トラックに行き、トラックについて考えれば、どうしても太平洋戦争に思いが回る。もはや太平洋戦争は、遠い昔のことである。昔のこととは、その出来事を体験した人が生きていない、生きている人がわずかになったということである。
そして、トラック島で一番印象に残っている船、そして、一番熱心に撮影し、小さなテレビ番組までつくってしまった船が、駆逐艦「追風」である。

「追風」の砲 水深60m
1.太平洋戦争
まず、第二次世界大戦のこと、太平洋戦争から書き始めなければならないのだが、戦争論を展開していると、トラック島に行き着かなくなるから、簡略にしよう。
太平洋戦争は、僕が小学校の3年生の時に終戦、戦争が終
わった。小学生、そのころは国民学校の低学年だから、戦争体験者とは言えないけれど、いっぱしの軍国少年だった。小学校低学年の軍国少年だから、イデオロ
ギーなどもちろんわかるわけもない。大きくなったら、国のため命を捨てて戦おう。できれば、特攻隊になりたい。そういう子供だった。 今、特攻は愚劣な
戦術だと思っているけれど、軍国少年がいたから成立した戦術だった。
そして今、トラック島には、沈船と言う形で太平洋戦争のモニュメントが、具体的な形で残っている。 サイパンに行くと、バンザイクリフ、日本人の非戦闘員が玉砕の時に飛び込み自決をした崖がある。しかし、その崖を見ても、現在何があるものでもなく、写真とか碑で、その事実が知らされ、想像力で当時の様子を思い浮かべるだけである。
トラック島の沈船は、今も尚、沈められた時の姿で海底に残っている。美しいソフトコーラルに飾られ、少しずつ風化して行くのであろうが、風化する度合いは、陸上よりも水中の方がゆるやかである。そして、世界の沈船ダイビングのメッカになっている。 僕がトラックに来て、吉村と一緒に潜水したのは、1987年、昭和62年m7月30日から9月8日であった。吉村朝之は、それより前、12年をかけてトラック島の遺骨収集について、そして、トラックの沈船について写真を撮り続け、「トラック大空襲」という本を書いた。
第二次世界大戦、太平洋戦争で海に消えた日本人の遺骨を
すべて収集するなどということは、出来ることではない。遺骨の収集を管轄し担当する厚生省は、そのまま静かに眠っていてほしい。御霊は、靖国神社に戻って
きていて、祭られている。トラック島に沈む船は、そのまま墓所であり、日本人遺族は、参拝にトラックにでかける。トラック島政府も、日本人がたくさん墓参
に来てくれれば、うれしい。だから一つのモニュメントとして、遺骨はもちろん、船に積んであるものすべて、一品たりとも水面に持ってきてはいけないとト
ラック政府の法律で決めた。
しかし、問題はこの島を訪れる外国人、主にアメリカ人ダイ
バーである。スクーバダイビングが盛んになるとともに、トラック島は沈船ダイバーのメッカになった。遺骨収集が行われない前の沈船には、至る所に遺骨が
あった。兵員を輸送していて沈んだ愛国丸などは、船室に入ると遺骨の山であった。アメリカ人ダイバーは、遺骨を手にする。中にはその一部を折り取って記念
として持ち帰る者もあった。これでは、静かに眠る墓所ではない。
トラック島のように、人の目に触れる場所にある遺骨については、収集して荼毘に付し、祭りなおさなければならない。吉村はこの遺骨収集を取材するとともに、トラック島の沈船すべてに潜り、遺骨の状況などを撮影したいと考えた。
また吉村は、当時まだ見つけられていなかった駆逐艦「追風」と「文月」を見つけようとも思い、努力の末「追風」を、昭和60年1985年に、水深70mの海底でついに見つけた。この本「トラック大空襲」は、あと一息で「文月」も見つけられるというところで終わっている。
そして、文月」も1986年には見つけ出した。
外国人の沈船ダイバーの間では、もしも、新しい船を見つけたなどということになれば、英雄である。しかも、水深70mの駆逐艦である。吉村は大変な英雄なのだが、トラック大空襲は、日本語で書かれている。国際的なヒーローにはならなかった。
そして、1987年僕が同行したテレビ番組は、日本人兵士の頭蓋骨から金歯を抜き取ってアクセサリーにしている外国人ダイバーがいるという情報を吉村が日本の朝日グラフに発表し、それについての検証をする取材であった。
吉村は、全日本潜水連盟の中部支部のインストラクターでも あり、伊豆の海洋公園で、話し込んだこともあったので、直ぐに親しくなった。その後、僕がアアク・ファイブだからということで、彼は岐阜で、アアク・エイ
トという水中撮影の会社を興すこともその時に相談して、決めた。 1987年には、まだ遺骨があったが、今、僕たちが潜っても遺骨は見られない。しかし、アメリカ人ダイバーは、船室の中を覗いたりすると、遺骨を見るはず
だ。トラック人ダイバーのガイドが、アメリカ人ダイバーの動くコースに遺骨を置くのだ。僕たちには見せないように、どこかに隠してある。僕たち、日本人に
は見せないようにするというのも、ひとつのデリカシーだろう。
商売道具として隠しておいて見せるということについては、ビジネスである。
幸いなことに、この島で軍人が現地人に暴虐行為をしたという
記録は無い。あったら、とても彼らと仲良くする気持ちにはなれない。委任統治をしていた南洋の人たちとは、できるだけ仲良くしよう、教え導こうとした記録
は残っている。しかし、異民族として君臨することによって、彼らのプライドを傷つけたことはまちがいない。日本人に悪意は持たないけれど、ビジネスの対象
