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2004年スマトラ沖地震・津波 関連情報 トップ > 短報 > 地震・津波から3年目のアチェ 地震・津波から3年目のアチェ ――「災害に強い社会」は被災前社会の理解から―― 2008.1.27公開
アチェの人々は津波を契機にどのような社会を作ろうとしているのか。「死」の扱いかた、そして外部世界との繋がり方という2つの側面から考えてみる。津波後のアチェでは、紛争中に失われていた「固有名詞としての死」を取り戻すことで、身近な人々の失ったことへの悲しみが表現できるようになってきている。また、津波を契機にさまざまな「記念碑」を作り、それを通じて外部世界との繋がりを確認している。
では、外部世界はアチェとどのように繋がることができるのか。外部世界との繋がりによって発展するという特徴を持ったアチェは、長く紛争という課題を抱えていたが、津波を契機に「囲い込み」から解放され、再び世界各地と繋がる状態が生まれている。被災から3年が経ち、人道支援団体が撤退していく中で、アチェと外部世界を繋ぐ役割が期待されるのは報道や調査研究の分野だろう。
津波被災だけに目を向けて、「被災前の状態に戻す」ことを目標とする支援活動では、それは被災を契機に「災害に強い社会」を作ろうとする芽を摘むことにもなりかねない。また、先祖代々受け継がれた生まれ育った土地への愛着に基づく「コミュニティ」理解をもとにアチェを見ようとすると、復興住宅を建ててもらっても空き家のままにしたり間貸ししてお金を稼いだりするけしからん存在だという一面的な見方に陥りかねない。
しかし、復興過程のアチェに見られるのは、島嶼部東南アジアにあって人口流動性の高いアチェ社会が、津波という自然災害だけでなく、その後押し寄せた人道支援の大波をかいくぐって生き抜こうとしている姿である。責められるべきとしたらアチェの人々ではなく人道支援のあり方であるはずだ。そしてそれと同じ理屈で、人道支援の大波の後に報道や調査研究の大波がアチェに押し寄せ、同じような影響を与えることのないよう注意が必要だろう。被災地での報道や調査研究は人道支援と切り離された別の存在なのではない。それ自体がすでに復興過程の一部なのだ。
1.はじめに――「被災前の状態に戻す」でよいのか?
被災社会への緊急・復興支援では、災害によるダメージからどう回復するかが支援の中心となる。そのため、災害によって何が壊され、何が失われたかが問題とされ、壊されたものを直し、失われたものを与えようとすることになる。そして、直したり与えたりできないものが失われた場合には心のケアを与えようとする。
このような救援・復興活動の意義は決して否定できないが、支援活動の目標が「被災前の状態に戻す」でよいのかは考え直す必要がある。「被災前の状態に戻す」ことを目標とした支援活動は、被災を契機に災害に強い社会を作る芽を摘み取ることにもなりかねない。そこで、被災から始まる復興過程ではなく、被災や救援復興活動が被災社会に何をもたらしているかを考えてみたい。
アチェ社会のかたちと課題
外の世界とのつながり方という点では、1976年以来の自由アチェ運動(GAM)によるアチェ独立運動とそれに伴うアチェ紛争は、アチェ社会でとても大きな問題となっていた。アチェ紛争とは、アチェにおける「匿名の暴力」の横行と、外部世界が「民族紛争」に関心を持っていることを背景に、GAMとインドネシア国軍という2つの軍事勢力によってアチェが囲い込まれていく過程だった。「「民族紛争」に関心を持つ」というのは、アチェが分離独立するのかインドネシアとして統合するのか、あるいはアチェで独立運動によって何人死んだのかに関心を向ける態度のことだ。こうした「囲い込み」をどう解くかがこの社会の課題だった。
