5−3 ダイビング練習の危険性
1971 昭和46年
私は36歳になっていた。
私は島野さんの作るブロニカカメラのハウジングを月に一台ぐらいずつ売っているビジネスと、そのかたわらで潜水の指導、日本潜水会に熱中していた。
島野さんのところに、日本で始めての室内潜水訓練プール、水深10mのプールを作って潜水指導を業とする会社を立ち上げたいという人から相談が持ち込まれた。島野さんも鈴木さんもこの話は自分でやりたかっただろう。しかし、潜水指導は私の縄張りの仕事である。私は強引に自分の仕事にした。
日本海洋技術開発株式会社 JOTEC(ジョテック) が発足した。会社の発足は1970年(昭和45年)5月だが、建物が出来たのは、一年後の1971年である。潜水指導を請け負う契約を取り交わした。大学紛争でほとんど授業が無い水産大学4年次の潜水部員である高橋実と吉川忠の二人をコーチとして、一緒にやることにした。
1970年は、大阪で万博が行われて、日本人は皆幸せを感じていた。71年はその反動か、一転して不景気モードになった。日本の経済は力があり、所得倍増も唱えられていたのに、末端の銀行はお金を貸さなくなった。ジョテックの社長は、自分が持っていた土地を担保に入れて、資金を借りてプールと建物を作ろうと計画していたのだが、当てにしていた銀行が融資してくれない。建物を建てかけで資金が尽き、建設業者が立替えて建物が完成した。
まだ時代が早かったのか、それとも事業計画が甘かったのか、そのどちらもでもあったが、銀行が貸してくれなかったことが致命的だった。
みんなで手分けをして、駅でのビラ配りまでして数十人の生徒は集められたが、所詮は焼け石に水みたいなものだ。
とにかく講習は開始された。
私はプールの一般公開には反対した。何が起こるかわからないのがダイビングだ。ダイビングのすべてを知っているわけではなかった。水泳ならばプールサイドにガードが居れば良いが、水深10mのプールでは、水中にガードするインストラクターが居なければ一般の初心者は潜水させられない。必ず責任を持てる指導者の引率と監視の基ではければ、たとえプールであっても一般の人に潜水をさせてはいけないと私は考えていた。
しかし、私の行う講習だけではとてもプールは維持できない。少しでも、どんな小銭でも集めなければいけない。
結局のところ、私の講習以外の、しかもインストラクターの付き添いもない一般の練習入場も受け入れることになった。
エントランス部分は、通りに面していて、軽食ができるスナックになっている。このスナックからガラス越しにプールの中が見られる。潜る人を見ながら食事ができる。当初の予定では、大きな窓から見える部分は水深5mの部分で、その奥が10mになるはずであった。しかし、地盤が悪くて、プールを深く掘ることができない。建物を高くした。二階の予定が三階になってしまった。そのために費用も嵩んでしまったのだが、スナックから見える部分は、プールの底ではなく、10mのプールの中間部分となった。5mの底の面は、スナックの覗き窓からは見ることができない。10mのプールの底も窓からは見えない。振り返って考えれば、10mの深さは必要なかった。この時の経験から、スナックのガラス越しにプールの底が見える深さ、5mでも良かったのだ。その後に係わったプールの設計はすべて4m〜5mの深さでも良いとした。。
スクーバダイビングの基本はスキンダイビングだと固く信じていて、スキンダイビングの練習のために、このプールを作った当時は、どうしても10mは欲しいと考えていた。
息をとめる能力の増強は、それぞれが自分の出来る練習方法を工夫していた。先日、息こらえ競技のアプネアの練習風景がテレビで紹介されていた。女優の高木沙耶さんが水深50mを越えて潜ったので、その練習が紹介されたものだ。浅いプールにスノーケルを付けずに浮く、プールサイドでトレーナーが足首を持って保持している。これで息こらえができる。餅を焼いているように、時々(多分時間を決めているのだろう)保持している足を持って身体を反転させる。これならば、眼を離すことなどありえないし、何かがあってもすぐに救助ができる。