である。そして、間違いなく島国だから、日本人の言う、島国根性は非常にドライな感覚で表現される。
例えば、吉村は、沈船を探り、それは協力者のブルーラグーンダイバーズショップの財産になるのであるが、吉村は、ダイビングの費用をきちんと請求されている。
このあたりは、日本の漁業組合と共通している部分がある。僕
たちが水産の調査をする。それは、漁業者のために他ならないのだが、しっかりと船代を支払わせられる。払わなくても良いと言ってくれるところは、ほんの数
箇所である。ブルーラグーンの創始者であり、当時のオーナーのキミオさんは、ずいぶんディスカウントしてくれたらしいが、それもサービスとしてである。日
本の漁業者も、トラックのダイバーも、海で生きる零細業者として、僕もそうだけれど、お金は払ってもらわなければ生きられない。海の中にある全ては、仕事
の道具として、仕事の対象として考える。だから、彼らが遺骨を道具として扱ったところで、それはそれでかまわない。ただ、日本人として、感じるものがあ
る。だから、見せないように、しまっておく。それで良いのではないかと思った。
太平洋戦争だが、なぜこんな戦争を終末点も設定しないで始めたのだろう。
海に囲まれた日本は、海洋国家ではなく、農業国家であったから、海を護りの盾として鎖国した。そして、士農工商の時代には、日本人は国民としての意識も持てなかった。外国のことを知らせられていなかったのだ。
それが明治維新で、国民意識が勃興して、運良く三つの戦争、日清、日露、第一次大戦に勝利してしまった。今、「坂の上の雲」が人気のある読み物だが、これは日本が勝利する物語であり、読んでいて心地よいからである。その延長線上に太平洋戦争があった。
戦いに勝ち続けてきた国民の感情が戦争に傾くことは理解できるけれど、戦争の目的を明確に設定せず、勝利のみが目標であるとして戦った指導者は愚かである。
戦術的に見ても愚かであった。海に囲まれた国日本は、シー
レーンが命綱である。このことは、今も昔も変わらない。日本に運ばれてくる石油がとまれば、日本の息の根はとまる。シーレーンの確保が、太平洋戦争の始ま
りでもあり、目標でもあったはずである。補給のことを考えずに遠くニューギニア、ガタルカナルに攻め入った。そして、補給が出来ずに大部分の兵士を飢え死
にさせながら、なおも、輸送船団を大事にしなかった。トラックに沈む船のほとんどが、日本の誇る高速商船隊である。
トラック環礁は、太平洋の中の巨大な湖である。そして、四方の水路から、大きな軍艦が、例えば戦艦大和も入ってくることができる。第一次世界大戦の勝利で、日本が統治権を戦敗国のドイツから、取り上げることになって以来、太平洋での最大の拠点となった。
太平洋戦争では、戦艦大和も武蔵もここに停泊しており、連合艦隊司令官の山本五十六も、大和とともにここにあり、事実上の日本海軍の前線拠点として、最強、最大を誇った。
しかし、終末点を想定しない愚かな戦争は、物量、資産で劣る、劣りすぎる日本に利があるわけもなく、次第に追い詰められてゆく。
日本の誇る連合艦隊は、トラックに泊まっていたが、昭和
19年2月17日、18日の空襲を察知して、その10日ほど前に、マリアナに避退してしまっていた。なぜ、輸送船団を先に避退させ、戦う連合艦隊が残らな
かったのか、せめて一緒に避退しなかったのか。輸送船は、戦力としては考えない、補給軽視を象徴するような出来事であった。
2.「追風」に潜る:1回目。
昭和62年:1987年の取材は、金歯のアクセサリー化を問題にしたテーマであったが、駆逐艦「追風」にも潜水した。
駆逐艦「追風」は、その悲劇的な最後に強い印象を受け、また、水深70mというのも、深い潜水を仕事にしていた当時の僕にとって、絶対に潜りたい船であった。
駆逐艦は高速である。34−38ノットで走る。小さなダイバーボートでも30ノット出る船があるが、全速で走ると、船の両側が水の壁になる。駆逐艦は。大
きさは1000−1500トン程度、軍艦としては最小である。大型艦の砲弾が命中すれば、たちまち撃沈されるが、高速で突撃し、魚雷で、大型艦を仕留める
ことが出来る。駆逐艦よりももっと小さく、もっと素早いのが、水雷艇である。水雷艇は、あまりにも小さく、大型艦の大砲では仕留めにくい。水雷艇を追い散
らす、駆逐するために作られたのが駆逐艦である。水雷艇は、あまりにも小さすぎて、大洋を航行して遠距離に出かけることができない。駆逐艦は、大型艦と帯
同し、あるいは輸送船団と帯同して、護衛の任務につくこともできる。太平洋戦争で一番働いた、一番戦ったのが駆逐艦であった。
ありし日の追風
その駆逐艦が4隻トラックには沈んでいるが、それぞれ走りながら戦闘しながら沈められているので、輸送船団の近くには沈んでいない。主島である、モエン(旧春島)から遠く離れている。船が小さいので、見つけるのも困難であった。
吉村は、それまで見つけられていなかった「追風」と「文月」を発見した。
「追風」は、1920年 大正11年に一番艦が完成した神風クラスで、全部で9隻作られた。1925年の竣工である。長さ99.6m、幅9.16m 速力は37.25ノット、1270トン 太平洋戦争では、1等駆逐艦としては旧型であるが、よく戦った駆逐艦である。
なお、駆逐艦、水雷艇については、
「駆逐艦入門:木俣滋郎:光文社NF文庫:1998」
