2004年スマトラ沖地震・津波 関連情報

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地震・津波から1年

――アチェ復興を見る支援者の目と現地社会の目――

2006.1.17公開


外部社会の支援者たちは、さまざまな「復興」事業によって津波を「なかったこと」にしようとする。これに対し、紛争下で外部社会との関係が断たれた状況に長く置かれてきたアチェの人々は、津波を契機として外部社会とさまざまな関係を築き、それによってアチェ社会を発展させる「復興」を期待している。今は津波で多くの人々の関心がアチェに向いているが、いずれ津波の「賞味期限」は切れる。

 1.地震・津波から1年目のアチェ

 2.外部社会からの支援者のまざなし: 津波前に戻す「復興」

 3.地元社会のまなざし: 津波後を生きる「復興」

 4.「アチェらしさ」を活かす関係を求めて


1.地震・津波から1年目のアチェ


(1)地震・津波被害からの復興

2005年12月26日でスマトラ沖地震・津波から1年が経ちました。バンダアチェでは、地震で倒壊した商店跡の瓦礫が整理され、一部は建物が再建され、あるいは移転して事業を再開していました。また、津波で住宅を失い、避難テントや仮設住宅で生活していた人々に対して、恒久住宅の建設が進められています。

その一方で、仮設住宅やテントで生活している人々もまだ多く見られます。津波で破壊された住宅地や養殖池は、被災から1年経っても被害を受けた状況のままに置かれているところも少なくありません。

アチェ復興再建庁(BRR)の2005年12月の発表によれば、2004年12月の地震・津波によるインドネシアでの死者数は13万人、行方不明者は3万7000人で、現在でも5万人が仮設住宅で、そして6万7000人がテントで生活しています。これに対し、建設済みの家屋は1万6200棟、建築中の家屋は1万3200棟で、家屋の建設はなお十分ではない状況であるといえます。

(2)アチェ紛争の和解過程

他方で、津波を1つの契機として、アチェのインドネシアからの分離独立を唱えるアチェ・スマトラ民族解放戦線(ASNLF、通称自由アチェ運動(GAM))とインドネシア政府との間で和平協議が再開され、30年近くに及んだ紛争の平和的解決に向けての過程が進みました。

インドネシア政府とGAMとの間ではこれまで和平に向けて対話が断続的に進められてきていましたが、津波より1年半前の2003年5月にインドネシア政府がアチェ全土に軍事非常事態宣言を宣言し、これによって対話が中断されていました。地震・津波被害を受けてGAMはアチェ復興のために戦闘行為の停止を宣言し、2005年1月には和平のための対話が再開されました。

同年5月、アチェの民事非常事態宣言が解除されました。(津波の直前に軍事非常事態から民事非常事態に格下げされていました。)さらに8月にはインドネシア政府とGAMがヘルシンキで和平合意に署名しました。この後、両者の合意に基づいて双方の武装解除が進められ、2005年12月にはGAMがアチェにおける武装部門を解散し、また、国軍はアチェへの非常駐部隊をアチェから撤退させました。これにともなってGAMはアチェにおける軍事部門を解散し、かわってアチェ委譲委員会(KPA)が設置されました。今後、KPAは元GAM兵士たちの社会復帰や政治参加などの方策を求める役割を担うことが期待されています。

元GAM兵士たちの社会復帰や政治参加などのあり方をめぐって、また、長期にわたる紛争の中で生じたGAMと治安当局の双方によってなされた数々の違法行為や人権侵害をどう扱うかをめぐって、これから紛争の「解決」のために長い過程が必要となることが考えられます。今回の和平合意と武装解除によってアチェ分離独立をめぐる紛争が完全に解決したと全面的に安心するにはまだ早いかもしれませんが、大きな犠牲を払った上で紛争の平和的解決に向けた過程が進んだことを歓迎し、今後の過程を見守りたいと思います。

(3)アチェ復興を見る目

このように、アチェでは災害からの復興過程と紛争からの復興過程が同時に進められます。津波被災者に対しては、住宅の建設、生活手段の再建、心の傷の治癒のための支援が行われています。また、元GAM兵士たちにはアチェ社会に復帰させるための支援などが行われます。

今後これらの支援活動が長期的に進められていく中では、外部社会からアチェに来る支援者と、アチェでそれを受ける地元社会との相互の関係が重要になります。以下は、外部社会と地元社会のそれぞれのまなざしに注目して、津波から1年目のアチェの復興をめぐる状況を私たちなりにまとめたものです。ただし、アチェ支援にかかわっている個人や団体はたくさんあり、それらをすべてまとめて扱うことはできません。この文章で外部社会からの支援団体と言うときには、主に大手の国際支援団体を念頭に置いているということをお断りしておきます。


