きずな

<2002年>

※「きずな」は東京教会の広報誌です。詳しい内容をお知りになりたい方は、
電話メールなどで教会までお問合わせください。

◇きずな374号 12月22日◇
現在のこととしてのクリスマス  サンタクロースも悪くない  クリスマスに思うこと
「若草物語」  ―五つのクリスマスプレゼント―  聖書アラカルト39  祝福と感謝のこの一年
宣教90周年記念パイプオルガン完成!!  パイプオルガンニュース13
◇きずな373号 11月24日◇
夜は更け、日は近づいた  アルメニア、そしてクルド人  洗礼を受けて
「子ども祝福礼拝 今と昔」  あるパイプオルガン考  パイプオルガンニュース12
聖書アラカルト38  カンボジアレポート13 
◇きずな372号 10月27日◇
勇気を持って自己と戦おう!   ぶどうの木 その枝に関するエピソード  大串俊雄兄を偲んで
カンボジアに派遣され1年半が過ぎました  聖書アラカルト37 「ブドウ」  一日神学校に参加して
ミニバザー報告(カンボジア支援のため)  パイプオルガンニュース11
◇きずな371号 9月22日◇
わたしの言葉は決して滅びない!  シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ  聖書アラカルト35「からし種」
ドイツ・シューケ社 シュルツ氏と語る  ようこそ、東京教会へ!  幼児と家族の集い  CSキャンプ
パイプオルガンニュース 10  映画「サイン」を見て  カンボジアレポート12 
◇きずな370号 7月28日◇
空間に消えゆく音楽  宗教改革余話-もう一人の主役、レオ十世-  学びと交わりに感謝して
聖書アラカルト34「舟に乗る」  ゴスペルファミリーコンサートを聞いて
結婚六十周年と米寿を迎えて   あなたも一日神学生!
東教区第9回「宣教フォーラム」の報告  カンボジアレポート 11
◇きずな369号 6月23日◇
神信頼の確かさ  神からの福音を「被く」  降り注ぐ聖霊の恵み  一日修養会の報告
見知らぬ老婦人を背負った若き将校の祖父に  戦国時代のキリシタン女性
聖書アラカルト33  はじめまして
◇きずな368号 5月26日◇
主イエスこそ世界の主!  キリストにあって一つ  ようこそ、宮澤先生!
種子島と二人の女性その1  カンボジアレポート10―2  聖書アラカルト32 
◇きずな367号 4月28日◇
美しい五月よ! 〜聖霊降臨の喜び〜  洗礼と堅信  イースターの喜び
初めて音楽祭に参加して!  カンボジアレポート10―1  よろしくお願いします!
◇きずな366号 3月24日◇
ペトロは激しく泣いた  復活の朝の女性たち  聖書アラカルト33  不思議な対話
感謝をもって  「マタイ受難曲」による 聖金曜日礼拝に向けて
◇きずな365号 2月24日◇
「主イエスに従う」 ―自由への第一歩―  ユダをも赦される神ーマタイによる受難物語の一断面ー
聖書アラカルト30 ナルド
2002年度(宣教90周年) テーマ「今をこえて」   ―東京教会定期総会報告―
ルーテル学院大・神学校 聖歌隊&ラウス・アンジェリカ ジョイント コンサート
カンボジアレポート10  3月の教会行事予定
◇きずな364号 1月27日◇
それでも21世紀に希望を持とう  数にまつわる話  内海季秋先生を偲んで  「洗礼を受けて」
新しい問いかけ (その2)  聖書アラカルト 30  狂犬病ワクチンを送る会からの報告
カンボジアレポート9  ☆ヘイズ夫人からのお手紙 
 
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きずな 第374号 2002年12月22日 発行より
現在のこととしてのクリスマス          内 海  望

 私たちはクリスマスを「遠い昔に、ユダヤのベツレヘムで起こった出来事」として記憶しています。確かにそうです。二千年前の出来事です。
 しかし、これは決して「イエスさまが一度この世界に来られてまた天に帰られた」という過去形で語られる出来事ではありません。イエスさまは今も私たちと共におられるのです。このことをしっかりと胸に刻み込みたいと思います。「インマヌエル(神は我々と共におられる)」と名づけられたイエスさまは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束して下さった方なのです。この約束を信じて生きることがクリスマスを迎えることなのです。
 ところが、私たちの日常生活を振り返ると、あのクリスマスの夜の輝きが消え去ったような毎日を送っているように見えます。あの夜、羊飼いたちは天使の言葉を信じてまっすぐに飼い葉桶のイエスさまの所に「急いで」行きました。その足取りは確かでした。それに比べると、私たちの足取りはいかにも遅く、おぼつかないように見えます。右に左によろめきながら歩いています。あたかも星を見失った博士のような足取りです。
 どうしてそうなるのでしょうか。それはクリスマスの出来事、十字架の出来事を、過去の出来事としてでなく、現在形で語られるかどうかにかかっているのです。
 もう一度クリスマスも出来事を現在形に直しましょう。そして心から神の子イエスさまが私と共にいらっしゃる!という出来事として迎えましょう。その時、私たちの足取りは再び確かなものとなります。見失った「東方からの星」をもう一度見出した博士たちのように。
 クリスマスは私たちの新しい出発の時なのです。
サンタクロースも悪くない                 松 田 繁 雄

 クリスマスは教会で!という呼びかけが盛んになされた事があります。クリスマスというと、町中がにぎやかに飾り立て、パーティーという名目で酔っ払った紳士淑女たちが巷を徘徊していた、バブル全盛の頃でした。サンタクロースは、バーの看板として、盛り場のサンドイッチマンとして、テレビのクリスマスキャラクターとしてこのシーズンのシンボルとなりました。そんな商業主義的なクリスマスに反発して、教会に来なさい、そうして、本当のクリスマスの意味を考え、静かにキャロルを歌いながらクリスマスの夕べを過ごしましょう、これが、クリスマスは教会で!の意味だったのです。
 時代は進み、日本の景気は後退し、クリスマスの祝い方も酔漢と乱痴気騒ぎから家族で、恋人同士で静かに過ごすというあり方に変ってきました。それでも、クリスマスは教会で!との呼びかけは続きます。その際に「キリスト教的でない」と必ず標的にされるシンボル、それがサンタクロースです。祝い方は異なっても、サンタのイメージだけはこの期節と深く結びつき、一方、教会のクリスマスとは異質なものとしてわたしたちの心に残っているのです。
 ところで、本当にサンタクロースは「キリスト教的でない」のでしょうか?これが、今回考えようとしている問いかけです。
 サンタクロースのモデルとされる聖ニコラウスは、四世紀初めにミラという小アジアの町の司教で、数々の人助けの奇跡を行ったとして、遅くとも九世紀の中半には列聖されています。実は、聖母マリア被昇天の祝日を定めたとして後に列聖される教皇ニコラウスT世が八五八年に就任した年の説教の中で、この同じ名前の聖ニコラウスに触れているのです。ミラの町が大飢饉に見舞われた時に聖ニコラウスの行った奇跡が話題になっているので、この時点で既に聖人だった事がわかるのです。
 聖ニコラウスはこの他、貧しい人々に金塊を配って回った聖者としても知られています。十二月六日のセント・ニコラウス・デイおよびその日にプレゼントをし合う習慣は、この聖者伝説から由来しています。面白い事に、教皇聖ニコラウスに割り当てられた祝日も十二月六日なのです。この辺りは、かなりいいかげんな所があり、聖ニコラウスの母親は聖母マリアの母親と同じアンナという名前なのですが、古代ゲルマンの女神の名前でもあるのです。聖アンナは中世末、盛んに唱えられた守護聖人なのですが、この三人のうち誰を人々がイメージしていたのか、定かではないのです。マルチン・ルターが「聖アンナ様お助けください。わたしは修道士になります」と誓願した相手は、さすがにマリアの母アンナだと考えられるのですが・・・。この伝で言えば、サンタクロースは聖母マリアと同じ程度にキリスト教的とも言えるのです。
 いいかげんといえば、クリスマスという日の決め方自体もかなりのものです。東方教会では、いまでも一月六日「主の顕現日」を聖降誕の祝日として祝う習慣が残っていますが、歴史的に見れば、こちらの方が正統性があるようです。十二月二五日というのは、ローマでもゲルマンでも広く祝われていた冬至祭の日付で、この日が公式にクリスマスと認められるのは、西方教会でも六世紀中半です。冬至祭自体が、例えばローマではサトルナーリア祭明けの新年祭だったのですから、その意味では、キリストの聖降誕との関わりよりも、お酒を飲んでドンちゃん騒ぎとの関わりの方が深いくらいの日付だったのです。サンタクロースは、船乗り、香水商人、質屋、処女、未婚女性、少年合唱団、子供、旅人、学生、泥棒(!)の守護聖人とされ、どうにも異教臭の強い聖人なのですが、ともかく、四世紀初めに実在した人物でもあり、「クリスマスは由緒正しいけれど、サンタクロースはね」と一概に言えない状況があるのです。
 いろいろとクリスマスについて否定的な事を述べてきましたが、いまの日本というセッティングの中でキリスト教を宣教する場合に、クリスマスという祝日が大きな意味を持つことは確かです。クリスマスは教会で!とクリスマスの本当の意味を問いかけるのも大切でしょう。しかし、クリスマスは教会の専売特許なのだからと、サンタクロースでもなんでも、世間一般のクリスマスを否定してかかるのも、どんなものでしょう?クリスマス自体に、そこまでの本来的な必然性がないのですから。そう、サンタクロースも悪くない、のです。そういうものをクリスマスに付随する何かとして認めた上で、そのキリストであるイエス様は、わたしたちの罪を背負って十字架に死なれた方であることを、じっくりと語って行く、そういう所に教会の世界との接点も生まれ、また教会でしか味わう事のできないクリスマスが生まれて行くのではないでしょうか。
クリスマスに思うこと      榎津 重喜 (実習神学生)
 クリスマス、おめでとうございます。
 皆さんはどのようなクリスマスをお迎えでしょう。御子を迎える。私たちは毎年、そして今年も待降節を過ごしながら、み子をお迎えする準備をしてきたわけですが、その過ごし方、迎え方は年ごとに違っていることでしょう。私たちそれぞれを見守ってくださった主なる神様に感謝しましょう。そして同時に自分自身を振り返り、多くの人や事柄について直接間接的に行ったこと、行わなかったこと、思ったことなど神さまの前に多くの罪を犯したことを悔いる者でありたいと思います。
 私は今年のクリスマスで教会生活三十年になります。やはり最初のとき、世界がそれまでとはまるで違って見えたということを思い出します。世界も自分も神によって造られたものとして見えるように変えられたということだったのでしょう。そして何よりも自分もまた神から愛されている存在なのだということを知らされ、そのことへと自分を委ねて生きることをゆるされた。その喜びが世界の色を変えたのだと思います。それ以来いろいろな形で迎えてきたクリスマスですが、今年はまた格別な意味をもったものになりました。それまであった献身へのもやもやとした気持ちが、こんどは宣教の御業に与る日までの期待と不安に置き換えられたからです。この期待と不安からくる緊張と、希望と勇気とを神さまから受け取り続けることができるように祈るばかりです。
 昔、ある友人が、クリスマスを「クルシミマス」と言い替えて揶揄していたのを思い出しました。「今自分は苦しいのに世の中の人は浮かれた調子でいいね」と思ったのか、あるいは「普通の頭では荒唐無稽にしか思えないことを信じて教会に行くなんて理解にクルシミマス」ということだったか。今わざわざ取り上げてこんな駄洒落をいうような人はいません。つまらない駄洒落だからでしょうが、それより世の中の多くの人が文字通り苦しんでいるのが目に見えてきたからかもしれません。苦しさの多い中で、人の苦しみを冗談にできる状況ではなくなったということでしょうか。いま私たちの社会は次第に暗さを増していっているように思います。
 暗い夜にみ子がうまれた。
 部屋がなくてうまやの中に。
 神さまはさびしさを
 家とされた。
 この讃美歌三一五番を昔みんなでよくギターを鳴らして歌ったものです。「あがない」の項目に入っていますが、この一番はクリスマスになると自然と口からでてきます。つづけて、主は貧しい悩める人の友となったこと、闇の中で裁きをうけられ、暗い昼に十字架でとげの冠をかぶられたこと、そして夜明け、主はもう墓にの中にはおられないことが歌われています。どんなに暗い世界にあっても、私たちはこの主イエス・キリストに集中していきたいと願います。そしてインマヌエルである主、十字架の主、復活の主だけを見上げて生かされるように祈り求めたいと思います。
「若草物語」  ―五つのクリスマスプレゼント―  川西弘子