「海軍水雷戦隊:大野景範+原進:第二次世界大戦ブック28 サンケイ出版:昭和55年」 を参考にしている。
「追風」の沈没の状況は悲劇というか不条理である。
この項については、吉村の「トラック大空襲」によった。
まず、2月15日、トラック環礁で修理を受けていた、軽巡
洋艦「阿賀野」が修理不十分であるが、自力航行が可能になったので、すでに、トラックから引き上げていた連合艦隊の居るマリアナに戻ることになった。「追
風」はこれに随伴、護衛して、マリアナ(グアム島、サイパン方面)に向かった。
ところが、トラックの北250キロまで戻ったところで、米
国の潜水艦に襲撃され、航行が不自由な阿賀野は沈められてしまう。阿賀野の乗組員は「追風」に救助され、489名が、「追風」に、「追風」に随伴していた
駆潜艇28号にも128名が救助された。その時すでに、トラックは空襲を受けており、混乱とパニック状態にあった。トラック基地からは、救助を終了した
「追風」はサイパンに向けて回航せよとの指令を受けて、そのままサイパンに向かった。
しかし、その後、17日の午後四時、トラック島の海上護衛
隊司令部より、ただちにトラックに引き返して艦船護衛の任務に付けという指令が入った。「追風」は、内地に帰投するということで、ほとんどの武装を降ろし
てしまっている。そして、満員の救助者を乗せている。しかし、命令である。
「追風」はトラックに引き返す。そして、18日の朝、ト
ラック環礁北水道から、環礁に突入する。たちまち、爆撃と雷撃を受け、デッキで指揮をとっていた魚野泰弘艦長は、機銃掃射で即死、「追風」のデッキは軽量
化のために諮るためにキャンパス張りである。身を護る防御板はない。救助されていた阿賀野の砲術長が指揮をとったがこれも戦死、そして、7時30分ごろ、
雷撃の魚雷で、「追風」は二つに折れて、沈んだ。沈んだ後、水面に浮いていた、生き残りの兵士たちは、米国機の機銃掃射で次々に殺され、生還者は、「追
風」から4名、救助されていた阿賀野から22名、戦死者は、「追風」の乗員172名、阿賀野からの救出兵467名であった。
実は、「追風」の受けた、トラックにもどれと言う電文は、まちがいであり、空襲が激しくなったので、サイパンにもどれという電文と交錯してしまったものだと言う。空襲のパニックの中、眼前で次々と船が沈んでゆく。間違いはあり得ることであろう。
「追風」は、水深70mの海底に沈んでいる。
一回目、「追風」に潜ったのは、 昭和60年1985年の7月であった。ガイドは、現在ブルーラグーングループのオーナーになっているグラッドビン(Gradvin Aisek)僕たちはアピンと呼んでいる.。そして、今はブルーラグーンダイビングショップのチーフマネージャーであるチエニー、二人ともまだ20代の青年だった。「追風」はラグーンの真ん中に沈んでいて周りに目標になる島はない。もちろん、まだGPS
など無い時代である。山たてで見るしかない。トラック人のそれもダイバーの視力は異常に高い。僕たちの見えないものでも見る。遠くかすんだ島影を重ね合わ
せて、山をたてる。それでもなかなか位置がつかめない。吉村が捜索した時は魚探を持って行っていたが、アピンたちは、もって居ない。1時間以上だろうか、
もう良いよと言いかけるくらいの時間が経過した。「あった」と指差す海面に、小さな油の波紋が浮いてきている。沈んでから40年以上経過しているのに、船
の油が細く浮いてきているのだ。見ていると、ぽつんぽつんと浮いてくる。ロープの先に鉄骨を一本しばりつけたものを海に投げ込み、こつんと沈んだ船に引っ
掛ける。何度か引っ張ってみて確認する。これで、GO!だ。
その頃のビデオカメラ装備がすごい。まずカメラが50キロ、水中では中性浮力だが、質量は50キロだ。油圧の三脚に載せたように安定しているが、油圧の重い三脚を押して泳がなければならない。今、ビデオカメラは、カメラ部分と録画部分は一つのもので、手の平に乗る。
カメラと、記録するVTRは別物で、陸上では、カメラマン はカメラを担ぎ、ビデオエンジニアは、VTRを担いで、その間はケーブルでつないで、一緒に走り回る。僕の水中撮影システムは、カメラとVTRの間は、
100mのケーブルで結び、大きなVTRは船の上、そのケーブルの総重量がおよそ70キロある。1キロの水中ライトを照らすので、これも電源は舟の上、
ケーブルは、電源とライトケーブル、ビデオ信号ケーブルの3本を束ねている。ケーブルは沈んでしまうので、浮きをつけて中性浮力にしている。重くなるわけ
だ。舟の上では1.2キロワットの発電機を回す。総重量は300キロを越える。総額は1500万を越える。 愚痴を言っているのではない。良かった時代だ。なぜならば、こんなシステムを誰でも持っているわけではない。水中撮影はお金がかかるという考えが、放送局に浸透していた。お金がもらえる。そして、水中撮影は、それだけでお茶の間に人気があったから、
「毎日がお引越し」状態で、働く。あの地獄のグアムトラン
ジットを越えて行く。何か一つを積み残したら、撮影にならない。心配だから飛行機に乗ってから、窓のところにへばりついて、荷物の積み込みを見ていた。そ
のころはまだ、コンテナー方式ではなくて、一つずつを積んでいる。一旦積み込んだ僕のケーブルを下ろしているではないか。あわてて飛行機から逆戻りして、
パーサーにクレームを付ける。