2004年インド洋津波がアチェにもたらした変化は、「紛争地」から「被災地」へという性格の変化だった。アチェ社会において、被災と被害はどう受け止められ、支援者はどう認識されているのか。このことを考えるにあたり、ここでは「死」がどう受け止められているのかに注目する。アチェが紛争地だったとき、紛争犠牲者の死は「匿名の死」でしかありえなかった。それが津波によってどう変化したかを考えてみたい。
2.集団埋葬地と共同墓地
アチェの人々は津波による死をどう受け止めているのか。これを津波犠牲者の遺体の弔い方から見てみることにする。
津波から3年経ったアチェでは、集団埋葬地と共同墓地という2つの弔い方を見ることができる。
集団埋葬地
この集団埋葬地は、遺体が埋められており、追悼式を行う場所ではあるが、アチェ社会の伝統的な考え方に従えば「墓地」ではない。イスラム教徒であるアチェの人々にとって、墓地とは埋葬された死者一体一体に墓碑が立てられ、断食明けに墓参りしてコーランのヤシンの章を詠んで供養する場所である。命日に墓参りする習慣は一般的ではない。これに対し、アチェの津波犠牲者の集団埋葬地では、12月26日の命日に追悼の儀礼を行っている。集団埋葬地には津波犠牲者の遺体が埋葬されているものの、そこに足を運んで追悼する人たちは、津波で失われた家族・親戚や友人・知人の遺体が実際にその集団埋葬地に埋められているかわからない。津波で海に流されてしまった犠牲者もいるし、流されずに陸地に残ったとしても、10箇所ある集団埋葬地のどこに埋葬されたかわからないためだ。そのため、集団埋葬地には個人の名前を書いた墓石も置かれていない。敷地内にはせいぜい「大人の遺体」「子どもの遺体」という立て札が建ててあるだけだ。そして、集団埋葬地の管理の主体は行政やNGOであって村などの地域社会ではない。
このように、集団埋葬地は遺体を埋葬して供養する場所としての墓地ではない。やや乱暴な言い方をすれば、集団埋葬地に埋葬されている津波犠牲者の遺体は、津波の被害を示す「遺物」として扱われているといえる。ここでは、1人1人の死が家族や友人の死ではなく、津波被災という大きなできごとを象徴し、記念するものとして扱われている。そのような意味で、ここでの死の扱われ方は「死の脱固有名詞化」と呼べるかもしれない。
地震と違い、津波では遺体が流されてどこにあるかわからないままとなることが多い。津波で海に流されてしまった遺体も少なくない。陸地に流されていれば、幸運なら見つけることができるかもしれないが、バンダアチェでも数万体の遺体があり、しかも日が経つにつれて遺体の様子が悪くなっていくため、全部を見て確認することはとてもできない。遺体はトラックで集団埋葬地に運ばれたがそこが遺体でいっぱいだと埋葬できず、別の埋葬地を探してトラックが走りまわることもあったという。
このような状況では、津波の犠牲者1人1人がわからなければ弔うことができないと考えるのは現実的ではない。そのための知恵が、集団埋葬地を個人ではなく津波犠牲者全体の追悼の場とするということだったのだろう。だからこそ、津波で家族・親戚や友人・知人を失った人たちは、その集団埋葬地に遺体が埋葬されているかどうか確信がもてなくても、集団埋葬地を訪れて死者への追悼の気持ちを捧げることができる。
共同墓地
津波直後には遺体が多すぎて埋葬場所を選ぶことができず、集団埋葬地にまとめて埋葬せざるを得なかったけれど、そのとき身元が判明していた遺体には目印をつけておき、時が経って余裕が出てきたので集団埋葬地を掘り返し、地元の共同墓地に埋葬しなおしている人々がいる。共同墓地では埋葬した場所に墓石を置き、通常の墓地と同じように死者を弔っている。
共同墓地は、村などそれぞれの地域社会が管理している。被災直後に瓦礫と遺体の山の中から親しい人の遺体を見つけ出し、それをわざわざ掘り返して埋めなおしているところからも見て取れるように、津波犠牲者の遺体を個人として弔おうとする人々の執念を見て取ることができる。これは、脱固有名詞化された死を埋葬しなおすことで、「固有名詞としての死」を取り戻していると言うことができる。
陸軍駐屯地の墓碑
集団埋葬地や共同墓地に見る津波犠牲者の弔い方から何が見えるのか。
