
<2006年>
※「きずな」は東京教会の広報誌です。詳しい内容をお知りになりたい方は、
電話・メールなどで教会までお問合わせください。
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きずな 第420号 2006年11月29日
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文化とは何か
山之内正俊
11月3日は文化の日です。文化とは一体何なのでしょうか。辞書には、1)世の中が開け進むこと。文明開化。2)権力・刑罰を用いずに教え導くこと。3)人間が一定の目的に従って自然に働きかけ、生活を充実・発展させること。またその過程で作り出されたもの。ことに学問・芸術・道徳・宗教など精神的方面のものをいう場合が多い(広辞林=三省堂)、などと説明されています。そして、文化の反語として自然が挙げられています。
「文化とは、他者への思いやりである。」ドイツ文学者でNHKの解説委員を勤められた高橋義孝氏が、かつて、NHKテレビの解説番組の中で語られた言葉です。何と含蓄のある言葉でしょうか。
私はこの言葉と共に思い出すことがあります。それは、ある未開の地と見なされている国を旅行した日本人の述懐です。その国の、見るからに貧しい村を訪れたとき、迎えてくれた村人は、自らの貧しさも顧みず、普段自分たちは決して食べない御馳走を作って、盛大にもてなしをしてくれたそうです。自分が食べたいのを我慢して、来客をもてなす。これは大いなる文化ではないでしょうか。なぜなら、「文化とは、他者への思いやりである」からです。
辞書には、文化=文明開化とありますが、人間にとって、何が文明であり何が進歩であるかは、議論の余地のあるところです。科学の進歩が文明を切り開き、人間の生活を豊かにしているのが人類の歴史のように思えます。だが、文明の進歩は手放しで人間を幸福にしているといえるでしょうか。確かに、パソコンや携帯電話の普及は、人間と人間の意思の伝達を飛躍的に発達させました。しかし、そのことによって私たちが思いやりの深い人間になった訳ではありません。
一見、文明から取り残されたようなところに、他者を思いやる気持が活き活きと息づいています。そこにこそ、豊かな文化があると言えます。
悪魔にささやかれて
−加賀乙彦著『悪魔のささやき』から−
関野 和寛
ルーテル教会ではあまり悪魔とか悪霊というものについて考えることが少ない。というよりも「悪霊なんて信じていない」「そんな話馬鹿らしい」そう思っている人が殆どではないだろうか。牧師たちも聖書に書かれている悪霊に対して大胆に語ることをしていない。
だが聖書が語るように悪魔は必ずいる。今日も、わたしたちの内外からわたしに揺さぶりをかけている。例えばわたしが徒労感に打ちひしがれ疲れ切った時、悪魔は大笑いしている。わたしが孤独に悩まされる時、悪魔はわたしのこころの中で踊り狂っている。わたしがキリストに目を向けられないとき、悪魔はわたしの玉座でふんぞり返っている。
「孤独感、空しさ、疲れ」これらのものは誰しもが抱え込んでいる。「みんな同じ、誰しもが孤独」と諦めてしまいそうになりはしないだろうか。けれども違う!それは違う!わたしたちクリスチャンはそうであってはならない。必ずそこから解放されることができる、それがクリスチャンの生きた喜びである。
この本の著者である加賀氏はクリスチャンであり、また精神医学者、心理学者でありまた作家でもある。氏は獄中で様々な犯罪者と関わり、また病の人々との関わりの中で、悪魔が現実的に働いているということを力強く証言している。氏によれば、多くの犯罪や病気において人は悪魔の囁きを聞くのであるという。その声は内なるところから来る。著作の中に「ムンクの叫び」の絵が載っている。耳を覆ったムンクは外からの音は聞こえないが、自分の内なる不安や葛藤だけには耳を塞ぐことができず叫び声をあげている。
わたしたちも幻聴でなくとも、漠然とした不安、考えてもしょうがない問題や悩みに捉われ、ひとりで抱え込みすぎて落ち込んでいくことがある。勝手に自分であれこれ考え、悩み苦しむ時に悪魔は本領を発揮する。「もっと悩め、もっと!」「お前は駄目なのだよ…」「全部お前のせいだ…」、日常で誰もが抱える心の不安であるがしかし、これこそ悪魔の囁きである。
マタイ福音書15章でペテロは湖の上をイエスさまに向かって歩き出す。だが強い風が怖くなり沈みかけた。恐怖や不安は絶対に消えることはない、けれどもわたしたちには見つめる先がある。それこそがイエスさまである。だけれども、それでも人は勝手に悩み恐れ、そして沈んでいく。そんな時イエスさまはとっさ手を伸ばしペテロの手をしっかりと掴んで引き上げた「なぜ疑ったのか」と。
神はあなたが悩みや恐れの中で沈んでいるのを放ってはおかない。イエスさまはわたしたちを苦しめる悪の力を打ち砕く為に来られた。どんな小さな悩みでも大きな苦しみの中にいてもイエスさまだけを見つめて生きたい。そこにこそ大きな喜びと解放がある。自由でいる為に、自分自身でいる為に、そして何より神を讃美して生きて行くために。何にも惑わされない、何も怖くない、ただイエスさまがいるならば。
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きずな 第419号 2006年10月4日
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100人目の奇跡
関野 和寛
カラーンッ カラーンッ!鐘が高々と鳴り響き、店員が次々に「おめでとうございます!」歓声を上げる。わたしはその鐘の音と店員の喝采の中に呆然と立ち尽くしていた。どうやらわたしは100人目のひとになったようである。これは先日、教会のためにビデオ・DVDデッキを購入しに行った時の出来事である。この電気店では100人にひとり抽選でレジにて買い物が無料になるキャンペーンをやっている。そしてわたしはその100人目のひとに選ばれ、無料でビデオ・DVDデッキを購入し教会に持ち帰ることができたのである。
本当に奇跡の出来事である。この日、わたしは休日であったが私用のついでに教会のお使いにと思い電気店に寄っていた。電気店に入ると店員は接客に忙しそうであり、なかなかわたしに対応してくれなかった。何度も店員に「すみません」と呼びかけるが対応してくれず、いよいよ腹が立ってきてレジの前まで行き無愛想に「あの、さっきからお願いしているのですけれども…」と感情を顕にしてしまった。
けれどもこのように店員に待たされている時間があったからこそ、また休日に電気屋に出向いていたからこそ絶妙なタイミングでわたしは100人目になることができたのだ。全ては偶然に見える神さまのご計画である。
そしてどうだろうか、日本のキリスト者の人口比率は1%。つまり100人目の奇跡だ。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのだ」主イエスさまの声が聞こえてくるではないか(ヨハネ15:16)。
あなたは神さまに選ばれ呼ばれていた。「あの日教会に行ったのは」「あの時洗礼を受けたのは」偶然に見える必然、神さまのご計画があったのだ。それが100人目の奇跡、日本のキリスト者である。あなたは神さまの奇跡の器。頂いたビデオ・DVDデッキ、そしてわたしたち、100人目の奇跡。天国を再生していく。主イエスさまの愛を広めるために。
