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フィンについて

 

 道具について

 

道具を良く知ることは、その道への第一歩である。道具を語ることは、その道具の使い方を論じることになる。

道具について、また技術について、自分の身体で感じたこと以外は、意味が無い。すくなくとも人に語る意味も価値も無いと私は思っている。自分で泳がない人が、泳ぎについて語ることを昔の人は、「畳の上の水練」と言った。ただ問題は、自分の体験を語ることは、視野狭窄の世界に入ってしまっている可能性が高いことだ。人が自分で体験し、自分の感覚で知ることのできる範囲は狭い。それで全てではないということだ。だから、私がこれから語る、これから書くことは、無数にある視点の中での一つの視点でしかない。そのことを前提にして、主な潜水道具について自分の歩んで来た道筋をたどりながら紹介しよう。道具の発祥から現在にいたる道筋を眺めることで、その道具の使い方を知ることができ、その道具の本質を知ることができ、そして道具の将来を展望することもできる。

フィン・マスク・スノーケルは、ダイビングをする人にとって、まず最初に手にとる道具である。そして、絶対に必要な道具でもある。

まず、フィンからはじめよう。

人間にヒレがあれば、水中で泳ぐのに便利だろうとは、だれでも思い付くことだ。人魚の画を見れば、足の先が魚のヒレになっている。

日本人がフィンで泳ぎ始めたのは、日本にスクーバ、その頃はアクアラングと呼ぶことが多かったのだが、アクアラングが入って来た1950年から以降である。私は1953年からフィンで泳いでいるから、ほぼ半世紀、日本におけるフィンの最初から自分の身体で体験していることになる。

 

 

人間の泳ぎ方

 

人間の泳ぎ方であるが、人間は手と足、そして身体全体を使って泳ぐ。手の動きについては簡単で、手を前に出して手のひらで水をとらえて、後ろに向かって押しのける。簡単に言うと、手で水を掻く。足の動きは、おおざっぱにわけて三つ、わけかたによっては四つになる。一つはバタ足であり、これは蹴り降ろす時も蹴り上げる時も水を押す。もう一つは足を左右に折り曲げて開き、折り曲げた足をのばしながら水を押すカエル足である。水を挟むイメージが強いあおり足というのもある。そして、最後に二つの足をそろえてイルカのように同時に蹴り下ろし蹴り上げるドルフィンキックがある。(バタ足、カエル足、あおり足、ドルフィンキックの分け方と名称については、新水泳指導教本・財団法人日本水泳連盟編・大修館 を参考にした。)

 人間の歩行は左右交互に足を前に出し後ろに蹴るようにして進むから、バタ足が一番自然であるかもしれない。しかし、足だけを使って水中で進もうとすると、カエル足が最も効率が良い。カエル足はおそらくはカエルの泳ぐ姿を見て真似たのだろうか、推進力を得るのは開いた足をそろえるように伸ばす時だけ水を押す。足を開きながら前に持ってくるときには推進力は発生しない。後ろに蹴るときだけの推進である。蹴る時だけぐんと進み、ぐんぐんと段をつけるように進んで行く。ドルフィンキックは最も大きな推進力を発生することができる泳ぎ方であるが、身体の全体を波のように動かすことになるので、自分の身体の移動に上半身を使わない人間としては、不自然であったのだろう。フィンを使わない水泳の世界でも、フィンを使う泳ぎでも、その発達は一番最後になった。推進力は大きいけれど、疲れやすく長距離を泳ぐのには向いていない。

競技としてのスイミングは、バタ足を使うクロール、カエル足を使うブレスト(平泳ぎ)、ドルフィンキックのバタフライと三つの足の使い方が基本になっている。水中での泳ぎ、ダイビングの泳ぎもこの基本的な三つの足の使い方が綾になり、撚り合わされるようにして進歩して来ている。

フィンを使わない泳ぎで、足だけの推進力が最も大きいのはカエル足である。しかし、カエル足は人間には少しむずかしい。そこで、歩くような足使いのあおり足も普通に使われるようになった。日本古来の泳法はあおり足が基本になっている。競技としてのスイミングでは、あおり足は現在では、使われていない。あおり足は足で水をはさむようにして、足の甲も使って水を押す。