津波前、アチェで紛争が激化していたころ、アチェでは道端で突然撃たれたり、突然撃ち合いが始まって流れ弾に当たったりして人が死ぬことがしばしばあった。残されたものには、誰によってどういう理由で殺されたのかがわからないままだった。また、ある日突然正体不明の人が家にやってきて家族が連れて行かれ、そのまま行方不明となることもよく起こっていた。あるいは、家族が朝仕事に出かけたまま、いつになっても帰ってこないこともあった。そして、あるときたくさんの白骨遺体がまとめて発見されたりする。しかし誰の遺体かはわからない。
このように、紛争下のアチェの人々は、行方不明になった家族や知人が生きているかもわからないし、殺されたとしても誰によって何のために殺されたのかがわからないし、遺体が出てきても誰の遺体かわからないという状況に置かれていた。死体を前にしても、死んだ原因を詮索したり、殺されたことを悲しんだり、殺した相手を恨んだりすることはおおっぴらにできなかった。紛争の犠牲者となって亡くなった人たちは、一括して「紛争犠牲者」としてしか処理できなかった。それは遺体処理であっても、本当の意味での死者への弔いではなかった。
これに対して津波被害者は、弔い方はさまざまだが、それぞれの方法で意味づけして語られる対象になっている。長いあいだ死を意味づけできなかったアチェで、津波を契機に死を意味づけ、失った悲しみをおおっぴらに表わすことができるようになった。津波は、長く続いた紛争で失われた人たちを過去にさかのぼって弔う方法を与えてくれるのかもしれない。
3.津波を記念する/津波で記念する
津波はアチェでどのように記念されているのか。また、津波を使って何が記念されているのか。津波から3年経ったアチェでは、津波以後に建てられたさまざまなメモリアルを見ることができる。そのなかには、津波の被害をそのままの形で残しているもの、津波の被害から修復して残しているもの、津波の被害から形を変えて記念しているもの、津波を契機に新しく導入されたものなどがある。
バンダアチェのブランパダン広場には中華慰霊塔が建てられている。この広場は、独立記念日には記念式典が行われ、バンダアチェ市のメインの広場だ。津波が発生した日曜日の朝にはここで数百人が市主催の運動に参加しており、市長や副市長を含む多くの人々が津波の犠牲となった。現在、ここに高さ十数メートルの石造りの四面の塔が建てられている。在米華人団体や在インドネシア華人団体が建てているもので、4つの面のそれぞれに華語、インドネシア語、アラビア語、英語で碑文が記されている。インドネシアではつい最近まで公共の場で華語(中国語)を表記することが禁止されていたことを考えると、町のメインの広場に華人団体が建立した碑が建てられ、そこに華語の碑文が書かれているのは非常に新しい現象だと言える。
海岸に停泊していて津波で内陸に運ばれた発電船(アポン船)も、メモリアルとしてそのまま保存されることが決まった。発電船の周囲100メートルの範囲にある住宅は政府によって買い上げられ、津波記念公園を作る計画がある。この発電船がある集落のゲートには、住民の手によって発電船の模型が作られている。
津波で一切の建物が流され、モスクだけ残った大アチェ県ランプウのモスクでは、トルコの支援によってモスクがきれいに再建されたけれど、津波によって破壊された内部を一部そのままにし、津波の記憶を風化させないために残している。
バンダアチェ市内の学校には、学校名の下に企業名を記した学校をいくつか見ることができる。これは津波後に再建された学校で、再建資金を提供したスポンサーの名前を記念に記しているものだ。なかでもコカコーラやホンダによる再建学校では、学校の壁に企業のロゴマークがそのまま描かれていて人目を引いている。
復興住宅がまとめて建てられて復興住宅村となった地区には、入り口にスポンサーの名前を堂々と冠したゲートを見ることができる。大アチェ県ヌフン村の丘陵地には鮮やかな黄色い壁と赤土色の屋根が特徴の復興住宅が整然と広がっており、その入り口には「中国インドネシア友誼村」と冠したゲートが立てられている。