 「若草物語」は、約百三十年前にアメリカの作家ルイザ・メイ・オルコットによって書かれたものです。南北戦争時代のアメリカを舞台に、従軍牧師一家の四姉妹(メグ・ジョー・ベス・エーミー)の成長とその母親を描いています。「贈物のないクリスマスなんて、クリスマスじゃないわ」というジョーのことばで、この物語は始まります。ところが物語が展開するにつれ、五つのクリスマス・プレゼントが贈られます。

 (一)ジョーは本、ベスは楽譜、エーミーは色鉛筆と四姉妹は各々好きな物を買って、自分へのプレゼントにしようと決めます。ところが母親の古い室内ばきを見て、自分たちの物はあきらめ、代わりにメグは手袋、ジョーは靴、ベスは手作りのハンカチ、エーミーはオーデコロンを母親に贈ります。
 (二)クリスマスの朝起きてみますと、四姉妹は小さな本を枕の下に見つけます。母親からのプレゼントで「この世のいちばんりっぱな生涯」のことを書いたもので、真の道しるべとなるものでした。(書名がないため、「聖書」と言う説と「天路歴程」と言う説があります。
 (三)クリスマスの朝、外出から戻った母親が娘達に「食べ物も火の気もない所に住んでいる六人の子供と病気で寝ている母親がいる」ことを告げ、「あなた達の朝ごはんをクリスマス・プレゼントにあげたら」と提案します。一時間近くも母親の帰りを待ち、特別おなかのすいていた娘達は、とっさには誰も返事をしません。しかしジョーの「よかった!手をつけないうちに帰っていらして」のことばに、他の三人も同意します。「クリスマスの朝にパンとミルクでがまんをした、このひもじい四人の少女ほど楽しい思いをした人は、町中にいなかったでしょう」と作者は書いています。さらに作者はメグに「おのれよりも隣人を愛するということは、このことなのね」と言わせています。
 (四)四姉妹のこの行動を聞いた隣家のローレンス老人は感心し、ご馳走と四つの花束を届けてくれます。その豪華さに彼女たちは全くどぎもをぬかれます。花束を初めてもらい喜んでいるなか、ベスは「私、お父さまの所へこのお花を送ってあげたいわ」と母親に語ります。
 (五)その父親は戦場から愛情に満ちた励ましの手紙を寄越し、娘達に心のプレゼントをします。「昼は彼女達のことを思い、夜は彼女達のために祈ります。本分を尽くし、勇敢に心の中の敵とたたかい、一年後に成長した小婦人に会いたい」と綴っています。クリスマスの場面のみ取り上げましたが、ここに流れているのは隣人愛です。
 「隣人を自分のように愛しなさい」
          マタイ二二・三九

(参考文献「若草物語上・下」「続若草物語上・下」吉田勝江訳、角川文庫)
聖書アラカルト39   ヒイラギ

 ヒイラギというと、クリスマスの飾りで、緑の葉に赤い実がイメージされますが、クリスマスの頃は実ではなく白い花の時期です。樹の幹から直接咲く花はちょっと異様な感じがします。さて、このヒイラギ、聖書にはまったく出てきません。南方系の植物なのに、多分山が少ない、乾燥しているなどの条件がこの植物の自生を阻んでいるのでしょう。代わりに、モクセイ科の植物としては、オリーブが繁茂しています。《荒れ野に杉やアカシヤを/ミルトスやオリーブの木を植え》とイザヤ書に記されているミルトスも花や実の着き方から関連で取り上げられるかもしれません。これらの樹木の枝は仮庵の祭りで使われるのですが、ヨーロッパではヒイラギも使われるのです。
 ヒイラギの名前は、「ひいらぐ」「痛む」という意味から派生したそうです。十字架の主のご降誕を祝う意味では、とてもふさわしいではありませんか。
祝福と感謝のこの一年    代議員 深沢 孝寿
宣教九十周年の今年も教会は、神様の祝福をいただいて成長することができました。この一年を顧みて主の恵みと導きに感謝したいと思います。
☆宣教による教会の伸展
「教会形成の方針」は次の三点です。
(1)ルーテル教会の信仰告白に立脚した礼拝を整える。
(2)この地に相応しい宣教体制を整える。
(3)福音の種を蒔き、礼拝へと導く
 今年は、受洗者十三名・内六名は子ども、七名は堅信者(十二月の予定を含む)、転入者は九名、計二十二名の会員が与えられ、教勢の伸展がありました。
 召天者はこれまで三名で、内海季秋先生、大串俊雄兄、菅素子姉を主のみ許に送りました。これにより会員数は、現住会員三六五名(うち、堅信会員は三百名)となります。
 「礼拝出席者」は聖日五回の礼拝が整えられ、延べ八六八〇人(対前年比七百人増)を超える見込みとなりました。
年間平均では、聖日一七〇名(対前年比十五名増)十
   一時の礼拝出席者
   は百名を越える見
   込みとなりました。
   「一般会計」につ   いては一月の総会で決議した予算(赤字をださない)にもう一歩のところまできています。十二月の「献金」次第で可能となります。

☆「複数牧会」四年目の教会活動
 内海・松田両牧師の熱心なお働きにより、宣教の展開と牧会は前述のような教会の伸展へとつながり、宣教九十周年の今年も沢山のプログラムが推進、継続されましたことを感謝いたします。
 また、牧会において、信徒一人一人の信仰を育て、導き、誕生から召天までの教育に心を注いでいただきました。
 平日の活動としては、
@毎週の集会「聖書を読む会」「バイブルクラス」「キリスト教入門講座」など。
A月一〜二回の集会「ヌーンサービス」(第一、第三金曜日の昼)、つたの会、「家庭集会」など。
B教会の開館
 来会者に対応、外部への会堂・会議室の使用(貸室事務と管理)、教会活動事務、墓地委員会事務、結婚式・葬儀などのために、牧師、事務員の常駐を行っています。
C会員の訪問、お見舞、会議への出席、きずな、ホームページの作成などの働きは数えきれないものがあります。

☆内海牧師の引退と牧師招聘
 六月、内海先生には来年三月をもって引退牧師となる決断をされました。
 七月に、このことに関して臨時総会を開き、「内海牧師の引退」と「松田牧師の任期満了」という二重の人事が必要となり、次の牧師招聘について、会員の皆様のご理解とご協力をいただきました。
 役員会では、付託を受けました人事について、東京教会の宣教と牧会には今後も「複数牧師の体制」が必要不可欠との考えから、東教区に対し、宣教方策の支援を申し入れ、承認を得て二名の牧師招聘を依頼しました。幸い、お二人の牧師から招聘応諾のご返事をいただき、現在、本教会の人事委員会にて最終決定を待っているところです。
☆主な行事、集会報告
@一月、教会総会「新宣教五ヵ年計画」の初年度の予算目標が大幅未達に終わったことから数値目標の変更動議が採択され年次目標額が修正された。
 オルガン募金の目標額を予算総額と整合させる下方修正を行った。
A三月、聖金曜日(マタイ受難曲礼拝)復活祭礼拝(出席者一九二名、受洗者七名)
B五月、聖霊降臨日礼拝(出席者一四八名、受洗者一名、転入者二名、初陪餐一名)
C六月、信徒修養会(参加者三四名)転入者四名
D七月、臨時総会「次期宣教体制と複数牧師の招聘人事について」転入者三名
E八月、平和の主日礼拝(堅信者一名)
F九月、信仰の先輩への感謝と祝福の礼拝(七七歳以上出席者十九名、祝会出席六一名)
 東教区常議員会と役員の協議
G十月、大久保まつり「バザーと募金」この収益金はカンボジア支援に献金。
 宗教改革主日礼拝(受洗者一名)
H十一月、全聖徒主日(召天者記念礼拝)
 子ども祝福礼拝(子ども三五名)
H十一月、全聖徒主日(召天者記念礼拝)子ども祝福礼拝(子ども三五名)
I十二月、待降節第四主日礼拝(パイプオルガン演奏、受洗者三名の予定)

☆パイプオルガン
 パイプオルガンの設置は、新会堂建設以来の念願であり、三年前に宣教九十周年記念事業として決議しました。
 今年はその設置完成の年でした。設置準備としては、八月に現地での組み立ての立会い、十一月二十日の荷物の搬入、シュッケ社技師二人による組み立て、整音へと進行してきました。
 この間、内海先生には「仲介業者なしでの進捗」が予想以上に難しい問題を発生し、大変ご苦労をされました。そのお働きに心から感謝したいと思います。
 この資金については、『田坂泰迪兄』のご遺志による基金をもとに、会員の皆様に「募金」のご協力をお願いしてきました。設置準備委員会のご協力により、
総予算額が決まり、募金目標額も今年の総会で下方修正し、現在募金額は目標を上回る額となりました。皆様のご協力を感謝し、お礼を申し上げます。
そのオルガンは十二月二十日に引き渡されました。大きな大きなクリスマスプレゼントであります。目下、一月の奉献礼拝と披露コンサートの準備が進行中です。

☆その他
(1)財務委員会では、教会の「長期修繕計画の作成」「教会堂の利用」「来年度予算案」等の検討を行いました。
(2)教会実習の神学生は、小泉 基兄(三月まで)榎津重喜兄(四月から)の二人。
(3) 聖日十時の礼拝は、五月からトラスコット牧師の協力を得て増加中です。

☆今年度の反省と来年への課題については二月二日(日)の教会総会にご報告ご提案したいと思います。

☆現在の役員は次の九名です。
(代議員)深沢孝寿兄、徳善規子姉、
 川西弘子姉
(書記)清重慧子姉(二月まで)、
 吉野康子姉、荒井奈緒子姉(三月から)
(会計)熊木敏雄兄
(役員)泉 亮兄、笠毛槙夫兄、唐沢忠兄
宣教90周年記念パイプオルガン完成!!
 ベルリン・シュッケ社が東京教会の礼拝堂を生かす素晴らしい設計をしてくださいました。また、マティジアクさん、シュバルツさんの寝食を忘れての働きにより予定通り完成しました。心から感謝します。
 このオルガンを神さまが生かして用いて下さり、福音に生きる喜びを私たちに、また、この地域の人々により豊かに与えられるものとなるよう祈ります。                  (内海)
パイプオルガンニュース13

 待ちに待ったパイプオルガンが建立されました。ベルリンからはるばる機材と共にやって来たビルダーの青年2人の慎重、かつ着実な作業によって、主日礼拝ごとに目に見えて立派になっていく様子は、皆さんがご覧になっていたとおりです。引き続く工程で各種パイプが植え込まれ、整音も終った12月19日の午後、両牧師先生、吉野姉と共に徳善義和 元教授の通訳によって、総合的な取り扱いの手順の説明を受けました。
 そのあと、吉野姉、徳善が讃美歌を試奏しましたが、弾いている途中で、ビルダーのロベルトさんとマルティンさんが交互にストップ(音栓)の出し入れをして、色々の組み合わせを作ってくれました。すると、その度ごとに様々に音色が変化して鳴り響き、実に素晴らしい経験をすることができました。
 ただ単に、オルガンを弾くということだけでなく、23ヶもあるストップを使いこなし、礼拝の夫々の場にふさわしい音色を探して、神様を讃美し、会衆の皆様への奉仕が出来るという喜びで心が震える思いを強くしましたし、同時に、その難しさと責任の重さを痛感しました。
 オルガニスト一同、これから一生懸命学んでお役に立ちたいと決心しています。あわせて、この音に魅せられて、これからパイプオルガンを勉強しようとする若い方々が沢山育ってくれることを心から期待しております。             (記:徳善義昌)
パイプオルガン完成記念コンサートT
 2003年1月13日(月・祝)開演午後1時30分
 