トラックの人が、グアムの病院で死んだので、棺桶を積むために僕のケーブルを下ろしたという。なんとかもっと詰めて乗せてくれなければ困ると、着席しないで粘った。なんとかやればできるもので、積み込んでくれた。グアムは、そんなことばかりだ。
大荷物と、機材が高価なことを、愚痴っているわけではない。NHKとか、局は別として、個人でカメラシステムを持っているのは、数えるほどだ。だから仕事がとれる。僕にとってこの大荷物は、魔法の絨毯に乗って、呪文のような企画書を書けば、地球上どこにでも行かれる。
ビデオ撮影は、カメラマンの腕で撮るのではない。カメラが撮るのだ。いくら上手でも、カメラがなければ何にも撮れない。
カメラが進化して小さくなったために、仕事の競争相手が爆発的に増えた。もはや、手に乗るようなカメラでは、魔法の絨毯ではない。
ケーブル、カメラ、VTR、発電機をボートに積んで、沖に出る。
チェニーは、「ケブル、ケブル」と言って喜んでいる。彼は、何でも言葉を重ねる。「カメラ、カメラ」、今会って、元気かと聞くと、「元気、元気」と答える。
追風」に向かってのびるケーブル
いよいよ、 「追風」に潜ろうとしたその時、僕たちのボートとは別のボートが近寄ってきていた。どのような話になっていたのかわからないが、「追風」の場所にボートを 繋げるガイドは、何人も居ない。今はGPSがあるから、アメリカのダイビング船であるアグレッサーもオデッセイも楽に位置を出せるのだろうが、その今で も、ブルーラグーンのチェニーなどのガイドは、自分の感と山立ててボートを留める。
1985年だから、「追風」に潜れるチャンスは少ない。僕たちに便乗してやってきたアメリカ人ダイバーである。もちろん、アピンはしっかりお金は取っているに違いない。
僕たちは、 12リットルシングルのタンクを背負い、それでは足りなくなる分を、ガイドが別のタンクを持って付いてきてくれるのだが、アメリカ人は、12リットルシン グルを日本連結するベルトを持ってきていて、12リットルダブルで潜る。潜るのは米国人二人で、一人は女性で、どうも夫婦のようだ。二人で、潜水器財を ボートの上に並べて、確認の指差呼称のようなことをやっている。レギュレーターOK、タンクOKというような感じで準備している。
こっちはどんどん潜水する。僕と吉村のバディ、それにガイドはアピンにチェニー、あと二人、タンク持ちのボーイが付いてくる。全員で6名のチームである。チェニーはケブルを捌いてくれる。
水面を離れて、10mも潜ると、下に、「追風」の全景が見
える。トラックラグーンは礁湖の内海だから、透明度は良くても、どことなくどんよりとしているが、「追風」の場所は、礁湖の只中で島から離れているので、
透明度が高い。外海の80%ぐらいの感じだ。それでも40mから50mの透明度はある。

この画は、「WordWar UWrecks of the Truk Lagoon : Dan E.Bailey :2000」からとった。
「追風」は二つに千切れている。
潜水して、後部に降りた。甲板の上で、およそ60mである。もちろん窒素酔いはする。しかし、問題なく正常である。
ふと見ると、甲板の上に頭蓋骨が置いてある。降りた時には無かったように思うのだが、これは、アピンがどこからか出してきて、僕が撮影しやすいように並べたものだ。

下のハッチにはまだ遺骨が一杯詰まっている。
遺骨を撮影しながら、想う。故国に帰りたいと思っているのだろう。
「海行かば、水漬く屍」だが、もしも、「追風」がトラックに呼び戻されなければ、そのまま日本に帰れるはずの兵士だった。吉村は故国に帰してやりたいと強く思う。撮影は、吉村を主人公にしたドキュメンタリーだから、遺骨に手を合わせる吉村の姿を撮影する。
彼は、トラッ
クに来て、日本に帰るときは、肩の辺りに日本の兵士の霊が乗っているような感じがするという。そして、発熱と下痢をする。日本に着くと、けろりと治る。そ
れが、彼を遺骨の収集のための活動をする動機、沈んだ船を見つけ遺骨を撮影するモチベーションになっているのだろう。
この遺骨も連れて帰りたい、厚生省が収集するように働きかけたいと思う。やがて収集しても、アピンたちは、一部はどこかに隠しておくだろう。戦いのことを知らせる、一つの役割は果たしているのだから、それで良いと思うしかない。
1985年、その時の潜水では、まだ僕はダイブコンピューターを使っていない。RNPLという英国海軍の減圧表を使って、62mで20分の潜水で、15mに5分、10mに10分、5mに50分の減圧を予定していた。
それを何故か、僕は、最終の5mを30分と記憶してしまっ
ている。何かに書いて持ってゆけば良いのだが、単純な数字だから、記憶していれば大丈夫と思っていた。浮上しようとすると、アピンに押し留められた。60
分の減圧だと教えられる。そうだ、50分の予定だった。危ないところだった。
長い減圧は、別のボンベを持ってきて、背中のハーネスに付
け替えてくれる。60分は長いから、近くで減圧しているアメリカ人夫妻を見に行く。上がってから、話したのだが、彼らはニューヨークの学校の先生で、やは
り、夫婦で潜りに来ている。これまで潜った船のリストというのを見せてくれた。手書きの、もちろん英語で、船の名前が連なっている。「追風」は彼らにとっ
てビッグイベントだったと言う。やり遂げたと言う感じで興奮していた。しかし、彼らはカメラも持っていない。何にも無い。ただ、Oiteとリストに書き加えるだけだ。