2.外部社会からの支援者のまざなし: 津波前に戻す「復興」


(1)復興過程にある社会への視線

大きな災害に見舞われた社会を見るとき、人々の関心は、その災害によって「何が失われたか」、そして「失われたものをどうやって回復するか」に向かいます。今回のスマトラ沖地震・津波被害への復興支援活動でも、災害によって失われた(1)衣食住、(2)心の安寧、そして(3)生活手段の再建が主要な目標とされています。これらの「失われたもの」の回復はいずれもとても大切な課題であり、さまざまな支援を受けながら、より多くの被災者が1日も早く「失われたもの」を回復するよう願わずにいられません。

ただし、「津波前に戻す」ことにこだわりすぎると、津波後の地元社会が求める「復興」と食い違いが生じる可能性があるように思います。アチェで活動を行っている支援団体の多くは、支援事業を有効に展開するためになるべくアチェの事情を理解した上で活動を行うよう努力していますが、支援事業の中心的な部分は個別の事情を考慮せずに進められています。それは、特に大手の国際支援団体の多くは、これまでアチェに限らずさまざまな歴史、社会、文化的背景を持った被災地や紛争地で支援活動を行ってきた経験を持ち、復興支援事業の進め方に対する経験が蓄積されているためです。また、アチェの津波被害では支援対象とするべき人があまりに多く、より早くより多くの人を支援するためには被災者1人1人に個別の事情を聞いて対応している余裕がないという考え方もあるように思います。このことは、「被災者1人1人が津波前に置かれていた個別の事情は考慮しない」という考え方を、当然視するのではないにしても、現実的にやむを得ないものとして肯定することが支援活動の前提になっていることを意味しています。別の言い方をすれば、このような支援活動を行う人たちにとって、アチェの「歴史」は津波によって始まったということができるかもしれません。

(2)「テント生活6万人」報道の背景

2005年12月、津波から1年たってもアチェでは避難テントで生活している人が6万人もいることが大きく報じられました。「津波前に戻す」ことを目標とする立場からは、「家に戻れない人がいまだに6万人いる」、つまり「住宅の再建が遅れている」と理解されるでしょう。しかし、住宅の再建やテント生活の現状をもう少し詳しく見てみると、「住宅の再建が遅れている」というだけでは捉えきれないさまざまな状況があることがわかります。また、住宅が得られない人の数にばかり目を向けてしまえば、住宅が再建されれば問題が解決したとする見方につながりかねません。

土地を持たない人たち
まず、津波前に土地を持っていたか持っていなかったかで話が大きく異なります。現在行われている住宅の再建は、津波前に自分の土地があり、そこに建てられていた家が津波で失われた人々を対象に計画されています。津波前に借家に住んでいた人々は当面の間、直接の支援対象に含まれません。これらの人々は、新しく家を借りる資金がまとまるまでの間、テントや「バラック」と呼ばれる仮設住宅に住み続けることになります。また、テント生活をする人々のなかには、津波後に他の地方から移住してきた人々もいます。多くの援助団体がバンダアチェで再建事業に取り組むなか、仕事を求めてバンダアチェに出てきた人々です。これらの人々には、慢性的な住居不足のなか、テントで寝泊りしている人もいます。これらの人々については、「津波で失われた家を建て直す」ことによってでは対応できません。

土地はあっても自宅に住めない人たち
自分の土地があり、住宅再建計画の対象になっていても、テントや仮設住宅での生活を続けている人もいます。一度に多くの家が失われて大量の住宅建設が計画されているアチェでは、建築資材の慢性的な不足に悩まされています。大手の国際支援団体でさえ建築資材の調達に苦慮しており、予定戸数のごく一部しか着工できない状況です。また、様々な支援団体が住宅再建支援に参加していることから、なかには住宅建設を完成させないまま撤退する支援団体もあります。支援団体から引き渡された住宅が瑕疵建築によって入居することができず、住むことができない場合もあります。しかし、いずれの場合も住宅建設については「支援済み」と扱われるため、その後は自己資金で住宅の再建に取り組まなければなりません。それまでの間は仮設住宅やテントでの生活が続くことになります。

自宅に住めるようになった人たち
住居があっても生活がただちに再建されるとは限りません。沿岸部からやや距離があり、津波によって家屋は破壊されず、瓦礫やゴミや泥が流されてきただけだった家に住んでいた人たちの中には、瓦礫などを取り除いて掃除すれば建物としては利用可能だったことから、はじめから仮設住宅への入居が認められなかった人たちがいます。泥水に浸かって家財道具の一切を失ってしまい、建物だけあっても直ちに生活を再建することが難しい状況に置かれています。これに対し、支援団体からの食糧や日常生活物資の配給は、ひと目で被災者とわかるテント村や仮設住宅を優先的に対象とするため、自宅に戻った被災者は生活再建のめどが立たないまま援助物資の支給を受けることもできない状況に置かれています。