 オルガン公開講座
 「様々なオルガン音楽におけるストップの選択と演奏法」
   1月13日(月・祝)開演午後3時
    コンサートに引き続き行ないます。


パイプオルガン完成記念コンサートU
 1月17日(金)開演午後7時

 演奏 オルガン C.Eヘッカ―  Claus-Eduard Hecker
           ドイツ ブラウンシュバイク州教会音楽監督
           公開講座の講師もしてくださいます。



きずな第373号 2002年11月24日 発行 より
夜は更け、日は近づいた   〜ローマ書13章12節〜         内 海  望

 教会のカレンダーは一年の終わりを告げようとしています。そのような時期に私たちは聖書日課で終末について聞くことになります。
 聖書は現在から未来へ向かって行く時間だけでなく、終末からの光に生きる道を示します。それは神さまの光の中に私たちを置くのです。その時、今まで見えなかった私たちの本当の姿が見えて来るのです。それはルターの言葉をかりると「自らを罪人として、イエス・キリストの十字架を必要とする者として」の姿です。
 私たちは自分を聖人とは決して思っていません。イエスさまの助けが必要だと思っています。しかし、イエスさまの犠牲の死が必要とまでは思っていません。そこまで極悪人とは思いもしないのです。
 ルターと私たちのこの認識の違いはどこから来るのでしょうか。それは私たちが光の中にでなく、闇の中に生きているからだと聖書は語るのです。
 私たち人間は互いに非難し合ったり、怒ったりしています。そして誰でもが自分は他人よりもいくらかは取り柄のある人間と思っています。
 ところが、終末の光のなかで隈なく照らし出される時、私たちは皆罪人であることに気づかされるのです。ただ罪人というのでなく「死すべき罪人」であることを知るのです。そして、この光は、私たちを断罪するだけでなく、私たちを救うためのキリストの十字架の贖いの光であることを知らされるのです。
 その光であるイエスさまをお迎えする準備をするアドベント(待降節)によって教会の新しい年が始まります。夜は更け、日は近づいたのです。悔い改めて、恵みのうちに光の子として新しい暦を歩み始めましょう。

アルメニア、そしてクルド人        松 田 繁 雄
 キリスト教というと、とかくヨーロッパの宗教というイメージを持ちます。しかし、初代教会はパレスチナから西と東に広がって行ったのです。今回は、あまり知られていない東方伝道の一例として、アルメニア人、クルド人のその後の運命を概観してみたいのです。
 世界で一番早くキリスト教を国教にした国はどこでしょう?このクイズの答えは、「アルメニア」となります。ついこの間、ソ連邦の崩壊に伴い独立し、隣国アゼルバイジャンと激しい国境紛争を繰り返しましたので、知る人ぞ知るという程度の国です。
 この国のキリスト教の歴史は古く、十二使徒のトマスにまで遡る事ができます。都市伝道が主であったローマと異なり、アルメニアでは農村部の奥地までキリスト教化が進みます。紀元301年、コンスタンティヌス帝によるミラノの勅令より12年、また392年ローマでの国教化より一世紀近く早く、この国ではキリスト教が国教になります。黒海とカスピ海を結ぶ地域に定住していたこの民族は、初代キリスト教会の伝道時代、ローマ、ペルシャと並ぶ大帝国を築いていたのです。ところで、世界初の宗教戦争もまた、このアルメニアとササン朝ペルシャとの間で戦われました。キリスト教対ゾロアスター教です。戦いに敗れたアルメニア人たちは、ゾロアスターからの迫害を避けてシリヤや小アジア、東ヨーロッパ各地に離散します。
 この民族、この国家が再び脚光を浴びたのは、1095年クレルモン公会議の場ででした。ササン朝ペルシャが滅びた後、アルメニア人の多くはイスラムに保護されたキリスト教徒として故郷に戻っていたのですが、一部は小アジア、キリキア地方に定住し、ここに小アルメニアと俗に呼ばれる王国を建設します。実は、クレルモン会議の席上に登場したフランス在住のアルメニア人司祭は、この小アルメニアの建国と十字軍とを結びつけたのでした。実際、小アルメニアは貴重な前線基地として、11世紀から13世紀にかけて、つまり公式十字軍がこの地域の一大勢力であった期間、繁栄していたのです。小アルメニアは14世紀、ルーム・セルジューク朝によって滅びました。以後、流浪の民となりますが、商才に長けていたので西ヨーロッパや新大陸アメリカで成功者となった者も多いのです。
 さて、地域としてのアルメニア、つまり、カスピ海と黒海に挟まれた地域にイスラム帝国時代、新規流入した民族がクルド人でした。わたしたちには、古い民族名ガラテヤの方が馴染みのある名前なのですが、もともと、クルド人は黒海北岸山岳地帯の住人で、西に移動した部族がケルト人、黒海を渡って南に移動した部族がガラテヤ人と呼ばれるようになったそうです。彼らもまた、イスラムの中のキリスト教国家であったのですが、12世紀の初め頃イスラム教に改宗し、イスラム側対十字軍戦線の英雄サラディンなどを輩出し一定の力を持つようになります。その彼らが選んだ土地が旧アルメニアで、という王国として一時は繁栄しました。
 クルドという民族も優秀で、その故に多民族から敵視されたりもします。クルディスタン地は、隊商路がらみの重要拠点となり、逆にトルコ系のオスマン帝国、イラン系のサファヴィ朝から蚕食を受けます。16世紀にはこれにロシア人も加わって、クルディスタンは跡形もなく分割されてしまうのです。アルメニア人がユーターンし、アラブ系のアゼルバイジャン人、トルコ人たちと共住し始めたのもこの頃です。逆に、クルド人たちは、イラン、イラク、トルコ、ギリシャ、ロシアなどに散らされる事になります。19世紀半ばのクリミヤ戦争では、ロシア人がキリスト教仲間としてアルメニア人と同盟して対トルコ戦線を形成したという歴史もあります。この戦争では、トルコの側に、イギリス、フランス、ドイツなどの西欧キリスト教国が同盟したのですから、厳密には宗教戦争でさえありません。しかも、戦後のどさくさに紛れて、ロシアがアルメニアを併合してしまったのですから、仁義なき戦いと言えます。アルメニアは、この後、ソ連邦に属する共和国となり、ソ連の崩壊によって完全にではないものの独立を勝ち取ります。
 同じ黒海→カスピ海地域に、大アルメニアあるいはクルディスタンを築いた両民族ですが、一時繁栄を誇ったクルド人が、今もって流浪の民族としての歩みを余儀なくされているというのも、悲しい歴史の皮肉です。一方のアルメニア人は神学的にはキリスト単性論の立場を貫き、一時はネストリウス派と共に異端とされていました。パウロの宣教から始まったクルド人の教会には正統キリスト教の血が流れていますが、イスラムに改宗しました。両民族は、十字軍の時代には敵味方として戦っています。アルメニア人とクルド人、この両者は、出身が近似しているというだけでなく、流浪の時期を過ごし、商才に恵まれている、という共通点も持ちます。現代の民族紛争の種でもありますが、また、初代教会の時代に捲かれた福音の種の育った形でもあるのです。
洗礼を受けて
  宗教改革主日に、洗礼を受け、新しく神さまの家族の一員になられた方をご紹介します。
 ヴァンデルタング エリ子さん、珍しい名前です。ご主人はオランダの方です。ご本人の文章にもあるように、こころ痛む苦しい経験を、聖書のみ言葉によって乗り越えられ、神さまと共に歩み始められました。改めてみ言葉の持つ力に感動しました。
 エリ子さんは早速聖歌隊にも参加し、教会の働きに積極的に参加されています。主の豊かな祝福がご夫妻にあるようにと祈っています。
 ヴァンデルタング エリ子

 今年の「きずな」の中で昨年の同時多発テロについて述べていらっしゃる方がいらっしゃいましたが、私が教会へ通うきっかけとなったのもあの出来事だったと記憶しています。留学を終え、マンハッタンにあるとある投資銀行に勤めていた私は、ウオール街に近いあの爆破されたビルを何回も訪れたことがあったので、私の知人を含め日々ハイテク機器を駆使して時間と戦いながら働く人々が一瞬のうちに瓦礫と化してしまったあの光景には空しさで言葉を失いました。数年前イスラム過激派がしかけた時限爆弾が海上約一万メートル飛行中に機内で爆発するという恐ろしい経験をいたしましたが、その時はただ運が悪かった、と記憶の奥に閉じ込めたものの、昨年の出来事でこれらがまさに今私が置かれている現実だと思い知らされました。
 これから先私の心はこのような恐ろしい出来事に耐え得るだろうかと不安に襲われた私に、夫は旧約聖書の中の「コヘレトの言葉」を薦めてくれました。この世の不条理とどうつきあっていったらよいかのヒントを与えられ、現実を客観視することができるようになり、まさにセラピストの役目をしてくれたのです。
 知識や経験とは違う角度からささやいてくれる聖書の多面的な教えは、たいへん味わい深い読み物だということがわかりました。そして神との縦軸を持つことによって他者を愛することができる、そんな牧師先生方の講義で、社会に対し排他的になってしまうのではないかという一般的に宗教に対して持っていた不安や偏見が去り、神と共に生きる自信がついたので洗礼を受けることにしました。
 ここまで導いてくださった牧師先生方、暖かくお迎えてくださった教会員の皆様に心から感謝いたします。
「子ども祝福礼拝 今と昔」     川西 弘子
 東京教会において子ども祝福礼拝は長い歴史があります。はっきりしません。が、始めは本田伝喜牧師の時代にさかのぼるのではないかと思います。以前から11月に行われていました。会員のお子さんやお孫さんが七五三のお祝いということで、女の子は振袖姿で男の子は背広を着て礼拝に出席したこともありました。祝福された子どもの数が一番多かったのは会員の子どもと恵泉幼稚園の園児が共に参加した時でした。旧礼拝堂に子ども達があふれるといった感じでした。
 現在は零歳より小学六年までを対象にしています。今年は17名が祝福を受けました。一人ずつ牧師より祝福を受け、カードとスプーンをもらいました。記念写真を撮影後一緒に食事をしました。ここではアドベントカレンダーをもらい子どもながらに主の誕生を待ち望むアドベントにふさわしいプレゼントになりました。
 長い歴史のなか二代に亘って祝福を受けた方もいます。さらに四代、五代に亘って信仰が継承されているのをみますと、神のはかりしれない恵みを感謝せずにはおられません。
 私の手元に「日本ひとくち歳時記」があります。これは日本の文化と伝統を外国の方に理解してほしいと編集されたものです。七五三の項では「子供の健やかな成長を願う」ものだと記されています。神道を離れ、子どもたちの今までの成長を感謝し、これからも神の御手のなかで成長してほしいと強く願う時、この子ども礼拝をずっと守ってほしいと願っています。

あるパイプオルガン考      中井 憲孝

 パイプオルガンの組立・据付工事も始まり、順調にすすめば12月20日頃に完成予定となりました。教会員の皆さんは今から期待で胸が一杯だと思います。

 期待する気持ちは私も皆さんと同じですが、当初からパイプオルガン設置委員・募金委員として名前を連ねただけの私としては、あまり貢献も出来ず申し訳なく思っておりました。
 たまたま、今年の5月11日(土)に日本讃美歌学会関東支部主催で「鎌倉オルガン見学会」が開催され、鎌倉にある5つの教会のパイプオルガンを実際に訪ね見る機会がありました。
 私はパイプオルガンについては全くのド素人で、一体どのようにしてあのような荘重な音色が出るのか常々不思議に思っていました。日基千歳船橋教会のオルガニストをしているF夫人が近所に住んでおられ、その案内をいただいたので早速参加した次第です。
 引率は武蔵野音大の志村教授の下、オルガニストや音大生、そしてパイプオルガンに関心を持つ人達が40名程集まり、朝10時から夕方の6時まで5つの教会を歩いて訪ねました(逗子教会のみ電車で移動)。オルガニストの方達にとっては試しに演奏してみる時間もありました。
 パイプオルガンについて構造を含め一通りの概要説明がありましたので、「興味はあるがあまりよく知らない」とおっしゃる方々(私も含め)の参考に供したいと思います。