水中で泳ぎか方を見ていたが、まるで自転車こぎで、下手くそだ。それでも60mに夫婦で潜る。日本人のスポーツダイバー、レジャーダイビングでは、無減圧が原則であるが、トラックでは、沈船ダイビングでは、無減圧は通用しない。
アメリカ人、彼らはそのころ売り出された、オルカ社のエッジというダイブコンピューターを使っている。現地のガイドも、減圧メータを使っている。僕たちも適切なものを使わなくてはいけない。
3.トラック、全部の沈船に潜る。「追風」にも潜る。
僕は仕事の傍ら、次々と自分の費用で、馬鹿な潜水をやって来た。27歳の時の100m潜水、61歳の100m、オーストラリアにホホジロザメを追って行っ
たり、その他、せっかく稼いだ金をほとんど使ってしまう馬鹿な潜水を、ほとんど2年に一度ぐらいの割合でやっている。何のために稼ぐのだ。潜るためと思え
ばよいのではないかと、自分を納得させてる。
トラック島のすべての沈船をビデオで撮影記録したい。吉村と話し合い、計画を立てた。
残っている記録によれば、吉村を主人公にしたトラック島の
ニュースドキュメンタリーが1987年の7月30日から8月8日、トラック島全部の船の撮影の計画、実行が9月2日から12日までとなっている。記憶で
は、次の年に出かけたと思い込んでいた。今でも、一ヶ月で準備を終えて出かけていったとはとても思えない。が、とにかく記録を信じれば、そうなる。めちゃ
くちゃにエネルギッシュだったのだ。その頃の僕は。
もともと、人工魚礁の調査は深い、50−60mにも年に数
回潜っていた。使っていたのは12リットルのダブルだった。8月の「追風」では、アメリカ人夫妻が、ダブルのベルト連結をしていた。僕たちもダブルにする
ことにした。彼らがエッジをつかっていたので、今度は、僕たちもダイブコンピューターを準備する。
東京医科歯科大学の真野先生のところに相談に行った。ちょ
うど、アラジンを輸入した商社の人も訪ねてきていて、そんな縁で、僕はアラジンを買った。あまり安くはしてもらえなかったが、僕はアラジン、吉村は、スン
トのダイブコンピューターを使うことにして、使い比べることにした。
その上に、僕は真野先生からAMRという、時間ごとに深度を記録してくれる装置を借りて身につけることにした。今、僕が使っている安いダイブコンピューターのスントD−4でもこの記録が出来るが、そのころの、アラジンは分刻みの記録は出来なかった。
9月2日に出発して、9月12日まで、11日間、全部まと
めて先払いするからということで、ブルーラグーンに交渉して、若干安くしてもらった。11日間で、晴天で凪いだのは二日だけという惨めな天候状況だった
が、22回の潜水をした。そのなかで、8回の深い潜水を選んで、レポートを書き、真野先生にもわたしたのだが、そのレポートを別のファイルにしていて、こ
れがどうしても見つからない。見つからない記録の中に、「追風」の潜水も入っている。
紙に書いた記録は無いが、目的としたビデオテープの記録は残っている。
前回の潜水では甲板までで水深62mだったが、今度は水深67mの海底まで潜ることにした。タンクは12リットルのダブルである。
今度の計画では、トラックに沈む船で、主要なもの全部、船首から船尾まで、全部を撮ると決めた。深い「追風」では、一人で全部を撮る時間が無い。二人で、タッグマッチスタイルで撮影することにした。
VTRは、ボートの上、カメラは水中で、ケーブルで繋いで
いる。まず、吉村が潜水して、僕がボートの上でVTRをまわす。そのころのVTRは、テープの長さが20分のUマチックカセットだった。15分まわした
ら、テープを交換して、すぐに僕が潜り、海底で、吉村からカメラを受け取り、交代する。
この時は、オーナーのキミオさんが、「これでもう、深く潜るのは最後かもしれないけれど、一緒に潜ってあげるよ。」とガイドを引き受けてくれた。
「追風」甲板の上のキミオさん。もう身体が不自由だったが、70mまで潜って来てくれた。

さすがに今度は、あまり時間をかけずに、「追風」の位置を見つけて、アンカーで繋いだ。アピンは来なかったが、チェニーは来てくれて、ケーブルを捌いてくれた。
キミオさんは、昔、減圧症にかかったことがあり、その後遺症で、片方の足が動かない。
足を引きずって潜ってきた。
やはり頭蓋骨は出してくれたが、そのそばのハッチの中に、沢山の遺骨がある。これは、「追風」が救助した軽巡洋艦「阿賀野」の兵士たちのものだったのだろう。救助された沢山の人が、船室にぎゅう詰めに乗っていたというから。
船の脇では、キミオさんが大腿骨らしい骨を集めて、撮影しやすいようにい置いてくれた。このあたりには頭蓋骨は見えなかった。もしかしたら、頭蓋骨の部分はすでにブルーラグーンが集めて、どこかに隠しているかもしれない。
船首部分にもハッチがあり、この中に沢山遺骨があると、キミオさんが指差したが、この深さで、人間がやっと抜けられるハッチから下に下りることはとても出来なかった。タンクを脱いで、タンクを手に持って入ってゆかなければ入れない。
やがて、僕たちの映像を見たからかもしれないが、「追風」も、日本の厚生省の遺骨収集が行われたが、船首部分のハッチは、人間が入れないように溶接してしまって、遺骨収集が最終的に打ち切りとなった。
僕たちの撮ったテープは、吉村が知っている遺族会に買ってもらって、実費ぐらいは稼ぎ出そうなどと話し合ってはいたが、そのような面倒なことを実現する時間は、吉村には無かった。僕にももちろん、そのような時間は無い。そのままお蔵に入った。
