|
2004年スマトラ沖地震・津波 関連情報 トップ > 基本情報 > アチェ「反政府運動」の歴史 アチェ「反政府運動」の歴史 2005.1.5公開
■このページの構成 1873年、オランダ人によるアチェ侵略にアチェ人が抵抗した。「異教徒による支配に抵抗する」というスローガンのもとに多数の人々が集まった。 第二次世界大戦の終戦直後、オランダによる再占領に抵抗した。インドネシア独立後は、アチェが置かれた地位への不満からインドネシア政府に反乱を起こした。 1976年、アチェ分離独立派が武装闘争を開始した。「アチェ国」政府首脳はスウェーデンに亡命し、国外からアチェのGAMに司令を与えて武装闘争を継続させた。 スハルト政権末期の10年間、アチェが軍事作戦地域とされ、アチェの人々は国軍・警察による日常的かつ深刻な人権侵害に悩んだ。 スハルト政権の崩壊後、2002年12月にインドネシア政府とGAMの間で停戦合意が成立したが、2003年5月に停戦合意が崩壊し、アチェに軍事戒厳令が敷かれた。
アジアにおける「国民統合の優等生」と言われていたインドネシアでは、1998年のスハルト体制崩壊後、国内各地で様々な武力紛争や社会紛争が生じている。2004年スマトラ沖地震の震源地にもっとも近く、地震・津波による甚大な被害を受けたアチェは、そうした紛争がもっとも深刻なレベルに発展し、かつ長期化している地域だ。 スハルト体制崩壊後、アチェをめぐる問題として指摘されたのは、(1)インドネシアにおけるアチェの歴史的な位置づけ、(2)(特にスハルト政権時代の)インドネシア国軍によるアチェ住民に対する人権侵害、(3)アチェの経済発展の遅れ、の3点だった。それ以来、これら3点に対する理解を深め、これら3点の改善を通じたアチェ問題の解決がはかられてきた。しかし、アチェのインドネシアからの分離独立を求める「アチェ・スマトラ民族解放戦線」(あるいは「自由アチェ運動」(GAM)。インドネシア国内での通称はGAM)とインドネシア国軍との戦闘は1999年から激化し、民間人にも多数の犠牲者を出してきた。アチェは現在も民事戒厳令下にある。 1873年にオランダがアチェ侵略を開始したことにより、アチェの在地勢力であるスルタンやウレーバラン(領主層)の抵抗を受け、戦争状態となった。スルタンやウレーバランは劣勢に追い込まれたが、1881年、ウラマーであるトゥンク・チ・ディ・ティロ※の指導のもと、広範な人々を動員した戦争が勃発した。1891年、トゥンク・チ・ディ・ティロの死去によって戦争は次第に衰退化したが、ウラマーを中心としたアチェ人による抵抗は1914年ごろまで続いた。 ※1836年生まれ。父親はアチェ王国のカディ(イスラム教の裁判官)であるトゥンク・シンドリ。本名はシェフ・サマン(Syeh Saman)。ピディ県ティロの宗教学校のイスラム学者であることから、大ウラマーに与えられる称号であるトゥンク・チを用いて「ティロのトゥンク・チ」すなわち「トゥンク・チ・ディ・ティロ」と呼ばれた。
1873年3月、蘭領東インド総督はジャワ人を派遣して、アチェ王国マフムド・シャーに対して次のような最後通牒を伝令させた。(1)アチェは無条件降伏せよ、(2)アチェ国旗を降ろしてオランダ国旗を掲揚せよ、(3)マラッカ海峡における海賊行為を停止せよ、(4)アチェ国王の保護下にあるスマトラの一部をオランダに割譲せよ、(5)オスマントルコ帝国との外交関係を断て。アチェ王国はこれらの要求を完全に拒否した。こうして1873年4月、オランダとアチェの間で戦争が始まった。
アチェ社会には、統治者であるスルタンのほかに、(1)法律の専門家としてのウラマーからなるカディ(裁判官)、(2)知識層から成る政策集団としての宰相や大臣、(3)武力を持つ国防勢力としてのウレーバラン(領主)やパンリマ(司令官)の3つの勢力があり、これらがスルタンを支えていた。