(3)生活再建支援の落とし穴

津波によって失われた生活手段の再建も、さまざまな支援団体によって積極的に取り組まれています。津波の被害は個々人の生活手段にとどまらずコミュニティ全体にも及んだことから、生活手段の再建とコミュニティの再建を連動させた再建モデルが採用されました。被災直後の緊急支援段階で行われたのが「Cash for Work」です。これは、瓦礫整理や道路清掃などの単純な労働の対価として被災者に現金収入を与えるもので、支援団体から供与される援助物資では賄えない物資を被災者が自分で選択して購入したり、被災者が新たな生活手段を確保するための自己資金としたりすることが期待されています。さらに段階が進むと、事業資金の貸付や各種の起業支援プログラムが行われました。

均質性と共同事業を前提とするグループ支援
いずれの事業も再建の対象となるコミュニティが念頭に置かれており、そのコミュニティの一部をひとつのグループとし、そのグループへの支援を通じてコミュニティの再建または創出をはかることがめざされました。被災者が広範にわたり、被害の大きさ(失われたもの大きさ)に比べて投入できる援助の絶対的な量が不足しているという状況のなかで、援助を特定の個人に偏らせず、公平性と公共性を確保しながらできるだけ広範な成果を挙げることが意図されていたといえます。ここには、別の見方をすれば、グループを対象に支援を行えば、グループのメンバーが互いに助け合いながら成長し、それがコミュニティ全体の発展に寄与するはずだという考え方があるように思います。その意味で、グループ支援では「メンバー間の均質性」と「競合なき共同事業」が前提とされていると言うことができます。

個人事業主からグループ事業の一員へ
しかし、実際には、1つ1つのグループに参加する人々はそれぞれ異なる経験や背景を持っていました。「津波後」には「被災者」として同じ境遇にあるように見えても、「津波前」の生活はそれぞれ異なっていました。すでに養鶏の経験を持ち、養鶏が主たる生計の手段となっていた人と、自家用を中心に補助的な副業として養鶏を行っていた人、養鶏の経験がほとんどない人が1つのグループにまとめられ、それぞれ同じ数の鶏を与えられて同じ規模で事業展開することが求められた例がありました。また、自宅で個人事業として縫製業を営んでいた人は、支援団体からの支援を受けるため、複数台のミシンが設置されたグループ作業場に毎日決められた時間に通うことになりました。これによって、それまで家事の合間に行われていた作業時間が固定化され、また、注文も自分の能力と評判に応じて自宅で受けるという形から、グループに対してなされる注文の一部を請け負うという形に変わりました。支援団体の側の「グループの成員の平等をはかる」という原則には、それぞれの参加者の固有性を均一化させ、個人事業主をグループ事業の一構成員に変えるという側面があることが伺えます。ここにも、津波前の個別の事情を考慮せず、津波被害によって「歴史」が始まったという考え方に基づく支援活動を見ることができます。


3.地元社会のまなざし: 津波後を生きる「復興」


(1)メモリアル化−−前に進むための区切り

地元社会は津波をどう受け止めているのか――。スマトラ沖地震・津波から1年たった今、アチェでは「ツナミ」を記念する様々な行事が行われていますが、いずれも悲しみを思い返すためではなく、前に進むための区切りをつけるという意味合いが大きいように見えます。

集合墓地
被災地のあちこちに津波犠牲者の遺体を埋葬した集合墓地がつくられています。今回の地震・津波では、身元が確かめられないまま回収され、そのまま集団で埋葬された遺体が多数ありました。遺体を埋葬した土地を柵で囲い、そこに多数の遺体が葬られていることが示されています。犠牲者1人1人の墓碑は、集合墓地の中にこれから少しずつ設置されていくようです。

津波1周年記念イベント
津波1周年を記念した各種のイベントも実施されました。「津波1周年10キロマラソン大会」やバスケットボール大会、絵画展、舞踊ショーなどです。津波被害の心情を綴った詩集の出版も相次いでいます。津波被害の象徴としてしばしば取り上げられたバンダアチェの海岸部に位置するウレレー地区では、津波1周年にあわせてモスクの脇で「津波縁日」が開かれ、津波被害の様子を写したポスターやカレンダー、TSUNAMIと記したTシャツなどが販売されたり、津波被害を描いた背景画を前にした記念撮影の出店が出たりしました。一見すると「津波を金儲けの道具に使っている」と映るかもしれませんが、売っている人も買っている人も多くが津波被災者であることを考えるならば、1年前の津波を振り返りつつ、今を生きる人々を繋ぐ機会のひとつとして「津波」が活用されていると見ることもできるでしょう。