私の練習方法は、通勤、通学で、駅の間を息をとめているとか、地下鉄の階段を息を止めて駆けあがるとか、歩きながら息をとめて電信柱何本の間隔を歩けるか、などであった。もちろんプールで水平に潜る練習もする。海で限界1杯まで潜ることの危険はだれでもわかる。プールでのスキンダイビング練習は安全だと思っていたから、プールでは100%の負荷をかけた練習をする。スポーツの定義の一つとして「120%の負荷をかけて練習する」というのがある。
コーチの高橋実は3分以上の息こらえが軽く出来る。彼はJOTECのプールの底に腹這いになって息を堪える練習をしていた。2分以上という時間はずいぶん長い。あまり長く腹這いになって動かずに居ると、もう死んでしまったのではないかと不安になる。誰かを見に行かせようと心配になるころ、彼は身体を起こし、水面に浮いてくる。彼の練習を自由練習に来ていた若いダイバーが見ていた。
その夜は、吉川忠が私たちの講習のコーチ担当だった。4人の受講生を連れて、吉川は深い10mの水深に潜っていた。このグループの出す気泡や、少し浮上してきた時の姿はスナックの窓から、見ることが出来る。一段上がっている水深5mの部分は、この窓からは見えない。5mの縁が見えるだけである。
プールの面積は、10m×15mで大きくは無いが、10mの水深に潜っているダイバーからは、5m水深のプールの底は見えない。水深5mの底は、レストランの窓からも見えない。完全に死角になっている。ビデオカメラで監視するという考え方もあるが、未だその頃は、ビデオカメラは手の届かない価格である。カメラをすえつける予算が無い。
10mでのスクーバダイビングを終えて、吉川のグループは浮上してきた。浮上の途中で5mの水底で、腹這いになって動かないダイバーが見えた。息こらえの練習をしているのだろうと、そのまま浮上した。みんながプールサイドに上がっても、5mで腹這いになっているダイバーは浮いてこない。どうしたのだろうと、飛び込んで引き上げた。呼吸をしていない。直ちに救急蘇生法をやったが、蘇生しなかった。
私は現場に居なかった。小人数の講習は一人だけで見られるから、コーチは、交代でローテーションを組んでいた。家で電話連絡を受け、すぐに走った。家は
私が到着すると、関係者全員が事故の処理で警察に呼ばれて誰も居なかった。警察では、取調べの控え室のようなところに、社長と専務がぽつんと椅子に座っていた。当たり前だけれど殺風景な部屋だ。
「今は、吉川君が事情を聞かれているところ。さっき私は聞かれたけれど、特に何も。とにかく事情を調べているだけのようだ。」
世間的、つまり社会的になにか悪いことをしたのだろうか。社会的に悪いことは何もしていない。強いて言えば、ダイビングの練習をさせたことだ。
社長は、電気の小売業と電気工事の店をやっている人で、小売業としては大きく店を張っていた。店をやめて、その全てをこの事業に注ぎ込んだ。専務は、脱サラ、そんな言葉はまだ定着していない時代だったが、子供がスイミングクラブの選手コースに入ったことで会社を辞めて、クラブ運営の世話役になり、スイミングクラブの運営ノウハウがあるので、この事業に参画した。
取調べが終わったのはそれから間もなくで、私は、現場には居なかったので、何も聞かれることは無かった。自己紹介して係の刑事と挨拶しただけだった。吉川は、割合に元気だった。自分の受け持っている生徒ではないから、責任はない。としか考えられない。救い上げて蘇生法を施しただけなのだから。
死んだ若者はプールのある丸子に近いアパーに住んでいた。鉄の階段を上がって2階の一室だ。狭い1DKに棺が置かれていて、潜り仲間が集まって壁に寄りかかって座ったりしている。ほとんど満員だ。棺の前で女の子が一人泣き伏している。正座しているリーダーが振り返った。良く知っている大野さんだった。青木さんのクラブでダイビングを始めて、魚突きに熱中し、本職が鉄工場だったので、スポーツウエイの銃の機関部を真似して大型化した「OKガン」と呼ぶ水中銃を作った。この銃の製作には、現在も繁盛しているダイビングショップ「OKマリン」のオーナーである土山さん(故人)が出資していた。
