2004年スマトラ沖地震・津波 関連情報

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津波から半年

――アチェの過去、現在、そして将来――

2005.6.24公開


アチェは度重なる「反乱」で知られている。その理由をアチェ人の好戦性やイスラム性で捉えようとしても、問題の解決には繋がらない。歴史を振り返ってみても、アチェの人々が抵抗したのは「異質な人々」に対してではなく「囲い込み」に対してだった。津波を契機に「囲い込み」を解消できるのか。

 1.アチェ地域のかたち

 2.紛争の中を生きてきたアチェ

 3.津波後を生きていくアチェ


1.アチェ地域のかたち


(1)「外部世界との繋がり」によって生きるアチェ

アチェ地域の特徴は、「外部世界との繋がりが自立性を保証する地域」と表すことができます。この特徴は、16世紀頃にスマトラ島の北部で栄えていたアチェ王国にすでに見ることができます。アチェ王国は、東南アジア世界の西端に、また、インド洋世界の東端に位置し、インド洋世界と東南アジア世界の「交わりの場」でした。

「メッカの前庭」
アチェは「スランビ・メッカ」(メッカのスランビ)という異名で知られています。「スランビ」とは、アチェの伝統的な家屋の玄関前の空間を指し、「前庭」「ベランダ」などと訳されます。その役割はちょうど日本の縁側のようで、構造上は家の一部だけれど家の内部ではなく、家の外と内の性格をあわせ持っています。よそからの訪問客はスランビに腰を下ろし、家の中から人が出てきて応対します。訪問客は、しばしばよその土地で手に入れた珍しいものを持ってきたり、よその土地の噂話を持ってきたりします。迎える側も、その土地のものをふるまったり、隣近所の噂話をしたりします。こうして、家の外と内の交わりの場で、よその人と内の人が出会い、モノや情報を交換する場がスランビなのです。アチェを「メッカのスランビ」と呼ぶのは、東南アジア世界から見たとき、イスラム教の聖地であるメッカを奥座敷とするインド洋世界(イスラム世界)という大きな家のスランビにあたるのがアチェであって、そこには各地のさまざまな人が出入りし、目新しいモノや情報・思想がやり取りされていたことをよく表しています。

「アチェ」の由来
アチェでよく耳にする俗説に、「アチェ(Aceh)という名前は、アラブ(Arab)、中国(Cina)、ヨーロッパ(Eropah)、インド(Hindia)の頭文字をとったものだ」というものがあります。実際には、「Aceh」という綴りはインドネシア独立後に導入された新綴りなので、この説の信憑性はあまり高くありません。しかし、その真偽とは別に、この俗説は、アチェの人々が自分たちのことを語るときに世界各地の人々との繋がりによって説明しようとする気持ちの表れであり、その意味で興味深いものです。アチェの人々にとって、アチェ人は決して世の中で孤立した同質性の高い単一民族なのではなく、さまざまな人々から構成される人々だと考えられているのです。そのそれぞれの人々が外部世界と繋がりを持つことで、世界の中でのアチェの自立性が保証されると考えられているのです。

(2)「アチェ人はよそ者に対して好戦的だ」という誤解

歴史を振り返ると、アチェの人々は、支配者に対してしばしば武力で抵抗してきた人々として知られています。そのような武装抵抗運動としてよく知られたものに、アチェ戦争(19世紀末)、インドネシア独立闘争(1940年代後半)、ダルル・イスラム(イスラム国家建設)運動(1950年代)があり、また、自由アチェ運動(GAM)による現在に至る分離独立運動(1976年〜)があります。

よそ者にではなく「囲い込み」に抵抗
度重なる武装抵抗の歴史から、アチェの人々はもともとよそ者に対して好戦的だという印象がインドネシアの内外で広く受け入れられていますが、これは誤解です。これらの武装抵抗をよく見ると、アチェの人々が外部世界と繋がる経路を外部勢力が管理・独占しようとして、それに対してアチェの人々が抵抗するという共通の背景が見られます。アチェの人々がしばしば支配者に武装抵抗を試みてきたのは、外部世界と人やモノを自由にやり取りすることで繁栄していたアチェの人々が、植民地化や国民国家化によって外部世界との繋がりが断たれそうになり、そのたびに外部世界との自由な繋がりを求めて戦ってきたのであって、よそ者が来るたびに直ちに戦いを挑んできたというわけではないのです。

