合唱団じゃがいもと宮澤賢治

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合唱団じゃがいもは、宮澤賢治の作品を多く取り上げています。
わたしたちの活動は「山形」ですが、ここもまた、イーハトーボの一部であり、
先人は周囲の自然と、生き物と、時空と交歓しながら生きてきました。
わたしたちの日常に深く根ざしている賢治的世界を発見しながら、合唱とい
う表現手法を使って、今ここに在るわたしたちの思いを発信していきたいと
思います。

合唱団じゃがいもが 歌う賢治

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合唱団じゃがいもの公演ビデオも資料として保管いただいています。
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宮澤賢治の詩についての総合サイト。「歌曲の部屋」では、賢治の詩の歌曲を聴くことができます。
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宮澤賢治の情報がいっぱいです。

宮澤賢治ノート  「じゃがいも通信」に随時掲載しています。

宮沢賢治ノート ・「革トランク★賢治の東京」E (2006年10月号)
「賢治の上京」 
宮沢賢治は、研究家によると9回上京したことがわかっている。今回の舞台では、これらが交錯して登場する。
 (1)1916(大正5)年3月20〜21日、30日(19歳)  盛岡高等農林2年生の修学旅行で東京・京都へ。
 (2)1916(大正5)年7月31日〜9月2日(20歳)  夏休みに東京独逸学院でドイツ語講座を受講。 (この年、アインシュタイン一般相対性理論発表)
 (3)1917(大正6)年1月4日上京、7日帰花(20歳)  父の代理で商用。5日に明治座で1幕だけ歌舞伎鑑賞。
 (4)1918(大正7)年12月26日〜1919年3月3日(22歳)  妹トシが入院したため母イチとともに上京し看病にあ たる。人造宝石業計画で父と対立。トシ退院し共に帰花。 (この年、米騒動起こる。)
 (5)1921(大正10)年1月24日〜8月末(24歳)家出し上京。国柱会奉仕活動をしながら童話を執筆。「ペラゴロ」となり、浅草オペラに通い詰め。トシ発病の報が 届き、童話の原稿をトランクに詰めて帰花。(→3月号) (1922年9月、学校でオペレッタ「飢餓陣営」を上演。 11月27日、妹トシ死去、享年24歳)
 (6)1923(大正12)年1月4日〜11日(26歳)  トシ分骨手続。在京中、弟清六に童話原稿を出版社(東京社)に持ち込ませるが、掲載を断られる。
 (7)1926(大正15)年12月3日〜29日(30歳) セロ、オルガン、タイプ、エスペラントの特訓を受ける。
 (8)1928(昭和3)年6月8日〜12日、14日〜24日(31歳) 伊豆大島訪問の行き帰りに滞在。(→4月号)
 (9)1931(昭和6)年9月20日〜27日(35歳) 東北砕石工場宣伝販売に奔走。発熱し遺書を書く。帰花。 (1933(昭和8)年9月21日、賢治永眠、37歳)

宮沢賢治ノート ・「革トランク★賢治の東京」D (2006年9月号)
「浅草オペラと宮澤賢治」 
林さんの構想によると、今回の合唱劇は、4部構成となる予定。その第4部は「大詰め:賢治浅草に榎本健一を訪ねる」とある。「飢餓陣営」という賢治自作のオペレッタを演奏するのだが、そこに日本喜劇の源流浅草オペラの榎本健一がどのようにかかわることになるのか、今はまだ、林さんと加藤さんの頭の中にある。
  しかし、今回の作品に取組むに当たって、「菊谷栄」という人について知っておくことは、決して無駄なことではないだろう。
 菊谷栄は、1902年、青森市生まれ。営林局の製図工をしたあと1921年に上京。日大芸術科入学後、1928年、食堂で出会った榎本健一に誘われ、浅草オペラに参加。最初は舞台装置係だったが、たまたま座付作家の目にとまった菊谷の台本「ジャズ・ルンペン」が上演され、大ヒット。菊谷は脚本家となり、エノケン一座を支える作家として7年間で100本以上の作品を書き続けた。
 しかし、1937年、菊谷は応召。エノケンは、新宿の劇場で上演中、「一時間半だけ暇をください。」と客に許しを乞い、出征列車が通る品川に菊谷を見送ったという。菊谷は2か月後、中国での戦闘で35歳の若さで戦死。賢治が37歳で夭逝した4年後のことだった。
 世の中が、戦争に向かって突き進む中、浅草オペラも弾圧の対象になったが、榎本や菊谷は、けっして、上演をあきらめることなく、人々に笑いを提供した。
 浅草オペラを支えた一人の東北人。同じ時期に何度も上京していた賢治。喜劇「飢餓陣営」を読むと、二人がどこかで遭遇し、あるいは共鳴していたとしても不思議ではない、と思えてくる。
 一昨年、菊谷栄をモデルに、三谷幸喜が脚本を書き、役所広司の検閲官と稲垣吾郎の座付作家が好演した映画「笑の大学」は傑作だった。これをご覧いただければ、その時代の空気がよくわかるだろう。