衣食足って傲慢になる
山之内正俊
十月です。収穫の秋です。この時期になると思い出す諺があります。「天高く馬肥ゆる秋」と「衣食足って礼節を知る」という諺です。この二つ目の「衣食足って礼節を知る」の意味は、辞書によりますと「生活が豊かになって初めて礼儀が重んじられる」という意味だそうです。私はこの諺に大いに疑問を感じています。
今、日本は経済大国といわれています。いわば、国をあげて、「衣食足って」いる状態であるといえます。だが、果たして、今の日本は、「礼節を知る」国といえるでしょうか。
東南アジアの発展途上国は発展途上と言われるとおり、決して豊かとは言えません。少なくとも日本と比べて豊かとは言い難い状態です。よく子どもたちがゴミの山を棒でつついている写真を見かけます。子どもたちが働いている姿です。彼らはゴミの山から役立つものを捜しているのです。それを自分で使うこともあれば、売って金にすることもあります。その子どもたちの目は活き活きと輝いています。
私が中学生の頃、「先生、暇ください。」と言ってよく早引きをして帰る級友が何人かいました。農家の子どもである彼らは農繁期になると一人前の働き手として当てにされるのです。「働かざる者、食うべからず」という諺そのものの時代でした。今、日本ではこの諺は死語と化しているように思います。
今、農繁期に学校を早引きして帰って、家の手伝いをしなければならない子どもがいるでしょうか。生活が豊かになった中で育てられた子どもたちは、自分が好きなことしかしようとしません。いや、好きなことしかしなくてもすむのです。嫌なこと、きついこと、面倒なことなどには手を出さない。それでも生きていけるのです。豊かな社会であるが故に。衣食が足っているが故に。今、日本はそのような状態になっています。そして、子どもたちや少年少女が大人を手こずらせています。引きこもり、学級崩壊、援助交際、こういった言葉は私たちの子どもの頃は考えもつきませんでした。
衣食足って礼節を知る。その礼節の中から文化が生まれる。確かに人は生活の豊かさの中で初めて人間特有の文化というものを形成していくことが出来ます。生活に追われていては、文化どころではないと言えるでしょう。
だが、人(親たち)が築き上げた生活の豊かさにのっかっているだけでは、人は傲慢になるだけではないでしょうか。自分の生活の豊かさを当たり前と錯覚するからです。
作家の山本有三は「子孫に美田を残さず」をモットーにしたそうです。彼は自分の努力なしに生活が豊かになることが、人間をむしばむことを見抜いていたのではないでしょうか。生活が豊かになることは人類の願いです。しかし、自分の努力なしに得られた豊かさは麻薬と同じではないでしょうか。
「美しい国、日本。」新しい内閣の標語です。「美しい」とは、まさに「礼節を知る」ということだと思います。
これは、経済の問題ではなく、人間の精神の問題です。人間とは何かの問題です。ここは、政治に期待せず、人間とは何かを知っている宗教の問題として、私たちキリスト者こそ、この問題に取り組んで行きたいと思います。
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きずな 第418号 2006年9月4日
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老いは尊いこと
山之内正俊
「白髪は輝く冠、神に従う道に見出される」(箴言十六章三一節)。
九月は敬老の月です。老という言葉の中に既に尊敬の意味が込められているのに、わざわざ「敬老」という言葉を遣わなければならないのは、どこか変ではないでしょうか。これは、裏を返してみれば、老人が普段は敬われていないということの現われでしょう。
電車やバスに「優先席」というのがあります。お年寄りや、体の不自由な人や、妊婦等に優先的に座ってもらう席のことです。このような「優先席」があるのは、恥ではないでしょうか。なぜなら、お年寄りや、体の不自由な人や、妊婦等に優先的に座ってもらうことは当然のことだからです。座席は、はじめから、全てこれらの方のための優先席であるはずです。
私の母は、一昨年、九二才で帰天いたしましたが、七十歳になったころ、「自分は、何もしなくても、こうして生きているだけでいいんだ」と言ったことがありました。そのとき、私は、「人間、死ぬまで目標に向って行かないと、生きているということにならないんじゃないの」と心の中で反論したものでした。今、自分が六十歳を過ぎ、その頃の母の年齢に近くなって、自分の老いを身近に感じるとき、母の言ったことが少し分かるような気がしてきました。この頃、人は生きるというただそのことに意味があることを思わされています。
老という字は、頭髪の長い背中の曲がった人が杖をついている姿を表したものだそうです。長い年月を生きた者の姿が表されています。老という字は、その人生がどのようなものであろうと、そこには、長い年月を生き抜いた者のもつ威厳があることを示しています。今、その威厳に社会が気付いていないところに問題があるのではないでしょうか。
老人が老人であるというだけで尊敬される社会でありたいと思います。
清流のキリスト、そして訪問の勧め
関野 和寛
夏を振り返りながら、この原稿を書いている。今月の「きずな」はキャンプ特集、飯能へ子どもたち、お母さんお父さん方、そして青年たち総勢23名で出かけて行った。川遊び、すいか割り、花火と最高に楽しい夏休みを皆で満喫できた。そして秋の訪れに際し、この「きずな」を手にしている様々な方を思い出す。この夏に体調を壊されてしまった方、入院された方、御家族を天に見送った方、複雑な想いで夏を越された方が大勢いる。教会に来たいと思っていても、この夏一度も教会に来ることができなかったと悲しんでいる方もいらっしゃると思う。
教会懇談会では、様々な事情で教会に来られない方々に対してどうして行くか話し合われた。やることはひとつ、「イエスさまだったらどうするか」を実行していくのみである。福音書を読むとイエスさまの宣教のほとんどは訪問であった、「近くの町や村へ行こう、そこでもわたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」(マルコ1:38)。
その為にイエスさまは弟子たちをふたり一組にして派遣した。イエスさまの神の国の宣教、それはその足で救いを届けることにより実現されていった。もちろんこの時代、主の教会は無かった。イエスさまはその足で貧しい人や病で苦しむ人を訪ねて行って救いのことばを届けたのである。だからこそまず教会で救いのことばを聞いたわたしたちは、今度はそれを人々に届けるのである。
そしてわたしたちは神の国を実現していく主の弟子であり、東京教会を主の教会にしていくのである。この秋、皆でそれを実行していきたい。足で訪問できなくとも、一筆の手紙でも電話でも構わないと思う。とにかく真心を人々に届けていこう。青年たちの力を借りて説教のテープも作成した。どんなに遠い所でも、主の愛を届けて行きたい。将来的には送迎車も欲しい。ある人々は主がいた家の屋根を剥がし、そこから病の人を釣り降ろした。そしてイエスさまはそれを信仰と呼んだ。教会にしばらく来ることができなかった皆さん、待っていてくださいね。
キャンプ感想!