インドネシア現代史の「謎」を解く
独立闘争の時にアチェはインドネシア独立を掲げてオランダと戦ったのに、インドネシアが独立するとインドネシア政府に反乱を起こした、それはなぜなのか、というインドネシア現代史の「謎」の1つも、この考えによって理解できるでしょう。インドネシアが独立すると、アチェは隣接する北スマトラ州と合併させられ、北スマトラ州のメダンがアチェ地域を管轄することになりました。植民地支配者のオランダ人がいなくなっても、外部勢力によるアチェの囲い込みと管理は解消されなかったのです。そのため、アチェは外部世界との繋がりを求めて他地域の反乱に参加したのだと理解できます。つまり、アチェが戦ってきたのは他の地域と切り離されることに抵抗したのであり、他の地域と繋がることに活路を見出そうとしてきたのです。


2.紛争の中を生きてきたアチェ


(1)分離独立要求はアチェ問題の多様な語られ方の一部だった

上のように考えると、1976年以来現在に至るアチェ紛争の一方の主体である自由アチェ運動(GAM)がアチェのインドネシアからの分離独立を掲げていることは、繋がりではなく切り離しを強調するという意味で、それまでのアチェの流儀とはやや異なっているように見えます。

アチェ紛争の語られ方
これまでアチェ紛争の原因について、民族自決、中央対地方、イスラム国家樹立など、さまざまに語られてきました。これは、紛争の当事者自身による説明がさまざまだったことによります。では、アチェ紛争の本当の原因はどれなのでしょうか。実は、そのように問いかけること自体が、アチェ紛争の本質を捉えそこねている可能性があります。アチェ紛争の語られ方が多様であることこそが、外部世界との繋がりを常に意識してきたアチェにおける紛争の最大の特徴であると言えます。

外部世界の流行を観察
外部世界との繋がりを常に意識してきたアチェの人々は、自分たちの生活状況を改善するには外部世界の関心を自分たちに集め、外部世界とさまざまな繋がりを作ることが重要だと考えています。そのため、外部世界でどのような思想や規範が広く受け入れられているかを観察し、それに添った形で、自分たちの状況をどう説明すれば外部世界と繋がりが作れるかを意識してきました。民族自決、中央対地方、イスラム国家樹立などのスローガンは、その時々の指導者が世界の動向を見たうえで掲げたものだったわけです。アチェ紛争の語られ方がさまざまなのはそのためです。

アチェ流の「もてなし」
アチェの人々は、外部世界との繋がりを強く意識していることから、もてなしの意味もあって、しばしば聞き手が期待する答えを話してくれることがあります。インタビューなどで話を聞くときには十分に注意しないと、心にもないことを相手に言わせてしまうことがあります。

アチェ問題の語られ方
GAMとは直接関わりのない一般のアチェの人々も、アチェ社会が何らかの問題を抱えていると考える点では、ほとんど例外なく見解が一致していました。ただし、問題がどこにあり、どのように解決すべきかになると、アチェ問題の語られ方は多様でした。例えば、政党勢力は「スハルト時代の負の遺産」が問題だと言い、アチェ州知事は「中央集権化の歪み」を問題視しました。学生団体は「民意の無視」が原因だと訴え、宗教指導者は背景に「不公正」の問題があると唱えました。NGO団体は「人権軽視」を、企業家は「開発の独占」を、そして知識人は「歴史的経緯の軽視」をそれぞれ問題の根源であると見ました。

アチェ問題と分離独立
アチェ問題の原因をどう捉えるにしろ、アチェ問題の解決のために必要なのは、インドネシアにおけるアチェの位置づけの曖昧さ、インドネシア国軍による人権侵害、経済開発の不均衡の3つを解決することだと広く考えられていました。つまり、アチェ問題を解決する上で、アチェのすべての勢力がアチェの分離独立を求めていたわけでは決してなかったのです。

