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  フリッパーレース(1)

 

 日本潜水会を作った私たちは、今後このダイビングというスポーツを健全に発展させるためにどうしたらよいのか、一週間の合宿で、毎日午前中はけんけんがくがく話し合った。(午後は一生懸命泳ぎ、夜は、空気銃を使った射的競技、花札によるコイコイ、などで親交を深め、私とNHKの河野さんは、全日本コイコイ連盟を結成した。ホームページだからこんなことを書いている。まじめな)討議の結論は、水中銃をカメラに持ち替えること、そして、女性が多く参加するようにならなければ発展はないというところに落ちついた。

 それでは、カメラを買えない若者はどうするのだ。水中で使えるカメラはまだまだ高価だったし、一枚撮影する毎に、コカコーラ一本と同じ値段のフラッシュバルブを消耗させなければならない。36枚撮影すると、コーラを36本飲んだのと同じだ。容易にだれでもできる値段ではなかった。水中銃で打ち取った魚は食べられる。高額な潜水費用の一部分でも取り返した気持ちになれる。一方、撮影の方は、一部分のプロ写真家以外は、何も取り返せない。

きれいな小魚を採集してきて、水槽で飼育したらどうだろうという意見も出て、大方の賛同を得た。捕獲と飼育ということは、今でも問題が片付いていない。ダイビング関係者は、捕獲など論外であると思っているだろうが、ダイビング関係者にも愛読者が多い「マリン・アクアリスト」などの雑誌を見ると、捕獲に関連するニュースが掲載されている。今後どうするかは、重要な問題である。当時は未だフィッシュウオッチングという概念はなかったから、捕獲して販売したらアルバイトにもなるし、一石二鳥だと言う人も居た。

 そして、もう一つでた意見が、魚を追いまわすかわりに、若者のためには競技をやろう、ということだった。どんな競技をやるか、とにかく泳ぐ速さを競ってみよう。競技が発足する時点では、競技が安全につながるという発想は未だ無く、とにかく、魚突き以外でできることがあれば何でもやろうという考え方だった。

 

プールでフィン・マスク・スノーケルを使って泳ぎ、速さを競う競技をフリッパー競技と名付けることにした。その頃「わんぱくフリッパー」というイルカを主人公としたテレビ映画が人気を集めていた。その名前にあやかったのだ。

競技種目は、男子が400mと100m、女子が300mと100mであった。他に、スクーバを着けて潜って速さを競う潜泳、二人で一つのスクーバから呼吸して速さを競うバディブリージンク競技なども付けくわえて、種目をそろえ、とりあえず第一回を、目黒の碑文谷にある日本大学のプールで第一回の競技会を開催した。1968年のことであった。

日本潜水会の若手に日本大学の水泳部出身者が何人かいたので、その伝でこのプールを借りたのだが、水泳の世界の人は、フィン・マスク・スノーケルで泳ぐレースには理解を持たず冷たい扱いであり、自前のプールを持たなければならないと痛感した。フィン・マスク・スノーケルに対する偏見は、未だに続いている。

 

  日本潜水会発足合宿での実技の講習は、最初の指導員講習だから、誰かが教えるのではなくて、どんなトレーニングをしたら良いのか、いくつかの新しいダイビング練習方法を考え出すことに主力を置いた。誰かがアイデアを出し、それをそれぞれが体験して見る形で、適否を考えた。その一つが立ち泳ぎである。スクーバのボンベ一式を背負い、浮きも沈みもしない中性の浮力になるように身体に着けるウエイトの量を調整した上で、さらに5キロのウエイトベルトを手に持ち、スノーケルを使わず、もちろんタンクの空気も使わずに、水面上の空気を呼吸して、10分間立ち泳ぎをする。伊豆海洋公園の深さ3mの小プールで行う練習として、この立ち泳ぎは最適だと考えた。チャンピオンを履いて、10分間立ち泳ぎをするのは相当に辛かった。息も絶え絶えになる。限界に近い。だから良い練習だと思った。