同様に、バンダアチェのビタイ地区に建てられた復興住宅村では、赤いレンガ屋根と白い壁が特徴の住宅が立ち並び、入り口には「トルコ赤新月社村」と書かれた門が設置されている。
このように、津波後のアチェでは、それまでアチェで見られなかったようなさまざまな意匠が出現しているのを見ることができる。これを、津波を契機に外部世界からやってきた支援者たちが自分たちの痕跡を残そうとしたものと見る考えもあるかもしれない。支援者側にもそのようなニーズがあるのかもしれないが、それとは別に、アチェの人々がコカコーラやホンダのロゴ入りの学校を見てかっこいいと思っているという話を聞くと、支援者に一方的に押し付けられたのではなく、地元住民が進んでこれらの看板を掲げている面もあるようだ。中華慰霊塔も、津波を契機に中華世界から支援者が入ってきたことのきっかけとして公共の場に華語の碑文を彫り付けた記念碑を建てたということであり、興味深い。また、中華慰霊碑の4つの面にそれぞれ異なる言葉で碑文が記されていることは、これまで紛争中に外部世界に対して閉ざされていたアチェの人々による外部世界と再び繋がろうとする決意の現われであるとも思える。
これらのメモリアルは、津波そのものを記念しているとは限らず、津波を契機に外部世界の人々と新しい関係を作るための手段としてメモリアルがなされているという面もあるのだろう。
4.復興はどこに向かうのか
アチェの復興はどこに向かうのか。これを考える上で重要なポイントは、アチェ社会にとって重要な問題である外部社会とのつながり方という観点だろう。
津波を契機に和平が進展した。それは、アチェが紛争地から被災地になったことによる変化だと言える。しかし、被災地という立場には「賞味期限」がある。外部世界のアチェへの関心はしだいに薄れてきており、アチェで活動する支援者もかなり減ってきている。この「賞味期限」が切れた後で、アチェはどのように外部世界とつながっていくのか。可能性だけ挙げるとするならば、再び紛争地となることで外部世界とつながろうとするという選択肢も残されている。また、限定された経路を独占しようとする勢力が現われて、再び津波前のような「囲い込み」が起こるかもしれない。
この問題を考えるため、ここでは現在のアチェ社会が外部世界をどのように見ているのかを考えてみたい。その手がかりとして、外来の諸団体がアチェでどのように捉えられているのかを見てみることにする。
バンサとウンマ
この見通しの妥当性を検討するため、ここでは、マレー世界の鍵概念であるバンサとウンマの2つから考えてみたい。外の世界とつながるにあたり、自分たちをバンサとしてつながるのか、それともウンマとしてつながるのかという選択である。
バンサとはもともと民族を意味する。生まれながらにしてどのバンサに所属するかが決まっており、自分の意思で自由に変えることができないような所属の枠組を指す。現代の世界で言えば、民族や国民がこれにあたる。これに対し、ウンマは思想や理念によって所属が決まり、自分の意思で自由に変えることができる。もともとの意味は宗教共同体だが、思想や理念を共有する人々として、たとえば赤十字・赤新月社や国境なき医師団、さらには共産主義者などもウンマの系列に含まれる。
津波後にアチェにやってきた外来の支援者たちの多くはウンマ原理に基づいて活動する人々だった。仏陀ツーチーやイスラミック・レリーフなどの宗教団体はもちろん、赤十字・赤新月社や国境なき医師団なども、仮にその支援者が日本人だったとしても日本人として支援活動を行うのではなく、普遍的な人道主義に基づいて活動しているのであって、したがってここでいう分類ではウンマ原理によるものとなる。