(2)アチェ問題の語られ方が「独立か統合か」だけになっていった

では、どうして「(アチェ国家のインドネシアからの)独立か、(アチェを含めたインドネシア国家の)統合か」という語り方しかされなくなっていったのでしょうか。結論から言えば、「治安確保の優先」が掲げられ、このことが軍事勢力の発言力を増大させたためだったと言えます。

「匿名の暴力」による治安の悪化
まず、アチェで「匿名の暴力」が増加しました。「匿名」というのは、事件は起こるけれど犯行声明は出されないということです。だから、誰がやったのか、本当のところはわかりません。治安当局は「GAMがやった」と言い、GAMは「治安当局の自作自演だ」と主張します。どちらが本当かわからないし、もしかしたらどちらも本当なのかもしれません。より重要なのは、個々の事件の犯人が誰であろうとも、殺人を含む暴力行為が続いていることに違いはないということです。国軍・警察など治安当局による治安回復作戦が実施されましたが、治安当局はGAMメンバーと疑わしい住民に対して超法規的な処刑を行ったため、結果として民間人犠牲者が増加し、治安はますます悪化しました。

身近な軍事勢力に庇護を求める
このような状況で、治安当局とGAMは、互いに相手を「住民生活の脅威」と非難して、自らと「治安回復の担い手」「住民の庇護者」と名乗り、それぞれ相手側勢力による暴力から住民を守るとの名目で自らの存在や行動を正当化し、暴力行為を繰り返しました。この結果、多くの住民にとって、目の前にある暴力行為という脅威を回避するため、治安当局であろうがGAMであろうが、身近な軍事勢力に庇護を求めざるをえない状況が生まれました。このため、常に「治安当局かGAMか」が問われることになり、さらにこの二択が「インドネシアに留まるか分離独立か」に読み替えられていったのです。

外部世界の関心は「独立か統合か」
その過程では、外部世界との繋がりを求めるアチェの人々の態度が「裏目に出た」側面もありました。アチェの治安が悪化すると、外部世界からアチェに対する関心が高まりましたが、その際に外部世界の関心が「独立か統合か」に向けられたため、外部世界の関心をひきつけるには自分たちの置かれた状況を「独立か統合か」のいずれかで語った方がよいというメッセージがアチェの人々に伝わってしまったという面があったためです。

(3)軍事勢力が治安の悪化を理由にアチェの「囲い込み」を進めた

インドネシア政府は1989年にアチェを「軍事作戦地域」(DOM)に指定して、GAM掃討のための作戦を展開しました。以来、1998年にスハルト体制の崩壊によってDOMが解除されるまでの10年間は「DOM時代」と呼ばれ、治安当局による「囲い込み」のもと、治安当局によるさまざまな人権侵害に苦しめられた時期としてアチェの人々に記憶されています。

国軍とGAMによる「囲い込み」
1998年のスハルト体制の崩壊後、DOMは解除されましたが、アチェが囲い込まれた状況はほとんど改善されませんでした。GAMはアチェを独立国として見立てて、住民から「税金」や「通行料」を徴収し、「国旗」の掲揚や「身分証明証」の携行を求めるなど、人々に物心両面での「アチェ国」への忠誠を求め、インドネシア政府・治安当局にかわってアチェを囲い込もうとしました。これに対し、治安当局は2003年5月にアチェに軍事戒厳令を敷き、外国勢力をアチェからすべて排除した上で、「非常事態」を理由として治安当局による行政への関与を正当化しました。その上で、治安当局は「治安確保」のためにGAMに対する対話と軍事作戦を並行して進め、これによってアチェ問題は軍事勢力が主導権を握ることになりました。