宮沢賢治ノート・「革トランク★賢治の東京」C (2006年8月号)
「じゃがいもが歌った 賢治の東京」 
賢治の生涯を見ても、賢治がいかに「東京」という存在にこだわって生きたかがわかる。だから、賢治の作品には、時々「東京」が顔を出す。「じゃがいも」がこれまで歌った作品の中にも・・・
 ♪注文の多い料理店−二人の紳士のくしゃくしゃになった顔は、東京に帰ってももう元には戻らなかった。
 ♪虔十公園林−虔十の杉並木はまるで「東京街道」!
 ♪ポラーノの広場−キュステは遠く離れた「トーキオ」の街でファゼーロからの手紙を受け取る。

宮沢賢治ノート ・「革トランク★賢治の東京」B (2006年4月号)
「詩集 東京」 
賢治の数多くの詩作の中に、「東京」という詩集(ノート)がある。家出で上京した大正10(1921)年から7年後の昭和3(1928)年6月に、大島旅行の行帰りの東京滞在時に書かれたものだ。
賢治32歳。晩年に近い。これらの詩は、当時のモダン都市東京の、享楽的な雰囲気と、その影で翌年の経済恐慌から戦争へと進んでいく前ぶれとなるような時代を、距離を置きつつ、あるいは惹きつけられつつ、賢治の言葉で綴っている。
「浮世絵展覧会印象」「高架線」「神田の夜」「自働車群夜となる」「公衆食堂(須田町)」「孔雀」「恋敵ジロフォンを撃つ」「丸善階上喫煙室小景」「光の渣」。賢治が東京を綴った9編の詩は、賢治と「東京」との深い関わりを感じさせる。

宮沢賢治ノート ・「革トランク★賢治の東京」A (2006年3月号)
「賢治の家出」 
賢治の人生の大きな転換点となったのが、大正10年(1921)の「東京への家出」だ。賢治は24歳だった。
日蓮宗に傾倒した賢治は、父に浄土真宗からの改宗を迫ったが受け入れられず、1月に家出して東京へ。日蓮宗の団体、国柱会で奉仕活動をし、印刷工場で働き、何とか自活しながら作品を書きためるが、東京の風は冷たかった。4月に父が上京し、和解。父と伊勢・京都・奈良を旅行。これによって、日蓮宗に凝り固まっていた賢治の目が大きく開かれる。8月には、妹トシ病気の報に、童話の原稿を革トランクに詰めて花巻に帰るが、この頃、賢治は、堰を切ったように、詩・童話を生み出し、絶頂期を迎える。

宮沢賢治ノート ・「革トランク★賢治の東京」@ (2006年2月号)
「革トランク」 
「革トランク」は、宮澤賢治のごく短い童話。
斎藤平太は、村長の息子だが、工学校を卒業し、消防小屋と分教場を設計する。しかし、廊下も階段もないことがばれ、恥ずかしさの余り東京へ逃げる。何とか職をみつけるが、2年たって、「母危篤」の電報が届いたことから、平太は、革トランクを買い、自分の描いたたくさんの設計図を詰め、実家に戻る。革トランクは、地元の子供たちには珍しがられるが、父親はその大トランクを見て苦笑いする。
ただそれだけの話。しかし、これは、賢治自身を描いたものと見ることができる。

宮沢賢治ノート 二つの「祈り」 (2006年11月号)
 今年の定期演奏会の第一部で歌う「祈り」は、童話集「注文の多い料理店」の中の「烏の北斗七星」に拠るものです。この機会に、是非、一読されることをお勧めします。
 曲になっているのは、お話の最後で、山鳥を殺した烏の艦隊隊長の烏の大尉が、敵である山鳥の死体を丁重に葬るときに捧げる祈りの言葉です。
 ですから、この祈りは、たとえば「女」「子供」のような「殺される側」からの助けを求める「哀願」ではなく、「殺す側」の一員としての絶望的な「嘆き」であり、だからこそ、他力本願ではなく「世界をならせる」という重く力強い「決意」が込められているように思われます。人間社会に続く殺戮の歴史の中で、どれだけ多くの地位ある人が、このような祈りを捧げたことか。そして、現在でも・・・・・・。
 自らの命を投げ打ってでも、世界がなることを信じる「祈り」。それは、「飢餓陣営」では、コミックオペレッタという笑いの中に込められています。
 特務曹長と曹長は、「われらが罪を許したまえ」と祈ります。大将の勲章を食べた罪の許しを乞うとともに、争いの絶えない人類に対する許しを乞うているのかもしれません。