しかし、アチェの地元社会はそのような支援団体もバンサ原理で認識しているように見える。たとえば、トルコ赤新月社に対し、イスラム国のトルコから来たのだからモスクを再建してほしいという要望がしばしば出されたという。赤十字・赤新月社は支援活動にあたって特定の宗教への支援を与えないという原則を持っているため、トルコ赤新月社はモスク再建を行う場合にはトルコのNGOを紹介してこれらの要望に応えていたという。
仏陀ツーチー(仏陀慈済)は台湾を拠点とする仏教団体である。仏陀ツーチーによる復興住宅は住みやすいとアチェでも評判だが、この復興住宅を誰が作ったか尋ねると「ジャッキー・チェンの人たち」という答えが返ってくる。同様の反応は中国の赤十字社が建設した復興住宅でも見られた。仏陀ツーチーは仏教の考えに基づいて支援活動を行っている団体だが、アチェでは中国大陸や台湾や香港をひっくるめた中国人(華人)の一部として仏陀ツーチーを捉えていることがうかがえる。
また、津波被災から1年目を過ぎたあたりから見られるようになった現象として、アチェの人々が見知らぬ外国人に会ったときに、挨拶がわりに「どこから来たのか」ではなく「どこに帰るのか」と声をかけるようになったことがある。「どこから来たのか」という問いは出身地と所属のどちらを尋ねることも可能だが、「どこに帰るのか」という問いは明らかに台湾や日本やトルコのように帰るべき特定の土地があることが前提となっている。外部世界から来た人たちに対し、どういう原理を背景にしてアチェに留まって活動しているのかではなく、どの土地に帰るべき人なのかという観点から関心を向けていると言えるだろう。
このように考えると、アチェではウンマ原理ではなくバンサ原理によって外部世界の人々と自分たちの関係を捉えようとしていることが見てとれる。アチェ社会では歴史的に見てもイスラム教の影響が大きく、現在のアチェ社会からイスラム教の要素を取り除くことは不可能だろう。しかし、これを安易に「アチェはイスラム化に向かう可能性がある」と語るのでは、バンサ原理で関係を作ろうとしているアチェと自分たちとのあいだに壁を作り、アチェをウンマ原理側に追いやることにもなりかねない。
アチェ社会ではイスラム教の影響力が大きいことを認め、イスラム教の実践を尊重した上で、イスラム教に縛られない関係つくりが求められている。その意味では、よくも悪くも宗教性があまり強く意識されていない日本や日本人には、アチェを国際社会に受け入れ、位置づける上で、積極的に関わっていく意義が大きいだろうと思われる。
5.人道支援から調査研究へ
「社会を守るための技術」
このことは、得られたデータをどう解釈するのかという問いと密接に結びついている。アチェには津波被災前からの歴史があるにもかかわらず、それを理解せずに津波被災だけしか見ないと、理解しがたいものに対して「敬虔なイスラム教徒だから」「紛争地だから」「開発途上国だから」などとする安易な理解に陥りかねない。
たとえば津波警報システムが挙げられる。インドネシアでは2004年の津波を契機に津波警報システムを導入しようとしている。しかし、インドネシアに導入された津波警報システムはいろいろな理由でうまく機能していない。そのときにどう考えるか。警報システム自体に問題はなく、それがうまく機能しないのはインドネシアに問題がある(たとえば、途上国だから/紛争地だから/イスラム教徒だからなど)とする考え方がありうる。そう考えれば、悪いのは技術をうまく使いこなせない現地社会であって技術の側ではないことになる。でも、そのような態度は、社会や人々を守ろうとしているのか、それとも技術を守ろうとしているのか。どんなに優れた技術でも、それを受け入れる社会の様子を理解することなく導入してもうまく機能しないし、そのような態度は「災害に強い社会」を作ることとは逆方向を向いたものだと言わざるを得ない。
「被災前の状態に戻す」ではない復興
被災社会が被災前に抱えていた課題や、それを乗り越えようと積み重ねられてきた努力を踏まえて、それらの上に被災と復興を位置づける必要がある。また、「被災地」といっても被災の程度は多様であり、被災者とそれ以外の人に分けるのではなく、被災社会をより大きな枠組の中に置いて、近隣社会との関係のなかで被災社会を捉える必要があるだろう。