(2)「遊び心」−−対話の材料としての「津波」

また、地元社会の日常生活に組み込まれたかたちで「津波」が顔を見せている場面にもしばしば出くわします。このような「津波」の使われ方見ていると、「津波」が「乗り越えるべき災い」から「対話の材料」になっているようにさえ見えます。

家はなくても独立記念
インドネシアでは集落ごとに幹線道路からの入り口にゲートが設けられ、そこに飾り付けが施されているのを見かけることができます。これは、毎年8月17日のインドネシア共和国独立記念日をそれぞれの集落が祝っていることを示すためのもので、「1945年8月17日〜20**年8月17日、インドネシア共和国独立**周年記念」と書くのはどの集落でも共通していますが、それ以外の部分のデザインは集落ごとに任されており、それぞれ知恵を絞って独自性のあるものを作っています。バンダアチェの大モスク裏を歩いていると、そんなゲートの1つに、対になった文章が頭に書き加えられているものがありました。読んでみると、「たとえ我が家が壊れようとも、たとえテントで寝起きしようとも−−2005年8月17日、インドネシア共和国独立60周年記念」と読めます。津波で家屋が壊され、住民の多くがテントや仮設住宅で寝起きする状況が続いているけれど、今年も独立記念日がやってきたと語るそのゲートからは、この集落の住民の、自分たちの置かれた状況を皮肉交じりの笑いに変えるたくましさを見たような気がします。

発電船の模型
入り口のゲートに船の模型を乗せた集落もありました。この集落は海岸から内陸に約3キロの距離にあり、港に停泊していた重量2500トンの巨大な発電船が津波で運ばれてきた場所です。発電船があまりにも大きくて港に移送する費用が捻出できなかったため、この発電船は今なおこの集落内に鎮座しています。この集落入り口のゲートの上に乗せられた船は、この発電船の精巧な模型だったのです。今では、2500トンの発電船を内陸に運んだ津波の威力の凄まじさを見物しに来る人々が毎日のようにこのゲートからこの集落を訪れています。このゲートを見ると、「みなさんが探しているテレビなどで報道されたあの発電船があるのはこの集落ですよ」と呼びかけられているような気になります。そこには、発電船の存在を受け入れ、おもしろがりさえする精神があるように思われます。

「TSUNAMI」の掛け言葉
この発電船のまわりには募金箱がたくさん置かれています。募金箱にはそれぞれ募金を求めるメッセージが書き付けられています。そうしたメッセージのなかに、「TSUNAMI」のそれぞれの文字を頭文字にした単語を並べて意味の通る文章にした掛け言葉がありました。「神は命じた(Tuhan Suruh)、預言者の民に(Umat Nabi)覚醒せよと(Agar Menjadi Insaf)」、あるいは「神は命じた(Tuhan Suruh)、預言者の民に(Umat Nabi)人類が覚醒するようにと(Agar Manusia Insaf)」というものです。津波にどのような意味を見出せるか――あまりにも大きな災いであるからこそ、その災いの深刻さを競いあい嘆きあうのではなく、津波を材料に機知と洒落を競いあっている、そんなふうにも見えます。

開店記念の垂れ幕
機知と洒落を競いあうと言えば、地震で倒壊した大型スーパー、パンテピラクの営業再開を知らせる垂れ幕もありました。「暮らしの中の試練、賢くふるまおう 食料・生活用品はすでに並べられた、努力した人だけ得をする−−開店記念20%引きセール」とあります。このスーパーはバンダアチェでも最大規模の2階建ての店舗を構えていましたが、津波を引き起こした地震によって2階部分が総崩れとなりました。被災直後は在庫品を被災者に無料で提供したことでも知られています。その後、別の場所に仮設店舗を開いて営業しながら、崩れた店舗の跡地に鉄筋コンクリート建ての頑強な店舗の再建に取り組んできました。津波1周年を前に営業再開にこぎつけ、上述の垂れ幕の登場となりました。「努力した人だけ得をする」の垂れ幕からは、津波後のアチェを生き抜いてきた商店側の自負心、そしてそれを客と共有しようとする余裕を感じることもできます。

