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水中スポーツ競技会の最初のピークは、ロレックスをスポンサーとして行った沖縄海洋博参加であった。しかし、競技種目それぞれに賞品としてロレックスを与えることは、高価な時計であるロレックスのイメージを落とすことにもなりかねないということになり、競技を一つに絞る事にした。いくつもあるプール競技を一つに絞ることはできない。洋上を長距離泳ぐ海洋フリッパーレースだけを、ロレックスカップ争奪という形で後援が受けられることになった。このレースは、海洋博ではアクアポリスをスタートして、かりゆしの浜をゴールとして行った。 ゴールで到着を待っていると、当時まだ十代の少年であった森田君、現在は伊豆海洋公園のちかくでダイビングサービスを経営している森田君が、トップで泳いできた。もう少しでゴールという距離でコースを曲げてしまい惜しくも二位になった。彼のことを懸命に応援していたので、一位が誰だったか忘れてしまった。 シルバーのロレックスカップが用意され,海洋フリッパーレースは新しいスタートを切った。コースは、富戸の港近くからスタートして、海洋公園の入り江まで泳ぐ。 近眼の女の子が、ゴールが見えずに、海洋公園の前を通りすぎて、夜の8時まで泳ぎ続け、菖蒲沢のあたりまで泳いで行き、保安庁に捜索依頼を出したこともあった。洋上を泳ぐレースでは何が起こるかわからない。神経をすり減らした。 もちろん、従来通りのプールでの競技も続けられたが、ロレックスが賞品ではなくったことで、その勢いを失ったことは否めない。 |
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ロレックスカップを争う、海洋フリッパーレースも10年以上続いたが、何事にも終わりがある。ロレックス時計の極東代理店での支配人であったジョン・リード氏が退職して故郷の英国に帰られることを機会に、ロレックスとしては日本の海洋スポーツを支援することについて、充分にその役割を果たしたということで応援は打ち切られた。本当に長期にわたって応援していただいた。その間に、広報担当のプロデューサーであった市川さんは、私たちの仲間のインストラクターであった脇坂さんと結婚された。 ロレックスの応援が打ち切られてから、日本はバブル経済を迎えるのだから、バブルに浮かれての応援ではなかった。本当にこのスポーツが日本に定着することを目指した応援だった。振り返ってみれば、私たちは貴重な応援を充分に生かしきれていなかったのではないかと反省する。 ロレックスに支えられてきた競技会は、ロレックスが離れると、参加する選手も少なくなってしまった。 競技会は、全日本潜水連盟が運営し、全日本潜水連盟のメンバーでなければ大会に出場できないという、考え方で進められていた。沖縄海洋博覧会の時にはPADIも全日本潜水連盟の構成メンバーであったし、その後スピンアウトしたいくつかの団体も一緒だったから全国規模の大会ができた。 1982年、PADIがアメリカ本部の強い指導を受けて、ジャパンPADIに衣替えするとともに、スポーツダイビングの世界が一変した。1981年が、日本のCカードビジネス元年と言える。それまでカード発行などを行っていなかったCMASもBSACもCカードを発行する団体に変わって行った。その生い立ちでの目標がビジネス的な成功を目指していなかった全日本潜水連盟はスポーツビジネスの追求という面では求心力が無い。ビジネスの追求をそれぞれが自由に行うということで、全日本潜水連盟を構成していた関西潜水連盟も、中部日本潜水連盟もCMASなどのカードを発行する団体として独立して行ってしまい、関東が中心である全日本潜水連盟だけで競技会を行っても全国大会ではなくなってしまった。 ちょうどその頃、私は文部省(現文部科学省)のスポーツ指導者資格である社会体育指導者の資格講習をダイビングに導入することに力を注ぐことになった。 この資格講習を行う (財)社会スポーツセンターには、日本に根拠を持つ指導団体のほとんどすべてが加入協力をしていただけることになった。 水中スポーツ大会の主催も(財)社会スポーツセンターに移行し、参加資格を全日本潜水連盟のカードにかかわりなく、だれでも参加できるようにした。 