  この練習があとで悲劇を産むことになるが、神ならぬ身だ。そんなに先のことはわかりはしない。

日本潜水会の合宿が終わってからしばらく後に、仲間の使っていたクレッシイのロンディンを履いてこの立ち泳ぎをやって見た。ロンディンは、ダイビングを始めた最初に三越で買おうと思って、次の日に行ったら売れてしまっていたという思いが残っている。驚いた。10分間立ち泳ぎをしてもつらく無いのだ。泳ぎ続けて、30分ぐらい経過して、ようやくチャンピオンで10分間泳いだ状態と同じ程度の苦しさになった。ロンディンの方が3倍は効率が良いことになる。

ブーツタイプのフィンは、足の裏全体で水を押すことができる。ロンディンはフィンに角度(オフセット)がついているのが効率を上げているのだろうと思った。理屈はとにかくとして、泳いだ結果が何よりの証拠だ。ロンディンは優れている。チャンピオンは、効率の悪いフィンだと悟った。

これまで、チャンピオンはとにかくアクアラングの創始者であるジャック・イブ・クストーのチームが使っているフィンだし、地中海でのフロッグマン部隊も使っている。履きやすく、脱ぎやすく、ワンサイズで誰でも使う事が出来、泳いでいても外れることがない。それにとてもシンプルで丈夫だ。これで十分だと思っていた。

フィンの種類、設計によって、これほどまでに性能が変わるものだとは思っていなかった。そして、推進力の点で、これほどまでに劣っていたことはショックだった。

この立ち泳ぎ練習から、水中重量挙げ競技を思いついた。水深3mの伊豆海洋公園の小プールから、スキンダイビングで重錘を引き上げてくる、その重量を競うのだ。

第二回の競技会から、水中重量挙げが競技種目に加わった。

 

 1964年、海洋公園が発足したころは、魚突き(スピアフィッシング)全盛だった。海洋公園が作られた城ヶ崎海岸は、魚の濃いことで知られていたところだ。海洋公園が出来ると、ダイバーたちが押し寄せて、根付きの魚を追いまわした。全部取り尽くしてしまわなければ次の展開は考えられなかった。大きな食用になるような魚を取り尽くしてしまうと、もうやることがない。魚突きが一時的に白魚を絶やしてしまうことを知り、もうこんなことは、やめなくてはいけないという雰囲気の中で、日本潜水会が発足したから、魚突きをやめようという決議が可決されやすかった。

 海洋公園発足当時、海洋公園の城ヶ崎海岸で、スクーバダイビングの事故が相次いだ。当時の魚突きのエキスパートは驚異的な泳力と行動半径を持っていたが、そんなエキスパートの人数は少なく、エキスパートの魚突き成果を目の当りにした初心者がその真似をして沖に出て行けば、たちまち危険な状況になる。残圧計が普及しない時代である。空気が残り少なくなってから魚を発見すると、空気が無くなるまで追ってしまうことになる。すぐに深くなる急峻な地形と荒い海況も事故増加に拍車をかけた。

 益田さんも悲鳴を上げた。「だれか人の死なない方法を教えてくれないか」

 日本潜水会が発足したのは、 そんな状況の中であった。

 事故を少なくするためには、魚突きを止めれば良い。日本潜水会はそのように決定した。しかし、ダイバー全員が日本潜水会の会員であるわけではない。簡単には物事は運ばない。ハンティングは人間の本能の一つでもある。それから30年以上経過した現在でも、隠れてはいるが魚突きのフアンはいるのだから。

 もう一つの事故防止法、そして究極の事故防止は、上手になること、上手になってもらうことだ。何を基準にして上手下手を判断するのか。一つは泳ぐことの上手下手、もう一つは、常に冷静で判断力がすぐれていることだ。判断力の方は、目に見えないから、上手下手は目に見えるものさしで計りたい。泳ぐことを見て判断するしかない。スキンダイビングが上手であれば、スクーバも上手であるという考え方がその当時支配的な考え方であったが、スキンダイビングが上手になるためには、泳ぐことが上手にならなければならない。泳ぎの上達にすべてが収斂する。

ここでいう泳ぎとは、水泳競技のようなバタフライとかバックとかクロールではない。フィン・マスク・スノーケルを使った泳ぎだ。フィン・マスク・スノーケルを使った泳ぎの上手下手の基準は何だ。わかりやすいのは、速く泳げること、力強く泳げることだ。益田さんは私たちのはじめたフリッパー競泳に着目した。