「コミュニティ」をどう捉えるか
このようなことを考えるならば、被災前に確固たる「コミュニティ」があって、それが被災後も機能しているかいないかといった固定的なコミュニティの捉え方ではアチェ社会は十分に把握できないことがわかるだろう。そうではなく、コミュニティを動態的に捉えることが必要になる。
以下では、復興住宅の建設を例に取り、支援団体や研究者がアチェの復興をどう捉え、どう語っているかを考えてみたい。
6.復興住宅の建設とその語られ方
「復興住宅が足りない」報道
この建設ペースが早いか遅いかの議論はおくとして、復興住宅の数が避難民の数に見合っていないことは確かだろう。ただし、そのような捉え方では、復興住宅の数さえ増えれば問題が解決するという発想を導きかねないという問題がある。実際には、復興住宅が得られてもそれによって住宅問題が解決するとは限らない。たとえば、瑕疵建築であったり、周辺のインフラが未整備であったり、生計手段が十分に得られてなかったりして、そのために未入居の復興住宅(地)がかなりあるためである。
また、いまだに仮設住宅で暮らしている人々がいるという報道に対しては、それが誰なのかを調べて見る必要がある。津波後のバンダアチェでは、近隣地域から流入する人によって人口が2割近く増えているという。これらの人々はもともとバンダアチェに住む家がないため、一部は仮設住宅や復興住宅に間借りすることになる。建物が有効活用されているからよいと考えるか、それとも被災者のために提供されたものがそれ以外の目的で利用されるのはよくないと考えるかで、この事態をどう判断するかが分かれることになる。被災者とそれ以外の人に区切って被災者にだけ支援を与えるというあり方は、アチェの人々にはあまり説得力を持たないようだ。
復興住宅地のいろいろ
(1)LS村は沿岸部に近い被災地。複数の支援団体により復興住宅が建てられ、被災前の土地所有者(またはその親族)に復興住宅が与えられた。基本的に被災前に住居があった場所に再建された。
被災から3年目には部分的に建設が終了しているが、地区全体での入居者は多くなく、空き家になっているところも少なくない。入居が多くない背景としては、土地の権利を持っている人に復興住宅が与えられたため、家族全員が亡くなった場合にはジャカルタなど遠くに住んでいる親戚などに所有権が与えられたり、所有権を与えられたのがまだ小さい子どもで1人では住めないので親戚の家に引き取られているために復興住宅が空き家になっている例がある。また、所有権者が生きていても、被災後に親戚の家や仮設住宅で生活しているうちにそこで新しい生活拠点を作っており、もとの村に戻らないことを選んだ人たちもいる。さらに、この村に戻るにも、水道や電気などの生活インフラが未整備であり、市場まで遠く、仕事も近くにないなどの理由も、この村に人が多くない理由として挙げられる。
(2)トルコ村は沿岸部の被災地。トルコ赤十字によって復興住宅が建てられ、被災前の土地所有者(またはその親族)に与えられた。行政上は3つの村からなっており、津波前に家は点在していたが、復興住宅建設に当たって住宅地区を作り、村の中で土地の所有権者どうしで土地を交換したり売買したりして住民がみな住宅地に土地を所有するように工夫した。
建設は終了しており、引渡しも完了しているが、地区全体での入居は多くない。入居が多くない背景としては、LS村と同様に、土地の権利を持っている人に復興住宅が与えられたため、家族全員が亡くなった場合にはジャカルタなど遠くに住んでいる親戚などに所有権が与えられたり、所有権を与えられたのがまだ小さい子どもで1人では住めないので親戚の家に引き取られているために復興住宅が空き家になっている例がある。また、所有権者が生きていても、被災後に親戚の家や仮設住宅で生活しているうちにそこで新しい生活拠点を作っており、もとの村に戻らないことを選んだ人たちもいる。さらに、この村に戻るにも、水道や電気などの生活インフラが未整備であり、市場まで遠く、仕事も近くにないなどの理由も、この村に人が多くない理由として挙げられる。復興住宅を所有することになった若者が何人かいて、着替えと寝る以外は共同で生活している例も見られた。また、被災者どうしで結婚し、そのため1世帯で2軒を所有することになったところもあり、そのため所有者はいるものの空き家が多くように見えている。