会場も東京辰巳の国際水泳場に移した。 第一回の競技会を1968年に開いて以来、長い間、競技会を心おきなく開けるプールは伊豆海洋公園のプールだけであったが、時代は少しづつ変わって来ていた。辰巳国際水泳場は、日本で有数の競泳場であるのだが、ようやく、ここでフィン・マスク・スノーケルを使った競技会を開けるようになった。 名称は「全日本スポーツダイビング室内選手権大会」、これまで二十六回の全国大会を行っていたが、それはそれとして、この1994年大会を第一回とした。 スポンサーも無く、ロレックス時計のような賞品もないから出場する人は少ないのではないかと懸念したが、600人の選手が集まった。海洋博覧会の大会でも300人を集めただけであったから、大きな驚きだった。食べるものを獲っていたスピアフィッシングの代わりにという発想で貧しい時代に始まった大会である。ロレックスの他にも様々な賞品をダイビングメーカーに無心した。自分の物にするわけではないので、無心をすることができたものだった。 もちろん賞品があった方が嬉しいが、スポーツは賞品獲得のためにだけするものではないことを実感した。 新しい大会も軌道に乗って、胸に造花をつけて挨拶するだけの役員になってしまうと物足りない。第三回の1997年、私ははじめて選手として出場した。62歳になって初めての出場であった。第一回以来、プロデューサーとして人の御世話を続けてきて、レースに出ることは無かった。出てもどうせ負けるのだからつまらないと思っていたためもあるし、競技の運営に忙しかったからでもある。 社会体育指導者の、C級指導員の検定では、泳力テストとして、400mをフィン・マスク・スノーケルを使ってフリッパーレースのルールで、7分を切って泳がなければいけないと定めている。 400mを7分で泳ぐと、秒速で0.95mである。 海で、船の速さや潮流などの流れの速さは、ノットで現わす。1ノットは毎時1852m、秒速では0.51mになる。400mを7分で泳げれば、おおよそ2ノットで泳げることになる。400mという距離は、水泳競技の中距離にならったものだが、岸からエントリーしたダイバーが岸から400m以上はなれることは殆どない。ボートダイビングでは、離れても100mまでだろう。だからレスキューで曳行する距離も400m以下と思ってまちがいない。岸からエントリーすることの多いレクリェーションダイバーは、400mを全力をあげて泳いだときに自分のタイムはどのくらいか、どのくらいの負荷がかかり、どのくらい辛いものか、常に知っておく必要がある。去年泳げたとか、昔は速かったというのは意味が無い。今現在どのくらいで泳げるのかを把握している必要がある。 7分を切って泳げたとして、それは、重いタンクも付けずウエイトも付けないで身軽な状態で泳いだ速度である。タンクをつけてウエイトを付ければ速度は半減するとして、全力で泳いでもでも1ノットと思って良いだろう。1ノットの流れに出会って、1ノットで泳げるということは、全然進まないということだから、ダイバーが泳いでさかのぼれるのは0.5ノットぐらいだろう。逆に、0.5ノットの流れのあるところで活動するためには400mを7分以下で泳げなければいけないということになる。 決して400mを7分で泳げなければ、危ないという意味ではない。たとえば、自分が400mを泳ぎきれない、あるいは400m泳ぐのに12分かかったとして、その事を知っていれば、0.5ノット以上流れる場所で岸からのエントリーはしないという判断を下せる。 |
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1997年の夏、私は筑波大学大学院の生徒を西伊豆の土肥で教えていて、学生と一緒に400mを泳いでみた。200m泳いだところで苦しくてたまらなくなり、泳ぐのを止めようかと思った。学生の手前、何とか泳ぎとおして、ヘロヘロで400mを泳いだ。タイムは7分50秒だった。それまでレースには出ないまでも、400mをタイム計測で泳いで、いつも7分は軽く切って泳いでいた。毎日1000mをクロールで泳ぐことを日課にしているのだから、トレーニング不足ではない。