 普通、オルガンと言えば西洋の言葉ではパイプオルガンのことを意味しています(ここではオルガンと呼びます)。日本の小学校の教室で見かけたオルガンは正確にはリードオルガン(reed organ)と呼ぶそうです。
 以下に、オルガンの概要を紹介します。
○オルガンは、パイプと送風器と鍵盤の3つの部分から成る気鳴楽器。大別すると運搬可能なものと建築物の中に固定されたものに分けられる。後者には1段鍵盤、数個のストップの小オルガンから、2〜5段鍵盤、10数個から100ストップ以上の大オルガンまであり、その多くは両足で奏する足鍵盤(ペダル)を有する」
※注 ストップ(音栓)―音色の違うパイプがいくつも並んでいる中から、どの音色のパイプを使うか決めるスイッチの働きをするもの。各ストップには全部音色を表す名前が付いている。(Principal等)
○構造について。音源となるパイプは、気柱(パイプ)の振動のみによる「フルー管」と、真鍮のリードの振動による「リード管」とあり、「フルー管」には鉛とスズなどの合金による金属管と木管があり、また形態上は開管、閉管、半閉管、円筒形、円錐形などに分けられる。
 発音の仕組み、材質、形態の違いが、音色上の相違となって表れる。一つのパイプは一つの音を出し、同じ音色のパイプの一組をストップという。
 パイプへの送風は、電動モーターが発明されるまではすべて人力で行われ、手または足でフイゴを動かし風を起こす方法が長年用いられて来た。起こされた風は、弁の働きで任意のパイプへ送られる。その際、音色つまりストップを決めるための弁を操作するのがストップ・ノブで、音高低を決めるのが鍵盤である。オルガンの演奏では、打鍵のほかに、各作品に応じたストップの選択・組み合わせが重要なポイントとなる」
○歴史について。オルガンの発達の歴史は二千年以上に及ぶ。当初は、ギリシア・ヘレニズム文化圏でキリスト教とは無縁に発達した。当初は世俗的な楽器として用いられたが、8世紀に西ヨーロッパに伝えられて以後、修道院等を足場に西方キリスト教世界に次第に浸透した。14、15世紀に、建築物の中に固定し使用するタイプのオルガンの基本構造の改良と拡大が進み、教会の礼拝での使用が定着した。
 さて、「鎌倉オルガン見学会」ですが、冒頭、引率の志村教授から「鎌倉は日本でも珍しいくらい様々な種類のオルガンが集まった地区です。いろいろな教会の礼拝堂、聖壇、椅子の並べ方が異なっているように、そこでしか鳴らない音楽があります。一日でこれだけの音の経験は滅多に出来ないので、十分に聴き比べて下さい」との話がありました。
 見学した五つの教会のパイプオルガンの特徴を次に紹介します。
@日本基督教団 鎌倉教会(礼拝出席80〜90名)
 オルガンは日本の草刈オルガン工房製。2段鍵盤11ストップ。1990年に90周年記念として設置。
A日本基督教団 鎌倉恩寵教会(礼拝出席80名前後)
 オルガンはドイツのラオクフ社製。2段鍵盤5ストップ。1981年に設置。天井の勾配に合わせた形。
Bカトリック雪ノ下教会(礼拝出席200〜250名)
 オルガンはドイツのシュッケ社製。2段鍵盤7ストップ。1985年に設置。会堂の割に小さいオルガンであるが良い音が出る。
C日本基督教団 鎌倉雪ノ下教会(礼拝出席240〜250名)
 オルガンはオーストリアのプフリュガー社製。2段鍵盤24ストップ。1993年に設置。大小2つのオルガンをくっつけた形。
D日本基督教団 逗子教会(礼拝出席80名前後)
 オルガンはフランスのオーベルタン社製。2段鍵盤18ストップ。2000年に設置。フランスの古典音楽を演奏するのに適している。一つ一つの音色がとても美しい。
 全てのパイプオルガンの見学が終わって、夕暮れの鎌倉の街並みを抜ける時、実際には鳴っていないのに、私には異なるオルガンの音色が、あちこちから聞こえて来るような気がしました。鎌倉はオルガンの似合う街です。

パイプオルガンニュース12

 このニュースも終りに近づいてきました。既に会堂一杯に機材が運び込まれています。足場も組まれ、工事が始まりました。ニュースでなく、目で見て確かめることが出来るようになったのです。
 先月の<きずな>でご報告しましたように、11月15日にオルガンは無事日本に到着しました。17日には技術者のR.マティジアクさん、M.シュバルツさんも到着。土日になったので、税関業務が2日遅れ、20日にすべての機材が教会に運び込まれました。
 それに先だって、18日の午後には役員と前田建設、技術者3者が綿密な打ち合わせを致しました。
 20日は午前8時半から作業をはじめました。19日から横浜に泊まり込みのマティジアクさん、シュバルツさんの指導の下に2トントラック4台を連ねて横浜・本牧埠頭から教会玄関へと機材が運ばれました。到着を待つ間、役員始め数人の会員が会堂で受け入れ準備を致しました。クロダオルガンが運び出された時は感慨無量でした。長い間お世話になったオルガンですが、メーカーがもはや使用不能と回答してきたのでしかたありません。感謝の思いと共に運び出しました。
 いよいよ午後1時から荷下ろし作業が始まりました。10名以上の屈強な男性が3時間近くかかってやっと会堂に運び込みました。その後もドイツ人2名は夜遅くまで部品の整理を続けました。
 21日午前7時半には既に前田建設のトラックが教会前に到着。足場づくり、滑車台づくりと工事に取り掛かりました。ドイツ人、日本人が言葉を交わしながら作業する姿もほほえましい光景です。
 この<きずな>発行と共に、その作業の成果が皆さんの前に明らかになります。
 それにしても、朝8時から夜8時まで働くというドイツ魂には脱帽!
聖書アラカルト38  「アーモンド」

 《主の言葉がわたしに臨んだ。「エレミヤよ、何が見えるか。」わたしは答えた。「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。」主はわたしに言われた。「あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと/見張っている(ショーケード)」》
 有名なエレミヤの召命の場面です。このアーモンドはイスラエルの「春の使者」としても知られています。二月になると、一見枯れたようなアーモンドが一斉に花開くので、こう呼ばれるのです。日本で言えば梅の花というところでしょうか。色合いも梅、桃、桜と同じくピンクです。日本では、種子をローストしたものを食べるというイメージしかないのですが、イスラエルでは、花は美しく、果実もおいしい、そして核を割ってナッツを取り出し、実や種を絞って食用油や薬用にする等、神の恵みを十全に伝える植物として親しまれています。また神殿の燭台の意匠としても用いられたのです。
カンボジアレポート13   鎌田 頼子

*コンポンルアンに戻る
 一ヵ月半ぶりにコンポンルアンに戻りました。日本に一時帰国するためにコンポンルアンを去ったときの私ったら本当に疲れていて、弱くて、悲しい気分だったものですから、そんな私をみんなはどんな風に感じていたのだろう?しばらくぶりに訪れる私をどんな風に彼らは迎えるだろう?そんなことを考えるとコンポンルアンに行くのが少し怖い気持ちでした。
 しかし行ってみるとそんな不安は無用でした。着いた翌日、ホームケアを手伝ってくれていた、ハンとイェアンが私に「今晩ミーティングをしたいの」と言ってきました。「ボンスライ、こっちに来て。」言われるままに、御堂に行ってみると、コンポンルアンの若者たちが12名集って私が来るのを待っています。
 これまたどんな苦情を言われるのかしらとこわごわしていると、いきなり彼らは話し始めました。ただ驚くばかりの私で、本当にいきなり、予期しないことだったので、最初は彼らの言っていることがさっぱりわかりませんでしたが、つまりはこういうことなのです。
 これからこのグループが病人がいる家を助けるために毎回ミーティングを持つ。ミーティングの度にそれぞれ有志が募金をしていく。ミーティングでは病人のケアの方法について話し合う。自分たちが集めたお金で、薬を買ったり、砂糖を買ったりする。もし足らなければ、教会の委員に相談して、協力を求める。皆が助けに行けるわけではない。でも行ける人が協力する。私にもなにか!?をしてほしいらしい。
 そしてみんなはそれぞれ500リエル、1000リエルを会計のハンに差し出しているのです。彼らは、私は一言もそんなことを言わなかったのに、私のいない間にこんなボランティア活動を考えていたのでした。読み書きもほとんどできないし、病気や健康に関する知識だってあまりないのに、一体どうするのだろう?そんな彼らを私が教えることなんて多分無理なのではないか…?とても不安です。
でも彼らはすごく楽しそうにしているのです。
 私は集まった彼らに自らの名前を書いてもらいました。自分の名前を十分に書ける人書けない人がいます。書ける人がかけない人の分も書いています。私は一人一人の名前を発音してみました。みんなが「私だよ」「僕だよ」と意思表示してくれました。13歳から20歳までの男子5名、女子7名のグループがにわかにできあがりました。
 私たち、本当に知識もお金もないけれど、自分たちで何とか考えてやってみることにしたのだなあ、と思うと泣きたい位嬉しくなりました。
 翌日、さっそく自分たちの知っている病人の家に訪問しました。専門的な知識も一切なく、病人に対する所見も様々です。問題は山積みです。これから彼らと話し合っていくにはどこからどう手をつけたらいいのやら…。でも私ができることと言ったら、彼らが自分たちの健康を自分たちの力で守っていくこと、助けあっていくことを手助けすることぐらいなものなのでしょう。
 来年は特にこのボランティアを対象にヘルスケア講習会をしてみたいなあと思いました。できるでしょうか。不安でいっぱいです。でも課題ができたことはとてもいいことです。
 私はしばし考えてみました。そしてこのグループに素敵な名前を付けたいなあと思い立ち、早速ハンに提案してみました。彼女は目を輝かせて喜び、みんなでミーティングを持って決めることを約束してくれました。どんなグループになっていくのでしょうか。たくさんの不安とたくさんの希望を胸に秘めている今日この頃の私です。

*おわりに
 温かさを感じています。600ドル以上かけて日本を往復したりできる私。コンポンルアンの人々とは全く違う生活をしてきた私。そんな私でも彼らは一生懸命受け入れてくれようとしているのかなあと感じました。
 一日一日を精一杯生きていきたいと思います。皆さんも彼らをどうか応援してください!
 チョムリアップリア!