(3)中国友誼村は郊外の丘陵部。中国赤十字が宅地を造成して復興住宅を建設した。バンダアチェの沿岸部に住んでいたが津波による浸食で土地が消失した世帯や、被災前に間借りしていたために土地がなく復興住宅の供与の対象とならなかった被災世帯が対象。被災前の居住地は多様で、フェーズごとに仮設住宅から入居した。丘陵地にあるため、丘の上の方に作られたフェーズでは水道などのインフラが未整備となっている。被災前は漁民だったけれど、丘陵地に住むことになったために漁に出ることができず、運転手になったりNGOで雇用されたりしている例も見られた。
(4)ツーチー村は、バンダアチェの市街地に近い三日月湖の内側でもともと空き地になっていた部分に、台湾の仏陀ツーチー(仏陀慈済)が一部埋め立てをした上で復興住宅地を建設した。入居者の選抜に当たっては、仮設住宅をまわり、学齢期の児童生徒がいる被災世帯を優先して入居させた。入居時にはくじ引きで入居家屋を決めた。
復興の方向
上で見た4つの復興住宅村の例とあわせて考えると、現在のアチェでは居住地や職業の再編過程が進んでいると言えるだろう。「被災前の居住地で」「被災前の職業で」の復興という方向には進んでいない。
もとの住民の係累に所有権を与えて住宅地を作ったLS村やトルコ村、新しく造成した住宅地に別々の地区から入居者を集めてきた中国友誼村やツーチー村など、現在のアチェにはさまざまな「地域社会」の枠組が生まれている。復興がどの方向に向かい、その過程でアチェにどのようなコミュニティが作られるかは、今まさに取り組むべき研究課題だろう。
そのとき、平時の社会構造をもとにした研究を参照してどこまで有効か、あるいは、復興段階を時間で区切る見方は開発途上国でも有効なのかなど、さまざまなことがらを考え直す必要が出てくるはずだ。報道や調査研究がアチェの復興過程をどのように語るかは、それ自体がアチェの復興過程の一部分でもあることを忘れるべきではないだろう。
7.「人道支援の津波」から「調査研究の津波」へ?
アチェの被災者はなぜ評判が悪いのか
たまたま同じインドネシア国内のジャワで2006年に地震が起こり、アチェとジャワが比較されることが多い。ジャワでは被災者たちが自分たちで作業して家屋を再建したことが強調され、それに比べてアチェは金で人を雇うしできた家には入居しないで人に貸して家賃を取ったりする、というようにアチェの被災者は評判がよくない。
しかし、アチェの人々が対応している状況は、本当にそこまで責められるほどの問題なのだろうか。また、仮に問題があるとしても、責められるべきなのはアチェの人々なのだろうか。
国内外の支援団体には、アチェの地元社会の事情を十分に考慮せず、競うように支援活動を展開した側面があった。たとえば復興住宅建設では目標となる数値があり、期間内にその目標を達成しようと建設を進めてきた。それは、必ずしもアチェの地元社会が求めている方向と合致するとは限らなかった。それに対してアチェの地元住民は、与えられるものはありがたくいただいておき、その上で、ときには支援団体やドナーの思惑を超えて、さまざまな方法で現実的に対応した。復興住宅を間貸ししたり転売したりするのはその一部である。
支援者側の責任を問うのならともかく、それに対応した地元住民の態度を責めるのは筋違いだろう。「募金した人たちの気持ちを考えろ」というのは、被災者に寄り添う態度をとりながらも、支援する側の論理で被災社会を断罪することでしかないだろう。
報道や調査のカウンターパート