「囲い込み」のもとで外部世界と繋がる試み
なお、軍事勢力によるアチェの囲い込みが強まる状況の中で、アチェの人々は事態を改善するために何もできなかったというわけではありません。外部世界からアチェへの関心の向け方を観察しながら、水面下で、あるいはアチェ域外で、外部世界と経路をつくる試みを続けていたのです。その際には、「独立か統合か」ではなく、「市民社会」「汚職撲滅」「学術交流」などの枠組が用いられました。これは、アチェ問題を語る上で、アチェの固有の問題として語るのではなく、他の地域と共通して語ることのできる枠組を求める試みであり、アチェ問題を外部に開こうとする動きであり、しかも普遍化させることで特定の勢力に独占されない経路を求める動きだったと言えます。


3.津波後を生きていくアチェ


(1)支援の「津波」によってアチェの「囲い込み」が一部解けた

2004年12月26日、スマトラ沖巨大地震に伴うインド洋大津波によってアチェが甚大な被害を受けると、アチェの救援復興活動のために外部世界から大量の人、モノ、カネがアチェに送り込まれました。2005年1月9日には、各国・国際機関の支援表明額が50億1500万ドルに、民間援助が16億800万ドルにそれぞれ達しています。インドネシア政府の発表によれば、津波直後の時点でアチェに入った外国の援助団体は380ありました。各国政府機関・民間団体のアチェでの活動を調整する国連人道問題調整支援室(OCHA)に登録した団体は、4月20日の時点で535にのぼりました。津波への対応に窮したインドネシア政府と治安当局は、外部世界からのこれらの支援を受け入れました。津波を契機として、それまで閉ざされていたアチェは、一気に外部世界に開放されることになったのです。

当局は管理を継続
もっとも、インドネシア政府や治安当局は、アチェを外国勢力に対して完全に開放したわけではありません。津波前に軍事戒厳令から段階が引き下げられていた民事戒厳令は津波後も継続されました。治安当局は救援活動に対し、「治安上の問題」を理由に輸送ヘリの管理や「同行護衛」を求め、さらに、一部では「通行税」の徴収や取材制限なども行いました。インドネシア政府も、国家災害対策本部を設置して管理の枠組を作り、期限つき緊急フェーズを設定して、再建活動を行う外国団体を選定すると発表しました。

国軍が外国勢力を警戒した理由
政府や治安当局、とりわけ国軍による外国勢力への警戒心の背景には、外国の軍隊や報道関係者がアチェに入ることで、自分たちの目の届かないところでアチェの人々が外部世界の人々に直に語る経路を手に入れ、それによって自分たちが行ってきた人権侵害が明らかにされることに対する恐れがあります。国外には外部世界で広く受け入れられている規範(例えば人権)があり、他方で国内には政府や治安当局が囲い込んだ範囲内でそれと異なる規範が存在しているため、囲い込みを解除して内外の繋がりを自由化したら、政府や治安当局は自分たちの正統性が直ちに失われることを知っているためです。

外国勢力の完全排除は求めない
ただし、政府と治安当局にとって、外部勢力をすべて排除してアチェを完全に閉じた状態に戻すことは得策ではありません。それでは災害支援のための莫大な資金がアチェに入ってこなくなるためです。外部世界からの支援を受け入れた上で、その活動や資金の管理を自分たちが独占するのが政府や治安当局にとっての理想なのです。そしてこのことは、逆に政府や治安当局に一定の制限を与えることにも繋がります。

現場の様子を知るための手段を
政府・治安当局は、国連機関をはじめとする外国勢力がアチェに存在する中で、自分たちが舵取りして復興活動を続けていかなければなりません。インドネシア政府・治安当局は、この地域を管轄する政府として、行政、復興・開発、治安維持において透明性や公正性が期待されるようになり、統治能力の実効性が問われるようになります。このことは、長期的に見たときに、アチェ問題の解決のための一番の近道かもしれません。それを実現するためには、復興の過程でアチェで何が起こっているか外部世界の人々が知るための情報の流れを作ることが重要になります。

(2)救援者と被災者を結ぶ経路を確保する試み

政府や治安当局の思惑とは別に、アチェを支援しようとする外部世界からの救援者とアチェの被災者とを結び、人、モノ、カネのやりとりのための経路を確保する試みがさまざまな形で進められています。