  以来伊豆海洋公園で行われるスクーバ講習は、泳力重視になり、若いダイバーたちはひたすら泳がされ、競技会でも、覇を唱えた。伊豆海洋公園で厳しい泳力トレーニングを受けたダイバーが溺れる事故を起こすことはほとんど無くなった。

  たくさん泳ぐこと、泳ぎこんで水に慣れることが、ダイビング技術の上達につながり、事故を少なくすることは明らかであるが、フィンは速く泳ぐためのものではないと書いているテキストもあり、スクーバダイバーは、別に速く泳げる必要など無いという考え方が今でもレクリエーションダイビングでは支配的である。水中でのスクーバ活動は、できるだきゆっくり泳いでいる状態で時間が過ぎて行く、だから、速く泳げる必要など無いと考えるのだろうが、活動を終わって、岸に戻る時、少しでもうねりがあると大波を見送って、小波が続く間にダッシュして這い上がらなければならない。速い方が良いのである。船に戻る時も、流れがあると流れを遡って泳がなければならない。

 スクーバダイビングは、素足で泳げなくても出来る。しかし、フィンを着けたら速く力強く泳げなければ危ない。

 百歩譲って、一般のダイバーは速く泳ぐ必要がないとしても、レスキューの時には、少しでも速く溺水者のところまで行き着いて、力強く曳行を開始しなければならない。

 速く泳ぐ必要などないとして、泳ぐ練習を殆どしていない人が、レスキュー講習をしている姿を見ると、?と思う。速く、力強く泳げない人が曳行すれば、たちまち疲労困憊してしまう。もしも完全に疲労困憊してオールアウトになれば、二重遭難だ。 速く力強く泳げるようになるための練習がすなわちレスキューの練習であろう。

  セルフレスキューという言葉もある。自分で自分を助けるのがセルフレスキューであるのだろうが、これも泳ぐ練習に帰結するはずだ。波や流れの厳しい海況を無事切り抜ける技術と力を練磨することがセルフレスキューなのだろうが、一般で行われているセルフレスキュー講習は、コムラガエリ、足の筋肉の痙攣をなおす方法とかが中心のようだ。

 そして、最初に述べたように、ダイビングの上手下手を判定する一つの基準が速く泳げることである。もう一つの基準、常に冷静で正しい判断をする能力の方が、速く泳げることよりも大事であるが、判断力の有無、パニックになりやすいかなりにくいかは、外から見てもわからない。そして、自分がこの海で安全にダイビングが出来るか出来ないかの判断を下す基準は、自分の泳力と仲間の泳力を把握している必要がある。

冷静で正しい判断とは、泳力を知っていてはじめてできることだ。常に泳ぐトレーニングをしていて、現在の時点での能力を正確に知っていなければならない。冷静な判断のためには、泳ぐトレーニングは欠かせない。

 速く泳ぎ、力強く泳ぐには、一日や二日の練習では効果が上がらない。毎日のように欠かさずにトレーニングを続けてこそ泳力は増強され、空気の消費料も減り、自分の能力が判断でき、レスキューができ、流れやうねりからの脱出が容易になる。それに、身体が鍛えられて、身体的な行動能力も防御能力も増大する。健康にも良い。それにしても、なんの目標もなく、ただひたすら毎日泳ぐ練習をするというのは出来ないことはないけれども、なにか目標が欲しい。レースがあり、レースに出場する目標があれば、日々日常の練習に張りができる。

 

速く泳ぐこと、力強く泳ぐことを重要視しよう、スクーバダイビングでもパワーとスピードが大事だと唱えてフィンを使う競技に力を注ぎ始めたころ、私と後藤道夫は鬼怒川パシフィック(現在は「マスク」ブランドが中心)の技術顧問になった。私については、鬼怒川パシフィックの杉田社長が私たちの競技会の結果が新しい製品を産み出すヒントになるのではないかと認めてくれたのかもしれない。後藤道夫については、彼がデザインした後藤フィン、そしてマスクが大変に優れていたものだから傘下に入れたいと考えたのだろう。私は、とにかくフルフットのロンディンタイプのフィンがチャンピオンの三倍の効率があると思っていたから、このタイプのフィンの開発を力説した。そして、ロンディンよりもオフセットの角度をわずかばかり強くすることを提案した。そしてできあがったのがエムデンである。実際に図面を引いたのは技術部長の武田寿吉(現在はダイブウエイズ会長)であり、おそらく、その当時で彼の右にでるフィンとマスクの設計者は世界に希であったと思う。彼も優れたスキンダイバーであり、第二期の日本潜水会の指導員講習で指導員になった。