水泳、スイミングはいずれの形でも、腕と手が推進力の大きな部分を占めている。フィンで泳ぐようになったことによる革命は、推進力として手を使わなくても充分な推進力を得られるようになったことである。手でカメラを操作しながら、あるいはロープを扱う操作をしながら移動することができるのはフィンのおかげである。

手を推進力から開放したことは、人間が二足で歩きながら手仕事ができる唯一の動物であることから考えて、大きな進歩であった。

 

  海女・海士の潜り方

 

人間が海に入って食べものをとる漁労は、縄文時代から盛んに行われて来た。潜って貝類など動きの少ない生物を手で掴みとってくる漁労は、どこの国でも、どの時代でもわかりやすく誰でも出来る。日本では海女の素潜り漁が現在まで続いて盛んに行われている。男が潜ると海士であり、女性が潜ると海女になるが、どちらも読みは、「アマ」である。宮本常一「新版海人ものがたり」によれば、女も男も海人と書いてアマと読めば区別する必要が無いとある。しかし、女の海女の方が一般になじみが深いのは、有名な浮世絵があったりして、人の目に刺激的に写ったこと、そして、いつの世でも、男と女が同じ事をやれば、女の方が目立つからであろうか。地域によって、男だけが潜るところもあれば、女だけが潜るところもあり、男も女も潜るところもある。

 海女の潜る技術に歴史があり、洗練された技術になったが故に、日本はついにフィンを産み出すことが無かったのだろうと思う。

 海女の潜る潜り方、泳ぎ方もその地域によって特徴がある。もともと、海人は裸で潜っていたのだろう。近年まで能登半島輪島の海女は、裸で潜ることで有名であり、その躍動する身体の美しさは芸術的でもあった。裸は水中でもっとも動きやすい。もちろん現在では裸の姿は見られないから、ついに私は、裸の海女さんを撮影することができずに終わってしまう。

  良く知られているのは、着物スタイルの白い磯じゅばんである。足が動かしやすいように裾は膝上まで、身体はできるだけ露出しないようにしている。身体は守られているが泳ぎにくい。この衣装で効率よくおよぐために足の蹴りはあおり足を使う。裾を乱さない泳ぎ方は優雅である。足を蹴って水面に身体を持ち上げて、その反動で水中に潜り、身体を反転させて潜って行く。おそらくは、水面に足を出したり、尻をだしたりする潜り方は、はしたないからこの潜り方になったのだろう。この優美な潜り方を大和式の潜り方と呼ぶ人もある。

 私たちがスキンダイビングで潜る時でも、効率的であるとともに、かっこうの良い、優美なスタイルを追求する。女性である海女がその潜り方の優美さを追求するのは当然である。海女もウエットスーツを着るようになり、フィンを使うようになると、優美な大和式の潜り方は、すたれて行く。唯一残されているのは、海女さんの潜り方を見せる観光ショーである。伊勢志摩ではこの潜り方が観光ショーとして見られる。もともと、この潜り方は伊勢志摩の潜り方ではあった。

  驚いたのは、アメリカのサンディエゴシーワールドを訪れた時のことである。日本庭園の池のようなプールで、青い目の白人女性が、海女の衣装を来て、完璧な大和式潜りをみせていた。ずいぶん前のことだから、今も行われているかどうかはわからない。

 そんなことで、ついに日本の潜水漁業はフィンを産み出さなかった。フィンを使わない潜り方の技術が極められてしまったから、フィンが必要とは考えなかったのかもしれない。

 

 フィンのルーツ

 

フィンのルーツについて、私が知ることが出来たのは二つのルートである。

一つは、1920年代、地中海のコートダジュールである。モナコの海洋博物館に、フィンのルーツともいうべきゴム製のフィンが展示されていて、コリリューのフィンと名盤がつけられている。プラスチックに封入され、ゴムが老化しないような措置がとられているが、ゴム板をはりあわせて作られたような感じで、とても重そうであり、気持ち良く泳げるような代物ではない。とにかく現物が残っている。