きずな第372号 2002年10月27日 発行 より
勇気を持って自己と戦おう!              内 海  望 

 ルターは友人の突然の死を契機として、約束された未来を捨て、また両親の反対を押し切って修道院に入りました。神さまに喜んで受け入れられる人間に成ろうとしたのです。そこでルターは非常な努力をし、修道士として非難されない生活を送っていました。ところが、ルターは、その生活から喜びを受けるどころか、逆に深い憂愁に陥ってしまうのです。彼自身こう書いています。「修道士として定められた規則に従って生きようと私は非常な努力をし、苦痛をしのんだ。私はいつも、まず自分の罪を全部悔い改め、ざんげをした。そうして罪のつぐないを熱心に果たそうとした。しかし、依然として私の良心は安心を得ることが出来なかった。何とか自分の良心の悩みを癒そうと試みたが、日々ますます不確かになり、弱くなり、混乱している」と書いています。神さまに喜ばれるどころか、神さまの激しい怒りのみを感じ、震え慄いていました。「自分は無とされ、悲惨な、呪われ、棄てられた罪人にほかならない」と考えるようになったのです。
 私たちは、このようなルターを「神経過敏症」と片付けることができるでしょうか。むしろ、私たちの良心が退廃しているのではないでしょうか。あるいは自分と面と向かって対峙するのを避けているのではないでしょうか。ルターは神からも自分からも逃避せず、正面から敢然と立ち向かったのです。そして敗れ去ったのです。神に打ちのめされたといってもよいでしょう。
 ところが、まさにその時、すべてが無に帰した時、キリストが私の罪を担って死んでくださったという福音に出会ったのです。この福音によって、ルターは再び立ち上がったのです。復活の命を与えられたのです。
 この時ルターは「自分のために与えられたキリストの故に、自分が神に喜ばれていることは確かである」と言えたのです。良心は安心を得、ルターは新たな歩みを始められたのです。

ぶどうの木  その枝に関するエピソード             松 田 繁 雄
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。有名なヨハネ福音書の御言葉ですが、きょうは、少し視点を変えて、一つのエピソードを紹介したいと思います。
 部キ連というキリスト教のグループがあります。正式名称は、部落問題に取り組むキリスト教連帯会議、何だかいかめしい名前です。このグループは、超教派の組織で、各教派が正式に選んだ委員によって、その役員会が構成されています。斯く言うわたしも、日本福音ルーテル教会からの二名の委員の一人として、関西で行われる事の多い役員会にも名を連ねています。
 このグループの働きについて少し触れておきます。被差別部落への教会の関わり方を研究しながら、キリスト教と差別の問題について考えて行く、というのが趣旨です。日本という国には、昔から家柄・出身による差別が根強く残っており、その代表的な例として部落差別があります。その歴史は古く、平安鎌倉の時代から萌芽が見られ、安土桃山から江戸時代に、制度としての部外民、いわゆるエタ・ヒニンが生まれたのですが、制度以前にも社会的な差別はあったのです。この問題を正面から扱った小説に、島崎藤村の『破戒』、住井すゑの『橋のない川』等があります。現在でも、表面的には差別は消えたように見えますが、結婚差別、就職差別、インターネットを使った部落検索サービス等、陰湿な差別が地下に潜伏しているのです。
 さて、キリスト教と差別、という問題は、意外と深い意味を持っています。わたしたちは、無意識のうちに差別的な表現をしていたり、人を傷つけていたりするのですが、それが無意識であればあるほど、わたしたちの内面に差別する意識が深く食込んでいる事になります。この差別のとげを取り除こうとする作業は、実はかなりの痛みを伴うものでもあるのです。キリスト教会と言えども、罪の中を生きる者の集まりである事は一般社会と変わりがありません。だから、一般社会で存在する差別が、教会の中に入ってくるという事に不思議はないのです。問題は早くそれに気づき、キリストの御名によって、悔い改め、新しい歩みを始めるという事でしょう。実は、このグループに属する各教団は、それぞれ過去にそのような差別の実態を抱え、それに取り組む中で、次第に共同作業や話し合いを行うようになっていったのです。
 日本福音ルーテル教会にとっての、一番記憶に新しい「差別文書」は、最初機関紙「るうてる」の第四面に穴埋め記事として掲載されたヨハネ一五章「ぶどうの木」をめぐる小さなコラム記事でした。問題はいくつかありました。その記事が署名記事で、筆者が当時の日本福音ルーテル教会を代表する人物であった事、記事全体としては「伝道の振起」を呼びかけるものでしたが、その中に、「人間は神様と信仰によってつながっている時にだけ人間としての価値がある」「神様とつながらない人間は、いない方が良いと、明確に言い切る」等という過激な表現が使われていた事、そして、通常、この「るうてる」の第四面というのは教会全体の公式な見解を表す部分であった事等です。そして、この記事が長い間日本社会の中で「人間ではない者」として扱われてきた人々の傷口を抉るものではないか、という問いが他教派から出され、議論されたのでした。
 この問題は、その後、全国総会の場でも議論され、用語法としての問題性は認めるが文書全体としてはルーテル教会の信仰の範囲内にある、という結論を出したという経緯もあり、覚えておられる方もあるかもしれません。今回問題にしたい事は、そもそも、問題の文書のような解釈は、ヨハネ福音書自体の中にあるのではないか、という事です。《わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる》《わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない》《わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる/そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう》これらは、みな同じヨハネ一五章、ぶどうの木の譬の中で語られている言葉です。ただし、ヨハネ福音書は、ローマ皇帝ドミティアヌスによる激しい迫害から生き残った者によって書き綴られたと言われています。この「ぶどうの木」と「その枝」をめぐる譬も、その時代背景の中で読んで行かなければならないのです。もちろん、元になる主イエスの言葉は変りません。しかし、そこに加えられた時代的な潤色については、わたしたちは充分に気をつけて、いまの与えられた時代の福音となるよう、祈りつつ読み直して行かなければならないのです。
大串俊雄兄を偲んで  
 大串俊雄兄は、20数年間、私たちと共にみ前に集い、忠実に礼拝を守って来られました。森下兄の文章にあるように、心中いろいろな思いがありましたが、それを乗り越え、ついに洗礼の恵みを大胆に信じて神さまの家族になられました。あの穏やかな姿に接する事が出来ない淋しさを感じますが、御国に於いて再びお会い出来る日を信じ、「また会う日まで」しばしの別れを告げたいと思います。残された奥様に神さまの慰めがあるように祈りつつ。 (内海)

 去る9月27日に神様のみ許に召された大串兄を偲んで拙い文章を記します。今でもあの青年のような笑顔で、ふと礼拝に出席されるのではないかと思えるほど必ず奥様と並んで左前の席にいつもおられました。あんなに熱心に礼拝に出席される大串兄がどうして洗礼を受けられないのか?ずっと以前の壮年会で大串兄のお話を伺う機会がありました。青年の頃、北海道である他者から受けた経験から、どうしてもキリスト教に疑問を持ってしまった。と伺いました。あの骨太の大串兄が多感な青年時代に受けた傷は深いものであったと思います。それ以来いつも聖書と礼拝説教に問い続けてこられたのではと思います。
 その問い続けられた大串兄に受洗の喜びの時が訪れました。2000年12月24日、その日は日曜日で教会ではクリスマス礼拝と祝会が開かれました。その日の午後、近くの国際医療センターのベッド上で洗礼式が行われました。胃を全部摘出するという大手術のあと見事にお元気になられ、奥様を通して洗礼を受けたいと告げられました。ベッド上でにこにこと迎えられ、ご家族に囲まれて、内海牧師、松田牧師に何度も握手され、ありがとう、ありがとう、と皆に感謝され、洗礼の喜びの様子は言葉で言い表せないぐらい感動するものでした。教会員の皆さんに牧師から大串兄受洗の報告があり、クリスマスの喜びと共に全員が喜びに包まれました。
 銀髪で色浅黒く、腰のすわった風格のあった大串兄、壮年会に好んで出席され、ある忘年会では「もも太郎さん」を歌い、踊った大串兄、あなたが出席されると不思議と安心感のあった壮年会でした。そのような大串兄を神様のみ許に委ねます。いまは天国で神様と共に礼拝に出席されていることと思います。これからも東京教会を見守ってくださいますように。安らかに天国で憩われますように。 アーメン
     壮年会幹事 森下 博司
カンボジアに派遣され1年半が過ぎました      鎌 田 頼 子

 私が日本で働いていた時、カトリック新聞の小さな片隅にアジアの国に生きる愛らしい子どもの写真の上に「共に生きる」と書かれた記事を見つけました。信徒宣教者って何だろう?でも、私はこんなこと勉強してみたいのかなと思い、初めてJLMMMM事務局に電話をかけたのでした。これが私の、JLMMとの出会いでした。
 その後、カンボジアに派遣され、ステンミエンチャイ(プノンペンのゴミ処理場)、バッタンバンのラチャナ・ハンディクラフト・バッタンバンなどのJLMMのプロジェクト地を訪れながら語学を学び、常にカンボジアの傷ついた姿と貧しさを目の当たりにして来ました。
 戦争によってこんなにも傷つけられた国の中で私は最初、ただ揺れ動いているだけの存在でした。
 しかし私の生活とカンボジアでの活動はカンボジアの傷跡を自分の目で見ながらも、そこに芽生える新しい生命や文化の復興、人のやわらかさ、貧しさの中で生まれる美しさを感じることからはじまったのです。
 そのうち私たちは、カンボジア・バッタンバン知牧区エンリケ(キケ)司教代理と出会い、彼からカンボジアのカトリック教会の重要な働き、カンボジア人とベトナム人との和解の促進について伺う機会を得ました。長い歴史の中で、カンボジアとベトナムと本当の意味で理解しあうこと、認め合うことができなくなっています。カンボジアにいる多くのベトナム人がカンボジアを母国として考えているにもかかわらず、彼らは和解しきれないでいます。私たちJLMMはその問題に関わる、新たなプロジェクトを模索し始めることにしました。
 カンボジア西部に位置するトンレサップ地方、コンポンルアン(プルサト州)はトンレサップ湖に浮かぶ水上村。そこに小さなカトリックの教会があります。教会に集まるほとんどの人々はベトナム人。そこはカンボジアの中にあるベトナム村です。人々は必要に応じてカンボジア語を使い、主に漁を営みながら生活をしています。彼らは、湖の水位と漁業の具合によって、船の家とともに移住し続ける人々です。村人の識字率はかなり低く、貧しい生活をしている人々が多いです。
 このコンポンルアンが私たちの新しく活動する場所です。私たちは彼らの衛生・健康に関する問題に共に取り組むことを念頭に、バッタンバン教会と協力しつつ、1.カンボジア語・ベトナム語識字教室、2.家庭訪問によるホームケアの促進、3.医療機関との連携、4.身近にあるハーブ(薬草)・漢方薬の普及などのプログラムに取り組みはじめているところです。その活動の中で彼らからもまた、学んでいます。
まだまだ問題は多くあり、専門的な援助も必要としています。しかしこのような働きも大事な福音宣教の一つだということを信じて、村の人々と共に歩みつづけていきたいと思います。東京教会の皆さまが、私たちの小さな働きを支援してくださることを本当に感謝しています。これからもよろしくお願いいたします。

聖書アラカルト37  「ブドウ」

 ブドウに関して聖書に書かれている記述は数限りなく、もっともポピュラーな果実なだけに、この小さなコラムで取り上げきれません。植物としての一面だけを書きます。
 さて、イザヤ5章でもマタイ21章でも、ぶどう園の持ち主は垣を巡らしたり、見張りのやぐらを立てたりしますが、日本のブドウ園のように棚は作りません。現在でも、イスラエルのこの地域のブドウ樹はY字支柱に這わせる程度、地上50センチほどを這い、収穫時には上を向き伸び上がってではなく、下を向きかがんで果実を摘んでいるのです。
 ブドウはカスピ海南岸原産の蔓植物で、きわめて早い時期にパレスチナに定着し改良を加えられて現在の形となりました。果実が成熟する七月から九月に雨が降らず日差しが強くなるため、糖度の高いブドウができます。有名な《乳と蜜の流れる土地》の蜜はこのブドウのジュースを意味するとも言われています。
一日神学校に参加して               中井 憲孝

 秋晴れの9月23日(月)秋分の日、毎年恒例の「一日神学校」が今年も三鷹のキャンパスで行われました。
 後援会世話人としては、天気と参加者数が気になるところですが、まずまずの感触を持って、午前9時45分からチャペルで始まる開会聖餐礼拝に臨みました。昨年同様、今回も所狭しと並べられた一寸小さ目の椅子が大勢の参加者でビッシリと埋まりました。
 礼拝の中で、新たに顔ぶれが変わっていたのが、学院大学の市川学長と神学校の江藤校長、そしてチャプレンの宮澤真理子先生。超ベテランだった先生方の後を受けて、フレッシュな印象を持ちました。
 説教は江藤校長が「全ての人に例外なくカリスマ(霊の賜物)が与えられている」という主旨で話をされました。あと礼拝の中で特筆しておきたいのが、私達の教会員である石井真兄の素晴らしいトランペット演奏と、徳善義昌兄の指揮する学院大学・神学校聖歌隊とハンドベル演奏でした。
 メインである一日神学校の講義は午前(11:10〜12:30)と午後(14:00〜15:20)を合わせて、神学、社会福祉関係の13コマがありました。幾つか聴きたい講義がありましたが、私の場合、今年はカウンセリングに的を絞りました。午前は白井幸子先生の「カウンセリングの役割」と午後は加藤純先生の「ピアカウンセリングを始めてみませんか?」の二つです。白井先生は実際にカウンセラーとして経験された事例を基にユーモアを交えながら実践的な話をされ、大変勉強になりました。また加藤先生のピアカウンセリングは「同僚や身近な立場の人によるカウンセリング」というもので、実際に講義に参加したメンバーがグループに分かれてロールプレイイングを行い興味深い体験となりました。
 他の講義を受講できなかった方や一日神学校に参加できなかった方も講義テープを実費で求めることが可能ですから、興味のある方は事務局へ申し込まれるとよいでしょう。
 なお、昼休みには、食堂近くの中庭で幾つかの教会からミニショップが出店されていました。東京教会からも婦人会の方達が今年も頑張って出店し、クッキー、ケーキ、福神漬、ドライフラワーリース等を精力的に販売しました。皆様、大変お疲れ様でした!
 15時30分から参加者は再びチャペルに集まり閉会礼拝が行われました。礼拝の終わりに、事務局から「本日の参加者が昨年最高となった735名を更に上回り837名となったこと。礼拝献金として300,369円が捧げられたこと」の報告がありました。
 午後4時頃、全てのプログラムが終了しました。多くの方達が久し振りの教室で学生時代に戻った気分を味わわれたことと思います。来年はぜひあなとも「一日神学生」になってみませんか?