トレーニングの方法がいけないのだ。健康保持のためだけのトレーニングならば、ゆったりと1000m泳げば良いのだろうが、現役のインストラクターを続けて行くためのトレーニングとしては、不十分である。十分なトレーニングをしてレースに出ることを心に決めた。 目標タイムは、とにかく400mを泳いで7分を切ることとした。 東京大学の海洋調査探検部のアドバイザーを25年以上続けている。毎週水曜日が東大プールでの練習日になっている。出かけて行って、一緒に泳いで練習した。毎日の日課であるクロールに毎週水曜のフリッパー練習が加わった。フィンで全力で泳ぐのは、クロールよりも肺と心臓が苦しい。150mを過ぎると止めたいと思う。少しペースを落として耐える。最後の50mは、もうどうなっても良いという感じでダッシュする。400m泳ぎ終わると、足がガクガクして、立って居られない。 フィンは2種類使って見た。レースで一番使われているのは、ロンディン、エムデンの血を引いたミューである。もう一つ、親友である武田さんのデザインしたダイブウエイズのムスタングも使って見た。まずミューであるが、足の大きさとしてはLサイズが履けるのだが、少し足の窮屈なMサイズの方がタイムが良い。Lサイズは私の足の筋肉ではパワーが足りないのだ。ムスタングはブレードの面積が少し小さい。ムスタングのLサイズは、足の入る部分は、ミューのLサイズとほぼ同じ、ブレードはミューのMサイズだ。サイズとしてはムスタングのLがベストだろう。ところが泳いでみると、ミューのMサイズの方がタイムが良い。 第三回の1997年12月、レースに出場した。 60歳以上の出場選手は私一人であった。50m、100m、400mのレースはすべて、年代別に優勝者をタイムレースで決定してメダルを出すことになっている。60代での金メダルは泳ぐ前から決定していたことになる。一緒に泳ぐ選手たちは40代、50代の人たちだ。優勝が決定していて泳ぐのだから、最下位にはなりたくなかった。少なくとも一人、50代の選手を抜かなければならない。 予定通り、60代の一位になり、50代の人も二人抜いた。つまりビリから三番目で、
タイムは7分6秒39。 目標の7分は切れなかったが、自分のタイムのために泳ぐ楽しさを私は知った。大会では毎年ランキング表が発行され、出場者全員のタイムが乗る。自分のタイム、自分のランクの確認が目標になった。自分でやって見てわかったことなのだが、なにか賞品をもらうことも嬉しいがこれは従であり、自分の現状を知り、それを積み重ねてゆくことの方が主であり、すばらしいことだ。これが出場者全員の気持ちに近いものであるのだろう。もっと早く、若い頃から大会に出場していれば違った展開を考えられたかもしれない。 次の年のタイムを目指す為に、大会が終わった次の日から準備のトレーニングを始める。私は、YMCAのプールに通っているが、ここではフィン・マスク・スノーケルは使えない。とにかく、クロールで泳ぐ。 毎日のクロールトレーニングにダッシュを入れてみた。ゆっくり1000m泳ぐだけではなくて、途中に力を入れて泳ぐ距離を挟むのだ。努力の甲斐あって、1998年は6分29秒50のタイムを出して、26名の出場で18位だった。皆に驚異的だと誉められ気を良くして、次の大会では6分を切ることを目標にした。 1999年、8月までは快調だったのだが、夏風邪をこじらせてしまった。6分48秒28で、タイムは落ちてしまった。とても6分を切るどころではなかった。 私は60歳以上の部で、これで3連勝だ。最初の2連勝は、選手は私一人だった。泳ぐ前から優勝が決まっている。それだけに恥ずかしいタイムは出せない。99年には、50代グループから、内田銀蔵さんが60代に上がってきた。彼のタイムは7分4秒だった。タイムレースなので、50代と60代は一緒に泳ぐ。顔見知りになり、互いに励まし合う。55歳で6分を切る選手がいるが、彼が60代に上がってくる時には、私は70代に上がっている。 2000年の秋、私は胃癌の手術をした。大会前に退院したのだが、さすがにレースにはでられなかった。役員と撮影を引き受けて、退院後3日だったのだが、プールには入った。ゆっくりでも良いからレースに出て泳ぎたかったが、やめておいた。