宮沢賢治ノート 「ポラーノの広場」のキーワード (2005年10月号)
酒と水 酒=邪悪・堕落、欲望、水=純粋・清廉潔白・自制。山猫博士の広場=酒宴、ファゼーロの広場=水で乾杯。キューストたちが、酒宴の場に水を飲ませて欲しいと入って来たことを、山猫博士は馬鹿にして歌い、ファゼーロは酒飲みの山猫博士を馬鹿にして歌い、決闘になる。
つめくさ つめくさは、土を肥やす。つめくさの花は、灯。つめくさの咲く夜の広場は、無数の星がまたたく銀河。つめくさの花は、人の生命。5000人の幸福。
時間 5月から10月までのお話。だから、山猫博士の広場は「夏祭り」、ファゼーロの広場は「秋祭り」。
空間 舞台はモリーオ市(盛岡市?)。ファゼーロが行った皮工場があるのはセンダード市(仙台市?)。キューストが3年後に行ったのはトキーオ市(東京?)の印刷屋。

宮沢賢治ノート (2001年11月号)
「賢治と東京」 
「糧に乏しい村のこどもらが都會文明と放恣な階級とに対する止むに止まれない反感です。」と「童話集 注文の多い料理店」の初版本の「注文の多い料理店」の紹介には書いてある。「東京」の紳士が、森の中でコテンパンにやられて、「東京に帰っても」くしゃくしゃの顔が元に戻らなかった、というのは、賢治の思いっきりの皮肉が込められている。なぜなら、「東京」は、賢治に冷たかったから。父と口論をして家を出た賢治を迎え入れてはくれなかった。賢治の童話を酷評したのも「東京」の人達だった。賢治作品のあちこちに「東京」は顔を出す。「虔十公園林」にも「『東京』街道」が出て来る。 
「透明なもの・かがやくもの」 「虔十公園林」は、物語のあちこちに光り輝くもの、透明なものが散りばめられ、宝石箱のようだ。「雨の中の青い藪」、「ぶなの葉がチラチラ光るとき」、「はあはあ息だけで笑いました」、「水を五百杯でも汲みました」、「山の雪はまっ白に光り」、「すきとおったつめたい雨のしずく」、「からだからは雨の中に湯気を立てながら」、「霧のふかい朝」、「青い橄欖岩の碑」。そして、最後の一文は、神々しいまでの林の情景だ。「そして林は虔十の居た時の通り雨が降ってはすき徹る冷たい雫をみじかい草にポタリポタリと落しお日さまが輝いては新らしい奇麗な空気をさわやかにはき出すのでした。」

宮沢賢治ノート
(2001年10月号)
「十力の作用」 『虔十公園林』の最後の場面、「虔十公園林」の名付け親になる「博士」が言う。「あヽ全くたれがかしこくたれが賢くないかはわかりません。たヾどこまでも十力(じふりき)の作用は不思議です。」・・・十力とは、仏教用語で、「仏に特有な10種の智力のこと。本来、自我の奥に誰もが持っている知恵 。」だという。虔十が人々に笑われながら植えた杉は林となり、子供の遊園地となり、「何千人の人たちに本当のさいわいが何だかを教える」ものとなった。その計り知れない力こそ、本当の智力であり、仏の力が作用したものである。・・・虔十の生き方は、敬虔な仏教徒だった賢治が理想としていた「デクノボー」像だ。

宮沢賢治ノート (1999年11月号)
「猫」
 賢治は、猫が好きなのか嫌いなのか。「注文の多い料理店」「セロ弾きのゴーシュ」
など、賢治作品の猫は様々だがどれもインパクトがある。賢治は、短編「猫」で『(私は猫は大嫌ひです。猫のからだの中を考えると吐き出しさうになります。)(どう考へても私は猫は厭ですよ。)』と書いているが、本音か?

