へ行くと、先生も他の親御さんもワタシの娘や息子と言って通じるほど若いし、父親参観となると「お父さんと遊ぼう」とかいって、老体の父親に無理な運動を強いたりするので、どうやってサボるかを考えていたのであるが、ま、出掛けて三文の得くらいにはなりましたな。

タヌキが化ける話を信じて喜ぶのも、いまやこの幼稚園年少の三男だけ。でも信じる者の前には、やはり現れるものなんよ。ということで本日は写真掲示。