 一日神学校に行って        高橋 奏

 9月23日の一日神学校に行ってきました。
 わたしは、午前中に子ども神学校に行っていました。さいしょは、れいはいをやりました。子どもさんびかを二曲歌って、聖書も聞いて、れいはいがおわりました。次は、分級。分級と言っても、えんぴつも何もいらない分級です。お兄さんとお姉さんたちが、問題を言って、わたしたちが、答えを言う分級です。でも、問題が五問しかなかったので、もっとやりたかったです。そのあと、ジュースとキャンディーもでました。
 お昼に、東京教会のミニショップで、お手伝いをしました。
 午後は、また、子ども神学校に行って、神学校たんけんをしました。オリエンテーリングだったので、子どもだけで行ったのでどきどきしました。でも、すごく楽しかったです。
 また、来年も行きたいです。
ミニバザー報告(カンボジア支援のため)

 10月14日(おおくぼまつりの日)にカンボジア支援のため、ミニバザーを開きました。
 教会員のみなさまからのたくさんの献品と手作りの品々、また多ぜいの方々のご奉仕をいただき、ありがとうございました。
 同時にカンボジア現地の写真展示も行い、募金箱も置き、地域の方々のご協力もいただきました。合わせて120,218円の収益を得ました。
 感謝してご報告致します。
パイプオルガンニュース11

☆昨年3月より、毎月1回私達礼拝奏楽担当者は深井李々子先生よりパイプオルガンのご指導を受けて参りました。先生からは教会の礼拝奉仕ということで、オルガンが入ったらすぐに役立つようにと讃美歌の弾き方や、教会暦に合った前奏・後奏の選び方、ストップの組み合わせによる音色の違い、足の運び方や指使い等まさに手とり足とりのご指導を受けています。それぞれ練習の時間を工夫し、少し楽器にも慣れ、いよいよオルガン設置が目前となりました。期待と喜び不安と緊張の思いです。
 コンサートを聴く側の自分がまさかパイプオルガンを弾くことが出来るなんて夢にも思っていませんでした。好きな音楽を通して礼拝のお手伝いができる、これは神さまからのプレゼントにちがいない!オルガニストとしての幸せと喜びです。
 オルガニスト一同がんばって練習をしています。皆様のご支援宜しくお願い致します。 (吉 野)
   ♪  ♪  ♪

☆私たちのオルガンは既にハンブルグ港を出航し、横浜に向かっております。
 11月15日には横浜入港という連絡もありました。荷下ろし、組立ての準備も始めたところです。実際、その時になると、今更ながら大工事だなという思いが深まってきます。既に組立て、清音のための技師の宿泊場所も決めました。名前も知らされてきました。
 今後の予定をお知らせします。
 11月18日から組立て、清音作業があります。その間、小礼拝堂は作業場となります。
 5週間を経て、12月20日には引渡しとなります。
 オルガン設置の感謝礼拝は来年1月12日午後2時になります。演奏者としてドイツのブランシュバイク州の教会で音楽監督をしていらっしゃるヘッカーさんが来日されます。聖歌隊もこの時のために既に準備を始めました。
 また1月13日には教会員のみなさん、また近隣の人々にもご案内してコンサートを聞く予定です。
 1月17日には正式なコンサートの時を持ちます。ヘッカ―夫人がフルート奏者であることから、お二人をお招きします。その間に、オルガニストのための公開研修なども開く予定です。楽しみにして下さい。
 それにしても私たちの願いはこのオルガン設置によって礼拝がより豊かになり、バッハと共に「ただ主に栄光があるように」と心から歌うことにあります。      (内 海)


きずな第371号 2002年 9月22日 発行 より
わたしの言葉は決して滅びない! 〜ルカ21章33節〜         内 海  望

爽やかな秋の気配があたりを支配しています。
 しかし、自然の美しさとは反対に、暗いニュースが私たちの心を痛めます。
 無辜の生命が奪われて行く世界。この世界に希望はあるのか、と思わずため息をついてしまいます。
 このため息は、人間の歴史を通じて聞こえて来ます。ヨブは、自分の身に起こった苦しみに耐えかねて、友人たちの忠告にもかかわらず、あるいは友人たちに抗して、「待ってはいられない。私の道を神の前に申し立てよう」と直接神さまと対決しようとしました。彼は、善人が苦しみ、悪人が栄えるかに見えるこの世界に我慢がならなかったのです。そこで大胆にも創造者、支配者である神さまに直訴したのです。
 「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と語ったトマスの絶望の深さが理解できます。
 トマスと同じように、私たちもまた、私たちが見る現実の世界は、決して「復活の主、勝利の主イエス・キリスト」の支配する世界とは思われないのです。
 そのような私たちにイエスさまは「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」と語りかけて下さいます。このみ言葉を信じましょう。そして「身を起こし、頭を上げ」あらゆる絶望に逆らい、それを突き抜け、復活の主イエスに希望をかけ、与えられた人生の馳せ場を勝利の主を追い求める者として全身を伸ばしつつ歩みましょう。
シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ           松 田 繁 雄

 シモン・バルヨナとは、ヨナの子シモンという意味です。おそらく、シモン・ペトロの父親が、ヨナという名前だったのでしょう。ところで、このヨナという同じ名前の旧約の預言者について、イエス様は「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」というかなり否定的な言い方をしています。ヨナは選ばれてアッシリアの都ニネベに滅亡の報せを伝えに行った預言者です。《主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった》。この冒頭からして型破りな預言者です。ある意味で、預言者でありながら、神に抵抗し、自己中心的な人間の主張を貫こうとした人物として、旧約の中でも異彩を放っています。そのヨナが滅びの予言を伝えると、《ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった》と言います。つまり、悔い改めたのですが、神はこの改悛を受け入れます。ところが、ヨナは人間的に、何とも面白くないわけです。生きているより死んだ方がまし、とまで言い出すヨナに、トウゴマの木を与えます。ヨナの苦痛は癒されます。ところが虫がすぐ枯らしてしまうのです。またまた、生きているより死んだ方がまし、と不満を訴えるヨナに対し神が語り掛けた会話が以下の通りです。《神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」》もちろん、ここで読むべき福音は、神の忍耐であり、限りなき赦しなのでしょう。しかし、物語として読んだ時、自己中心という人間的限界に見事なほど忠実であった預言者ヨナが心に残ります。
 考えるまでもなく、人間は皆この自己中心という限界の中に生きています。性善説と性悪説という対立で考えれば、やはり、どうも、性悪説に軍配を上げざるを得ないのです。ただ、各人は、それぞれのやり方で、この生まれながらの悪から逃れ出ようとします。ファリサイ派の人々は、律法を神がわたしたちに示してくれた、一筋の道と考えました。この道をていねいに辿ることで、人はその罪から逃れて行く事ができる、と考えたのです。この律法主義自体は、キリスト教によって批判克服されて行くのでっすが、例えば、主イエスの《わたしは道であり、真理であり、命である》というような言葉を解釈する時に、知らず知らずのうちに、道という言葉の中に、生来の悪、罪から解放される道、という意味を読みこんでいるのです。ヨーロッパ中世のキリスト教の中では、この「道」は祈祷により備えられました。生来の悪から逃れ出る力はわたしたちの中には存在しない、だから、《この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない》という根拠は正しいのです。しかし、「祈祷」あるいは「代祷」という行為に頼ろうとする精神は、一方で、地獄、煉獄、あるいは魂の滅びについて恐れ真剣に思い悩む、やや神経症的な世俗世界を、もう一方では、その世界の救済を一手に引き受け、人間としての己の弱さに悩みつつも聖であろうと努力しつづける聖職者たちを生み出して行ったのです。この功績思想は、やがて庶民の救済という美名のもとに贖宥状という鬼子を生み出し、その結果、マルティン・ルターの宗教改革で批判克服されます。しかし、その根源にある、どうしたら、人はその本来の悪からのがれ出る事ができるか、という問いは、宗教改革の後も現代に至るまで、信仰者一人一人の心の中で問い続けられています。
 宗教改革は、これに一つの回答を与えました。《人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです》とのパウロの言葉がそれです。「ただ恵みのみ」スローガンとすれば、このひとことです。しかし、この言葉は、同じパウロの《わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです》という魂の叫び、苦しみを重ねて考えなければ本当の理解には繋がりません。人間が生来の悪から解放され得ない、それも含めて、神がわたしたちを受け止めてくださっているという事、また《わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか》が《わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします》に変わる瞬間を、わたしたちもパウロに倣って体験していく事が、わたしたちの体現しうる「信仰」ではないかと思うのです。《シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ》この御言葉はペトロのみならず、すべての求める者たちに向けて与えられた神の祝福なのです。
聖書アラカルト35  「からし種」

 からし種については、新約聖書、それも福音書の譬話に出てくるだけで、旧約聖書には述べられていません。《どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり》と描かれているこの植物は、クロガラシだと考えられています。クロガラシは2m近くまで成長するアブラナ科の一年草で、その種はわずか直径1mmにも満たない小さなものです。基本的に草(野菜)で樹木ではないので、一株だけ取り出して考えると、《空の鳥が来て枝に巣を作るほど》という形容は当たらないような気もするのですが、畑一面が、この背の高い植物に覆われている情景を思い浮かべると、そこに巣を作る鳥というイメージもふさわしく思われるのです。
 小さなからし種は畑一面を覆い尽くす程大きく成長します。同時に、この植物が一年草であるという事にも、世代を越えて伝えられる命の意味を見る事ができるのです。
 
 ドイツ・シューケ社 シュルツ氏と語る
8月27日、ベルリン・シューケ社での内海望先生、徳善義和先生とシュルツ氏との会話を、徳善先生が対談風に復元構成してくださいました。

 シューケ社の歴史をお話しくださいますか。
 本社の創立は一九世紀の末になります。その頃の音楽の傾向はいわゆるモダーン(近代風)の時代でした。どちらかというとなんでも、壮大、華麗に演奏したものです。バッハにしてもバロック風というより、近代風に壮大に演奏されたものでした。バッハの「マタイ受難曲」を再発見して、蘇演したメンデルスゾーンもそうでした。

 カール・リヒターぐらいまでの傾向ですね。
 そうです。初代のシューケはこの傾向に反して、復古風に、バロック曲をバロック風に演奏することのできる「バロックオルガン」の製作を始めたのでした。バロックオルガンとして有名なジルバーマンやシュニットガーのオルガンの伝統の復興です。初代の死後その息子兄弟がそれぞれポツダムとベルリンに分かれて、シューケの仕事を継ぎました。