最高に楽しかったです!子どもたちと大はしゃぎしたのは勿論、お母さんたちのバレーボールも楽しかった。また皆でどこかに行きたいですね。秋に教会のみんなで新宿御苑に礼拝後ピクニックとか!
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きずな 第417号 2006年8月8日
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あの日の自分超え−「君には無理だ」から−
関野 和寛
「君には無理だ・・・」そう言われた経験がないだろうか。状況は異なろうとも誰しもが一度は言われたことがあると思う。この言葉を聞かされたものは自分の能力と将来とを一度に否定されてしまう。
わたしは大学3年生の時に「君は牧師にはなれない」そう言われた。しかも牧師に言われたのである。わたしは9歳の時にルーテル保谷教会で洗礼を受けたのだが、高校2年生から大学3年生までの5年間をいわゆる福音派の教会で過ごした。大学3年生時に牧師になろうと決意し、そして信仰の故郷であるルーテル教会に戻る事を決めた。
その時である「君には無理だ、君は牧師にはなれない」と言われたのは。この言葉は矢のようにわたしのこころに深く突き刺さった。そしてその牧師と決別し、わたしはルーテル神学校で4年間研鑽に励んだ。そしていつからかこの言葉はわたしの中で、そう言った牧師への憎しみに変化していた。
「君には無理だ」から5年、時が経ちわたしはこの東京教会の牧師になることができた。そして7月のある日、ひとりの男性が事務室に現われた。見ると、「君には無理だ」と言った牧師が笑顔でわたしの顔を覗き込んでいるのだ。そして「関野君がこの教会の牧師になってくれて嬉しい」と語るのだ。彼は言葉を続けた「僕はこの教会の恵泉保育で育ったんだ、そしてここでもらった聖書で救われたんだよ。だから君がこの教会の牧師になってくれて嬉しい」と。
東京教会の恵泉保育が彼に信仰の種を蒔き、牧師にさせた。そして彼がわたしを育て、また分かれ、そしてわたしはこの東京教会の牧師になった。「君には無理だ」、自分の能力のなさや小ささを抉り出すような言葉である。だがわたしたちは小さくとも神は何よりも大きい。その恵みを測り知ることはできない。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのである」(コリント二
12章)。主の恵みを受け、あの日の自分、そして夏の暑さを超えてゆく。
平和憲法を守ろう
山之内正俊
「八月や六日九日十五日」という句があります。日本にとって、八月は平和を思わずにはおられない月です。六日の広島、九日の長崎と、人類は始めて原子爆弾の被害を経験しました。原子爆弾は、使用した者の予想をはるかに超えて、何十万人の命を奪い、そして、六十年を経た今日でも、癌の発病等、被爆した人々を苦しめています。そして、十五日、日本は歴史始まって以来初めて敗戦を経験しました。そのような悲惨な戦争体験の中から、戦争放棄を謳った「日本国憲法」が生まれたのです。
私たち日本人は、この「日本国憲法」を、次の二つの観点から、平和憲法として守り、世界に普及させていく責任があります。先ず第一に、この憲法は、原子爆弾の被爆という経験を通して得られたということです。この原爆被爆という経験は、日本人だけの経験です。戦争の行き着く先が如何に悲惨であるか、日本人だけがその本当の悲惨さを経験しているのです。この経験をした日本人は、この経験が風化しないようにつとめなければなりません。戦争の行き着く先の悲惨さがどのようなものであるか、世界に向って発信し続けることが、日本人の責務です。それが、原爆の犠牲となった人たちへのせめてもの罪滅ぼしです。そのためにも、広島の慰霊碑に刻まれているように、過ちは繰り返してはならないのです。この過ちとは、武力による紛争の解決です。ゆえに、武力を持たないと決意した「日本国憲法」が守られなければならないのです。
次に、この憲法が持つ平和理念の人類史的価値です。人類は、他を制圧することによって自己の生存を図って来ました。平和とは、自己の生存が保障されることに他なりませんでした。ゆえに、平和を維持するためには、常に他を制圧する能力を保持する必要がありました。他を制圧するために、他よりも優れた戦力を保持することが必要でした。戦力の優位による平和の維持、これが、これまで人類が持っていた平和の理念でした。あの二度にわたる原爆被爆を通して起きた日本の敗戦は、この戦力の優位による平和の維持という理念が破綻したことを意味しています。戦力の優位による平和の維持という理念は、新しい平和の理念によって置き換えられなければならないことを、あの日本の敗戦は人類に教えたのです。その教訓の中から生まれたのが、「諸国民の公正と信義に信頼して」平和を創造するという新しい平和理念です。
この憲法は、相手を自分と同じ人間として認めることから始めることを求めます。先ず、人間として交わりを持つ相手として相手を見ることです。国と国が、仮想敵国として相手を見ることを止め、交流の相手として積極的に関わり、そのことによって、平和を創造していくというのが、この憲法の平和理念です。人と人が向き合ったまま何もしなければ、その間に猜疑心が起こります。「こいつは危害を加えてくるのではないか」と。国と国との間も同じです。その猜疑心が起こる前に、交わりを持つことです。交わりを持つことによって、お互いの存在がお互いにとってなくてはならないものであることを認識していくのです。これが、日本国憲法が持っている平和理念、平和創造論です。人類は、あの原爆被爆という悲惨さの中で、この平和創造論を獲得しました。日本人は、この憲法を世界に普及させる責務を負っているのです。
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きずな 第416号 2006年7月3日
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収穫は多いが、働き手が少ない
山之内正俊
今月から、来年4月に就任する日本福音ルーテル教会の牧師の募集が始まります。今のところ、来年3月に神学校を卒業して牧師になる予定の人は1人しかいません。ここ数年、3人平均で来ていますので、これは寂しい人数です。
実は、今年の4月に神学校に入学した人は1人もいませんでした。ルーテル学院大学の1年生に入学して、神学校に入る準備をする人はいましたが、神学校そのものへの入学者はなかったのです。
私たちの神学校は、短大卒が入学資格です。そして、入学して4年で卒業します。卒業するとき教師試験というのを受け、合格すると牧師補になり、さらに1年間、教会で働きながら研修を続けます。そして、本教会の常議員会の承認を得て牧師になります。
牧師を育てるのは、教会の仕事です。神学校は教会から委託されて実際の教育と訓練を行いますが、その神学校に牧師となる人を送り込むのは、教会の仕事です。