1873年にオランダがアチェを侵略すると、ウレーバランらはスルタン・マフムド・シャーのもとに結束して激しく応戦した。しかし、翌74年1月に大モスクと王宮が相次いでオランダの手に落ち、スルタンもコレラで病死したため、ウレーバランの結束が緩み始めた。ウレーバランの多くは、オランダの宗主権を認めることでかつての権力が保証され、オランダに降伏していった。こうして王国の中心である大アチェはオランダに占領された。
このような中、ムスリムの祖国を異教徒が支配することの罪を説き、異教徒に対する戦争を聖戦と位置づけて立ち上がったのがトゥンク・チ・ディ・ティロらウラマーたちだった。ピディから大アチェへ進軍するこの部隊は、途中で共鳴者を得て大きく膨れ上がった。
この共鳴者には中国人や逃亡したオランダ人将校2人も含まれていた。このことは、トゥンク・チ・ディ・ティロらの運動が視野の狭いアチェ民族主義によるものではなく、また、異教徒の存在自体を否定しようとする排他的な宗教戦争でもなかったことを示している。
オランダによる侵略に対応するため、アチェはトルコを中心にアメリカやイタリアと外交的接触を図った。アチェとトルコとの関係は16世紀初頭以来のものであり、1877年にトルコから武器援助を得て帰国したハビブ・アブドゥルラフマンが反オランダ闘争を指揮した。他方、シンガポールを舞台としたアチェの使節は1873年にアメリカやイタリアの領事と極秘に接触を持ち、アチェへの支援を要請した(ただし、オランダ側に直ちに察知された)。
1891年、トゥンク・チ・ディ・ティロが急死した(アチェ部隊内部の対立から生じた毒殺と見る説が有力)。この後、オランダ側が攻勢に転じた。
オランダ側の戦略の基盤となったのは、オランダ人ムスリムのスヌック・フルフローニェの提言。(1)スルタンは実際には権力を持っていないため、スルタンや高官と和解を求める動きは中止すべき、(2)打倒オランダを聖戦と位置づけるウラマーたちは決して妥協することがないため、これらの反オランダ勢力とは一切の協議を試みるべきではない、(3)アチェの中心である大アチェを完全に制圧すべき、(4)住民の支持を獲得するために農業・手工業・商業活動等を奨励すべき。
この提言をもとにしたオランダは、1903年にスルタン・ムハマド・ダウド・シャーやパンリマ・ポレムらを相次いで降伏に追い込み、翌04年にはアチェをほぼ制圧した。さらに抵抗を試みるウラマーたちは、ゲリラ戦の末にしだいに世を去っていった。1909年にはトゥンク・チ・ディ・ティロの2人の息子も戦死し、このころまでに著名なウラマーがほとんど失われた。
ゲリラ戦争は1914年まで続いた。
アチェ戦争の戦死者は、アチェ側10万人、オランダ側1万2000人と言われている。
1873年4月から1914年までの間、戦闘による犠牲者数は、アチェ側7万人以上、オランダ側約3万7500人、負傷者は双方合わせて50万人と言われる。
高名なウラマー(イスラム指導者)であるダウド・ブルエは、ウラマーたちを結集するべく1939年に全アチェのウラマー同盟を結成した。日本軍政後のインドネシア独立革命の時期には、ウラマーらはアチェ社会からウレーバランを排除し、インドネシア共和国政府と共同歩調を取ってオランダと戦った。この地域がオランダから独立するとアチェはインドネシアの一部となり、ダウド・ブルエは1948年にアチェ州知事に就任した。しかし、ダウド・ブルエは中央集権化と世俗化を進める中央政府に対する不信感を次第に募らせ、1953年9月に中央政府に反旗を翻して反政府運動を開始した。
1939年、ウラマー間の協力関係を回復し、アチェにおけるイスラム勢力の大同団結を成し遂げるため、ダウド・ブルエが議長となって全アチェ・ウラマー同盟(PUSA)を結成した。PUSAは、近代的宗教学校であるマドラサの教育科目の標準化や、伝統的宗教教育と普通教育の統合などを目指した。後に急速に政治活動に関与するようになる。