私たちは縁あって津波より何年も前からその家族と付き合いがあったが、津波後の調査では、私たちもやはりその家族にたいへんお世話になった。ただし、その家族だけに頼って情報収集していると、見るもの聞くもの、そしてそれらをどう解釈するかについても、その家族に「アチェ人代表」を押し付けることになるのではないかとやや気になっている。
日本でアチェの復興に関するシンポジウムや研究会に出ると、異なる意見が出たときに、「アチェの人がそういった」「アチェの人に聞いてみよう」と言い、その場に居合わせたその家族のメンバーに言及したり発言を求めたりする場面をしばしば見かけた。確かに彼らはアチェで生まれ育ったので、その発言には重みがあるし、参考にすべきだと思う。しかし、だからと言って、彼らの意見だけをもとに、ある主張の説得力を判断することはできないはずだ。これは、調査研究の情報源(カウンターパート)をどう考えるかという問題とも密接に関係している。
多くの場合、現地調査では現地のカウンターパートを探すことから始まる。カウンターパートと良好な関係を築き、カウンターパートを通じて知識や情報を入手したり、解釈を聞いたりする。その前提にあるのは、カウンターパートとの間に良好な関係が築かれれば、カウンターパートは調査研究という目的のために悪意や下心なく協力してくれるはずだという考え方だろう。
これに対して、私たちはそれほど気楽に考えることができない。もちろん、現地でカウンターパートを探し、良好な関係を築くよう努める。しかし、その上で、そのカウンターパートに全面的に依存することは避けようとする。これは、その人物を信用しきっていないためではない。人は誰でも、意識的であれ無意識的にであれ、自分に都合の悪いことはごまかしたりするものだと考えるためである。また、いくら現地で生まれ育ったからといって、その人物が現地社会のすべてのことに通じていることはありえないためだ。だから、カウンターパートが紹介したり教えてくれたりするのは、そのカウンターパートにとって都合が悪くない範囲のものでしかない。カウンターパートに私たちを意図的にだますつもりがなかったとしても、そうなることは避けられない。そのため、私たちの調査では言葉や聞き方を変えていろいろな角度から質問したり、複数の人に尋ねたりして、私たちなりの理解を組み立てていくようにしている。
それを、「現地社会のどの人が言ったのか」と尋ねられれば、特定の人物を指し示すことはできない。「それはあなたがたの解釈ではないのか」と問われれば、自信を持って「その通り」と答えることになる。その解釈が妥当であるかをどうやって証明するのかと尋ねられるかもしれないが、それに対しては、自動的に証明する手段があるわけではなく、いろいろな方法で説得力を増す努力を積み上げるしかないとしか答えようがない。ただし、1つだけ言えるのは、現地社会の出身者を1人連れてきて「この人が言った」と言ったり、あるいはどこかの文書を持ってきて「ここに書いてある」と言ったりする主張とどちらが説得力を持つかは、形式によってだけでは判断できないということだ。
アチェにはこれからも報道や調査研究のための人がたくさん入ることになるだろう。外部世界とつながることで発展するアチェの特徴を考えれば、それは好ましいことだと思うし、だからこそ私たちもその一部であり続けたいと思っている。ただし、報道や調査研究がアチェに関する情報をかなり限られた形で発信し続けるとしたら、それはアチェが紛争中に悩まされていた「囲い込み」を別の形で生み出すことになりかねない。
もちろん、ここで書いている私たちの解釈だけが正しいと唱えるつもりはまったくない。形式ではなく内容から判断するべきで、「アチェ人がそういったから」というのはもうやめにすべきだし、調査研究では誰が仲介役になっているかについてもお互いにもう少し注意しあってもよいのではないかと思う。
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スマトラ沖地震・津波 災害対応過程研究会 (JRT-DMS)