もう少し別の読み方をして、商店側の機知と洒落を感じることもできます。「暮らしの中の試練」というのはアチェの人々が今回の津波を受け止めるためにしばしば語った言葉です。「試練」とは、ふつう神が人間に与えた試練のことを意味し、読んだ人はこれが津波のことを指しているとすぐにわかります。「賢くふるまおう」「努力した人だけ得をする」というのも、津波後の生活における心構えを語ったものとして受け止められます。ところが最後に「開店記念20%引きセール」とあり、「賢くふるまう」「努力」というのは実はセールで安く買い物することを指していたのだとわかります。したがって「暮らしの中の試練」というのも、セールの開催を嗅ぎつけて殺到できるかという「試練」のことだったとわかるしかけになっています。

「大統領、お帰りにお気をつけて」
津波から1年目の2005年12月26日、インドネシアのスシロ・バンバン・ユドヨノ大統領がアチェを訪問し、半日かけて1周年記念式典への出席と復興状況の視察を行いました。翌日のアチェの地元紙に、広告欄の片隅に大統領へ向けてのメッセージが掲載されました。「お帰りにお気をつけて。このたびの大統領のアチェご訪問は、いまなお仮設住宅暮らしの私たちにとって神のお恵みでした」とあります。むろん、文字通りに読めば、多忙でありながら自分たちの生活を気にかけてくれた大統領のアチェ訪問に感謝し、帰路の無事を祈る気持ちの表れになっています。

ただし、これも別の読み方ができるでしょう。半日の儀礼的な訪問でアチェから立ち去ることのできる大統領に対し、別の場所に逃げることもできず、被災から1年たち今なお仮住まいを余儀なくされている自分たち。大統領は今回の訪問で自分たちにいったい何をしてくれたのか、そしてこれから何をしてくれるのかという疑問を、強い不満としてぶつけるのではなく、機知にとんだ言い回しにくるんで伝えようとしています。また、大統領をはじめとする政府に対するメッセージであるのと同時に、大統領へのメッセージという形で自分の置かれた状況を客観的に捉えなおし、それを同じ立場にある被災者と共有し対話する試みとしても理解できるように思います。

大きな災害に見舞われた社会を見る際に、外部社会はともすればその社会に生きる人々を「被災者」「犠牲者」という側面からのみ理解し、だから手を差し伸べようと考えがちです。悲しみに打ちひしがれるのではなく、ユーモアと明るさで津波を語ろうとするアチェの人々の姿を見て、騙されたような気持ちを抱く支援者もいるかもしれません。しかし、津波を対話の材料としようとする人々のこうした姿もまた、日々の暮らしの中で被災という現実を生活の一部として取り込み、今を生き抜こうとする人々の現実の姿といえるのではないでしょうか。

(3)「コスモポリタンなアチェ」への参加

上で紹介した「遊び心」は、インドネシアやアチェの生活に馴染んでいない人には伝わりにくいかもしれません。その意味では、上で紹介した「津波による対話の試み」は、アチェの人々にとって言葉や発想が共有できる「身内」に向けた対話の試みであると言えるかもしれません。それと同時に、アチェの人々は、自分たちと言葉や発想が異なる人々との間にも関係を作ろうと努力しています。それは、外部社会からさまざまな人々がアチェを訪れたことによる変化を自分たちの暮らしの中に積極的に取り込もうとしていることの表われであり、津波によって変化が生じた現実の生活に向き合おうとする地元社会の臨み方を見て取ることができます。

空港の歓迎看板
津波はアチェに大きな被害をもたらしましたが、同時に津波を契機として援助ワーカー、マスコミ関係者、調査研究員など様々な人々が世界各地からアチェを訪れるようになりました。バンダアチェのイスカンダルムダ空港には、英語、マレーシア・インドネシア語、アラビア語、日本語、オランダ語、フランス語、スペイン語で「ようこそアチェへ」と記された看板が掲げられています。世界各国からの人々の訪問を受けてバンダアチェはコスモポリタンな様相を呈しており、アチェの人々がそれを十分に認識していることが伺えます。(ところで、この看板の日本語の部分は「ようこそ」や「いらっしゃい」ではなく、なぜか「おかえりなさい」と書かれています。はじめは翻訳ミスかなとも思いましたが、「ようこそ」「いらっしゃい」よりも「おかえりなさい」の方が確かにより歓迎された気になります。)

外国人向け飲食店
こうした外国人の訪問者を対象にした飲食店もバンダアチェ市内に次々とオープンしています。プナユン地区のCaswell's Cafeは、海外直輸入のチーズや西洋仕込みのレシピでつくるパンが売りです。店内には英語のニューズレター「Aceh World」が置かれ、アチェにいながらにして西洋料理が食べられると外国人援助関係者でにぎわっています。また、市内ストゥイ地区のImperial Kitchenは本場の香港料理が食べられると評判です。お客の半分は外国人で、食事の合い間にノートパソコンで打ち合わせしている姿もちらほら見られますが、地元アチェの人たちもお客としてかなり入っています。こうした店は、バンダアチェで長期滞在する外国人を対象に、いわば本国の味を売りにしてつくられたわけですが、地元社会の人々の中からも外国の味とはどのようなものかと試しに足を運んでみる人が出ています。「本場の香港の味」に押しかけるというのは、マレーシアのマレー人の間ではかなり珍しい光景になりそうですが、同じイスラム教徒でもアチェの人々はそれほど気にかけていない印象を受けます。