私たちの東京教会からは、ここ20年近く、牧師が誕生していません。今、小泉聖兄が、ルーテル学院大学のキリスト教学科1年生として学んでいます。神学校に行くための準備の学びです。この学びを2年まで終えると、大学3年生になると同時に、神学校の1年生になります。
まず、小泉兄が無事にこの2年間の学びを終え、神学校の1年生になられるよう、祈りたいと思います。そして、さらに、小泉兄に続いて牧師を目指す人が出るように祈って行きたいと思います。
大学生や高校生の皆さんは言うに及ばず、小学生の皆さんや中学生の皆さんも、今のうちから、牧師になる道があることを覚えておいてください。
何時の時代も、神の国では、「収穫は多いが、働き手が少ない」のです。神様の招きにこの教会から多くの人が応えてくれますように。
プリンスアカデミー
関野 和寛
献堂10周年記念礼拝を通して、この東京教会が多くの祈りと願いによって建てられたこと、そして今も日本福音ルーテル教会の伝道最前線にあることを改めて実感させられた。記念礼拝を終えた今、わたしは次の東京教会の歩みについて考える。
それは、この東京教会の次世代を担う青年への伝道である。それは私が東京教会へ赴任するにあたり与えられた使命でもある。「教会に若者がいない・・・ 子どもが少ない・・・」このような声はどこの教会に行っても聞こえてくる。その理由として「少子化」や「若者が忙しい」ことなどがあげられる。
けれどもそれは一因にしかすぎず、本当の原因は多くの教会が若者にとって魅力的でないからである。そのためには何をすればよいのか。答えは簡単だ!まだ若者であるわたしがまず教会で楽しめばいい。そしてそこで仲間を集めていけばよいのである。
今はその仲間づくりの時期であると思う。実は東京教会には青年が沢山いる。だからもっとお互いがお互いを知り、そして教会は自分たちの居場所だと感じてほしいと思う。毎日毎日そのことを願っている。その為に牧師室にゲームを置いた。また駄菓子屋にあるようなお菓子の瓶も置いた。子供には自分のおもちゃを置いてもらった。
そして青年の集まりも沢山開いてきた。徐々に成果が出てきたのであろうか、最近では11時の礼拝に出て、午後の時間を教会で過し夕礼拝に出て帰る青年たちも出てきた。わたし抜きで青年たちが楽しそうに話をしている光景もよく見かける。悲しいようでとても嬉しい。
将来的には青年たちが主体となって、教会に来られないお年寄りたちを訪問するなど、教会を元気に明るい雰囲気にする奉仕ができればよい。そのためには生き生きとした信仰を継承する事が大切になってくる。そして青年の為の聖書勉強会を5月から始めた。勉強会の名は「青年聖書勉強会」ではない。そのような名前では堅苦しくて青年は来ないと思った。そして考えた。勉強会に相応しい名前、それは「プリンスアカデミー」である。プリンスは英語で王子、アカデミーは学業習得の場という意味である。深い意味合いは無いが面白い名前だと思う。
こんなことがあった。ある教会の婦人会の集いに行ったとき「今日のお話はルーテル教会のプリンス・関野先生です」と紹介されたことがあった。赤面するほど恥ずかしく、またおかしかった。けれども、とっさにそこで私もこのように返した「今日は皆様のようなプリンセス(皇女)の前で話ができて嬉しい!」と。こうご婦人たちに言ったらこれがまたうけてしまったのだ。
このことを思い出し、「青年勉強会」ではなく「プリンスアカデミー」にしようと決めた。今では毎週4,5名がこの「プリンスアカデミー」に来ている。その中のひとりは、「プリンスアカデミー」という名前に釣られて来はじめた。
パウロは語った「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」(1コリント9:23)と。わたしもそうしたいと願う。馬鹿みたいなことを本気でやっていきたい。「プリンスアカデミー」略してプリアカ。教会の未来を担う青年たちを沢山産み出していきたい。皆さん応援してください、そしてお知り合いの青年に宣伝してください!
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きずな 第415号 2006年6月12日
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バラの降った教会
関野 和寛
6月4日のペンテコステ、聖霊降臨祭礼拝を「バラの降る教会」という題目のもと行なった。イタリアの教会では聖霊の炎を象徴する赤いバラを礼拝でまく。「わたしたちの東京教会もバラの香りと聖霊と、みんなの笑顔でいっぱいにしたい」そう願いながら礼拝を持った。
洗礼式、聖餐式が終わり礼拝も終盤、後奏に合わせて沢山の子供たちが聖壇に集まってきた。そして子供たちの手には150本の小さなバラと沢山の花びらが入ったバスケットが渡された。
後奏に合わせた十字架とロウソク、司式者の退場に先立ち、子供たちがバスケットを持って会衆席めがけて歩き出す。そして子供たちは一生懸命にバラを会衆席にまきだした。床にまかれた花びら、開きかけの式次第の上にそして人々の手に渡ったバラの花たち。不安が笑顔に変わる、緊張が安らぎに変わり、そして礼拝堂がぱっと明るくなった気がした。
主イエスが天に帰られた後ひとつになって祈っていた弟子たち、そこに聖霊は臨まれた。聖霊を受けた弟子たちは大きな力に満たされた。人を変えることができる力、それは相手を思いやる気持、慈しみ、それが人に喜びを与える。慈しみ深き主イエス、このお方の愛がわたしたちに聖霊として向けられた。
礼拝が終わりふと目を上げてみると、まかれたバラが色々な所で再び咲き始めていた。壮年の方々のスーツの胸ポケットにとても紳士的に。子供の髪飾りに、ご夫人たちも無邪気な乙女のよう。かばんから恥ずかしそうに、ちょこんと顔を出すバラも。
みなそれぞれ疲れを覚えながら一週間戦ってこられた。だからこそ教会は安らぎ癒される場所であって欲しい。悲しい出来事は数え切れない、だけれども笑顔だってきっと湧き出す。雨のち曇りの新宿、バラのち笑顔の東京教会、皆の笑顔が溢れる教会にしよう。キリストの香りで満ち溢れる教会に。
教会共同体への期待
山之内正俊
日本福音ルーテル教会の第二二回定期総会において、教会共同体組織のための規則改正案が承認されました。「個々の教会は、宣教力の向上を図るため、総会の決議により、近隣の個々の教会と教会共同体を組織することができる」という規則ができました。
私たち東京教会が所属する城北地区の五つの教会は、地区をそのまま教会共同体とする方向で歩みを進めてまいりました。この度、本教会の規則が承認されましたので、いよいよ本格的に城北地区の教会共同体を形成することになります。
この教会共同体を形成するに当たって、地区のままではなく教会共同体という新たな概念をなぜ導入するのか、改めて考えてみたいと思います。