ウラマーたちにとって、当面の敵はオランダと、その間接統治の道具と化したウレーバランだった。1942年に日本軍がアチェに侵攻して軍政が敷かれると、ダウド・ブルエはアチェ州回教興亜協力会(Maebkatra)の議長に就任し、積極的に日本軍に協力する姿勢を見せた。
日本の敗戦によってインドネシアが独立戦争に突入すると、アチェでは1945年12月から46年1月にかけて、ウレーバランを中心とする親オランダ勢力とウラマーを中心とする勢力の間で激しい戦闘が繰り広げられた。この戦闘はやがてアチェ全土に広がり、ウレーバランからの権力奪取及びウレーバランの殺害へと発展した。
アチェ人は、8月17日に独立宣言を行っていたインドネシア共和国とともにオランダと戦った。メダンでは3000人のアチェ人がオランダに対する戦闘に参加した。また、アチェの人々は寄付を集め、飛行機2機を買って共和国軍に贈った。
このような中、ダウド・ブルエは1947年に陸軍少将としてアチェ、ランカット、タナ・カロからなる連合州の軍政知事に任命され、翌48年にはスマトラ第10師団司令官をも兼任した。
1948年にダウド・ブルエはアチェ州知事に選出された。このように、ダウド・ブルエは高名なウラマーとして活動したのと同時に、優れた政治家そして軍事指導者としてインドネシア民族主義と共鳴して活動を行った。オランダ軍も連合軍も、アチェに再び侵攻することができなかった。
1950年、中央政府はアチェ州の北スマトラ州への編入を決定。アチェの住民はアチェを独自の州とするよう求めて反対した。1950年と51年にムハマド・ナシール首相がアチェを視察した際、同首相はダウド・ブルエとの会談を経て、アチェを独自の州とし、教育と宗教の面で特別の権利を付与することで合意していたと言われる。しかし、後にこの合意はすべて反故にされた。
1948年から51年にかけてアチェ州知事を務めていたダウド・ブルエに対し、中央政府はジャカルタへの異動を命じた。当初は中央レベルでの要職に迎え入れられたと思って歓迎したが、実際にはアチェから切り離されただけだった。ダウド・ブルエはアチェに戻って中央政府に反乱を起こした。
1953年に成立したアリ内閣は、国民党(PNI)を中心としてナフダトゥル・ウラマー(NU)やその他のジャワ人勢力が支配的な地位を占める内閣であり、それを共産党(PKI)が閣外から協力するという事実上のジャワ人政権であった。ジャワ島以外に基盤を持つ勢力であるイスラム主義政党のマシュミ党は政権から排除された。
1953年9月、ダウド・ブルエの反乱が勃発した。ハサン・サレーら有力将校の支持を得て戦闘は大規模なものへと発展し、数週間後には反乱勢力がアチェのほぼ全土を掌握した。この運動は、当時インドネシアのイスラム国家樹立を掲げてインドネシアの各地で起こっていたダルル・イスラム運動と連携していたが、その発端は中央と地方の関係のあり方に対する不満があった。
反乱勃発当時ニューヨークのインドネシア国連代表部事務所に勤務していたハサン・ティロ(アチェ戦争の英雄であるトゥンク・チ・ディ・ティロの孫)は、海外においてこの動きにいち早く共鳴した。アチェ及び南スラウェシのダルル・イスラム運動の承認を得た上で、ハサン・ティロは1954年に自らインドネシア国籍を放棄し、ダルル・イスラム国連大使に就任した。ハサン・ティロはジャワ人と他の民族の平等を実現するために連邦制の採用を提案した。
ダウド・ブルエの運動がアチェ住民から一定の支持を得ていたことや、アチェ以外に北スマトラ州などスマトラのほかの地域でも中央政府に対する反乱が発生したこともあり、中央政府はアチェにおける反乱鎮圧に強攻策をとり続けることができなかった。
1957年、中央政府はアチェ州の設立を認めた。州知事の仲介もあり、1959年になって中央政府はハサン・サレーとの和解に成功した。武力によるアチェ問題の解決に反対する点で中央政府と一致したハサン・サレーは、ダウド・ブルエと袂を分かち、配下の勢力を引き連れて中央政府との交渉に臨んだ。この際に、慣習・宗教・教育の部門において独自の開発を行う権限をアチェ州に付与するという意味で、「アチェ特別州」とすることがとりきめられた。これにより、ハサン・サレーはインドネシア国軍に復帰した。