知っている人が一人でもいるといくぶん気が楽になり、針のむしろではなくなる。死んだ若者は奄美大島の出身で、東京に出てきて職についたが、ダイビングのインストラクターになって故郷の海にもどろうとしていた。大野さんは「彼が死ぬなんて、考えもしなかった。」と言う。大野さんは過激なスピアフィッシング愛好者だから、そのクラブ員で、優れた潜り手であったとすれば、2分を越える息こらえが楽にできたのだろう。
私が高橋実の死ぬことなど考えもしなかったように。大野さんも彼が息こらえで死ぬとは思いもしなかったのだろう。
そんなエキスパートの死だから、私たちが責任を感じる必要は無かったと思う。しかし、社長は、若者の死に大きな打撃をうけた。自分がこんなプールを作ったからいけないのだと思い込んだ。
私たちのプール、JOTECは、経営も行き詰まっていたのだが、息こらえの事故で急速に社長が経営意欲を失ってしまい。倒産し消滅した。
東京水産大学ダイビングクラブ合宿でのブラックアウト
ジョテック JOTECが倒産したのは、1971年6月だった。一つの夢が無くなった。ジョテックで練習していた講習生を集めてダイビングクラブを作った。30人近くのクラブが出来た。レッドフィンダイビングクラブと名前を付け高橋実がお世話をすることになった。このクラブは30年間無事故で今でも健在である。
気の抜けたような毎日を送っていると、水産大学の潜水部が
それに、若い人たちだけで素潜りの練習をすれば、また何か事故が起こるのではないか、自分が行けばそれが防げるとも考えた。
学生クラブの合宿だから、スキンダイビングの練習は欠かせない。
今度こそパーフェクトに安全を確保して練習させたい。
水産大学小湊実習場は、故郷のようなものだ。海の中の石の一つ一つまでも懐かしく知っているように思える。潜水台の磯を向こう側に回り込んで、水深3mの波静かな入り江に小舟を浮かべた。小舟は懐かしい櫓漕ぎのサジッタだ。なぜかどこの大学の実習場でもこの手の小舟には、サジッタと名づける。サジッタは、プランクトンのヤムシの仲間の学名だ。ヤムシは、顕微鏡の視野の中で、矢のように突っ走る。櫓こぎの舟だからのろのろ走るがサジッタだ。
二人ずつ一組にして、二人は顔を見合わせるようにして目を離さないようにして潜るように指示した。潜水時間は1分半を超えないように、時計を持っている者は時計を見るようにさせる。私はサジッタの上に立って見張る。別に救急ダイバーを二人、私のそばに待機させた。水深は3mである。この計画になにか不備な点があるだろうか。息こらえの練習ではここまで完全な方法は無いだろうと思った。一般の大学クラブの練習では小舟はないから、まず小舟を浮かべることができない。
思えば、水産大学の潜水実習で、日本でのスクーバ練習で起こった最初の事故は、この小舟がダイバーの上に居なかったことが、事故の原因だったと疑われた舟だ。
号令をかけて、全員同時に潜水させた。
皆が、あまりにも短い時間で浮いてきてしまうのでおどろいた。20秒から30秒で水面に顔を出してきてしまう。一番長い者で45秒だった。これまでこのクラブを教えていたとき、同じような練習で、最長で3分、ほとんどが1分半をこえていた。息を長くこらえさせると危ない。1分半を超えたら危ないから、超えないようにと指示した。
私が水産大学の選択授業として潜水を習ったとき、最低でも1分半は呼吸を止めていられないと、実習に参加が許されないという規定があった。そんなことから、私の頭の中には1分半という数字がすりこまれていた。
2回、3回とくりかえしても、1分を超える者がいない。ついに言ってしまう。「若い大学生のクラブなのだから、1分半は潜ろうよ」私は根性を強調するのは嫌いだし、大きな声も出さない。しかし、私の存在そのものが大きな強制にはなっていたのだろう。