もともと、この教会共同体という概念は、教会再編を進める中で生まれたものです。教会の宣教力の低下を打開するために、教会の力を外向きに発揮できるよう態勢を整えよう。その一つとの方策として、教会の規模を大きくし、教会の組織維持に要するエネルギーを少なくしよう。そういった考えから、教会再編策が模索されました。最初は、教会合同によって、礼拝五百人規模の大都市型教会、三百人規模の中都市型教会、百人規模の小都市型教会に再編する、という案から出発しました。しかし、教会を合同する(教籍、会計、役員会を一つにする)という方策だけで教会再編を進めることには大きな抵抗があり、方針を変えざるを得ませんでした。そこで考え出されたのが、牧師を共同で招聘し、牧師給を共同で負担し、各教会独自の宣教活動と共に、共同の宣教活動も行う教会共同体です。
この教会共同体という概念は、小さな教会同士が潰れないように支え合うものとして受け止められているようですが、それは誤解です。教会の力を外向きにするために教会の態勢を立て直すことが当初からの目的ですので、大きな教会であっても、教会の力が外向きに発揮できていない教会は、この教会共同体を形成して、教会の力を外向きに発揮させよう、というのが、この教会共同体形成の狙いです。
先ほどから、「教会の力を外向きに発揮させる」ということを何度も言いましたが、これは一体どういうことを言っているのでしょうか。それは、端的に言えば、受洗者を増やすということです。まだ福音に与っていない人を福音に与らせるということです。教会の唯一の使命は、全ての人を福音に与らせることにあります。地球上の人が、全て福音に与る状況ができたとき、キリストが再臨されます。このキリストの再臨が一日でも早く起こるように努めること、それが、教会がこの世に存在する理由だからです。
今度の総会で、ある議員から自分の尊敬する牧師の言葉として「開拓伝道をしない教会は最早教会とは言えない」という言葉が紹介されました。今、大きな教会、一人前の教会、安定している教会とみなされている教会が幾つかあります。そのような教会の中には、自分たちはこれでやっていけるのだから、合同も教会共同体形成もしなくていい、という教会があります。しかし、その教会は、ここ数十年、開拓伝道をしてはいないのです。
このような教会が幾つか集まって教会共同体を形成し、共同して開拓伝道に乗り出すことが、今、期待されています。この東京教会もその期待を担う一つです。
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きずな 第414号 2006年5月10日
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3人の常議員選出される
山之内正俊
5月3日から5日まで、当教会において、日本福音ルーテル教会第22回定期総会が開かれました。
この総会において、山之内牧師が総会議長に3選せられました。総会議長は、2年2期までとなっていたのが改正され2年3期までという制度に変わってから最初の制度適用ですので、初めての3選ということになります。任期は、2008年5月末までで、これで任期満了となります。
これに加えて、私たち東京教会からは、森下代議員が財務担当常議員に選出せられました。森下代議員は初めての本教会常議員です。本教会の常議員会に新しい気風が吹き込まれることを期待致します。
さらに、もう一人、私たちの教会から、本教会常議員が選出せられました。伊藤代議員です。伊藤代議員は、女性常議員ということになっていますが、これは、女性問題を取り扱う常議員ということではなく、規則によって、女性代議員の中から選出された常議員ということです。森下兄も伊藤姉も任期は、一先ずは2008年5月末日までですが、2年3期の6年間任期が可能ですので、2012年5月まで可能性があります。本教会のために、お力を充分に発揮して頂きたいと思います。
当教会から、図らずも、3人の本教会常議員を出すことになりました。これは、東京教会としての初めての経験ですし、日本福音ルーテル教会としても初めての経験だと思います。
このことの受け止め方にはいろいろあると思いますが、東京教会がそれだけ期待されていることとして受け止めたいと思います。
私たち3人には、東京教会を離れて、日本福音ルーテル教会全体を見通しての働きが期待される訳です。この責任を果たすためには、何としても東京教会の皆さんのご理解とご支持が不可欠です。どうか、よろしくお願い致します。
聖霊の炎
関野 和寛
先日、防火管理の資格を取得するために高田馬場にある大学の公会堂にて、2日間の講習を受けてきた。飲食店から公会堂まで、収容人員が30人以上の建物では、いざという時に備え、防火管理者を立てなくてはならない。この東京教会で牧会するための義務と思い、少々重い足取りで会場に向かった。だがしかし、火災現場で働く百戦錬磨の消防士たちの講義は非常に刺激的であった。
ある雑居ビルの火災で、お店にいた20人のうち17名が亡くなった。その中で何とか一命を取り止めた3人は、その店を経営する店長と従業員であったとのこと。火事の恐怖と悲惨さを物語る出来事である。だがしかし、このような時に防火管理者にはひとつの宿命が与えられるのである。それはそのお店に来ているお客様、そして働いている従業員全員が避難するまでそこから逃げ出してはいけないということである。単刀直入にいうならば、店長は店に居る全てのひとのいのちを預かっているということになる。
それではキリストの体である、わたしたちの教会はどうであろうか。ひとの誕生から、永遠の天国に至るまでを説く、教会はどうであろうか。わたしは想う、真の牧師とは教会に繋がる人々の命を預かる覚悟を持つのであると。誕生、洗礼、そして葬儀に至るまで、人生の中で大きく揺れ動く節目に牧師は仕えていく。綺麗事だけではすまされない、思いもよらないような出来事が必ず起こる、そこに牧師は神の導きを持って仕えることが出来るのであろうか。
イエスさまはペトロに言われた「わたしの羊を飼いなさい」(わたしを愛しているのならば、わたしの大切な羊をまもりなさいと・・・ヨハネ21章)また同じくヨハネ15章では、「友のために自分の命を捨てるほどの愛で、愛し合いなさい」と語られた。
神の羊を守る意志、隣人を愛し抜く覚悟、これは牧師だけではなくキリスト者全てに求められる。キリスト者とはキリストの足跡に従い、主の愛に生かされていくのである。キリスト者は与えられた場所で、与えられた隣人を愛し抜くことが命じられる。
防火管理者講習を受けながら、東京教会の牧師でいること、またキリスト者として生きること重みを教えられた。そして東京教会に連なるわたしたちも、このような覚悟を持った愛で互いで仕え合って行きたいと思う。終末の世界にあって、わたしたちがこの世に証しでき誇れるものはこのイエスさまの愛しかないと信じている。
そして自問する、このわたしにそれほどの勇気があるか。大きな困難が襲ってくる時、わたしが一目散に逃げ出してしまうかもしれない。最後まで踏みとどまることは出来ないかもしれない。だからこそ祈るのだ「イエスさまわたしに聖霊を送って下さい。あなたの愛の炎を下さい」と。
緊急の時・・・ 燃え上がる炎・・・ 目の前が見えないほど煙がたちこめる。その中で最後まで逃げないで、十字架の上で全てのひとを見つめているお方がいた。この方こそわたしたちのいのちの管理者、この方こそがわたしたちのいのちを最後まで預かり、天国にまで導いてくださる。このお方、イエスさまがわたしたちを力強め、奮い立たせるのである。