 もう一つの説がある。最初に足に水かきを付けたのは南洋諸島の漁師で、椰子の葉の葉柄部分を足に結びつけて泳いだ。1930年、カリフォルニアのオウエン・チャーチルは旅の途中でこれを見て、またいっしょに泳いでみて、その効果に驚き、これに習って工夫して、今のフィンの形に近いものをつくり、パテントも取った。たまたまこれを見た、ガイ・ギルパトリックというゴグラーがこれを使ってみて、たちまち、広まったのだという。

 ガイ・ギルパトリックという人は、アメリカ人で、1920年代に地中海のコートダジュール周辺で潜っていて、コンプリートゴグラーという、おそらく世界で初めてのスキンダイビングの本を書いた。地中海のコリリューフィンの普及についても、かかわっているみたいだ。オウエン・チャーチルとコリリューはどんな関係があったのだろう。

 # The Compleat Goggler  Guy Gilpatric 1934

 

 私が持っているのは、Captain Cousteau's Underwater Treasuriy という文集の中の抄録だからコンプリートゴグラーの全てはわからないが、ここではゴーグルについて書いているがフィンについては書いていない。

 

 フロッグマン

 

道具の発達、発展には必ず戦争、軍事目的が絡んでいる。人の殺し合いだから最高の技術努力が傾けられる。

 第二次大戦でも フィンで泳ぐフロッグマンと呼ばれる潜水兵が活躍した。魚のヒレというよりもカエルの水掻きのように見えたからフロッグマンと呼ばれた。活躍したフロッグマンの役割は二つあった。海を越えて攻め込む場合、陸地に上陸させまいと守る側と攻める側がある。守る側は、舟艇を岸に上げないように波打ち際近くの水中に障害物を敷設する。この障害物を爆破撤去する破壊作業がフロッグマンの役割の一つだ。もう一つは、酸素を循環させて呼吸する閉鎖式スクーバを使って魚雷に乗って、敵の港に潜入して爆薬を船に取り付けて撃沈させる特別部隊である。

  フロッグマンその一は、米国の水中破壊部隊(UDT)である。太平洋戦争でギルバート諸島のマキン・タラワに米国海兵隊が上陸しようとして、波打ち際で日本軍の仕掛けた障害物にひっかかり、大きな損失を受けた。これが動機になって水中破壊部隊が編成された。この水中破壊部隊の隊長で、「人間魚」という本を書いた、ダグラス・フェインさんは、戦後日本の三浦三崎に住み付き日本にスクーバ潜水技術を紹介した人たちの一人となった。私たちの主催した水中スポーツ競技会にも来賓として出席され、ご挨拶をいただいたことがある。

 

 # 人間魚―米海軍水中破壊活動の概要― フランシス・D・フェイン 著 佐々木忠義訳・昭和36年 内田老鶴園

 

 フロッグマンその二は、ヨーロッパ戦線の地中海で、イタリーの人間魚雷部隊が、戦艦を撃沈する戦果である。

 私が、これらフロッグマンの活躍を目にしたのは、映画によってである。イタリーの戦艦撃沈シーンは、イタリー映画で見た。イタリーのフロッグマンの浸入を防ぐ為に編成されたイギリスのフロッグマンについてはイギリスで映画で、アメリカの水中破壊部隊の活躍はアメリカ映画で見た。

 イタリーの映画が一番良く出来ていて、もう一度見たいと切望しているが、残念なことにビデオが発売されていない。

 イタリーの映画は、潜航突撃隊(1960年製作)という題名であった。フロッグマン突撃隊は、大型の魚雷に操縦装置をつけた潜水艇に乗って出撃する。日本にも人間が乗る魚雷があった。日本の人間魚雷・回天は、魚雷の中に人間が乗り込み封じ込まれていて、生還の見込みが無い特攻兵器である。

日本には特殊潜航艇もあって、パールハーバー、オーストラリアのシドニー、マダカスカル島の、ディエゴスワレス港への攻撃を行ったが、目立った戦果は無かった。日本の潜航艇は、本格的な小型潜水艦で、いわゆるドライサブであったが、イタリーの人間魚雷は、ダイバーが魚雷にまたがるようなウエットサブである。魚雷にダイバーが乗って行き、魚雷を敵の船に取り付けたら、泳いで脱出する考えである。隠密行動での潜水であるから、泡を水面に出したら発見されてしまう。泡の出ない循環式のスクーバを使った。