メリー・クリスマスと中国語
アチェは人口の9割がイスラム教徒であると言われ、首都バンダアチェは町の入り口に「(イスラム教の)信仰深い町」という看板を掲げてきました。しかし、津波後にはじめて迎えたクリスマスの季節には、町のあちこちで「メリー・クリスマス」の看板が見かけられました。これは、バンダアチェに滞在するキリスト教徒の存在を意識するようになったことの現われと理解できます。また、東アジア系の外国人を見かけると、英語の「ハロー」ではなく中国語で挨拶の声をかけてみるといった光景も見られるようになりました。

原爆と津波記念館
私たちが日本から来たと知ると、アチェで津波記念館を設立する参考にしたいので広島の原爆記念館のことを教えてほしいとしばしば尋ねられました。もしかしたら、その人は津波記念館の設立計画とまったく関係ない人かもしれません。あるいは、津波記念館の設立計画自体、あまり形のあるものではないのかもしれません。しかしここで私たちが注目するのは、相手が日本人だと知ったときに、津波記念館の参考にしたいからと原爆記念館の話を持ち出してきたことです。

アチェの人々が津波の被災者であることは事実ですし、また、多くの外国人は彼らが津波被災者であるからこそアチェを訪れているのであり、アチェを訪れている外国人と関係を作りたければ自分たちが津波被災者であることから出発するのは当然のことです。ただし、外部社会の人々に対して自分たちが被災者であることを強調しすぎれば、「自分たちは津波被災者だ、あなた方は被災していない人だ」と、自分と相手の間の違いを強調することになりかねません。

被害を作った原因が人為的なものであるかないかなど、津波被害と原爆被害の間には大きな違いがいくつもありますが、それでもなお津波被害と原爆被害を同列に並べて語ろうとすることは、ともに大きな荒廃を経験した人々として私たちを共通性の中に包み込み、その上で復興を実現した先輩として日本の経験に学びたいという態度をとっていると理解できます。その意味で、これも津波を契機とした外部社会との関係つくりの試みの1つと見ることができます。

(4)「津波」を通じたアチェからの発信

上で紹介したのは、津波を契機に外部社会からアチェにやってきた人やモノに対し、地元社会がアチェにいながらにして自分たちの生活の一部にしようとする例、別の見方をすると、アチェが経験しているコスモポリタン性にアチェの人々が自らを積極的に参加させようとしている例です。他方、コスモポリタンなアチェに積極的に参加するだけでなく、世界の人々がアチェに向けている視線を踏まえ、アチェから津波を契機として世界に積極的に発信しようとする動きも見られます。

観光冊子と観光ポスター
アチェ州観光局は『地震と津波−−2004年12月26日のアチェ』という英語の冊子を用意しました。これは、英語の冊子を用意したことからも明らかなように、津波によって世界各地の関心がアチェに向けられている状況を踏まえた上で、アチェから世界に発信しようとするい思いの表われです。また、アチェ州観光局はアチェの観光ポスターを作成し、観光局を訪れた人に『地震と津波』冊子とともに無料で配布しています。観光ポスターは3枚一組で、それぞれ「津波前」「津波直後」「復興過程」の写真が載せられています。3枚一組のうち観光客に一番人気があるのは津波直後の被害の様子が載ったポスターで、次に現在の復興の様子が載ったポスター、そして一番人気がないのは津波前のアチェの風景や芸能文化が紹介されたポスターなのだそうです。

海外でのシンポジウム
津波を契機に、日本をはじめとする諸外国でアチェに関するシンポジウムやワークショップが多く開かれています。こうしたシンポジウムやワークショップに参加することでアチェ人としてのメッセージを世界に発信しようとする試みも見られます。たとえば、津波被害で失われたアチェ文化財の回復を企図して2005年10月に東京で行われた国際シンポジウムでは、アチェ州博物館館長のヌルディン・アブドゥルラフマン氏が「アチェと知識人の文化遺産としての古写本」という報告を行いました。そこでヌルディン氏は、津波で失われたアチェの文化遺産に人々の関心が向けられていることを踏まえつつ、想起すべきは古写本が活きた写本だった時代、つまりアチェがかつて国際都市として発展していた時代であって、津波後の古写本への関心がアチェのコスモポリタン的な性質の再評価に、ひいてはアチェの豊かさの再興につながるものとなることへの期待を表明しました。津波によってアチェへ向けられた関心が、さらにアチェの津波以外の側面にも広げられることが強く望まれていることが伺えます。