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きずな 第413号 2006年4月6日
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喜びのほとばしりとして
山之内正俊
世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
これほどとまでとはいかなくても、満開の桜を眺めると心が浮き立ちます。喜びが、楽しさが沸き起こります。桜の花のどこにこのような力があるのでしょうか。本当に不思議です。
福音とは良きおとずれである、と言われます。嬉しい知らせ、ということです。その福音を世に伝えるのが教会の使命です。その福音は、どのようにしてこの世に伝わって行くのでしょうか。
「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ10:20)。
これは、イエス様から宣教に派遣された72人の弟子たちが、その宣教の成果を嬉々として報告したとき、イエス様が、その弟子たちに向って言われた言葉です。
弟子たちは、「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」(同17節)と、その成果を報告しています。弟子たちは、これ以上はないという喜びを味わったことでしょう。伝道者の一人として、この弟子たちの気持ちは良くわかります。
しかし、イエス様はこの弟子たちの気持ちに水を差すかのような発言をなさいます。イエス様のお気持ちはどこにあるのでしょうか。
宣教は、救いの喜びのほとばしりでなければなりません。「罪の赦しによる救い」に与った者が、その喜びを自分の内に留めて置くことができず、気が付いたときには、その人からその喜びがあふれ出ている。そのあふれ出た喜びが、周りの人をその喜びの渦に巻き込んでいる。そういった仕方で、宣教は起こるのです。
桜の花に心浮き立たせられた者が、その浮き立つ心をほとばしらせるとき、周りの人に桜が満開したことが伝わっていくのです。
ひとこと
関野 和寛
絶対に忘れることのできない、「ひとこと」があります。あの時、あのひとがかけてくれた、あの「ひとこと」が今のわたしを支えている、わたしの胸の中はそんな言葉が溢れています。
教会でおばあちゃまが涙を浮かべながら、宣教研修で熊本に旅立とうとするわたしの手を握り「健康にだけは気をつけるんだよ・・・」と言ってくれた「ひとこと」が忘れられません。言葉は「ひととこと」であったけれども、その小さくてしわしわの手が暖かったこと、涙交じりの笑顔が全てを包み込むように優しかったこと。言葉を超えた「ひととこと」をもらったのです。きっとおばあちゃまのあの大きな笑顔は、御自分の今まで歩んできた人生の中での様々な想いを、わたしの旅立ちに重ねてくださったから優しさに溢れていたのだと思うのです。
言葉の上辺だけを取り繕うことは努力すればできることかもしれません。けれども本当にひとのこころに響く言葉、そこにはいのちが宿っています。ヨハネ福音書の冒頭の言葉が思い出されます。「初めにことばがあった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった・・・」
わたしは教会に遣わされる今、想います、イエスさまの愛が宿る「ひとこと」を語れたならばどんなに幸いかと。知識や経験が浅くとも、神様が語ろうとしている「ひとこと」を届けていきたいと思います。あのパウロが語ったは知識や知恵ではなく、ただただ十字架のキリストのみでした。
そしてわたしが御言葉を語っていくのは、この東京教会です。本当に不思議な出会いを感じています。この東京教会はわたしが2003〜2004年にかけて1年3ヶ月教会実習をさせていただいた教会なのです。一緒に教会生活をさせていただいた皆様のもとに戻れるのは大きな喜びです。また同時にわたしはこの大久保の街で生まれ育ちました。イエスさまは「預言者は故郷では歓迎されないもだ・・・」とおっしゃいました。
この御言葉の意味が最近少し分かってきました。今までずっと学生であったわたしが、急に先生になってしまうわけですから、わたしも皆さんも違和感があるでしょうし、何と呼んでいいか戸惑ってしまうと思うのです。「せきのくん!」「せっきー!」こう呼んでくださると、不思議と笑顔に戻ってしまいますし、それでいいと思うのです。わたしは先生になる為に、この道を選んだのではありません。わたしは喜ぶ人と共に喜び、悲しむ人と共に悲しむことができる牧師になりたいと思うのです。なによりひとの痛みがわかるひとでいたい。
そして東京教会で働き出すにあたって「ひとこと」語らせてください。この言葉はある老人ホーム・ホスピスのチャプレンが人々に言っていた言葉で、わたしの宝物でもあるのです。その「ひとこと」を東京教会の皆さんに届けたいと思います。
「わたしはみなさん、ひとりひとりの牧師になりに来ました」
だから、いつものように、気楽に、何でも話してくださいね。よろしくお願いいたします。
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きずな 第412号 2006年3月10日
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主にあって互いに支えましょう
黄 大衛
前回に続き新生児のわが息子の話をしたいのです。56歳の父親にとって、どの角度から見ても0歳の息子が可愛く見えます(勿論、親ばかです)。特に、ただ泣くことによって親に頼む様子は可愛いものです。私はこの子どもの姿から、親に対する信頼を思わされ、信仰の面からさらに連想したのです。
赤ちゃんは話せませんから、おむつ交換、或いはおっぱい、抱っこ・・・どんな要求であっても、ただ泣くことで親に伝えます。そして、その希望が叶わなければ、泣き声を徐々に激しくします。そんな時、私は焦る事もしばしばです。やはり、赤ちゃんの要求を知るためには経験の積み重ねが必要です。
そんな時、私は神様の創造にまで思いを馳せました。もし赤ちゃんが簡単な数語でも話せるなら、どんなに対応しやすい事でしょうか。神様はバベルで天下の言葉を混乱させたように、人間の言語について、いかようにもできるはずですが、そうされませんでした。しかし、言葉が話せないゆえに、赤ちゃんは一層可愛く、且つ可哀想に見えます。
さて、私たちは神様の御心が本当に分かりません。なぜなら、神様の思いは私たちの思いを高く超えているからです(イザヤ55:8-9)。その神様の御心を理解できない私たちは、赤ちゃんのようにひたすら信じ、叫び求めればいいのです。
私はいつもキリスト教の信仰についてメリットは何かと考えました。結論は「祈り」です。私たちはイエス様の約束によって、神様に何でも祈り求めることができます(ヨハネ16:23-24)。これは驚くべき恩恵で、素晴らしいことです。時には、私たちはまさに赤ちゃんのように何を求めるのか自分でもはっきりしません。しかし、うめくような私たちの心を見てくださる神様は必ず私たちの祈り以上に叶えて下さるのです。