1990 年、衛星放送というテレビ放送が出来た。その後、BS,CS次
々に地上波ではないテレビ放送が生まれたが、その初期の一つである。人工衛星で中継して電波を送るこの放送方法に、朝日新聞が参加して、ニュース専門放送
が始まり、その衛星放送で、ドキュメンタリー番組が企画される。プロデューサーは、親友の電通プロックスの神領さんだった。
衛星放送、というと、ほとんど誰も見ていないような放送方
式だから、予算が少ない。そして生まれたのが放送記者というやりかただった。ちょうどその頃、幅の狭い8mm幅のビデオ、8mmビデオが出来て、これは、
なんとか放送に耐える画質であり、小さくて、カメラとVTRが一体化している。放送記者は、このカメラを担いで取材する。そして、自分で編集して、それを
見ながら自分でしゃべる。ひとりだとしゃべり難いので、アンカーと呼ぶ女性タレント、女優さん、アナウンサー、とにかくしゃべれる人、つまり自分の言葉が
視聴者に伝わる女性と二人でテープを話題にして話をする。ゲストを呼んできて、三人、四人で話し合うこともある。
僕は、この衛 星チャンネルのフリーゾーンという番組で、映像記者として、24本も作った。全部きちんとテープをとっておけばよいのに、例によって無くなしてしまった方 が多い。それでも、東京の川シリーズ、アラスカの熊、人食い鮫の話など、見ていて、記憶している人は居ないだろうが面白かったと思う。
そ
のフリーゾーンで、「追風」の魚野艦長の奥さんをゲストに呼び、沈んでいる「追風」の画を見ながら、話を聞く番組を作った。「追風」の生き残りであった、
竹本信一氏も四国に居ると言うことで、これは、吉村君に取材に行ってもらった。そのころ、吉村は、僕のアアク・ファイブ・テレビの姉妹会社、アアク・エイ
トを作っていた。
奥さんと、魚野さんの妹さんで、結婚で性が変わっている山川さんが一緒にゲストになってくださった。

1991年2月18日、靖国神社に参拝した。神社の境内を
桜のころに歩いたことはあったが、建物の中に入っての参拝は始めてだ。戦争でなくなった軍人の遺族が、お寺に参るように、靖国神社にその命日に参拝するこ
とも知らなかった。カメラは待合室までしか入れないので、神事の様子はわからない。魚野艦長の奥さんは、追風会という遺族の会の会長である。日本の軍艦が
沈んだ場合、艦長が亡くなっていれば奥さんが会の会長になって、船が沈んだ日を命日として、靖国神社に参拝する。
フリーゾーンという番組は、原則として、台本を作らない。映像を見ながら、話すだけである。
その日靖国神社で撮った映像を速攻で編集してまず流し、続いて、トラックの沈んでいる追風の映像、そして、生き残りの竹本さんの話、そして、トラック環に眠る追風と、遺骨の映像を流す。
そして、終わりの部分、魚野さんと妹さんから話を聞く時間は、それほど多くを割いていなかった。
魚野艦長は恋愛結婚だった。一緒にすごした時はほんの少
し、「最後の出撃の時は、日本はもう負ける。今度はもう帰れないと言っていました。」そして、子供が生まれたが、娘さんはお父さんに会ったことはない。写
真をお父さんとして育つ。そして、艦長の奥さんとして、追風会の会長として、再婚はせずに、子供を育てた。アンカーの山本さんは主婦だ。「戦後の長い年月
はどんな気持ちで過ごされたのですか。」「振り返って見れば、長いような、短いような年月でした。」そして、「もうこれで、靖国神社への参拝は、もうお役
ごめんにしてもらおうと思っています。」とも、
まだ20代半ばだった魚野艦長
そして、海軍 兵学校の卒業でもらった、恩賜の短剣を見せてくれた。この短剣は優等生がもらう。兵学校の優等生は、将官が保証されている。帝国海軍では、実戦にでない者 は将にはさせない。「もう今度帰って来たら、魚野は船から降ろすと決まっていたと後で聞きました。」もしも、生き延びれば、戦後どれだけの活躍ができたこ とだろう。
最後には、追風の戦没者名簿を伸ばした。
フリーゾーンは、台本がない。リハーサルもない。生放送ではないが、生と同じ、収録をやり直すことはない。
僕はこの番組は失敗したと思った。魚野艦長の生き方、そし
て、戦後の奥さんの生きてきた軌跡にもっとスポットを当て、中心にするべきだった。終わりの方で話を聞いていて、涙をこらえた。その感動を中心にするべき
だった。僕は、沈んでいる駆逐艦のことしか考えなかった。下調べをきちんとして、しっかり構成するべきだった。と反省した。
しかし、それからも長い時間がたち、奥さんは亡くなられ、艦長の娘さんが何度かトラックに見えられたと聞いた。僕の作った行きあたりばったりの番組も、本当のことがしゃべれた。一番良かったと艦長の奥さんが話していて、家族の宝になったと妹さんから賀状をもらった。
なにも準備しない、なにも知らなかったから、僕は本当に感
動したので、すでに感動してしまって構成したら、演技の出来ない僕は、わざとらしくなってしまったかもしれない。最後の数分で、奥さんの話を聞いて、エン
ドになって、だから良かった。僕の作ったドキュメンタリーの中の傑作だったのではないか、と今は思っている。
5.深く潜る
沈船ダイビング Wreck
Deep Diving
人は、海では、あるいは湖では、深く潜りたがる。高い山があれば登りたくなる。空を飛べば、速く、高く飛びたい。ついには宇宙へと飛び立ちたい。生き物の一つの本能、業とも、宿命ともいえるかもしれない。