エムデンは、長くベストセラーのフィンであり、海での使用にも人気があり、フリッパーレースでも実績を残した。海でも、フリッパーレースでもロンディンよりも確実に優れていた。現在(2001年現在)では、エムデンの改良型であり、後継製品であるミューがフルフットフィンの定番になっている。エムデンの発展型であるミューは、ブーツタイプのフィンとしては、世界でも最良のものの一つであり、一般用のフィンとして最速であるが、エムデンもI今なお販売されている。流石にオールドスタイルであることは否めず売上は落ちている。しかし、板の部分がやわらかいので、足の筋肉の非力な人に向いている。スノーケリングには好適であり、かつて、最速を誇ったフィンだから、まだまだスピードも捨てたものではない。現在のフィンよりも相当にソフトであり力も弱いが、そのことは、足の筋肉の力が弱い高齢者や女性の入門用としてはベストである。

杉田社長をリーダーとして、 後藤道夫、私、そして設計者の武田、商業デザイナーの匹田を加えたチームは、フィンだけではなく、次々と新しいダイビング用品を開発した。最高の成功例は、世界的なベストセラーになり、現在も売れつづけているマスクである「マンティス」を作ったことであった。

 

 より速く

 

 競技会は、ロレックス時計がスポンサーになってくれることになり、優勝者にはロレックスが賞品として与えられたので過熱した。プールでの競技だけではなく、海洋にでて、長距離を泳ぐマラソンレースともいうべき海洋フリッパーレースも開始した。

 速く泳ぐだけではなく、力強く泳ぐことも大事だと主張する人も少なくなく、スキンダイビングで水深3mまで潜り、引き上げてくるウエイトの量を競う、水中重量挙げも人気があった。

 水中に設定されたポストをコンパスを使って巡ってくる、もちろん水面に頭を出したら失格、というアンダーウォーターナビゲーション(UWN)競技も加わった。

 ロレックスをスポンサーとする競技会を競技会の第一世代と考えよう。第一世代の競技のピークは1975年(昭和50年)沖縄で行われた海洋博覧会に記念行事として参加した時であり、名実ともに全国から選手を募って行った。

海洋博覧会会場には、50mプールが無かったので、海面を区切ってプール競技を行ったが、メインレースは海洋フリッパーレースであった。

 後には廃墟と化してしまい、海上都市は壮大な夢として終わったが、巨大なアクロポリスをスタート地点として、会場の端の砂浜まで、洋上を泳ぎぬく壮大な海洋スピードレースであった。

 ゴール地点で待っていると、トップを切って泳いで来たのは、まだ十代の少年であった森田稔君(現在は海洋公園近くでダイブドリームというショップのオーナーである)であった。ゴールへのコースを大きく間違えて、寸前で抜かれてしまったが、印象に強く残っている。なお、森田君のお父さんは、日本にはじめてPADIのカードを輸入してきた人だ。

 

 競技会の優勝者を輩出するグループには、変動がある。最初の第三回ぐらいまでは、真鶴の後藤道夫グループが強かった。日大の水泳部出身の若者たち、そして地元真鶴の若者も強かった。林元吉、志村喜徳、五島正哲、鶴耀一郎、添畑薫 等である。次の時代が海洋公園の安全のために訓練強化を行った益田一グループである。エースはカメラマンとして一家をなしている中村宏次である。そして、社会人として最強だった歯科医の中原先生(現在も有楽町で開業中)もこのメンバーの中心だった。中原先生は水中重量挙げでは鶴耀一郎と競い、100mフリッパーでは中村宏次と競った。そして、私の歯の主治医として、私の歯のほとんどを抜いてしまった。すぐに海外ロケがあるので、抜いてくださいと言ったのは私だから、先生の責任ではない。女性としての最初のチャンピオンは、未だ10代の益田安規子(現在は海洋公園のマネジャー)であった。

 次の時代は法政大学であった。絶対的なエースは青木順一であり、カメラマンとして次々と優れた仕事を残している小林安雅も強かった。現在NAUIの取締役をしている丸山和昭も印象に残っている。そして、カメラマンでもあり、ダイビングリゾートの経営者でもある松田君もその仲間だった。どうしても、現在もダイビングに携わっていて会うチャンスの多い人が印象にのこってしまっているが、法政大学からは、毎年のように新しいエースが輩出した。