 循環式のスクーバについて、簡単に説明しておこう。肺の大きさよりも若干大きい袋を胸の部分に取り付ける。この袋の中に息を吐き出し、吐き出した息をまた吸い込む。これを繰り返す。呼吸を繰り返すので、この方式を最近ではリブリーザーと呼んでいる。吐き出した呼気の中には炭酸ガスが増えているから、このまま呼吸を続けると、たちまち炭酸ガス中毒になってしまう。袋と肺の間を結ぶ空気の通路に苛性ソーダ(現在ではソーダライム)のような炭酸ガス吸収剤をいれた筒(キャニスター)を挟んで呼気を通し炭酸ガスをとりのぞく仕組みになっている。呼吸によって酸素が消費されるので、減った分だけの酸素を付け加える。空気を呼吸ガスとして使うと、酸素の消費と加入のバランスが狂ってしまって、酸素不足の状態になってしまうので、呼吸ガスとしては純酸素を使っている。純酸素を呼吸して、水深10m以上(現在では、4.6mとされているが、戦争だから、中毒に耐性のある兵士を選択するから、20m近くまで潜降できたはずである。)深くに潜水すると、酸素中毒になってしまう。酸素中毒の症状は激烈な痙攣だから、水中でひきつけを起こしたようなことになり、ひとたまりもなく死んでしまう。また、苛性ソーダの入った筒に海水が浸入すると、化学反応を起こして、膨張して吹き出してしまう。苛性ソーダが口の中に逆流してくるのだから悲惨である。映画でも訓練中に、酸素中毒で死んでしまう兵士がいたり、ソーダがあふれて絶叫して苦しむ兵士がいたりして、リアルであった。

 軍港には、潜水艦の侵入を防ぐ防潜網が張ってあるが、ダイバーがカッターで網を切って港の中に入り込む。侵入を果たした後、戦艦に忍び寄り、魚雷の爆薬部分を磁石で戦艦に張り付けて、時限装置で爆発するようにセットした後、ダイバーは泳いで脱出する。  水面を泳いで脱出する時に、水しぶきを上げると発見されてしまうので、身体を横にして、日本で言う横泳ぎのような形でフィンを使う訓練のシーンがあった。

映画では、首尾良く、魚雷を戦艦に取り付けることが出来たのであるが、そこで力尽きて意識を失って浮上してしまう。痙攣はしていなかったので酸素中毒ではないらしい。

 浮きあがったフロッグメンは、捕らえられ何をしたのか、どこに爆薬を仕掛けたのか尋問されるが口を開かない。爆薬を仕掛けたことは、大体わかっているので、彼は船底近くに閉じ込められる、船が沈めばまず助からない場所だ。爆発の時間が迫って来て、もはや爆薬を取り除く時間が無くなってから、彼は爆発の時間を教える。船の全員が退去するが、彼はそのまま船底に閉じ込められたままだ。

 最後のシーンは戦争が終わって後、なぜか彼は生命を失わず、勇敢な行為に対して相手国の英国から勲章を受けるところで終わる。実話に基づいた映画で、人間魚雷の実物(おそらく、実物。実物でなくても良く出来ていて本当に走るレプリカだ)も出てくるし、循環酸素式の潜水器も本物だ。フィンもマスクもドライスーツも本物が出てくる。だからもう一度見たいし、出来ればテープも欲しいのだが無い。イタリーで探したらあるかもしれない。