アチェ人留学生
津波をきっかけとした在外アチェ人による発信も活発になりました。たとえば日本に留学しているアチェ人留学生たちは、津波後にアチェの様子を伝える活動に盛んに参加しています。これらの活動は、津波被害の現状を語り、日本社会のアチェへの支援を求める活動にとどまらず、津波被害の陰で見落とされがちなアチェの紛争の歴史や、津波や紛争以前のアチェの人々の日常の様子や芸能文化を伝える努力を続けています。津波によってアチェに関心が向けられたことを契機に、自分たちが現在滞在している社会がアチェについてより幅広い理解を持つようになってくれればとの願いをここにも見ることができます。

これらのアチェからの外部社会への発信に共通しているのは、津波は契機にすぎず、津波だけでないアチェの姿を伝えたいという思いです。津波以前のアチェの様子を積極的に伝えようとしているのもその1つです。したがって、アチェの人々が津波前の状況を熱心に伝えようとするのは、決して津波前に戻りたいという後ろ向きな気持ちからではなく、津波前の多様なあり方を参照しながら津波後の今を生きていこうとする気持ちの表われであると理解すべきなのです。


4.「アチェらしさ」を活かす関係を求めて


このように見てくると、津波を契機に関係が開かれた外部社会と地元社会のまなざしの対比がはっきりしてきます。すなわち、津波をどう見るか、復興をどう見るか、アチェをどう見るかというまなざしの対比です。

外部社会からの支援者のまなざし
外部社会のアチェへの関心はアチェが津波に見舞われた時点から始まりました。世界的に見ても数百年に一度という規模の大地震と大津波に襲われたアチェがどのような被害を受けたか、そしてどうしたらその被害から回復できるか。これが外部社会からアチェへ向けられたまなざしです。復興のターゲットは津波直前のアチェ社会でした。つまり、「津波直前に戻す」ことがめざされています。被害の実態を示す数値――たとえば倒壊した建物の戸数、避難民の数、通行不可能な道路の距離――以外のアチェについての理解は、「敬虔な(あるいは狂信的な)イスラム教徒」から構成され、長く「アチェ紛争」が続いてきた場所といった程度の理解にとどまっているように思われます。「津波」――どんな災害があり、どのような支援が必要で、復興過程はどこまで進んだか――と、せいぜい「アチェ紛争」――どんな紛争で、どのように和平に至り、平和構築はどうなされるか――に限定された関心が向けられてきたといえるでしょう。

地元社会にとっての津波
これに対して、地元社会の対応は「津波後を生きる」とまとめることができます。アチェの人々は津波前の暮らしの延長上に津波を捉え、すでに起こってしまった現実として、津波後の今をどう生きるかに関心を向けています。津波は大きな被害をもたらしましたが、結果として、紛争のために外部社会から閉ざされていたアチェと外部社会との繋がりを開くきっかけともなりました。人々にとって、津波とは自分たちの日々の暮らしに変化を与えた契機のひとつであり、津波にこだわりすぎることなく、自分たちの生活を作ろうとしています。世界の人々がアチェに関心を向けるのも、世界の人々がアチェに足を運ぶのも、現在アチェでさまざまな事業が実施されているのも、いずれも津波があったからだということを踏まえ、それでもなおアチェの人々が津波以外の側面に話題と関係性を広げようとするのもこのためなのです。

外部社会の人々が今のアチェを見たとき、ともすれば自分たちの関心の延長上でアチェ社会を捉え、アチェ社会も津波からの復興へ向けて一丸となっていると考えるかもしれません。しかし、津波以前にも生活改善を求めてさまざまな努力を積み重ねてきたアチェ社会にとって、津波や復興は外部社会と繋がるための契機のひとつなのです。アチェの人々は、自分たちの生活を立て直し、豊かにするため、自分が利用可能な機会のひとつとして津波や復興を捉えていると理解するほうがより現実に合致していると言えるでしょう。

外部社会はどのように関わればよいか
津波支援に関わろうとする外部社会の人々に対してアチェの人々が津波前のアチェの歴史を語ろうとする理由も、こうした状況を踏まえると理解できます。外部社会からの多くの支援者にとって、アチェの「歴史」は津波から始まっています。極端な言い方をすれば、津波後のアチェにだけ関わろうとし、津波直前に戻すことで津波がなかったかのようにすること、それが外部社会にとっての「復興」であると言えます。津波前のアチェの人々の暮らしに対する関心は、さきに述べたように「イスラム教徒」「アチェ紛争」といったステレオタイプのものにとどまっています。他方、アチェの人々は、津波前の日々の暮らしの延長上で津波を捉え、津波を契機に、津波前の問題も含めた生活の改善を試みています。だからこそ、津波前のアチェの歴史を語り、津波前のアチェの状況を外部社会からの支援者に共有してもらおうとしているのです。