今月の27日に、私は、鹿児島教会に転任します。期待と不安が入り混じっていますが、このように親のまなざしで見守る神様を信じて出発します。神学生の時から長い間、支えてくださったことを心より感謝します。これから、皆さんと遠く離れても、主にあって一つであることは変わりません。どうぞ引き続き、祈りを持って、主にあって互いに支えましょう。
続々・今、宣教とは何か
山之内正俊
聖書の始めは、「初めに、神は天地を創造された」となっています。では、聖書の終わりはどうなっているでしょうか。聖書の終わりは、「以上すべてを証しする方が、言われる。『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください。/主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように」となっています。私たちの今の祈りは、この「アーメン、主イエスよ、来てください」という祈りに集約されると思います。この祈りを祈り、この祈りが実現されるように努めること、それが、キリスト者がキリスト者として今日を生きるということではないでしょうか。
ペトロの手紙第二の三章九節に次のように記されています。
「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」
ここには、今のこの時が、神様にとって、どのような意味をもった時であるかが明らかにされています。即ち、神様にとって、この時は、神様がなされた救いの業を人間一人一人が自分の救いの為のものとして受け入れるのをじっと待っておられる時なのです。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音をしんじなさい」(マルコ一章十五節)。
時は満ちたとは、人間を救う為に神様の側でなされるべきことは全てなし終えられた、という意味です。それなのに、まだ「近づいた」としか言えないのは、人間の側になすべきことが残っているからです。人間一人一人が、その神様の救いの業を自分の救いのための出来事として受け入れることが必要なのです。神様の救いの業は、人格的な出来事であり、機械的に一人一人のものになるわけではありません。人間一人一人が、自分と神様との関係を正しく捉え、一人の人間として正しく神様と向かい合うことが必要です。その正しい向かい合いの中でのみ、この神様の救いの業を受け入れるということが起こるのです。
ある人たちは言います。キリストの降誕によって、インマヌエル、神我らと共にいます、ということは事実として全ての人の上に起こっている。何もあくせく「伝道、伝道」としゃかりきにならなくてもいいんだ、と。果たしてそうでしょうか。神の国は近づいたのであって、遣って来てしまった、というのではないのです。人間がその事実を受け入れない限り、その事実は、人間のものにならないのです。この受け入れるかどうか、ここが勝負なのです。
人は、今、サタンの奴隷になりさがっています。そのような人間が、神様の救いの業を受け入れるためには、聖霊の働きが必要です。その聖霊の働きは、既にその救いの業を受け入れた人を媒介に起こります。私たち既に信じた者が聖霊の通路として用いられるのです。
神様は今、サタンに支配されたこの世を一日も早く終わらせ、義の宿る新しい天と新しい地とを始めたいと思っておられます。その新しい天と地に全ての人が移れるように、忍耐の時を過ごしておられます。その神様の忍耐に仕えることが、私たちキリスト者に与えられた務めです。
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きずな 第411号 2006年2月6日
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教会のルーツを訪ねて
山之内正俊
1月の16日から10日間、アメリカ福音ルーテル教会の本部と南キャロライナ教区を訪ねて来ました。
本部を訪ねたのは、アメリカ福音ルーテル教会の世界宣教局の宣教師の派遣についての方針が変わったということで、それに対する対応策を話し合うためでした。これは、教会行政に関することですので、忍耐強く交渉して話をまとめるというまったくの行政的仕事でした。このことだけが、アメリカ訪問であったならば、私は、ただただ、疲労困憊して帰って来たことでしょう。
救いは、南キャロライナ教区の訪問にありました。この訪問の直接の目的は、今、この教区に交換牧師として派遣されている浅野直樹牧師を問安することと、日本への牧師の派遣について協議することでした。
浅野牧師の働きが、教区内のどの教会からも歓迎され、訪ねる先々で、浅野牧師の働きについて感謝のことばを聞くことができ、浅野牧師を派遣した者として誇らしい思いを抱くことができました。
この南キャロライナ教区は、日本への最初の宣教師、シェーラー牧師とピーリー牧師を送り出した教会です。その二人を送り出すときの派遣式が行われた教会を訪ねることができました。その教会の図書室には、日本コーナーが設けてありました。そこに、一人の牧師の写真が掲げられていました。係りの方が、「この牧師が、日本伝道を呼びかけた人です」と説明してくださいました。
南キャロライナは綿花の国です。綿畑が広々と広がっています。その中に、日本伝道のために捧げられた一角がありました。一人の農家が日本伝道のために、自分の財産である綿畑を寄付されたのです。
このような熱い思いが、昔も今も、日本伝道を支えています。南部の温かさを感じた旅でした。
新生児から学んだこと
黄 大衛
ほぼ二ヶ月前、新しい方が教会に来ました。妻は切迫感を持ってその方に接触しましたが、警戒感を持たれていることを強く感じたそうです。それで距離を置いた対応をするようにして、交わりを続けました。不思議な事ですが最近その方が個人的な体験を通して聖書や神様に関心を持つようになって、その方の教会への積極性を見出してきました。本当に嬉しいことです。
言うまでもなく、教会に来ることその自体は全く神様の働き、神様の導きの結果であると確信しています。しかし、日本では、宗教を利用した犯罪がしばしば生じたので、宗教に対する誤解は多く、深い警戒心を持たれることは無理からぬ事です。それにもかかわらず、警戒心を持っている限り、信仰には成り立たないでしょう。
さて、我が家に赤ちゃんが与えられました。私は彼の誕生からその成長ぶりを観察し、それを繋げて上記のことを連想し、信仰では多々教えられました。その中から皆さんとお分かちしたいのです。
(1)神様のまなざしへの黙想:子どもが私の腕の中で安らかに眠る姿は本当に可愛いらしくその姿を飽きることなく見入ってしまいます。その可愛らしさは、何の警戒心もなく、全面的な信頼を私に寄せて委ねきっているゆえです。このことから神様が私たち人間をどのようにごらんになるかに思いを馳せるのです。神様は人間を愛してくださいますが、特に全面的に信頼し身をゆだねる者を、深く愛しく喜びをもって見守ってくださるのではないでしょうか?