そして、次の潜水で、一人が浮上してこない。直ちに彼のバディと、救急のために待機していた二人が潜り、小舟の上に引き揚げた。身体は両手を突っ張って硬直し、顔は土気色でチアノーゼ状態、呼吸停止を確認するような姿ではなく、もはや死んでいると見えた。人間は1分半の息こらえの後で意識を失いほんの少し呼吸停止しただけで、こんな姿になってしまうものなのか。直ちにマウストゥーマウスで息を吹き込むと、3回も吹き込まないうちに息をふきかえした。寸前まで死んだように硬直していたのが、瞬間的に生気を取り戻すことを体験し、口に息を吹き込む人工呼吸の効果を思い知った。それ以来、とにかく水中での溺れは一瞬でも早く、気道を確保しつつ口から息を吹きこめば良いと信じ込んでいる。
蘇生した彼は、おびただしいと感じるほどの血と水を吐き出し、すごい勢いで暴れる。
潜水指導者の講習会では、水面を曳行しながら息を吹き込む練習をしているが、この暴れ方では、とても曳行などできるとは思えない。しかし、とにかく息を吹き込むことが一番大事なのだとも確信した。
小舟を直上に浮かべて置いていたので助かった。
「大丈夫だ、大丈夫だ」と声をかけ、抱き抱えて、岸に舟をもどし、すぐに救急車で、病院に運んだ。集中治療室で1日を送り、次の日には退院し、後遺症はなにもなかった。
失神した彼は、これまでに同じような練習で3分は潜った経験があり、このときは、私に言われたので、2分を目標に時計を見ているうちに意識がなくなってしまったのだと言う。この合宿の費用を稼ぎ出すために、彼は連日重労働のアルバイトをして、疲れ切った状態であった。
彼は、息こらえの苦しさをほとんど感じることが無く、気持ちよく意識を失ってしまった。強いハイパーベンチレーションも行わせてはいなかった。スキンダイビングでの失神のことを、水面近くに浮いてきたときに失神するのでシャローウォーターブラックアウトと呼んでいるが、ジョテック、水産大学、続けて二つ経験した失神事故は、水面に浮いてきての失神ではなく、浮き上がらずに水底に居る状態で失神していた。でシャローウォーターブラックアウトとは言えない。どちらも、ほとんど苦しまずに意識を失っている。
両方の事故に共通していることは、
@二人とも、3分以上息を堪えて潜った経験がある。
A強いハイパーベンチレーションはしていない。ジョテックの方はわからない。
B水深は酸素分圧が問題になるほどの深さではない。プールでは5m、海では3m以下だった。
Cどちらも息堪えの苦しさをほとんど感じないで、意識を失った。JOTECは、本人から聞くことは出来なかったが、苦しければプールの底を蹴って浮上しただろう。
Dどちらも、腹這いになって時計を見ている姿勢のまま動かずに意識を失った。
救助態勢の差が二つの事故の生死を分けた。
後から反省すると、水産大学の合宿では、練習方法には大きな穴が二つ開いていた。
人間は生身の身体であり個人差がある。その上に、その日の体調も大きく変化する。指示されたことをやろうという意志を示している人に、それ以上の強制をしてはいけない。 ダイビングでも、息こらえでも、余裕を持って出来るところまでが、その日、その時にできる最高限度だと考えなくてはいけない。たとえ、いつもは3分潜れる人が30秒しか潜れなくても、それがその日の限界なのだ。
スポーツでは120パーセントの負荷をかけて、能力を伸ばして行く。しかし、ダイビングでは、それは間違いである。120%の負荷をかければ上達は早いかもしれない。しかし、そのために生命を落としたのではとんでもないまちがいだ。100%以下の負荷を繰り返すことによって、時間をかけて、上達させてゆかなくてはならない。どの程度が120パーセントなのか、100%なのかは、自分で判断をさせなければならない。自分の意志で止めようと思った時点が100%なのだ。ここまで出来なければいけないという基準を作ってはいけない。
私は1分半という基準を強く思いこんでしまった。それを強く指示したことが間違いである。
そして、もう一つ大きな穴は、二人が一緒に潜って顔を見合わせているのだから、一人が浮上するときには、バディも一緒に浮上するものと勝手に決め込んでいて、ブリーフィングでしっかりと確認はしていなかった。これも思い込みだった。
別に非を追求されたわけではないが。同じパターンの事故を二ヶ月前に目にしているのに、アクシデントが起こるような穴があいていたことを恥じて、水産大学潜水部のコーチを辞めることにした。