内田さんは、私が出ないことを淋しがった。今年は私に勝つつもりで練習をしてきたのだろう。彼のタイムは6分48秒79だった。前年の私のタイムよりも0.5秒遅い。 私たちは、6分台の記録を争っているのだが、若い選手たちは4分台の記録を争う。 第一回 1994年の男子400mフリッパーレースの優勝は法政大学の三平恵克君でタイムは4分59秒88。 第二回1995年は、伊豆海洋公園の織田玲二君で5分02秒48。 第三回1996年日本体育大学の山内誠君で4分43秒30、彼はライフセービングの選手で、フィンはミューを使っていた。これまで男子の優勝者はほとんどがクレッシイのロングフィンの系統を使っていた。普通のフィンでピッチを上げて泳いで出したタイムだったから驚異的だった。4分43秒という記録は、この大会の前身である水中スポーツ大会時代の記録よりも、関東学生潜水連盟が行っている大会の記録をも上回っていた。もはや、ロングフィンの時代は終わってしまったのか、そして、ライフセービングの選手に簡単に新記録をとられてしまうのかと少し淋しかった。 第四回1997年、茨城海洋高校の先生 荻野晃久さんが5分25秒22で優勝した。この年なぜか伊豆海洋公園のグループが出場しなかった。 それにしても荻野先生は40歳、学生選手を追い抜いての優勝であった。 日本全国、海のある県には必ず水産高校がある。水産の盛んな県には複数の水産高校がある。子どもたちの多くが大学に進学するようになり、職業高校はピンチである。水産高校のいくつかは、マリンスポーツも教えるようになった。そんな動きの中で、 (財)社会スポーツセンターでは、水産・海洋高校の先生たちの指導を行っており、高校の生徒の競技会出場も積極的に勧めていた。その中での荻野先生の優勝である。 第五回1998年、優勝は友竹昇 26歳、日本潜水会創立メンバーの一人であった友竹進一の息子である。友竹進一は残念なことに癌で亡くなってしまっている。友竹進一はこの大会の前身が伊豆海洋公園で行われていた時代にその世話役であり、時に出場していたことを思うと感慨が深かった。友竹昇のタイムは4分49秒70であった。 第六回1999年、優勝は友竹昇、タイムは4分40秒98.山内君の4分43秒30を大きく上回った。 第7回2000年、優勝は友竹昇、タイムは4分34秒95。出る度にタイムを縮めている。 もはや友竹君が独走に近くなった。彼の使っているフィンはロンディンの長いプラスチックブレードだ。フォームのどこにも無駄が無い。美しいストリームラインで、強引なイメージはまったく無く、水に乗って泳ぐ。 自分が400mを泳ぐから、400mのことばかり書いているが、スポーツダイビング室内選手権大会の種目は、7種目。 1.フリッパージュニア(15歳以下)50m 2.フリッパー50m 3.フリッパー100m 4.スクーバを背負って潜水して泳ぐ潜泳200m 5.フリッパー400m 6.50mを泳いでバディに向かい、バディを曳航して50mを引き返えす、合計100mを泳ぐレスキュー競技 7.男女が一組になって泳ぐバディブリージング100m競技 それぞれに、ストーリーがあるだろうが、私が泳ぐのは400mだけである。 2001年のレース 癌手術のために2000年のレースには出場できなかったが、トレーニングは直ちに開始した。レースのためだけではなく、自分がアクティブに生きるため、ダイビングの現役を続けるためのトレーニングでもある。 江東区東陽町のYMCAのプールに毎日泳ぎに行くことを日課にしているが、このプールはフィン・マスク・スノーケルを使って泳ぐことはできない。残念なことに日本全国ほとんどのプールで、フィン・マスク・スノーケルを使うことは許されていない。一般の水泳とは異質なものがあるから、一緒のコースで泳ぐことは、一般の水泳愛好者にとっては抵抗感があるのだろう。 仕方が無いのでクロールで泳ぐ。クロールで1000m泳ぐことは、もう20年近く日課になっている。 トレーニングの目標は、心肺機能の維持と泳ぐ筋肉の増強である。今年からは、マフェトン理論を取り入れることにした。マフェトン理論とは、目標とする心拍数以上に心拍数を上げないということだ。私の場合心拍数を140と設定した。