さて、どのくらいの深さまで潜れば、深く潜ったということになるのか、いろいろな考え方があるが、一応決めておこう。まず、水深40mまでは、普通の潜水である。トレーニングと経験を積めば、誰でも潜れる。40ー80ぐらいまでをここで言うディープダイビングとしよう。
作業潜水の分類では、60ー100mが中深度潜水、100m以上が大深度という。すなわち、ここでは、中深度のダイビングをディープダイビング、深い潜水とする。
深く潜れれば、それだけ行動範囲が広がるわけだから、見られる、観察できるものも増える。もちろん採集できるものも増える。だから、実用的に言っても、意味がある。ダイビングは、深く潜るためのものではない、などと言うが、深く潜れた方が良いに決まっている。
しかし、問題は安全性である。他からの助けが得られないスクーバでは、深さと危険とは比例する。危険を冒してまで深く潜るものではない。と言われればそれは正しい。
危険を冒す価値があるものは、まず軍事目的、次いで金銀財
宝、金銀財宝とは、広く解釈すれば、経済的な欲求である。また、科学研究者にとっては、自分の研究のための潜水ならば、危険を冒す価値があるだろう。そし
て、先に述べたように、人は宿命的な衝動、欲求で、何にもならなくても、深く潜ってしまう。深く潜りたい。
深く潜る目的を整理すると。
@機材の開発、技術的な完成を求める。ハードとソフトの開発であり、財宝の獲得、戦争目的が動機づけになり、平行して行われてきた。
Aただ、とにかく深く潜る。
B探検、探求
探検、探求は、財宝、経済目的とクロスオーバーするが、ダイビングの目的の王道である。現代社会では、究極のレクリエーションでもある。
探検、探求の具体例は、
@水中の科学的、学術的探検、探求、あるいは仕事的には調査
これは、スクーバダイビングの主目的ともいえるので、さらに細分できる。
A洞窟探検、
鍾乳洞は水で侵食されて作られた洞窟だから、行き止まりは水になり、その先を極めようとすれば、ケーブダイビングになる。
B沈船ダイビング
前置きが長くなってしまったが、沈船ダイビングがこの項の目的である。
財
宝を目標とした沈船ダイビングは、古くから行われ、現在でも行われている。日本で一番著名なのは、日本海海戦で沈んだロシアの巡洋戦艦「ナーヒモフ」の潜
水である。現在は行われていないが、後で述べる僕のバディをやってくれた、田島雅彦は、この宝探し飽和潜水に参加していた。このダイビングのことを書けば
本になる。
なぜ、トラック島の沈船にとりつかれるかといえば、まず深いから、その深さが適当であるからだろう。
もしも沈船が100mを越えていたら、それこそ、ナヒモフ号の探査のように、ダイビングベル、SDCとDDC(再圧室)を使って,サチュレーションダイビング(飽和潜水、一回の潜水が15日以上になる)でやらなければならなくなり、別の世界のことになる。
須賀が「追風」に潜ったのは、空気で潜れる最大水深とも言える60−67mだったからであろう。
須賀の「追風」への潜水は、番組をつくり、情感的なまとまりで終了したが、戦勝国アメリカ人ダイバーは、トラックの沈船をあらゆる角度から取り上げ、歴史として見つめて資料を集め、本を書いた。
2000年に出版された、「WordWar UWrecks of the Truk Lagoon : Dan E.Bailey :2000」547 p 写真と図版がぎっしりのアート紙のビジュアルな本だ。
トラック空襲のすべて、トラックに沈む船のすべて、そして、トラックの島のすべてがまとめられている。この本を読めば、トラックのこと、空襲のこと、その当時の戦いのありさますべてがわかる。じっくり読みたいけれど、時間が無い。拾い読みしかできない。
すでに、追風の部分は拾い読みした。テクニカルダイビングの部分をひろう。
テクニカルダイビングがチュークで始められたのは、1996年ごろ、この本の著者などが始めている。
テクニカルダイビングの定義は、スクーバであること、混合ガスを使うこと、中深度に潜ること、としよう。これは、僕が61歳で、100m潜ったとき、減圧表を作ってくれたハミルトン博士の言葉だ。
チュークでの現在のテクニカルダイビングは、オープンサーキットが主体だ。12リットルのアルミタンクを二本連結し、サイドマウントにも12リットル、これにはナイトロックスを使って減圧停止ようにする。
この本の追風のダイビングオペレーションのところでも、このシステムで潜ることを進めている。この9月のチュークでもアメリカ人、ヨーロッパ人ダイバーがこのやり方で潜っていた。
この本に出ているダイビングでは、アグレッサーUという船で、水面からのホース送気で、酸素を吸って減圧している。
予備のタンクは6リットルぐらいである。
テクニカルダイビングというと、CCRがまず考えられる。オープンサーキットではテクニカルダイビングとは言えないのではないかと思う人もいるはずだ。しかし、特別のことがない限り、CCRは勧められない。
僕の61歳記念の100mダイビングで、見に行ったコルシカ島のアランは、トライミックスをオープンサーキットのタンクに詰め、120mまで潜り、ホース
で減圧用の酸素の濃いナイトロックスを呼吸していた。120mで、空気の60m潜水と等しい窒素分圧にすれば、60m相当の窒素酔いで120mに潜れる。