 アメリカの水中破壊部隊の映画は、名前の知られたスターであるリチャード・ウィドマークの主演である。前半部分は障害物の爆破で、波打ち際での行動だから、スキンダイビングの形である。もちろんフィンは付けている。日本軍が守る太平洋の島に対する上陸作戦である。まず、戦艦が大きな大砲で射撃をして、岸にある日本軍の防備施設を破壊する。破壊が終わると海兵隊の上陸だが、その前に障害物の破壊が行われる。防備施設を破壊したといってもまだまだ大砲も日本軍も残っている。高速艇が全速力で岸に沿って走る。日本軍が撃ってくるから、全速力で走る。全速力で走るボートからの飛び込みがバックロールエントリーだ。この方法でなければ走るボートからは飛び込めない。スポーツダイバーが、普通の状態でもこのバックロールをやるが、後ろに眼が無いので、他のダイバーの上に落ちる心配がある。事実そんな事故が起こって、八丈島ではこのエントリーは禁止したことがある。私は、ボートから飛び込む時は、横向きのサイドロールで水に入る。

映画では、フィンをつけたフロッグマンが障害物にプラスチック爆弾を取り付ける。どんどん、日本軍がマシンガンで撃ってくるのに、わざわざ、一人が砂浜に上陸して、自分たちの部隊の小旗を立ててくる。あとから来る海兵隊に、先に上陸したフロッグマンが居ることを知らしめて驚かすためだ。太平洋戦争では、まだこんな余裕があったのだろうか。それともアメリカ海軍はそれほどまでに馬鹿だったのだろうか、映画の作り話だったのだろうか。イギリスのスコットランド兵はもっと馬鹿で、一列に並んで、バグパイプの鼓笛隊がまず行進してきて、彼らが全部倒れてから、一般の兵士が突撃する。日本の武士は、敵前で名乗りをあげているうちに、鉄砲で討ち取られた。最近作られた映画、プライベートライアンなどを見ると、敵前上陸作戦はこんな悠長なものではない。

昔のアメリカ戦争映画は、戦意高揚の意味もあったから、勇敢さの誇張だったのだろう。

次に、高速艇によるピックアップだが、沖に泳ぎ出たフロッグマンは一列に、30mほどの間隔を置いて並ぶ。

高速艇は横にゴムボートを並べて連結し、並んだフロッグマンすれすれに全速で走ってくる。ゴムボートの上から、ロープを輪にして、クッション材を巻き付けたものをさし出す。フロッグマンはこの輪に腕を入れ、同時にゴムボートに引き上げる。反動をつけるようにして身体を反転させてゴムボートに上がり、さらにもう一回転、横転して高速艇に跳ね上がる。その時には、もう並んだ次のフロッグマンが引き上げられている。次々と引き上げられて走り去る。

 この映画の後半部分は潜水艦からダイバーが泳ぎでて、爆薬の処理をする話になり、でたらめな話になった。気泡を出す、アクアラング(スクーバ)を使っているのだ。アクアラングが開発されたのは1943年、ノルマンディー上陸作戦の行われた年である。アメリカにスクーバが普及したのは戦争が終わってからで、朝鮮戦争のころだ。日本を相手の太平洋でアクアラングが出て来たのでは、納得できない。

 

 伏竜特攻隊

 

 日本でも潜水特攻部隊が編成され、伏竜特攻隊と名づけられていた。

 伏竜特攻隊も循環酸素式の潜水器を使う。ヘルメットを使う循環酸素式なのだが、日本にはフィンは無いので、海底を歩く。

上陸作戦はまず上陸地点の火砲を叩き潰すための艦砲射撃ではじまる。上陸地点の沖に軍艦が並び、どんどん無差別に撃ってくる。火砲を潰し終わったと判断すると、艦砲射撃を中止して、いよいよ上陸して来る。艦砲射撃と上陸との間に少しの時間がある。その隙をねらって伏竜特攻隊は、海に歩き入って海底に横たわって伏し、敵の上陸用舟艇が来るのを待つ。彼等は、先端に爆薬がついている長い竹竿を持っている。舟艇が上を通ったらこれで突き上げて自分もろとも爆発するのだ。