新生児であるからこそ、彼に出来ることは乳を求めて泣くことが主なものでほとんど無力です。しかし、懸命に生きようとするひたむきな姿に心打たれます。私たちも神様の前に全く無力な者であるに違いありません。まさに無力であるからこそ、ひたすら神様に頼ることは神様に可愛く見られ、神様に喜ばしいことではないでしょうか。
(2)人間としての模範:冬の寒さの厳しいある日、彼の鼻がつまり呼吸が苦しそうになりました。なれない育児で親はおろおろするばかりです。けれども文句も言わず懸命に呼吸しようと頑張って、そしてミルクを飲むこともやめません。
それを信仰に連想すれば、彼の呼吸はちょうど私たちの祈りに当たるものではないでしょうか。また、彼の母乳を吸うことも、私たちの御言葉を読むことに例えられるのではないでしょうか。人としてこの新生児のように神に向かうことができたらどんなに素晴らしいことでしょう。何が起こっても文句も言わずひたすら神に祈り御言葉を慕い求めてやめることをせず生きる、これこそ、神との関係に生きる本来の人間の健全なあり方ではないかと思います。
「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです」(Iペトロ2:2)。私自身新生児のわが息子を間近に見ながら御言葉の乳を求める一人の信仰者として歩むことを学ぶ今日この頃です。
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きずな 第410号 2006年1月12日
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続・今、宣教とは何か
山之内正俊
この世は、今、「なぜ生きるのか」という人間の根源的な問いに苦しんでいます。
ルターの宗教改革は、神様と人間との関係を問い直し、人は行いではなく神様からの恵みにより、信仰により義とされることを明らかにしました。それ以来、ルーテル教会では「信仰義認」を看板に掲げてきました。しかしこの主張は、神様がおられることを前提にして成り立つことであり、その神様と自分との「関係」が問題であったルターの時代では通用しましたが、現代の日本では、その前提である「神とは何か」、「神は存在するのか」という問題から始めなければなりません。宇宙の創造主、人間を自分の愛の相手として創造された方、その方の存在に気付かせることから始めなければなりません。
クリスチャンであっても、その人の神が聖書のいう「神様」になっているかどうかが問題です。洗礼を受けてから教会から離れるまで、平均2.8年といわれる日本のクリスチャンの実態は、洗礼後の教会生活の中で、神様との出会いが起こっていないことを表しているのではないでしょうか。洗礼の意味が本当に伝わらず、信仰が成長していないのです。成長できる仕組みを、教会がもっていないことも課題の一つではないでしょうか。
罪を赦されたということは、罪を犯すことができない状態になることではありません。人間が神様の愛の相手であるためには、神様に自発的に従うことが必要です。その自発性を持たせるために、人間は、神様に、従う能力と共に逆らう能力も与えられています。その逆らう能力を刺激する存在として「悪魔」が造られました。神様に従うか、悪魔に従うか、その決断をするということが、人間が人間として生きることなのです。悪魔がいなければ人間はただのロボットに過ぎません。しかし科学が発展した現代の社会では、「悪魔」という存在を信じさせることは困難です。「悪魔」が実在することを、教会はもっと発言していくべきです。
悪魔の奴隷から解放された私たちが再び悪魔に支配されないためには、神様のことばから離れないことが必要です。そのためには、自分のために神様のことばを語ってくれる人が必要であるのと同時に、自分も神様のことばを他者のために語らなければなりません。その相互に神様のことばを語る場が必要です。教会こそが、まさにその場です。この世の手段を使って攻撃してくる悪魔に対抗するために、教会は神様による価値観を常に発信していなければなりません。そこでは、自分が用いられ語ると同時にまた自分も聞く、そういう信仰の姿勢が必要です。
現代社会の特徴を「他者性」の欠如として捉えることができると思います。「他者」のための自分として自分が位置づけられたときに、本当の喜びを発見するのが人間の真の姿ですが、その「他者性」の欠如から今、「なぜ他人を殺してはいけないの、自分は殺されてもいいよ」といった思いが生じています。他者性の欠如は、自己の存在を透明化させ、死を非現実化させ、死に対する必要な恐怖を希薄化させます。
そこでもう一度、教会の存在意義を吟味してみる必要があると思います。今の教会が、他者性の回復というこの一点で勝負しようとしているかどうか、もう一度、問い直してみたいところです。(続)
神への信仰
黄 大衛
デンマークの童話作家ハンス・アンデルセンが子どもの時の事です。彼は母親の影響で、神様はいつでも共にいることを堅く信じていました。さて、彼は家が貧しかったので、刈り入れ時になると、母親に連れられて、よく落ち穂拾いに出かけたのです。ところで、収穫の時に落ち穂をわざと残すことは貧しい人を助けるために、旧約聖書に明白に定められていることです。これはキリスト教の国であるデンマークにも通じることだったのでしょう。
ある日、落ち穂を拾っている時、意地悪で有名な番人が太い鞭を振りかざし、怒ってやってきました。みんなは驚いて逃げましたが、子どものハンスは逃げ遅れて捕まってしまいました。ハンスは鞭打とうとする番人をじっと見つめて、「おじさん、僕を打つつもりなの。神様が見ていらっしゃるのに」と叫びました。するとこの番人はハッとして、振り上げた鞭を下ろしました。そして急にニコニコとして、「坊やはなんという名前かね」と優しく尋ね、おまけにハンスにお金まで与えた、という出来事です。
私はこの話が大好きです。理由は二つあります。
一つは、子どもであったハンスの無邪気さと素直さが生き生きと読み取れるからです。彼の神様への認識は、言うまでもなく、母親からのものでしょう。彼はまだ浅い人生の経験で、本当に神様の存在を味わったかどうかは分かりません。しかし、それにもかかわらず、彼は素直に母からの信仰を受け入れ、疑わずに堅く信じていた事が窺えます。
もう一つは、その番人に関することです。彼も神様を疑わずに信じていたに違いありません。しかし、現実の生活の中に神様の教えを適用せず、全く信仰のない人と同じように生きていました。ですから、ハンスに「神様が見ていらっしゃるのに」と指摘されて、急に神様のことを思い出し、ハッと我に返ったのでしょう。
私を感動させるこの二つの点は、信仰というものの二つの側面ではないでしょうか。これこそ、新しい年の初めに皆さんと分かち合いたいのです。
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