もとアアク・ファイブ・テレビのチーフカメラマン、現在は独立して売れっ子の中川隆はCCRで120mまで潜ったとメールが来たが、彼はこのことを売り
物にして撮影の仕事を取るわけだから、やる理由がある。しかし、CCRは、間違うことができない。操作、あるいは準備で間違うと死ぬ。69歳から71歳ま
で、インスピレーションという名のCCRを買って、死なないためのトレーニングを受けたが、僕にはできなかった。オープンサーキットの50年間の反射神経
がキャンセルできないのだ。新しくCCRからダイビングを始めれば、できるだろうが、それでも、水深80mを超えたところで、トレーニングどおりにできる
とは思えない。僕は年をとりすぎている。涙を飲んで、CCRをあきらめた。しかし、オープンサーキットならば、間違ったとしても、バディがしっかりしてい
れば、ほぼ間違いなく助かる。減圧症にはなるかも知れないが、命は助かる。

プールでトレーニングを重ねて、魚礁の調査もしたが、あきらめた。
つい最近も、伊豆の赤沢でCCRのダイバーが一人亡くなった。潜ってすぐに深くまで行かないうちに死んだらしい。セッティングの間違いだろう。現在まで
に、CCRを使うベテランダイバーが4人亡くなっている。日本のCCR人口は、100人程度だろう。4%の死亡率だ。(かなりいいかげんな数字だけど)
オープンサーキットのダイバー人口を40万人として、その4%は1万6千人だ。
僕は深い潜水の時は田島雅彦をバディにしていた。彼は、対馬沖の宝探し、ナヒモフの飽和潜水に8年近く参加して、大深度潜水が1000時間を越えている。今は癌で倒れてしまったが、僕の100m潜水に付き合ってくれた。 64歳まで、僕はログブックを附けたことがない人だった。64歳で癌になって、以後の潜水はもうけものと考えて、エクセルでログをつけるようになった。それが本当に役に立っている。
今、素人の書いている指導団体のログブックは中途半端だと思っている。まず、ログは、一覧表になっていなければ使いにくい。詳しくダイビングの内容を書くならば、大学ノートに書く。大学ノートと一覧表の二本立てをすすめる。今の僕は、エクセルのログと、ブログのログだ。
昭和58年、1983年、全日本潜水連盟のために、一覧形式のログブックを作った。それに、僕と田島の潜水のログを書いた。
これが残って
いた。昭和58年10月17日、島根県美保が関での人工魚礁調査、水深は52m、10リットルのダブルタンクを背負っている。これまで、昔は12リットル
のダブルを背負っていたとばかり思っていたのだが、10リットルのダブルだった。この一覧表だけでもよいから、そのころから、ログをもっと真面目に長くつ
けていればよかったと反省している。
オープンサーキットならば、とにかく窒素酔いに堪えられれば良い。追風の64mも潜れるし、龍泉洞地底湖では80m近くまで落ちた。龍泉洞は、CCRだったら死んでいただろう。
14リットルのダブルを背負ってトレーニングする須賀。
オープンサーキットならば、50年の経験がある。 大丈夫だ。

左のページは、キミオさん。右の、下からオデッセイ、アグレッサー
「WordWarUWrecks of the Truk Lagoonには、オデッセイとアグレッサーU、Thorfinnの3隻が紹介されている。新しいオデッセイが装備が良い。 70mに安全に、もちろん経験とトレーニングが必要だが、安全に潜れる装備とガイドを用意してくれる。そして、沈船のメッカであるトラックだ。2年先まで予約がいっぱいになっても不思議ではない。
きっとオデッセイのダイビングでも、追風が人気の中心なのではないかと思う。僕もオデッセイで追風に潜ってみたい。どんなスタイルで潜るのか、本当に上手
なのか。12リットルのダブルにサイドに12リットルは重いけれど、水中に入ってしまえば、垂直移動だけだし、潜降索もあることだから、それほどの体力は
不要だろう。
僕の作った追風の番組をオデッセイで、アメリカ人ダイバーたちに見せたら、どんな反応があるだろうか。
9月トラックで見た、オデッセイのダイバー、ここは水深20mぐらいの山鬼山丸
浅いから、こんなにタンクは要らないと思うのだけれど・・・・
一昨日、10月5日、大瀬崎、大瀬館に行ったら、カウンターの前に12リットルスチールのダブルタンクが3本置いてあった。最近、大瀬館は、ダブルタンク が多い。多分、この装備で50mぐらいまで潜るのだろう。潜ってなにを見て、なにをするのか。きっと、僕が大瀬で深く潜る時と同じ、ハナダイを見るのだろ うか。
もしも、大瀬の水深70mに追風が沈んでいたらどうだろう。
深く潜りたいダイバーが集まり、そして、何人かが死んで、その追風へのダイビングが禁止されるだろうか。いつか、熱海に沈んでいる船にダイバーが入って死んだら、入り口に蓋をされてしまったと聞いたことがある。それほど深い船ではない。
ある基準を作って、基準をクリアーしなければ、潜ってはいけないとなるのだろうか。そのようにしたい。それがこれから僕が最後の仕事としてやろうとしていることだ。
基準を作っても、日本の場合、それだけでは潜る価値のありそうな沈没船はない。戦艦大和が、沖縄特攻に成功して、慶良間と那覇の間に沈んだとすれば、そして、スクラップとして引き上げられなかったとすれば、などと夢を見るが、あまり良い夢ではない。
深く潜る価値のある何かを探さなければ、あるいは作らなければ、それも僕の最後の仕事だ。
僕にその時間は残されているだろうか。