 八王子でダイビングクラブを経営していた竜崎秀夫(現在ダイビング指導団体JPを主宰)のグループは特に女性が強く、田村和子が女性チャンピオンだった。 

 現在のレースでは、必ず身体の全身を覆う、手首足首まで覆う全身型のウエットスーツを着用するルールになっているが、当初はそのルールは無かった。それでも3mmのウエットスーツを着て、ウエイトは付けないのが最も速い設定だった。5mmのウエットスーツでは身体が浮きすぎてしまう。ウエイトをつけると、たとえ1sでも余分な重さを運ばなければならないのだからハンデになる。

 益田グループが最強だった頃、(現在も最強であるが)益田さんは、フィンはエムデンとそして、ロンディン、ややゴムの硬度が高くバネが効くマッチというフィンを使った。どれも足の入る部分は靴の形をしていて、かかとまでがすっぽりと入るフルフットタイプである。

 益田さんの教える泳ぎ方は、私の考えている泳ぎ方とほぼ同じであった。

 水面に身体を水平にまっすぐに伸ばす。スイミングではストリームラインと呼ばれている形であり、背筋から腰、足のつま先まではまっすぐに伸びていれば水の抵抗が最小になる。背筋を伸ばして胸で水に乗ってゆくようなイメージで進む。顎を上げて、マスクの上の辺が水面すれすれになるようにして、足首をまっすぐに伸ばすとこの形になる。足首をまっすぐ伸ばして固定する。足首を伸ばした状態で足首のスナップを効かせてフィンを動かすことが基本である。腕で野球のボールを投げる時に手首のスナップを使わないとボールを遠くに飛ばせない。同じように、足首は伸ばさなければならないが、棒のようにしてしまったのでは進まない。蹴り上げる時蹴り下ろすときに足首のスナップをいっぱいに効かせる。蹴り上げ蹴り下ろしの振幅は、30センチから50センチである。

 これは、最も美しいフォームであり、理論的には一番速いはずであるが、このフォームでなければ勝てないというものでもなかった。中村宏次は、頭を突っ込む形で、水に乗るというよりも強引に原子力潜水艦が水面を走るような姿で泳いだが速かった。

 若くて、筋肉の力が強い学生選手などは、より大きいブレードを持ち弾力性も強いロンディンスーパー、ロンディン・エックス・ラバーなどを使った。普通のロンディンよりも、ブレードの長さが2倍近くある長いフィンである。ブーツタイプで最強力なフィンであるが、泳ぐ筋肉を鍛えていない者がこのような強力フィンを使っても満足に撓らせることができないから、かえって遅くなってしまう。その人の筋肉に合った強さのフィンを使うことが競技でも、そして、海で泳ぐ時にも原則である。

 

より力強く

 

 フィンには速く泳げる系と力強い系があると考えられている。速く泳ぐ系は、これまで述べて来たロンディンをその基とするフルフットのフィンである。この系列で最高のスピードを出すクレッシイのロングタイプは、もちろん強いパワーを発揮するが、パワーフィンの系列ではない。パワーフィンとして成功しているフィンの代表はロケットフィンでありジェットフィンであり、ダックフィートであり、ヴァイキングであった。

作業ダイバーは、速く泳げるフルフットのロンディンなどでは、足が空回りしているようで力が出せないので駄目だという。

それでは、ということで水中重量挙げ競技が始められた。水深3mにウエイトを纏めて置き、スキンダイビングで潜っていってこれを引き上げるのである。最初のころは、何をしても良いから、とにかくウエイトを持ち上げて身体の一部分が水面に現れれば良いというルールであった。ただし、首にウエイトをかけるのだけは危険だからと禁止された。身体の大きい者が圧倒的に有利だから、体重別にクラス分けをした。

片手の腕にウエイトを引っ掛けて、フィンを猛烈に蹴って、片手も懸命に掻く。30キロを揚げ、やがて40キロの記録が出るころ、ベルトを歯で咥えて上がってくる優勝者が現れた。歯で咥えれば両手で水を掻くことが出来るからだ。選手皆が歯で咥えるようになると、歯の健康に悪い?からということで、口に咥えることは禁止になった。