「氷河鼠の毛皮」 賢治の作品「氷河鼠の毛皮」の一場面。イーハトヴ発ベーリング行の列 車の中で乗客が話している。『「わしの防寒の設備は大丈夫だらうか。・・・イーハトヴの冬の着物の上に、ラッコ裏の内外套ね、びばあの中外套ね、黒狐表裏の外外套ね。・・・それから氷河鼠の頸のとこの毛皮だけでこさへた上着ね。」「大丈夫です。しかし氷河鼠の頸のとこの毛皮はぜい沢ですな。」』

「猫の事務所」 「猫事」には初期形があります。事務所は地理と歴史を調べるところではなくて、戸籍を調べるところだったりするのですが、最後はこんなふうです。『「・・・えい。解散を命ずる。」釜猫はほんたうにかあいさうです。虎猫も実に気の毒です。白猫も大へんあはれです。事務長の黒猫もほんたうにかあいさうです。立派な頭を有った獅子も実に気の毒です。みんなみんなあはれです。かあいさうです。かあいさう、かあいさう。』

「どんぐりと山猫」 山猫と書いたおかしな葉書が来たので、こどもが山の風の中へ出かけて行くはなし。必ず比較をされなければならないいまの学童たちの内奥からの反響です。(童話集「注文の多い料理店」初版本広告チラシより)

宮沢賢治ノート 「虔十公園林」 (1999年5月号)
 鷹、ブナの葉の輝き、雨のしずくに大喜びする虔十を人々はばかにした。しかし、虔十は木を植えた。虔十は死んだが奇妙な林は子供たちの素晴らしい遊び場になった。人にデクノボーとばかにされても人のためになることをし、自然や生き物と苦楽を共にすることにあこがれた賢治。(雨ニモ負ケズ)虔十(けんじ+う)は、賢治の理想のデクノボー像だ。

宮沢賢治ノート 「狼森と笊森、盗森」 (1998年6月号)
 人と森との原始的な交渉で、自然の順違二面が農民に与へた永い間の印象です。森が子供らや農具をかくすたびにみんなは「探しに行くぞお」と叫び森は「来お」と答へました。
(童話集「注文の多い料理店」新刊案内チラシ・宮沢賢治自身による)
 1924(大正13)年11月15日発刊

宮沢賢治ノート 「レオーノ・キュースト」 (1997年10月号)
 レオーノ・キューストは、モリーオ市の博物局に勤める、しがない下っ端の地方公務員です。仕事は、市営競馬場を植物園に改造しようなどという、誰も気乗りも相手にもしないような事業。キューストは、一人でその番小屋に宿直し、山羊を飼っていました。その山羊が逃げたことから、「ポラーノの広場」を捜し求めている少年ファゼーロに出会ったのです。1927年、キューストが18等官の時のことです。この「ポラーノの広場」の話を綴ったキューストが、小さい時のこととして、「黄いろのトマト」の話も語っているのです。

宮沢賢治ノート 「宮澤賢治詩華集2」 (1997年9月号)
◎「かはばた」(1922.5.17作)は、「春と修羅」の最後の詩。「林と思想」(1922.6.4)、「電車」(1922.8.17)、「電線工夫」(1922.9.7)は、「グランド電柱」の中の詩。「百の碍子に集まる雀」の「グランド電柱」(1922.9.7)や「海だべがど」の「高原」(1922.6.27)とともに所収。いずれも賢治の心象スケッチmental sketch modified詩集「春と修羅」に収められている。「馬」(1924.5.22)は「春と修羅第二集」。
◎賢治が花巻農学校で教鞭をとった時代(1921.12〜1926.3)は、賢治がもっとも充実した創作活動を行った時期。妹トシの死(1922.11.27)という最大の悲しみや自費出版「春と修羅」「注文の多い料理店」(1924年)がほとんど売れなかったという落胆を味わいながらも、賢治の文学の泉は溢れ出た。「黄いろのトマト」も1924年の作品。

宮沢賢治ノート 「宮澤賢治詩華集1」 (1997年8月号)
 賢治は1928(昭和3)年、稲作指導に奔走する中、33歳で病に倒れた。「まなこをひらけば四月の風が」「風がおもてで呼んでいる」「丁丁丁丁丁」は、病床にあって書かれた詩集「疾中」の中の作品。「死」と向き合った賢治の叫び。

宮沢賢治ノート 「ペムペルとネリ」 (1997年7月号)
 宮沢賢治の作品には、よく二人組みの主人公が登場します。「双子の星」のチュンセとポウセ、「グスコーブドリ」のブドリとネリ、(初期形「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」ではネネムとネネミ)、「ポラーノの広場」のファゼーロとミーロ、おそらく「やまなし」の蟹の子供も、そして「よだかの星」のよだかとかわせみも。これらは、ほとんど兄と妹です。「シグナルとシグナレス」も、最終的には「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカンパネルラも共通した二人組みの主人公と見ることができます。賢治が、妹トシを自分の最大の理解者として最も愛し、その妹を失った絶望の淵から立ち直っていった、という賢治の生涯を映し出していると見ていいのでしょう。「黄色のトマト」には、ペムペルとネリが登場します。

 


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