この考え方には、自爆することの是非は仕方が無いとして、技術的にどうにもならない間違いがある。敵が、太平洋戦争ではアメリカ軍だが、上陸してくる浜は広大だ。展開することになっていた鹿島灘も九十九里浜も、見渡す限りの砂浜だ。そのどこに、特攻隊を配置すれば良いのだろうか。敵の艦砲射撃の状態によって大体のところはわかるかもしれない。予想されるあたりに、移動して、艦砲射撃が終わって、上陸用舟艇が発信するまでの時間がどのくらいの間なのかわからないが、その時間が長すぎれば、水に入った潜水兵たちは、耐えられなくなってしまう。循環酸素式の潜水器はほんの少ししか酸素を消費しないから、大きなボンベを持っていれば、一昼夜とか二昼夜は持ちこたえるかもしれない。打ち寄せる波が無かったとしての話だが、鹿島灘に打ち寄せる波、九十九里に打ち寄せる波は、見ればわかる。棒の先につけた爆薬で突き上げられる水深だから、知れている。ダイバーが波のある海岸で長さ10mの棒を立てて、水面を走る船を突き上がられるとは思えない。せいぜい5mだろう。水深5mで鹿島灘に打ち寄せる太平洋の波を耐えて一昼夜を過ごせるものだろうか。

艦砲射撃が終わってから上陸までの時間が短かったとして、艦砲射撃の間、浜辺に散開していれば、ほとんど殺されてしまうだろうから、どこかの穴倉に潜んでいなければならない。急いで穴倉から出て、歩いて所定の場所に行き、潜水具を着けて、歩いて水中に入って行かなければならない。ヘルメット式の循環酸素式の呼吸器、それに長時間待ち構えなければならないかもしれないので、大きなボンベを着けて、呼吸器から呼吸しながら浜辺を歩くのだ。200m歩けば確実に倒れる。事実、この歩く訓j連で、次々と訓練生が倒れたと「海軍伏竜特攻隊・門奈鷹一郎著」に書かれている。

もしも、うまく配置されたとして、米国海軍のフロッグマン・水中破壊部隊に次々と惨殺されただろうことは容易に想像できる。

 日本本土への上陸は行われずに終戦を迎えた。幸いなことに、アメリカのフロッグマンが伏竜と水中で格闘する映画は作られずに済んだ。フロッグマンと伏竜特攻隊の決定的な差は、フィンで泳ぐか、歩くかである。

 

 ついに日本はフィンを自ら作り出すこと無く、アクアラングが輸入され、同時にフィンも日本に入って来た。

 戦前の日本のダイバーたちは、日本の潜水技術は世界一だと思っていた。ヘルメット式潜水器については、アメリカのダイバーは、海底を歩くばかりである。日本のヘルメットダイバーは、名人になると、中性浮力で浮きあがり、水中で踊りを踊ることができる。もっともこれは大変に危険で、墜落や吹上を起せば命があぶない。そのために潜降索で降りるように潜水士の規則に定められているのであるが、とにかく、技術的には、日本のヘルメットダイバーは名人だ。マスク式潜水器も地中海で第一次大戦でどいつのUボートに沈められた八坂丸の金塊を引き上げた大串式がある。戦争が終わって見れば、日本の潜水は、はるか後ろに取り残されていた。フィンを持たなかったからだ。

 

 私が買った最初のフィン

 

私が買った最初のフィンは、昭和30年の初夏、葉山のタイドプールに磯の生物を採集に行った時、逗子駅前の釣り道具屋で買ったもので、ペラペラで子供のオモチャのようなフィンであった。針金を曲げて作ったバックルで足を固定するベルトを留めているのだが、この針金がすぐに曲がってこわれてしまう。ゴムの質も悪くすぐにベタベタに溶けてしまった。

 もっと良いものを買おう。8月ごろだったと思う。日本橋の三越で探した。デパートに行けば何でもある。三越ならば高級な品物が置いてある。そう考えるのが常識だった時代だ。

さすがに三越には輸入品のフィンがあった。その頃のデパートとは本当にすごいところだったと思う。ツバメのデザインがレリーフになっているフィンがあった。かかとまで足の入るフルフットのクレッシイのフィンが、昭和30年に三越には置いてあったのだ。気に入って買おうとしたら、少しお金が足りない。お金を持って次の日にまた出かけて行ったら、もう売れてしまって無かった。売れ残っていたピレリのフィンを買うことにした。ピレリもイタリーの有名なタイやメーカーでゴム製品には定評がある。いまではフィンなんか作っていないだろうが、当時は作っていたのだ。きれいな濃いブルーでかかとの出るオープンヒールタイプだ。このピレリのフィンは左右が対照ではなく、フィンのブレード部分の先端が斜めにカットされている。映画、青い大陸ではこのような形のフィンを使っていた。履いて見るとすこし小さめできつい。でもオープンヒールだから、何とか使える。後から考えると、かかとまで足の入るフルフットのクレッシイのフィンが買えず、かかとが出るオープンヒールを買ったことが、私とフィンのかかわりでの岐路だった。