ダウド・ブルエは依然として抵抗を続けたが、当時のアチェ地域軍事最高司令官がアチェにおけるイスラム法の施行を認める方針を示すなど、インドネシア政府が大幅な譲歩を示したことや、再三にわたって紛争の終結を求める呼びかけがあったことを受け入れて、反乱という形での闘争を1962年に終結させた。
ダルル・イスラム運動の反乱では、アチェ人4000人が死亡した。
ダルル・イスラム運動の結果、ウラマーらは独立闘争によって得た政治指導権を失い、政党政治家、知識人、軍人が政治指導者として台頭した。
1976年12月4日、ピディ県で、アチェ王国の主権を継承する国家としてアチェ・スマトラ国の独立が宣言された。アチェ・スマトラ国は独自の内閣を組織し、支持獲得の運動を展開したが、翌年にはインドネシア共和国政府に知られ、最高指導者のハサン・ティロはシンガポール経由で国外への脱出を余儀なくされた。その後、運動の拠点はハサン・ティロの亡命先であるスウェーデンに移った。
1966年から68年にかけて北スマトラ州からキリスト教徒が多くアチェに移民したことを受けて、中央政府は1968年にアチェにおけるイスラム法の適用を禁止した。アチェではこれに反対し、西アチェ県では教会放火事件などが発生した。
1971年に北アチェ県ロクスマウェ近郊のモービル・オイル鉱区から天然ガスが発見された。地方政府も、地方開発の進展という点で大きな期待を抱いた。しかし、実際の天然ガス開発の過程が進むにつれて、開発の主導権は中央政府にあり、地方開発は二の次であることが逆に実感される結果となった。
自由アチェ運動(GAM)が始められたのはこの頃のことであった。GAMは、アチェがオランダ領東インドに組み入れられたことを否定した。彼らによれば、かつてアチェを支配していたアチェ王国のスルタンはオランダに降伏はしたが、アチェ王国の主権を委譲する手続きは行われなかった。したがって、その後オランダがオランダ領東インドの主権をインドネシアに委譲した際にアチェ王国の主権までインドネシアに委譲されたわけではないとして、アチェ独立の正当化を試みた。
1976年初頭、ハサン・ティロがアメリカから到着し、同年12月4日、アチェ・スマトラ国の独立宣言が発せられた。ただし、当初は極秘裏に進められており、発覚したのは翌年のことだった。アチェ・スマトラ国は、ハサン・ティロ大統領以下の閣僚名簿を作成していた。
ハサン・ティロは、インドネシアにおけるかつての反乱は、いずれもインドネシアを支配する民族(ジャワ人)の支配から自己の民族を解放するという本来の目的達成の努力が欠如していたと考え、ジャワ人による支配からのアチェ解放を目的とした。ハサン・ティロはこのころまでには連邦制の実現に見切りをつけていた。
ハサン・ティロは、国外からの支援を受ける上で妨げになるとしてイスラム主義を前面に出すことを避け、国際世論を味方につけるために民族自決による独立闘争とした。リビアを中心にアメリカやオーストラリアでアチェへの支援を求める活発な活動が行われた。しかし、結果的にはイスラム色を出すことによってしか国外の支援を得ることができなかった。
ハサン・ティロらの運動は、アチェ住民の一斉蜂起を促すことに失敗し、また、国際世論を味方につけることもできなかった。民衆の積極的な支持や動員が得られなかったためゲリラ化するほかに道がなく、軍事施設や公共施設を狙ったゲリラ活動が中心となった。とりわけその対象となったのが、アルンで予定されていた天然ガスの開発計画だった。当初、中央政府はアルンに油井のみ作り、そこからパイプラインを引いて精製等をすべて北スマトラ州で行う計画を立てていた。これがハサン・ティロらの格好の攻撃材料となったため、中央政府はアルンに巨大プロジェクトを移転したという。その上で、中央政府は共産党の残党が反乱を起こそうとしていると住民に呼びかけ、反乱勢力と住民の切り離しをはかった。