■物流インフラの修復・拡充
津波はアチェの沿岸部の道路や港湾設備を壊滅させ、このため被災状況の把握や救援物資の輸送に困難をきたしました。救援復興活動を円滑に進めるため、道路や鉄道、港湾施設などの物流インフラの整備が進められつつあります。

国道の修復
2005年5月8日、米国政府とインドネシア政府はバンダアチェ=ムラボ間の国道(全長240キロ)の再建を行う合意文書に調印しました。津波によって道路が寸断され、多くの村が孤立して援助物資の輸送に苦労したアチェ州西南部では、インドネシア国軍が中心になってバンダアチェ=ムラボ間の国道の応急修理が行われ、仮の橋梁が設置されていました。その本格的な再建のため、米国政府から2億4500万ドルが投じられることになったのです。

鉄道の再建
5月13日には、アチェ州の鉄道再建のための事業可能性調査をフランス国有鉄道とインドネシア政府が共同で実施することが合意されました。アチェ州政府の交通運輸局長は、これまで交通網と連結していなかった孤立した地域を鉄道が横断し、農園や養魚場などを経由して、それによって農民や漁民が産品を市場に流せるようになることへの期待を表明しています。

港湾の整備
また、港湾整備への援助も相次いで表明されています。州都バンダアチェ市のウレレー港は、沖合にあるウェー島とのあいだで旅客船が運航していましたが、津波の直撃を受け、港湾設備が周辺の集落ごと跡形もなく破壊されました。これに対して、5月16日、国連開発計画(UNDP)はウレレー港の再建費用として200万ドルの供与を決めました。また、バンダアチェ市の近郊にあり、アチェ域外からの石油・ガソリンの供給基地になっているマラハヤティ港の再建には、オランダから800万ユーロの支援が計画されています。

インフラ整備の意義
道路や港湾といった大型の建設を伴う援助に対しては、政府高官と建設業者の懐を潤すだけで一般の住民には何の利益ももたらさないのではないかという意見もときおり聞かれます。確かに、汚職や癒着などによって関係者が私腹を肥やし、援助を行う側の国民の税金が無駄に使われたり、援助を受ける側の人々に十分な便宜が届かなかったりすることはあってはならず、それを防ぐための方策が練られる必要があることは言うまでもありません。ただし、そのこととは別に、アチェの人々が外部世界と繋がる経路を確保し、多様化するという意味で、道路や港湾の建設自体を否定するべきではないだろうと思います。

■モスクのネットワーク
コミュニティ・レベルで見た際に、アチェ社会にアクセスする窓口として利用されているのがモスクのネットワークです。イスラム教の礼拝所であるモスクは、沿岸部の漁村を含め、アチェ社会の隅々に設置されています。1日5度の礼拝の時刻を周辺のムスリムに伝えるため、多くのモスクはスピーカーを備えています。礼拝に使われる以外は集会所としても利用されてきました。コンクリートを使用した頑強なつくりで、柱が丸く、壁がない開放的な構造だったことなどから、津波にもよく耐え、津波によって家屋が跡形もなく押し流されてしまった集落でもモスクだけは元の形を保ったまま残ったところが多くありました。

救援活動の拠点として
そのため、モスクはアチェ各地で救援活動の拠点となっています。特に、アチェ域外のイスラム諸国やイスラム社会団体がアチェ社会に救援活動を行おうとする際に、民族や出身を問わずムスリムであれば誰でも利用できるモスクは、アチェ社会へアプローチする上での目印とみなされています。

情報伝達の拠点として
また、モスクは情報伝達の拠点としても注目されています。インドネシア最大のイスラム社会団体の1つであるナフダトゥル・ウラマー(NU)は、津波発生直後からアチェに食糧支援やボランティアの派遣を行っていましたが、このたび、アチェのモスクに設置するためのスピーカー400セットの支援を行いました。NUのハシム・ムザディ総裁は、「モスク、礼拝所、避難民キャンプで情報を伝達したり、それぞれの活動を調整したりするために利用できるだろう」と語っています。このほかに、モスクにイスラム導師のグループを巡回させて、説法を行うことで被災によるトラウマを緩和する試みも行われています。