沖縄の海洋博覧会記念の大会では、いつまでやっても勝負がつかない。水深3mを測定して競技を始めたのだが、時間が経つにつれて潮が引いて来てしまったのだ。浜辺では、競技が終了するのを待って皆で昼食をすることになっていて、大きな豚の丸焼きを作って待っているのだが、競技は終了しない。待ちきれずに食事を始めてしまったので、重量挙げの選手も役員も豚の丸焼きを満足に食べられないことになってしまった。

重量上げではやはり、パワーフィンが強かった。

実際の作業では、水中から重量物を引き上げる時に、フィンの力を頼るようなことは無い。空気を入れる大きな袋(エアーリフター)で、身体を使わないで簡単に揚げてしまう。

パワーフィンの代表である、ロケットフィンなどが作業ダイバーに需要があるのは、丈夫であること、着脱が容易であること、力強くしかも長くないからである。長いロンディンスーパーなどは長さが邪魔になって作業では使えない。

水中重量挙げという競技も、今は昔のものになってしまった。室内プールでは、重いウエイトを落とすとプールが壊れてしまうからだ。

ウエイトを揚げるために自分の歯を賭けるようなパワフルなダイバーがいなくなったことはちょっと寂しい。

この競技での最初のヒーローは、中原正博先生、次いでは、清水でアイアンと言うお店をやっておられる鉄芳松氏である。鉄さんは鉄組というヘルメットダイビングの潜水業で当時すでに一家をなしていた。

 

より使いやすく

 

速いことも大事だが、使いやすいことも大事だ。

チャンピオンタイプのフィンは進まないフィンだったが使いやすかったので、世界大戦以降60年代後半まで使われた。後藤道夫のフィンは、使いやすいことで当時のベストだった。

フリーサイズでチャンピオンタイプのヒール部分を持ち、ロンディンタイプのブレード部分を持ち、力強さはバイキングをねらう。こうしてできたハイブリッドフィンともいえるのが、独立してダイブウエイズを設立した武田寿吉が作ったトライスターであった。

実際に海で使うにはこのフィンがベストと言う評価と支持を受け、次々とコピーが出現した。トライスターという名称は私が付けた。私は飛行機のフアンであったので、飛行機の名前を次々とダイブウエイズの商品につけた。

作業ダイバーは一日中、長時間水に浸かっている。汚れた水に入ることも多い。防水ファスナーなどの普及によって使いやすいドライスーツが世に出ると、作業ダイバーはドライスーツを着ることが当然になった。ドライスーツの足の部分は、薄手の長靴のようになっている。長靴の上からフィンを履かなければならない。パワーフィンの代表としてあげたロケットフィンが使われたのは、ジェット推進のためのベント(開口部)が優れていたからというよりも、足を入れる部分の巾が広く余裕があり、ドライスーツの長靴状の足部分を楽に入れることが出来、しかも脱ぐ事も履く事も簡単にできる。しかも壊れない。(プラスチックのバックルは壊れやすいし、小石などが噛むと外れてしまう。)作業ダイバーは、海底に到着すると、フィンを脱いでしまって、歩いて作業をすることが少なくない。作業用として、浮上する時に再びフィンを履くのだ。トライスターの足の入る部分をより大きくし、かかと部分をベルトで止めるフリーサイズにしたスーパートライスターが作られた。他の社でも、ドライスーツでも楽に履けるフィンにはスーパーの名称がつけられている。

日本本州の太平洋岸、伊豆半島が首都圏のダイバーのホームダイビングスポットであるが、この水域での春から初夏にかけては、水温は16度から18度とウエットスーツで終日泳ぐには少し冷たい。作業ダイバーだけではなく、レクリエーションダイバーもドライスーツを常用するようになった。ドライスーツを着てしまえば、ウエットスーツのようには軽快に泳げない。ドライスーツを着た時点で軽快に速く泳ぐことはあきらめることになる。ドライスーツは服内の空気の浮力を相殺するためにウエットスーツを着る際の約二倍のウエイトを着ける。重いものを運ばなければならない。海での潜水では、パワーフィンでもなく、速さをねらうスイミングフィンでもなく、その中間をねらったトライスター、スーパートライスターの系譜がフィンの定番になる。