ハサン・ティロは次第に追い詰められ、1979年にシンガポール経由で国外に脱出し、スウェーデンに亡命した。
1980年代になってGAMの活動が再び活発化した。1980年代末にはアチェ州知事の要請によって数千人規模の国軍部隊がアチェに派遣され、この状態がスハルト失脚後の1998年まで続いた。この時期は軍事作戦地域(DOM)時代と呼ばれる。DOM時代、アチェの人々は日常的かつ深刻な人権侵害に苦しんだ。
アチェにおけるGAMの活動が再び活発化したのは1980年代のことである。ピディ県と北アチェ県を中心に武装蜂起に備えてゲリラ兵士の調達が始められ、指揮官候補者はリビアでの軍事訓練に参加した。1988年、ピディ県の軍施設が襲撃された事件を契機にGAMの宣伝活動も活発化し、翌89年にはリビアからの兵士も加わり、国軍からの武器強奪やジャワ人移民に対する脅迫行為などへとエスカレートしていった。
シア・クアラ大学の教員や卒業生などアチェ人の知識人層や地方政府関係者の中にも、中央政府の開発政策に対する不満などからGAMの主張を支持するものが出てきていた。当時、インドネシア国家への忠誠はパンチャシラへの忠誠をもってはかられていたため、GAMへの参加を通じて、パンチャシラの否定や、イスラム国家としてのアチェの分離独立なども議論されていた。一方、ゲリラ活動も活発化し、警察署長宅の襲撃や公共施設の破壊などが行われた。
1989年、中央政府はアチェを軍事作戦地域(DOM)に指定した(スハルト退陣後の1998年8月に解除された)。陸軍戦略予備軍や陸軍特殊部隊がアチェに派遣され、分離主義者を力づくで押さえ込もうとした。
当時のアチェ州知事はイブラヒム・ハサンだった。イブラヒム・ハサンは、イスラム系野党の開発統一党が優位を占めるアチェにおいて与党ゴルカルの必勝を託され、1986年に州知事に任命されていた。イブラヒム・ハサンは、ゴルカルの勝利を道路や橋などのインフラ設備の拡充と結びつけたキャンペーンを展開し、1987年の総選挙においてゴルカルの過半数獲得に成功した。
イブラヒム・ハサンは治安の早期回復をスハルトに進言した。これを契機に1990年半ば以降、国軍部隊が数千人規模で増派され、ピディ、北アチェ、東アチェの3県で大々的にGAM掃討作戦が展開された。
中央政府は、分離運動が北アチェなどごく一部でのみ展開されていることを強調した。住民に対しては、道路の修復作業、農村電化率の引き上げ、アチェ中央道の建設、大規模農園の開発などを行った。
一般家庭の照明電化率は9.7%(1980年)から33.6%(1990年)、51.8%(1995年)へと上昇。上水道の普及率も、1980年の2.8%から1990年には7.6%、そして1995年には10.8%に上昇した。
国軍部隊の集中的な投入によって、1992年初めまでには主要なゲリラ幹部たちは逮捕されるか射殺され、あるいは国外へ逃亡し、掃討作戦は成功した。ところが、その後も残党狩り、総選挙時の治安確保、麻薬密売組織の摘発といった名目で増派部隊の駐留は継続された。開発のための治安回復と割り切っていたはずの地方政府にとってもしだいに負担になってきた。
DOM期間中のアチェ人の死者・行方不明者は3000人に上るとされる。ただし、アムネスティ・インターナショナルによると死者は1989年から1993年だけで約2000人であり、また、アチェ基本的人権フォーラムの追跡調査では行方不明者は3000人以上となっている。また、1991〜95年の間に5000人のアチェ人が対岸のマレーシアに逃げ出している。
(1)学生組織と住民投票 スハルト体制が崩壊し、軍事作戦をはじめとする政策に対する批判が噴出すると、政府は軍事作戦を停止した。しかし、治安維持のための作戦はその後もさまざまな形で行われ、その過程で国軍・警察による人権侵害事件が相次いだ。軍・警察による人権侵害に対する批判の声を高める中で、アチェの学生たちは住民投票の要求を運動の中心に据えるようになった。