しかし、今では、辞めたことは大きな間違いであり、もっとこのクラブに肩を入れて、完璧を目指すべきだったと思っている。そして、他の大学の練習にもかかわって教えるべきだった。そうすれば、その後に起こったいくつかの事故が。死亡事故にならずにくい止められたかもしれない。
息こらえの二つの事故で私の学んだことは、
@ とにかく、事故が起こったパターンの行動、練習方法は繰り返さないように注意して、より安全で確実な方法を探す。
A その時の状況で100%の負荷になるような練習を強制しないこと。
B ソフトだけに頼らず、できるだけハードに頼る。小舟があったから助かった。
C 詳細な事故報告をできるだけ入手し、まとめて他に知らせることができるようにしておく。
水中脱着練習の危険性
潜水科学協会の初期、三越屋上でアクアラングで潜ってみせるイベントがあった。それに出演?して、水中脱着を繰り返し、眼を閉じていても出来るようになった。その水中脱着と、サザエの棘を調べる卒業論文でスキンダイビングを毎日繰り返し、水中脱着とスキンダイビングが私の潜水技術の基本になった。当然その二つが私のダイビング指導の基本にもなった。しかし、その二つともに大きな危険性をはらんでいた。
すべてのスポーツの基礎練習は同じことの繰り返しである。繰り返しているうちに次第にエスカレートしてくる。1960年代には、水中脱着も危急の際に、器財を脱ぎ捨てて脱出してくると言う意義が考えられていた。後に危急から脱出する際に器財を捨ててしまうのはかえって危険だとされるようになり、器財の取り扱いに慣れるため、あるいは水になれるための練習、練習の総まとめとしての意義が大きいと考え直された。初期の段階では、器財を脱ぎ捨てて浮上するフリーアセントも脱着練習に含まれていた。
練習を重ねるうちに、次第に脱着の深度が深くなって行く。大学四年次の卒業論文で伊豆大島に行った時は、トウシキの磯の澪筋の外で、水深7mで脱着の練習をやった。そしてJOTECのプールが出来て、水深が10mある。当然10mプールで私たちは脱着練習をやった。さすがに一般の講習生には、10mはやらせない。5mでは練習をさせた。
JOTECではインストラクターを養成するコースもはじめて、そのうちの一人が10mで脱着をやった。彼の実力では限度いっぱいだった。それをプールサイドで見ていて、
危ないと思った。自分がやっていても自分が楽に出来ていると危険はわからない。人の危険も自分が一緒に潜っていてはわからないことがある。空気塞栓の可能性が強い。脱着に問題があるのではなくて、フリーアセントが危ない。脱着練習は、水深1.5m以内でやらなければ危ない。深さへの能力向上ではなくて、手探りで眼を閉じていてもできるような習熟度の向上を目指さなければいけない。ところでJOTECには水深1.5m部分がない。困った。その頃から、ダイビングの練習には浅いプールが必要、むしろ1.2〜1.5mのプールで練習の80%が行われるべきと思うようになった。
ダイビング講習の事故は、使用するプールの構造、(水深、死角の有無)に大きく左右される。ダイビングの上達には練習が不可欠である。しかし練習の途中で死亡事故を起こしてはなんにもならない。ところで、普通のレクリエーションダイバーが練習を重ねなければならないほど上達する必要があるのだろうか。上達に時間がかかるスキンダイビングはスクーバダイビングの講習としては省略するようになって行く。普通の人はマスクを外すのをとても嫌がる。ダイバーとして一人前になるには、マスクを外すことを嫌がってはいけない。ビジネス的には、人が嫌がることをさせない方が良い。水中脱着も省略されるようになった。
息こらえにせよ、水中脱着にせよ、限度を定めないでおくと、どんどんエスカレートして危険な領域に踏み込んでしまう。
エスカレートしても危険が少ないトレーニングとして、競技会への参加がある。ただし魚突き大会、息こらえ競技、アプネアはべつとして、泳ぐ速さを競う競技は、新記録を目指しても、事故にはつながりにくい。