ここまで挙げてきたフィンは、すべてゴム製のものであったが、水を押す板(ブレード)の部分をプラスティックで作ろうとする試みはプラスティックが出現した時点からあった。最初に姿を現わしたのは、日本アクアラングから発売された「カラベル」であった。カラベルは、ブーツ部分とブレードの部分が簡単に取り外しができるというユニークな発想のフィンであった。陸上でも歩けるフルフットのブーツにプラスティックのブレードを差し込むようにして固定する。色鮮やかで透明な、現在で言えばスケルトン赤、黄色、そして透き通らない黒などブレードは数種類用意されていて、その日の気分でブレードを差し替えることも出来るというのも売り文句であった。使ってみた結果は全然ダメであった。しかし、記念のために持っていれば良かったと、買わなかったことを後悔している。

フィンを使う泳ぎ方は、人間がフィンを使わずに泳ぐ時の足の動きも水泳の足の動きと同様に、大別してバタ足、あおり足、カエル足、ドルフィンキックの四つが考えられ、まず、バタ足が基本であるが、そのバタ足もそれぞれ指導者によって微妙な差がある。

私の考えている理想の泳ぎ方は、前述したように、足首のスナップを効かせる泳ぎ方である。足首のスナップを充分に効かせて、蹴り上げる時には膝が曲がっても良いが、蹴り下ろす時には膝をなるべく曲げないように、膝が内側に入ってこないように、足全体とフィンの先端までが鞭のように撓って水を押す。この泳ぎ方では、フィンのブレードが気持ちよく撓る弾力性が必要である。筋肉の力が弱ければ、やわらかい弾力性が気持ちが良いし、筋肉の力が強ければ強い弾力が効果的である。ゴムの弾力性、ゴムの質と硬度がフィンの性能を大きく左右する。ここでゴムと呼ぶのは、天然ゴムはもちろん、合成ゴムも含まれる。ゴムは配合によって質と硬度が微妙に変化するし、使用を続けている経年変化によってもゴムの硬度は次第にやわらかくなり弾力も失われて行く。

カラベルのプラスティックブレードは単なる板であった。泳ぎ方を変えれば単なる板であるプラスティックブレードも効果を発揮したかもしれないが、ダイバーは一度身につけてしまった泳ぎ方を変えるには、それなりの練習時間が必要である。

カラベルは成功しなかったが、プラスティックの鮮やかな色彩はゴムには無いものであり、魅力があった。弾力性の経年変化が少ないというところも魅力である。といって、泳ぎ方をプラスティック的にすることを強制するのは不可能である。ゴム製のフィンが全部無くなってしまえば、プラスティック的に泳ぐのだろうが、ゴム製のフィンはなおも過半数をしめているのだから。

限りなくゴムの弾力性能に近いプラスティックブレードを作る。できればゴムを追い越したい。プラスティックとゴムを組み合わせたブレードも考えられた。プラスティックとゴムの組み合わせブレードの代表は「アバンティ」である。

プラスティックのブレードがゴムを凌駕したのは、スピードを追及するロングフィンの分野であった。強い筋肉でスピードを上げるためには大きな面積のブレードと強い弾力が必要である。足を交互に動かすバタ足で泳ぐのであるから、フィンの巾を広げて面積を大きくすることはできない。フィンを長くして面積を広げる。フィンを長くして、しかも弾力を保つにはゴムの質が高くなくてはならない。ロンディンのロングタイプは、この要求を満たしていて、若いレーサーに人気を集めたが良質の天然ゴムを使わなくてはならないので、生産量が少ない特殊なフィンとしてはコストがかかりすぎるのだろう。製造が中止されてしまい、プラスティックブレードのロングタイプに切り替わった。

力強いキック力があるならば、長いプラスティックブレードを充分に撓らせることができる。現在(2001年)最速のフィンは、プラスティックが殆どの面積を占めるブレードを使ったロンディン・ガラのフルフットタイプである。さらにフィンスイミング(後で詳述する)で使う、ロシア製のフィンも速い。

一般ダイバー対象には、使いやすさを追求しながら、プラスティックブレードの多彩で派手な色彩をいかそうとしたフィンが次々とデザインされ販売されている。しかし、まだ今一歩使いやすさと効率ではゴムのフィンには及ばない。