 そのベルリンのシューケ社が現在の御社ですね。
 ええ。その後ポツダム・シューケ社は、旧東ドイツの中にあったということが影響して、外の世界とのつながりが制限されていたこともあって、初代の線を踏襲し続けるということになったのです。幸い西ベルリンに拠点をもった、我が社は国際的な刺激も受け、世界各地から、もちろんNHKホールを始め日本からも沢山注文をいただいたこともあって、もう少し幅のある路線を取ることを哲学とするようになりました。
 近代とバロックというふたつの傾向の中間を歩むという姿勢です。私がベルリンのシューケ社の責任を取るようになってからも、この幅のある路線を歩むという方針に変更はありませんし、世界の各地に存在する我が社製作のオルガンも、演奏者ばかりでなく、聴衆のみなさんからもこの点も含め評価されています。いわば製作するオルガンの音質に関する哲学と言ってよいでしょう。

 今回お願いした、私たちの教会のオルガンに関しても、その哲学の伝統に立った音質のものが設計され、製作されているわけですね。
 そうです。基本的には、ブラウンシュヴァイクのルーテル教会の担当の方のアドバイスによってストップを選びましたが、私がそれに加えて「ぜひトランペットを!」と申し上げたのも、この哲学から出たことでした。この大きさのオルガンとしては、かなり満足の行くものが出来上がると、自分でも期待しています。それに加えて今度の設計には、デザインの点でもうひとつ「オルガンの塔」という、これは私独特の哲学があります。

 完成予想図でもそうでしたが、今回組み立てが終わったところを拝見しても眼前にそそり立つ塔のような感じを受けました。
 はい。我が社にはオルガンのデザインに当たる優れたスタッフがおりますが、先ほどオルガンのミニアチュアを作っていたのは、大教会や大ホールなどのオルガンのデザイン担当者です。今回のご依頼に際しては、「オルガンの塔」の哲学に立って私自身でデザインさせていただきました。何千本というパイプを塔のように垂直に配列して、それをデザインするわけです。単に自分の頭の中で良しと思うものを描くというのではなく、今回もそうでしたが、オルガンが据え付けられる教会やホールの現場を見て、その建物、その空間のデザインにも適った工夫を凝らすものなのです。今回のデザインでは三角形をふたつ、立体のひし形にした形が大小いろいろに現れますが、これがいささかの自負を込めたデザインの基本となっています。

 会社組み立ての完成、ブラウンシュヴァイクのヘッカー氏による試奏、解体、船積みと完成に向けて最後の工程ですね。
 そうです。据え付けと組み立てには我が社の中堅の技師二名を送ります。よい仕事をしてくれると信じています。奉献礼拝には私もぜひ出席します。

オルガン設計者 
シューケ社シュルツ社長
オルガン設計図前の徳善義和先生
 
ようこそ、東京教会へ!
 最近の東京教会は壮観です。説教檀に立つと、たくさんのなつかしい?顔ぶれに出会います。常議員会で、牧師会で、また事務局でお会いした顔ぶれです。いろいろな思い出が浮かび上がってきます。しかし、何よりも、教会を立てるために一緒に力を合わせて来た「共に恵みに与った方々」と共にいるという喜びが心に湧き起こってきます。
 この度、田中牧師、長尾牧師が家族ともども群れに加わって頂きました。そして、東京教会にまた新しい喜びを加えて下さいました。感謝です。
お交わりに加えられたことを感謝して    田中 良浩

 この度、私たち夫婦と次女英恵の三人が、東京教会の会員として迎えていただき、心から感謝いたします。すでに娘の美香と真喜は以前から交わりに加えられていましたが、今年の三月三十一日、私にとって現役牧師最後の復活祭の礼拝で真喜の夫川路彰と孫の友喜の洗礼式が他の七名の受洗者と共に熊本教会で行われ、そのまま東京教会の会員として加えられました。このことは内海牧師、松田牧師をはじめ役員会の暖かいご配慮によるものでした。これは本当に嬉しいことで、私自身大層感動いたしました。また熊本教会の教会員の皆様も、共に喜び、祝ってくださいました。私は使徒言行録の「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(16―31)という、パウロとシラスの言葉を思い起こし、恵みのうちにこの約束が実現したことを思い、神に感謝しました。こうして結果的に家族全員が東京教会の交わりに加えられることになりました。心から神様と教会の皆様に感謝いたします。
 私たち夫婦は稔台教会での三十年を含め、熊本教会の八年間を最後に日本福音ルーテル教会における四三年間の伝道と牧会の生活から現役を引退しました。私個人としては、「牧師は生涯現役」だと思っています。今後も必要とされる働きがあれば、喜んで奉仕したいと思っています。いずれにしても、これからも、一切を主なる神様のお導きに委ねて生活していきたいと思っています。皆様の御加祷をお願いします。


「信仰を建てる」           長尾 博吉

 この度、東京教会に教会籍を転入させていただきました長尾ですが、東京教会といって、直ぐに思い浮かびますことは、宣教百年記念東京会堂の建築経過です。内海望牧師、徳善牧師、飯田兄弟に私も加わって、毎月1回建築現場責任者とかなりの時間を掛けて、基礎工事から建物内装詳細までの打ち合せが行われました。この教会建築の計画段階から献堂までの全行程に関わって、忘れることの出来ない聖句は、マタイ福音書7章24〜27節とエフェソの手紙2章19〜22節です。
 高い建物ほど固い岩盤まで支持杭を降ろし、その支持杭を基礎にしてその上に建物を組み立てるのですが、その支持杭がしっかりと岩盤を捉えていないと、またその支持杭がその上に立てられる建物の重量を十二分に支えるに足る本数が打ち込まれ、建物の柱と梁がしっかりと組み合わされることなくして、建物は地震に耐えられないでしょう。丁度、この会堂の建築工事請負業者入札直前の現場説明会の日(95年1月17日)に、阪神大地震が神戸で発生いたしました。丁度この時、私が建築委員長を努めていました神戸教会の新築工事が工事半ばで棟上げが終わったばかりだったのです。幸い、立ち上げた柱の上に屋根が葺かれただけの軽い状態だったため何の被害も出ませんでした。それは地盤が比較的に弱いため基礎が十分打たれていた結果であり、旧敷地に同時期に建てられた鉄筋10階建てのマンションは、その基礎にひび割れが入り補修に予定外の費用がかかると業者は困っていました。
 このように基礎は建物だけでなく、エフェソの手紙に有りますように、信仰生活においても聖言葉に耳を傾ける信仰の基礎の上に立つ日々の生活でなければならないことを痛感しています。

8/10〜11 幼児と家族の集い

 8/10〜11、「幼児と家族の集い」が催されました。今年は年長さんが多かったので、久しぶりに教会を出て「こどもの城」へ行きました。初めて井上友くんもお父さまと参加して下さり、とても楽しく遊んできました。また、今年も礼拝中に新しいさんびかを教えていただきました。
 反省としては、未就園児(0才〜2才)のお子さんは教会内での活動を計画していましたが、残念ながら参加がなく、原因はお泊りが負担ということ。来年は、例えば小さい子は「日曜の9時30分の礼拝から15時位まで」など、年令、月令に沿った計画の見直しをしようということになりました。
 毎年安心して参加できることを感謝しています。ありがとうございました。    担当 高橋恵子

 「こうさくをするのがたのしかったです。」  小1 井上 友

 「きのう、一人で、つつじヶ丘からしんおおくぼまでこれて、よかったです。キャンプでおもしろかったのは、花火です。風がふいて、せんこう花火はできなかった・・・。くやしい!」   小3 高橋 奏

 毎年、このおとまり会が無事行われると、ホッとすると同時に、感謝の気持ちでいっぱいになります。
 子どもたちは、神さまと教会員の方々から大切に守られているんだなあ、と。
 また一年後のみんなの成長をたのしみにしています。   皆川 雅子

 東京教会でのお泊り会は、初めてでしたが、無事に楽しく過ごすことができました。いろいろお世話してくださった方々には、感謝の気持ちでいっぱいです。
 どこの教会でも、こういう楽しい交わりに加わることができて幸せです。
 これからも、いろいろ参加し、また、お役に立ちたいとも思ってます。
 よろしくお願いします。    井 上 聡
8/24〜25 CSキャンプ  
        
 わたしは、キャンプでやったことは、ぜんぶたのしかったのですが、中でも一番たのしかったのは、こうずの森であそんだことでした。じゃぶじゃぶ池であそんだり、古いおみせや家を見たりして、とってもたのしかったです。まなみちゃんとかなちゃんとあそびました。おひるがおわったあと、二人で昔のたてものを見ました。またいきたいなあ。  小3 平井はるな


 わたしはかなちゃんとプールにいきました。    しゃにー      

 私がCSキャンプで一番たのしかったのは、分級です!けいろうの日のカードを書いたことです。2番目に楽しかったのはジャブジャブ池です。真奈ちゃんと、メガンとシャニンとはるなちゃんと遊びました。楽しかったです。 小3 高橋 奏


I chose to do this because it was a great thing that they let us do!
It shows FRIENDSHIP! 
We all had a great time there,playing with the water!
It was a God's family picnic!  Megan Meena

 私がキャンプで一番楽しかったことは、府中きょう土の森で水遊びをしたことと、昔の小学校や家を見たことです。最初水に入った時は「つめたい!」と思ったけれど、水の中にゆっくりと入っていると、だんだんあったかくなってきました。そして一番深い所に行ってみるとわたしのひざのちょっと下にまできてしまいました。
 水あそびをしたあと「昔の家や小学校を見る組」と「水遊び組」に分かれて遊びました。まず昔の家を見ました。でもその家のかいだんはすごく急で登るのも下るのもこわかったです。それで昔の小学校のイスと机は家とちがうことがわかりました。今の小学校はつくえがつるつるだけど、昔のつくえはザラザラしていました。私は府中きょう土の森でいいはっ見をしたなあと思いました。
                                                                 小4 荒井真奈

 郷土の森の自然がとてもよかったです。肝だめしの時の悲鳴もとてもよかった。またやりたいです。    中1 中田 圭

 初日に子供達に水をかけられたりしました。肝だめしの時に子ども達を泣かせたりして楽しかった。     中3 石川一雄

 小さい子供達と一緒に遊ぶというのは滅多にないことなので大変有意義な時間を過ごすことができたと思います。ただ、枕が違って寝られなかった少しつらかったです。願わくば、来年も参加できますように!    高1 福島 光