今なぜ歴史なのか――これには、津波前のアチェ、すなわち自由アチェ運動(GAM)とインドネシア共和国政府がアチェの政治的帰属をめぐって武力紛争を続けていた時期には、アチェではアチェの歴史に関する多様な解釈を自由に語ることが許されていなかったという状況が背景にあります。過去を語ることは、現状を評価して未来への展望を語ることと表裏一体の関係にあります。紛争中、アチェの分離独立を主張するGAMは、「オランダの侵略も日本の侵略もはねのけて独立国として主権を有していたにもかかわらず、その後に不当にインドネシア共和国に併合されたアチェ王国」という歴史を語りました。他方、アチェにおける統治の正統性を主張するインドネシア共和国政府は、「オランダからの独立戦争時、インドネシア共和国を支持して勇猛果敢に闘い、インドネシアの独立に貢献したアチェの人々」という歴史を語りました。これらがともに何らかの政権のもとで囲い込まれた領域としてアチェを描こうとする歴史観であるのに対し、ヌルディン氏の「17世紀のアチェ王国はコスモポリタンとして繁栄していた」という語りは、未来のアチェを囲い込みから自由な「コスモポリタン」として発展させたいという願いの表われであると言えます。外部からの支援者は、支援対象者が突然アチェの歴史を語りだすことに戸惑いを覚えるかもしれません。しかし、アチェの支援のあり方を考える上で、外部からの支援者はこうした語りや思いを共有する必要があるのではないでしょうか。

津波の「賞味期限」
アチェの人々が歴史を語るのにはもうひとつ理由があります。アチェの人々は、外部社会が津波を通じてアチェに向ける関心には「賞味期限」があることを知っています。復興に携わる世界各地の援助ワーカーも、いずれはアチェから撤退します。津波1周年でアチェに取材に来た内外のメディア関係者も、2周年目にはアチェに足を運ばないかもしれません。そうした現実を踏まえて、アチェの人々は、津波を通じて外部社会がアチェに関心を向けている今こそ、津波への関心の「賞味期限」が切れる前に津波以外の関係性を外部社会の人々と結び、「賞味期限」切れの後も外部社会との関係性が継続するよう努めているのです。

ここで思い起こすべきなのは、津波前のアチェにとって、外部社会からの関心を集めるための切り札が「紛争」だったということです。皮肉にも、紛争による民間人の犠牲者や避難民の数が増えれば増えるだけ、独立紛争がこじれればこじれるだけ、外部社会のアチェへの関心が高まりました。津波の「賞味期限」が切れた後、アチェの人々がほかに外部社会と関係を結ぶ枠組を見つけられなかった場合には、かつて外部社会の関心を集めるために有効だった「紛争」という枠組が復活させられることも十分考えられます。アチェを再び紛争の地としないためにも、外部社会の人々にとって、津波に限定されない関係性の構築に積極的に取り組むことに意味があると思われます。

「アチェらしさ」を活かして
では、津波に限定されない関係性はどのようなところに求めればよいのでしょうか。外部社会がアチェと関わる際に気をつけなければならないのは、「アチェらしさ」を活かすということであるように思われます。ここでいう「アチェらしさ」とは、アチェの人々が外部社会との自由な関係の中に自分たちを置いて、外部社会の人々と結びつくことで自らの発展を求めようとするアチェの人々のあり方をさします。誤解すべきでないのは、「アチェらしさ」といったときに、アチェに特有の風俗や文化にばかり目を向けてしまうことです。アチェにしかない風俗や文化ばかりを強調することは、たとえそれらを尊重する気持ちから出たものであったとしても、結果としてアチェを自分たちと異質な存在と捉え、自分たちとアチェの人々との間に壁をつくることになってしまい、逆に「アチェらしさ」を損なうことにもなりかねません。アチェに関わろうとする1人1人が、外部社会の人々と関係を結ぼうとするアチェ社会の人々と互いに共有できるものは何かを考え、あるいは、互いに違うものを持ち合わせているからこそ結ばれる関係は何かを考え、見つけることができるかどうかが問われているといえるでしょう。それは同時に、外部社会の人々にとっても、「自分らしさは何か」という問いにどれだけ真剣に取り組めるかが問われているということなのかもしれません。

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スマトラ沖地震・津波 災害対応過程研究会 (JRT-DMS)