私がトレーニングに当てられる時間は、毎日およそ60分、着替えとシャワーの時間を引くと、泳いでいられる時間はおよそ30分から40分である。まず200mをゆったりと泳ぐ、次に200mを全力で泳ぐ、つづく100mをゆったり、また200mを全力で泳ぐ。これで、だいたい心拍数140の状態を15分から20分維持できる。要するにインターバルトレーニングだが、大事なことは、心拍数を必要以上に上げないということだ。これはとても大事なことだと思う。特にダイビングの場合には、心拍数の上げすぎは事故につながりやすい。 泳ぐ筋肉のトレーニングとしては、ビート板につかまって泳ぐキックの練習をすることにした。1000mのクロールに、キック500mを付け加えた。 冬が過ぎ、春が来て、夏までは順調にトレーニングが進んだ。夏から秋にかけては、撮影の仕事で結構忙しかったので、トレーニングはまばらになった。海でダイビングをしている日は、プールトレーニングは出来ないし、しない。その間、インドネシアに行き、沈没した中国の古代船の陶器サルベージに参加して撮影した。高価な陶器はとりあえずは出なかったが、これで20日間、日本を留守にした。 秋が深まり、大会が近づいてくる。トレーニングも体調も順調のつもりだったが、フィンをつけて400mを実際のレースの形で練習するチャンスが殆どなかった。秋になると、顧問的に見ている東大の海洋調査探検部の練習に参加して、400mを一緒に泳ぐのだが、これを一回もやらなかった。忙しくて、毎日決まったトレーニングを続けるのがやっとであり、また、今年はキック練習500mを付け加えたからこれで十分だとおもいこんでしまっていた。 フィンの選択には最後まで迷った。この前までは、ミューのMサイズを使っていたのだが、キックの練習を続けたことから、より小さいフィンでピッチを上げた方が良いのではないかと思った。それならば、ダイブウエイズのムスタングのLサイズが適しているのではないだろうか。本当に400mを泳いでみて選択すれば良いのだが、それがおっくうだった。毎日1000m泳ぐのが精一杯だ。毎週1回は東大のプールで、フィンで400mを泳げば良い。それに、辰巳の国際水泳場のダイビングプールでの練習会もできるようになったので、これも利用できる。言うことは簡単だが、やるには強い意志が必要になる。 さて、いよいよ大会の日が来てしまった。まだ、ミューにするかムスタングにするか迷っていて、二つのフィンを用意した。レース直前のサブプールでの練習で決めようと言うわけだ。 大会役員としての仕事は、もう殆ど無い。来賓や、友人と話をするくらいが仕事と言えば仕事だ。癌からの復帰と今年のレースに対しての抱負などなどを話題にして、お話した。 サブプールでちょっと泳いでみて、ムスタングもミューも思ったように進まない感じがした。が、とにかくムスタングにすることにした。 呼び出しがあって、控えの場所に集まり、同じレースで泳ぐ仲間と顔を合わせた。いつも殆ど同じメンバーになってしまっていて、私の癌からの復帰を喜んでくれた。60歳のクラスは、私と、そして50代から上がって来た内田さんだ。驚くべきことに、彼は大腸癌の開腹手術を2回受けているのだと語った。私はまだ一回だから負けている。内田さんは私に勝つことを目標で練習を積んで来ている。一昨年は私が圧勝した。昨年はお休み、そして今年だ。 いよいよ、スタートした。最初の100mは、いつもの通りだ。100から200の間で、もう止めてしまいたいと思うほど苦しいのは、これもいつもの通りだ。200を越えたら楽になるはずなのだが、楽にならない。少しスピードを落とさざるを得ない。内田さんに抜かれてしまう。他の人たちはもっと早いから、先に行ってしまっている。最後の100でダッシュできれば、内田さんは抜き返せるつもりだ。ところが最後の100が伸びない。差が縮められないのだ。 ついに最後尾でゴール。これまでに無いことだ。タイムは7分17秒、信じられないタイムだ。いつも本番になると練習よりも良いタイムを出していたのに。 皆からは、ビリだと笑われた。 7分を切れないなんて想像もしていなかった。内田さんも7分を切っていないから、これまでの私の記録ならば、今年も彼に勝っているはずだ。 ムスタングが進まなかったのだろうか、やはりミューにするべきだったのだろうか。 内田さんは、私に勝ってとても喜んでいたと、後から聞いた。喜ばれるのは良いことだが、来年は奪還するべく、なぜ負けたかを考えて、トレーニングを始めなければならない。