■地方分権化
被災者の側からも、外部世界との経路を確保しようとする動きを見ることができます。地方分権化を求める動きも、そうした動きのひとつと見ることができます。新たに郡、県市、州の設置を求める声が出ていますが、これらは行政へのアクセスを容易にするためのものと理解することができます。

新郡設置の要求
例えば、2005年4月、北アチェ県ニサム郡のバンダルバル地区とロクウェン地区の住民代表13人が同県の地方議会議員と面会して、両地区をニサム郡から分立させて新しい郡を設置するように求めました。彼らは新郡設置の理由として、行政上の諸手続きを迅速に行い、住民の福利厚生を向上させることなどを挙げています。このほかにも、アチェでは県市の分立や州の分割がいくつか提案されています。

地方分権要求の意義
インドネシアでは、スハルト政権時代に中央に権限が集中したことの問題が指摘され、スハルト体制後に地方分権化が進められてきました。その経験の中で、地方分権化が単に行政単位の細分化だけであれば、地方に小規模の独裁者を産むだけにしかならないとの問題点も指摘されています。確かに、地方分権化しさえすれば問題が解決すると考えるのは安易すぎるでしょう。しかし、アチェの人々が行政へのアクセスを求めて行政単位の分化を要求するようになったことは、アチェを外部世界から切り離し、排他的な管理を試みるインドネシア国軍とGAMが軍事的優位を競うなかでアチェ紛争が進展してきたことを踏まえて考えるならば、長年にわたってアチェを紛争地域としてきた構造そのものに変容をもたらす可能性があり、これから注目していく必要があるように思います。

(3)これから私たちに何ができるのか

津波から半年が経ち、これから復興計画が本格化していく中で、外部世界に拠点を置く私たちには何ができるでしょうか。

支援活動の多様性を認めること
はじめに確認しておきたいことは、アチェ問題の本当の原因を探り当てて、その原因を取り除こうと努力することは、やり方によっては、外部世界からの支援を受けようとしているアチェの人々の考え方を誘導し、単純化・一本化することに繋がりかねないということです。アチェ問題には本当の原因が1つだけあり、まずそれを見つけ出してそれを解決することが必要であって、それ以外の関わり方は正しい関わり方ではない、という態度で臨むのではなく、それぞれが自分の立場や専門性から考えつくそれぞれのことがらに対して改善のための方策を練るというのが、実はアチェ問題の解決に最も近いのかもしれません。いずれにしろ、支援者どうしが排他的な関係を作ることは、支援者と繋がろうとする人々の間に排他的な区切りを作り出し、結果として支援者による人々の囲い込みを産むことにもなりかねないということは意識しておく必要があるように思います。

募金の一極集中を避けること
さて、活動の継続には一定の資金が必要だというのが現実です。そのため、支援活動を行っている個人や団体に寄付するという形での支援もあるでしょう。そのことを確認したうえで、外部世界との経路の多様化という観点から、寄付が特定の団体に過度に集中することは避けた方がいいのではないかと思います。特定の団体に寄付が集中すれば、その団体が努力して支援の現場で経路の多様化を請け負うのでない限り、経路の多様化と逆行することになりかねません。

現場で活動している人たちと繋がること
これに関連して、北スマトラ州メダン在住の広瀬憲夫さんや同州タルトゥン在住の宇野仰さんのように、本業を別に持ちながら、寄付などで資金がある程度集まるたびにアチェやニアス島を訪れて支援活動を行い、これまで支援を続けてきている人たちがいます。特に広瀬さんは、津波発生から半年間にアチェを10回訪問して、塩害を受けた農地の土壌改良のための地道な活動を続けています。このような活動を続けている人たちを支援することは、経路の多様化という意味からも大いに意味があるはずです。このページでは、このような活動に関する情報を含め、アチェやニアスの復興の現場で起こっていることについての情報を整理して発信することで、アチェやニアスが外部世界と繋がるための一助になればと思います。

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スマトラ沖地震・津波 災害対応過程研究会 (JRT-DMS)