 このピレリのフィンはすごく良いゴム質で随分長く使うことができた。後で、館石昭さんの撮影の手伝いをした時に、モデル兼助手の伊藤淳子さんが使って見たらぴったりで、写真写りも良いので、彼女に上げてしまった。

 

 チャンピオンと呼ばれたフィン

 

 東京水産大学の潜水実習や潜水科学協会の講習会で使っていたフィンは、チャンピオンと呼ばれているフィンであった。かかとの出るオープンヒールで、完全なフリーサイズだ。足の大きすぎる人は、痛さを少し我慢しなければなんとかなるし、足の小さな女性は、靴下の重ね履きで足を大きくする。なぜか、このフィンは緩くても脱げることが無く、ほとんどの人がこのフィンで間にあった。10人の講習であれば、男女を問わずに、とにかくチャンピオンを10足持って行けば良い。左右同じだから、20個持って行けば良いのだ。

イタリーが戦艦撃沈の戦果を上げた映画のフロッグマンはこのフィンとほとんど同じフィンを使っていた。なぜチャンピオンと呼ぶかというと、チャンピオンという会社が作っていたものをそのまままねをしたものだったからだ。形だけでなく、名前までもパクッてしまったのだから当時の日本はすごい。

   潜水科学協会の副会長で水産大学の教授であった猪野先生がこのフィンを作って下さいとサンプルを東亜潜水機に持ち込んだものだ。私はその東亜潜水機に入社したので、私がこのフィンを取り扱うことになった。

 

東亜潜水機の三沢社長は本職がゴム屋だ。社長自らがこのチャンピオンフィンのゴムを練る。加熱されたロール二つが、ほんの少しの隙間を開けて回っているその隙間にゴムを挟みこむようにしてゴムを練るのだ。まず生ゴムを入れる。天然の生ゴムだ。生ゴムは飴色をしている。黒いカーボンの粉を入れて練ると黒いゴムになる。カーボンを入れることによって、ゴムの耐久性が強くなる。あまりカーボンを入れすぎると弾力が無くなる。この配合が難しいのだと社長は言う。ゴムを練る専門の人が東亜潜水機には別に居るのだが、なぜかチャンピオンのゴムだけは社長が自ら手を下す。

 練ったゴムを板状にして、適宜の大きさに切り、ゴム型に乗せる。お菓子のタイ焼きのような感じだ。上と下の型で挟んで、加熱する。焼きあがると型を開いて出来上がったフィンを取り出す。挟んだゴム板で余分になった部分は横にはみ出している。バリが出ているという。このバリをハサミで切り取る。切り取った部分は必ずしもまっすぐになってはいない。凸凹になって入る部分はグラインダーでこすってまっすぐにする。バリを切り落としてグラインダーでこすって仕上げるのが、入社早々の私の仕事だった。つまり誰でもできる仕事だ。

 今のフィンは、射出成形で出来てしまうから、長時間の加熱もバリ切りも必要ない。チャンピオンは手焼きだから、そして、ゴムの型は一個しかなかったから、半足が30分、一足焼き上げるのに1時間かかる。

 チャンピオンの時代はずいぶん長く続いた。日本アクアラングという会社ができ、いくつかの種類のフィンが作られたが、まだチャンピオンを使う人が少なくなかった。学生はほとんどが、このワンサイズで誰でも履けるチャンピオンを使った。フィンで速く泳ぐという発想は全然無かった。チャンピオンはまた、フィンを履いたままで岸に歩いて上陸したり、歩いて水に入ったりすることも得意だった。フィンの寸法が少しばかり短いので、歩きやすいのだ。