ハビビ政権が政策課題とした地方分権をめぐっては、アチェでは有名無実化していたアチェ特別州の地位の問題と、天然ガスを産出する割に地方政府の財政規模が小さすぎるという問題が議論の中心となった。大方の意見は、アチェ特別州の地位は首相通達ではなく法律で定められるべきであること、また、天然ガス収入のうち8割は地方に還元すべきであることで一致した。
このような中、スハルト体制の崩壊の過程で次々と作られた学生組織がアチェでも様々な政治社会問題に発言を続けていた。1998年12月、中央政府に対する5項目の要求を取りまとめた学生組織は、中央政府が速やかな対応を示さない場合は住民投票を要求すると付記した。その後、1999年1月末の全アチェ学生青年会議では学生たちが住民投票要求を活動の中心に据えるようになった。この会議でアチェ住民投票中央情報センター(SIRA)が結成され、農村部の住民に住民投票の意味と目的を広めるキャンペーンが開始された。
このような政治的な要求に対し、ハビビ政権は、まず1998年8月に軍事作戦の停止と域外部隊の撤退を発表した。ウィラント国軍司令官も、作戦の中心となった北アチェ県ロクスマウェに赴き、一部の兵士が人権侵害を行った可能性を認め、謝罪の言葉を述べた。ハビビ大統領も1999年3月にアチェを訪れ、過去の人権侵害に対して謝罪を行った。もっとも、ハビビ政権は同年6月に実施される選挙までの暫定的な内閣であり、一連の政策が継続して実行されるかについては疑問視されていた。
軍事作戦地域の指定は解除されたが、治安状況は悪化の一途をたどり、国軍・警察当局は1999年に治安維持・回復作戦を実施した。いずれもDOM時代の再来と見られることを避け、国軍に代わって警察が主導権を握り、主力部隊も警察が担い、警察の要請に基づいて軍が部隊を貸し出す形を取った。しかし、これらの作戦で住民の支持は得られず、かえって不信感を増加するだけだった。軍・警察による群衆への発砲事件は相変わらず起こり続け、GAMによる煽動行為が先にあって発砲に至ったという軍・警察側の説明も、その根拠を提出することができなかった。
学生団体や人権団体は、増強された治安部隊こそが住民の生活を脅かす元凶であるとして、その撤退を求め始めた。住民も、治安部隊が村落部への立ち入りを頻繁に行うようになると、難を避ける意味と抗議の意味から、村を一時捨てて幹線道路沿いのモスクや学校に移動し始めた。こうした避難民は8月半ばに20万人に達した。軍・警察は国内外の批判をかわしきれず、治安回復作戦を停止した。これによって軍・警察の威信は大きく傷つき、また、村落を中心としてGAMの勢力が拡大した。
(2)総選挙
1999年6月にインドネシアの総選挙が行われた。アチェでは選挙実施への妨害行為があり、きわめて低い投票率となった。他方、住民投票の実施に向けて準備が進められ、1999年11月には住民投票を求める数十万人規模の住民集会が行われた。
アチェでは有権者登録が遅々として進まず、有権者登録をしていなくても投票権を与える特別措置がとられた。北アチェ県では選挙監視のなり手を確保することも困難で、予定していた1835箇所の投票所を12箇所に減らし、かわりに投票期間を3日間延長した。しかし、投票率は推定有権者数の1%を割り込む結果に終わった。ピディ県では2.3%、東アチェ県でも39.3%であり、アチェ特別州全体でも投票率は42.5%となり、全国平均の93.5%と比べて異常に低い数字となった。これによって、アチェで選出された国会議員がアチェの住民代表としての立場を唱えることが難しくなり、公式な場でインドネシア政府がアチェ住民代表と話し合う際に住民代表をどのように選ぶかという問題が生じることになった。