第9回 全日本スポーツダイビング室内選手権大会 12月1日 日曜日 実行委員長としての私の挨拶 「この競技会、正確にはこの競技会のルールでこの競技会が始められたのが1969年です。 普通にダイビングをするときの装備で泳ぐことがルールになっています。市販されている普通のダイビング装備を特別の改造を施すことなく使って速さを競うのです。もちろん、よりよく、より気持ちよく競技が行われるためのルール改訂は、毎年のように行われてきました。しかし、原則は変わっていません。 この長い間、ダイビングは速く泳ぐ必要は無い。ダイビングは競技スポーツではない、ゆったりと泳ぐスポーツだ、といわれてきました。水中では、できるだけゆっくりとフィンを動かして、酸素の消費を出来るだけ少なく、体力を温存して行動します。しかし、時に、私の場合年間90日ぐらい潜水していますが、その中で10回ぐらい、0.7ノットぐらいの流れに遭遇します。私が全力で泳いでようやくさかのぼれるくらいの流れです。何時も強い流れのもとで、何時も速く泳いでいれば、強い流れに出会っても対応できます。しかし、何時もは緩やかに泳いでいるのですから、速く力強く泳ぐトレーニングを重ねていないと対応できません。そのトレーニングの成果を競うこと、私の年齢になれば成果を測定してもらうのがこの競技会です。 私は60歳を越えてから毎年この競技会に出ているのですが、(癌で1年休みましたが)今年は400mを8分を切って泳ぐのがやっとだろうと思います。7分が切れなくなったら競技から引退しようと思っていたのですが、引退しないことに決めました。歳をとるということはそういうことだと理解しています。 それぞれの人にとって、それぞれの想いがこの競技会に、フィンで泳ぐことについてあると思います。またそうあって欲しいとねがっています。 いつまでもこの競技会が続くように、この競技に参加している小学生、若い人たち、が成長してダイビングを楽しむようになり、あるいは、仕事にするようになり、そして、私のように泳ぎつづけてもらえるように願っています。高齢の方は、ぜひ何時までも私と一緒に泳いでください。」 毎年、満足できる練習が出来ずに秋を迎えてしまうが、特に今年の練習量は少なかった。400mをフィンで通して泳いだことが春以来一度も無いのだ。これでは、400mに出るのは無理だ。今年から50mにしてしまおうかと思ったりした。しかし、50mにしてしまったのでは、これまで積み上げてきた記録がすべて無になってしまう。なんとか完泳を目指すだけで良いから、400mに出場することにした。 それにしても、400mを通して泳いで見る必要がある。学芸大学の学生クラブ、ネプチューンが何人か出場してくれることになり、11月25日に辰巳の国際水泳場のメインプールを1コース借りて一緒に練習した。なんとか400m泳ぎきることができた。タイムは正確ではないが、7分20秒前後だった。 7分20秒を目指すことにした。そして、とにかく一番ビリにはならないようにしよう。 他の人につられて飛び出してしまうと、苦しくなって遅くなってしまう。とにかく自分のペースで泳いで、最後の100mには追い込みが出来る余力を残そう。そうすれば、見苦しくなく完泳できる。 少し身体慣らしで泳いだ後の方が苦しくなくなる。だから、当日は、昼食を少し早めに取って、13時ごろからサブプールで泳ぎだした。しかし、プログラムを見ると、私の出場は4時過ぎだ。早く始めすぎた。 まず100mを流して泳ぎ、タイムを測定して200m泳ぐつもりだったが、200mを続けて泳ぐ気持ちになれない。100mでストップしてしまう。100mを6本ぐらい泳いだ。 競技の時間がずいぶん押している。私は、レースで泳いだ後、浦安の運動公園プールに行き、17時から19時まで、スキンダイビングを教えなければならない。移動が30分かかるとすると、間に合わない。どうしよう。 サブプールのプールサイドで、益田会(伊豆海洋公園の益田一さんが主催しているレースクラブ)の柳田君、横田君と話しこんだ。