こうした状況で、アチェのウラマーたちは9月、バンダ・アチェで全アチェ・イスラム寄宿塾ウラマー会議を開いて対応を協議した。この会議の閉会式には、アブドゥルラフマン・ワヒドやアミン・ライスをはじめとする各党の有力指導者が出席を予定していた。
この会議では、地方自治の拡大ではなく住民投票が求められた。学生団体のSIRAの動きにより、アブドゥルラフマン・ワヒドとアミン・ライスが住民投票に賛成しているかのような報道が行われた。
10月の国民協議会でこの2人がそれぞれ大統領と国民協議会議長に選出されたことで、住民投票運動に弾みがつき、農村部で勢力を拡大していたGAMも、学生を中心とした住民投票要求運動への支持を表明した。各県では住民が県議会と県政府に住民投票を要求し、数万人規模の要求を前に、11月8日の大集会が準備されていった。この集会では、アチェの住民400万人のうち推定50万人が参加し、住民投票を要求した。州知事と州議会議長は住民投票の実施を支持する文書に署名した。
(3)アブドゥルラフマン・ワヒド政権
アブドゥルラフマン・ワヒド大統領のもと、政府はアチェの分離独立を認めない方針で臨んだ。2000年にはスイスのNGOの仲介でGAMと共和国政府の間で戦闘の一時停止が合意された。
2000年の前半、学生だけがアチェ問題の行く末を握っているという状況に不安を抱く人々によって、さまざまな形での住民代表会議が試みられた。しかし、実際にはアチェ女性会議とアチェ学生・青年会議が開催されただけで、アチェ人民会議はGAMによる準備委員会関係者の自宅への放火などのために実施されなかった。この結果、ウラマーたちは政治的発言や活動を表立って行わないようになった。
2000年5月、これまでGAMとインドネシア政府に働きかけてきた国際人道団体のアンリ・デュナン・センター(HDC、本部ジュネーブ)を仲介役として、GAMとインドネシア政府の間で戦闘の一時停止が合意された。この合意では、(1)アチェ住民に対する人道支援物資の配布、(2)人道的支援を円滑に進め、住民に負担をかけている暴力行為を削減するための治安ルール作り、(3)紛争状況を平和的に解決するための相互信頼の醸成、の3点が具体的な目標として掲げられた。この後3ヵ月あまりはGAMと軍・警察の武力衝突は減少し、緊張緩和のムードが漂った。
しかし、人道支援物資の配布は事務手続き上の問題などから容易に進まなかった。治安ルール作りについても、警察による武器不法所持者に対する取り締まりはこの合意で削減対象とされている暴力行為には当たらないとする政府側と、それは事実上のGAM捜索活動であるため合意違反であるとするGAM側の主張は平行線をたどり、相互の不信感を高める結果となった。
(4)メガワティ政権
2001年7月、メガワティ・スカルノプトリが大統領に就任した。2002年12月9日、HDCの仲介でGAMと共和国政府の間で停戦合意が成立した。
この停戦合意は、まず和平を維持・定着させ、その後に和平を強化するという2段階で和平を実現するというものだった。和平の維持・定着には1年から2年が必要であると見込まれ、その目的のために共同治安委員会(JSC)が設置された。停戦合意署名後の2ヵ月間は信頼醸成の期間とされ、その後5ヵ月間は、GAMの武器を回収し、同時に国軍と警察の部隊の撤退を行う期間とされた。この7ヵ月にわたる和平の維持が達成された後、インドネシア国家の一体性の枠組の中でアチェ住民が恐れることなく発言できる環境のもとに包括的対話を行うこと、さらに、ナングルアチェ・ダルサラム州特別自治法を改正することなどが見込まれた。
しかし、停戦合意によっても国軍・警察とGAMの散発的な銃撃戦が途絶えず、また、GAMを武力で鎮圧すべきとする意見がアチェ州以外のインドネシア国内で高まったこともあって、2003年5月13日、メガワティ政権は停戦合意を破棄し、5月19日に「統合作戦」と呼ばれる軍事作戦を展開した。
|
スマトラ沖地震・津波 災害対応過程研究会 (JRT-DMS)