彼らが学生時代からの親しい知り合いだから、君づけで考えてしまうが、彼らもすでに40代だ。私が、次の予定があるので棄権しようかと思っているというと、どうしても出るように励まされた。浦安の講習には、代役を立ててレースに出ることにした。 レースの方の様子だが午前中だけ、見ることができた。セントラルスポーツの社長で、今回の大会の委員長をお願いした後藤社長の名前を付けた、セントラルスポーツのエリートチームである後藤会の活躍が目立つ。50mフリッパーで、土屋猛君が自己の記録0:26.46を更新して、26.25で泳いだ。フィンは、ロシア製のプラスチックフィンが全盛だ。サブプールでもロシアのフィンが目立つ。このプラスチックのフィンは、水切りが良くて、水面に蹴りだしたフィンがあげる水しぶきが少ない。フィンスイミングの同じような競技で使われているフィンだ。もう、ラバーのロングフィンでは勝てないのだろうか。 押していた時間が少し回復して、召集を受けて、プールサイドの控え場所に向かう。誘導してくれる学生が、私の母校、東京水産大学の一年生だった。水産大学の潜水部の現役は選手が出ていない。お遊びの雰囲気が強い学芸大学のネプチューンが、私と一緒にチームを作って5人出ているのに、水産大学がゼロでは寂しい。来年は何とかしなくては・・・・ 何時も一緒に出ている、内田さんは、コースが隣なので、控えでも隣の椅子である。出番を待っている間話し込む。一緒に泳ぐ人は、みんな顔なじみになっていて、とにかく今年も出られて良かったとお互いの健康を喜び合う仲間だ。親しくなってもやはり負けたくは無い。でも、負けてもかまわない。複雑な間柄だ。 控えからは、プールのレースが見られる。上原義浩君(17歳)が友竹昇の4:34.95の記録を破った。後のレースで泳いだ友竹君は、自分の記録からだいぶ遅くなってしまった。親しい仲間だった友竹進一(故人)の息子である昇君ももう30歳だ。17歳の上原君を抜くことはもう無いだろう。 記録をここに挙げることができない。記録の発表が印刷物であとから出されるからだ。競技が終わると同時に URL で発表することは、難しいことではないのにやられていない。 実行委員長として、URLで発表するようにと言うのだが、人手が足りないと言われてしまう。 水に入り、スタートする。 はじめに飛ばすと後が続かなくなる。苦しくない程度にとにかく抑えて行こうと、決めていた。隣の内田さんにつられないようにしよう。 最初の50m、自分としてはゆっくり泳いでいるのだが、前に誰も出ていない。意外に調子が良いのかなと思ったら、ターンでみんな前に出てしまった。私はクイックターンをすると息が切れてしまうのでやらない。ターンでどうしても抜かれてしまう。 レースは、100mから150mが苦しい。ここを耐えるのが勝負なのだが、ここで内田さんに先に行かれてしまう。抜くのは難しいだろうと思わせるスピードだ。しかし、4年前には彼を20m近く離して抜き去っていたのだから、私は、ずいぶん遅くなったものだ。しかし、ここで悔しがって付いて行ったら終わりで力尽きてしまう。オールアウトは危ない。どうやら、300mにたどり着いた。抑えて来たので、それほど苦しくない。最後の100mでスパートしようかと思ったがやめておく。前を見ると、一人だけ抜けそうな人が目に入った。泳ぎ方が悪い。膝が内側に入ってしまっている。それでも私の前を行っていたのだ。50mでスパートして、前を行く人を軽く抜き去った。 それほど、苦しくなくゴールした。タイムは7分26秒だった。300mでスパートしていれば、目標の7分20秒で入れたと思う。 昨年が7分15秒、その前が胃癌の手術でお休み、その前年が6分45秒、その前が6分28秒だ。着実に遅くなって来ている。循環器内科の河井先生が言うには、心肺機能の衰えは、どうにもならない。そして、トレーニングをしても不可逆だ。タイムを良くするためには、筋肉トレーニングを積んで、心肺機能に負担をかけずに速く泳ぐパワーを身に付けるしかないとのことだ。水泳のトレーニングだけでは現状維持が精一杯だろう。ランニングもはじめることにした。
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