  CSキャンプを終えて
今回は、幼稚園年中から高校生まで計12名が集まりました。英語礼拝の方からも2名の参加があり、CSキャンプも国際的になりました。
 食事の準備や片付けに協力して下さった多くの会員の方々に感謝します。        スタッフ一同
パイプオルガンニュース 10 -内海牧師による現地検査報告-
 昨年の8月号以来のニュースです。8月末には完成したオルガンの現地検査に行って.
参りました。そのご報告を致します。
 相変わらず徳善先生との道中です。オルガンの件でドイツを往復しているうちに、いつの間にか徳善先生は定年退職され、名誉教授になっておられました。月日の経つのは早いものです。このように2年間の工事期間が過ぎ去り、いよいよパイプオルガンの設置が目の前に来ました。
 ベルリンシュッケ社からのほぼ完成との連絡があり、時間の打ち合わせをして、8月26日に徳善先生と共に成田を飛び立ちました。今回はフランクフルトから直接ベルリンへ飛び、社長のシュルツ氏の出迎えを受けました。日本時間では深夜でしたので、その日はすぐにベッドへ直行しました。
 翌朝、シュルツ氏の車で工房に向かいました。その道すがら、シュルツ氏は自分のオルガンづくりの理念あるいは哲学を話されました。興味深い会話でした。これは徳善先生が一問一答の形でまとめ、寄稿してくださいました。(4〜5ページ参照)
 いよいよなつかしい工房に到着。「これがあなたがたのオルガンですよ」と言われて見上げたオルガンの姿には圧倒されました。樫の木でがっちりと組み立てられ、7メートルの高さを持つ、聳え立つ姿は塔を連想させました。既にパイプもいくつか鳴り響くようになっていました。1日も早く会員の皆さんに見てもらいたい、美しい音色を聞いてもらいたいと思いました。清音室で東京教会の印である6700の番号が打ってあるパイプの一つ一つの音色を聞かせてもらいました。
 思わず、東京教会の礼拝でこのオルガンが鳴り響き、会員と一緒に歌い、耳を傾けている様子を心の中で想像しました。永遠を感じさせる礼拝を。
 工房のすべての部屋を見て廻り、最後にデザイン室に行きましたが、おびただしい数の模型が置いてありました。NHKホールに収められているものの模型もありました。年輩のデザイナーに聞くと、東京教会のオルガンは社長のシュルツ氏が自ら手がけたとのことでした。
 工房で思わず、時を過ごしてしまい、午後4時前の電車にぎりぎりで乗り込みました。途中、氾濫の爪あとが残るエルベ川を渡り、夕方、ブラウンシュバイクに到着。ステンドグラス探しの時から何度となく宿泊したプレディガールゼミナールの一室で旅装をときました。
 翌朝は、ブラウンシュバイクの新しい監督を表敬訪問。昨年LCM会議の代表として来られたコルマー先生も同行しました。おりよく奉献礼拝でオルガンを弾いていただくことになるへッカ―氏とも連絡がつき事務局で挨拶を交換できました。また翌日行なう洪水で苦しむ人々へのチャリティコンサートへのお招きも頂きました。
 29日朝、ヘッカ―氏とおおよそのスケジュールの打ち合わせをしました。非常に意欲的で過密なプログラムを組むことになりそうです。1月10日から20日まで滞在の予定です。奉献礼拝、コンサートの他、オルガニストの方々とも話し合う機会を是非持ちたいと思います。
 午後は奥様の案内で、ベッカー先生の墓地に祈りに行きました。思えば、LCMの会議で最初にお会いしてから20年にもなる交わりを頂きました。その間、ステンドグラスを会堂完成のお祝いに頂いたり、その他いろいろな面で、東京教会としても、また日本福音ルーテル教会としてもお世話になった方です。昨年亡くなりました。寂しさがつのります。
 夜は、ヘッカ―氏のコンサートに行きました。音楽には素人の私にも分かりやすい素晴らしいものでした。来年の来日が待たれます。
 30日早朝、徳善先生は世界の神学者が集まるルーテル教会とローマカトリック教会との委員会のためブルツブルグへ、私は大掃除のために東京教会へと、別々に車中の人となりました。生まれて始めてのデジカメでしたが何とか映っていたのでほっとしました。
 それにしても、12時間の空の旅が身にしみました。年でしょうか。
映画「サイン」を見て        石 井 真  
 先日、母と二人でニューヨークの叔母を訪ねて、一週間ほどアメリカに滞在しました。ラーソン先生御夫妻にお会いして祖父・市村忠逸郎の思い出話をするな
ど、有意義な滞在でした。その滞在中、話題の映画「サイン」を見て、キリスト教徒として非常に感動したことをお知らせします。
この映画には、妻の事故死により信仰を捨てた牧師の家族の周りに起こる不可解な現象を通じて、家族愛と信仰の尊さが描かれています。終末論、最後の晩餐、復活、懐疑など、文字どおりキリスト教的な「サイン」がふんだんに使われており、キリスト教のことを知っている方は、映画をさらに深く見ることができるでしょう。
「信仰を捨てた牧師」という設定は、若干安易な印象も受けますが、これはひとつの暗喩にすぎず、信仰を持つ者すべてに力強いメッセージ(サイン)が送られていると感じました。

 エンターテイメントとしても一級品で、本当に恐いのは事実ですが、この感動はそれ以上のものでした。すでに日本でも不気味なコマーシャルなどで話題になっていますが、これがれっきとしたキリスト教的映画であり、単なるオカルト映画として見のがすことのないようにと思い、皆様にお伝えしました。
カンボジアレポート12  鎌田 頼子

*自炊プロジェクトinコンポンルアン!?
 自炊生活がいきなり始まりました。私も食事作りを担当しました。薪や炭でご飯を炊くことは初めてです。最初は火をおこすことが一大事業。しかも船の上での作業です。太陽の照り返しと火の熱さと煙でこれまた頭がおかしくなってしまいました。昼ご飯を作って、食べたと思ったら、今度は夜ご飯の準備です。ガスコンロでしか料理したことない私がここで料理すると、倍の時間がかかってしまうのです。ただ私が作った食事をみんなが「おいしい」と言って食べてくれたことだけが救いでした。
 私は日本人ですから、やはり日本料理の作り方で作るのが好きなようです。日本のダシはなくても青菜をゆがいておひたしにするとか、オムレツを作るとか…。みんなはおもしろがって見ていますが、私はこんな料理って水や火がたくさんないと作りづらい料理なのだなーと改めて感じました。おひたしはゆがいた湯は捨ててしまうし、オムレツは最初に具だけを炒めて、その具を皿に移し、また卵の中に具を戻すとか…。つくづくここでは、自分が料理に参加すると、厄介なのだと思いました。簡単な炒め物、スープを作ろうと思ったらできるのですが、いざ自分が料理に加わると、どうしても自分が食べたいものを作ってしまいます。すごく楽しいけど、料理したら一日があっという間に、料理の時間のみで終わってしまうのです。
 先生たちもクメール語を教えることで、朝も昼も夜も大忙しです。私たち4人の食事は本当に気が楽で、楽しいものですが、やっぱり慣れない手つきと忙しさで、みんな体調を崩し始めました。
自炊プロジェクトは約2週間で終了しました。それは私がやっぱりこれは難しいと感じたからです。私たちのためだけに安くご飯を作ってくれる人を新たに探すことにしました。安く作ってもらうかわりに、私たちも少しお手伝いをするという約束にしました。
 たった2週間の自炊でしたが、身体はへとへとになりました。でもとても良い勉強になりました。薪や炭でご飯を炊くこと、火をおこすこと、火の様子を度々みにいかなければならないこと。薪や炭を無駄使いせずに料理する方法。ここでは食事を作ることが本当に重要な仕事です。家からそう簡単に離れられません。お買い物も日本のように一回スーパーに行って、冷蔵庫にポイッと入れておけばいいというわけにはいきません。野菜屋さんの舟、お肉屋さんの舟、炭を売る舟が自分の前を通りかかるときに、大声で呼んで自分の所に来てもらうのです。ますます家を離れるわけにはいかなくなります。毎日氷を買って、アイスボックスにいれて、生鮮食品を詰め込みます。それが冷蔵庫になります。時には近所の人が心配して、火をおこしたり、お米をといだりすることを手伝ってもくれました。魚の干物や、食事の差し入れもしてくれました。そんなあたたかさに触れることができました。でも短かったから良かったともいえるかもしれない自炊プロジェクトでした。村の人との距離が少し近くなった気がしました。
 自炊プロジェクトが終了し、今度はミーという名前のおばあちゃまが、食事を作ってくれることになりました。外国人の私たちを心配して「食べれないものがあったら、遠慮なくいってね。」と言われました。私はすかさず、「犬と亀はあまり食べたくない。」と言いました。これらの動物は、コンポンルアンの常食ではもちろんありません。わざわざ「珍しいものを!」と言って、準備してくれたりすることがあるのです。犬はまだ食べたことはないですが、亀は一度どうしようもなく食べました。でもあまりおいしくないと思います。そして、トンレサップの亀を食べることは自然環境破壊にもつながる!?だって絶滅の危機に瀕しているそうですから。

 おわりに―
 便りを書くのが遅くなってしまうのは本当に良くないことだと思います。でもコンポンルアンでは時間はたくさんあっても、なかなか腰を落ち着けて事務仕事をする場所がなくて少し困り始めている所です。新しい方法を考え出さなければなりません。それが少しでも解決したら、また前のようにお便りをたくさん書けるようになるかしら…?と思っています。スタディツアーの方々がカンボジアを訪れます。皆さまもぜひ一度カンボジアにお越しください。楽しみに待っていますよ。それではまた。チョムリアップリア!


きずな 第370号 2002年7月28日 発行 より
空間に消えゆく音楽                   内 海  望

 ある音楽家が、「私は、空間に消えゆく音楽を生業としている演奏家です」と自己紹介していました。音楽を「消えゆくもの」と定義しているところが心に残りました。考えてみると、コンサートはどんな名演奏でも、終われば消えてなくなるのです。はかない気もしますが、それは指揮者、演奏する者、聴く者、そして会場、すべてが一体となって造りあげたものであり、その瞬間が命であり、決して繰り返すことの出来ない一回限りの素晴らしいひとときです。しかも、その余韻はいつまでも心に響き続けるのです。そして私たちの心に潤いを与えてくれるのです。これが音楽の素晴らしさでしょう。
 礼拝も同じです。もちろん、ここでは本当の司式者(指揮者)は人間ではなく神さまです。そこで、語る人、聴く人、歌う人、読む人、弾く人、祈る人すべてが、会堂という空間、あるいは空気を共有して、神さまに向かって「心を一つにし、声を合わせるとき」、それは魂を揺さぶる力となり、私たちの毎日の生活に瑞々しい潤いと力を与えてくれるのです。何にも代え難い神さまとの交わりのひとときです。
 これもまた消え去っていくものです。決して再現することは出来ません。しかし、消え去って行くところにまた素晴らしさがあるとも言えます。何故なら、ここでも余韻が残るからです。そして、この余韻は永遠の生命を指し示し、生きる力の源泉となるのです。
 知識偏重の時代です。何でもテープなり、CDなりに再録し、残しておきたい誘惑に駆られます。しかし、この一回限りのこの神さまとの出会いの瞬間をしっかりと心に留め、永遠の生命に生きることの素晴らしさをもういちど確かめようではありませんか。
 宗教改革余話 -もう一人の主役、レオ十世-         松 田 繁 雄

「レオ十世は、背は高いほうで、太っているというより膨れている感じだが、手足は格好よくバランスがとれ、両足はふっくらしてまっすぐだった。その手は白く、形が整っていて、ひときわ美しい。だが頭は非常に大きく、首から下と釣り合いが悪かったが、それを威厳で取繕っていた。」パオロ・ジョヴィオという人の書いた『レオ十世』という書物からの引用です。レオ十世の本名は、ジョヴァンニ・デ・メディチ、1475年ルネッサンスの全盛期のフィレンツェで生まれています。そう、実は、彼は、有名なロレンツォ・デ・メディチの次男として生を受けたのです。フィレンツェは、ロレンツォ存命のうちはイタリア最強の都市として繁栄を誇っていたのですが、1494年、ロレンツォの死の二年後に、フランス王シャルル八世の軍門に下ることになります。ジョヴァンニ(後のレオ十世)は、父の死に際して国外に亡命し、1500年までの青春の日々をフランス、ドイツ、オランダと諸国を巡り歩いて過ごします。この8年間の海外体験が、後の教皇としての公的活動に、良い意味でも悪い意味でも大きく影響を与えているのです。
 さて、ジョヴァンニが帰り着いた1500年のローマを支配していたのは、教皇アレクサンデル六世とその息子のチェザーレ・ボルジアでした。この年は、また聖年にもあたり、多くの巡礼者を迎え、教皇庁の経済も大いに潤った年でした。ところが、教皇はこの収入の多くを、チェザーレの遠征費用に流用してしまう、これに不満な聖職者たちは、枢機卿のロヴェレの下に結集しますが、一人また一人と、暗殺されていきます。この情勢の中で、それでもジョヴァンニが庇護者に選んだのがこの枢機卿だったのです。三年後アレクサンデル六世が没すると、ロヴェレは教皇に選出されます。これが、ルネッサンス芸術の保護者として名高いユリウス二世で、ミケランジェロ、ブラマンテ、ラファエロといった芸術家たちを育て、大きな仕事をさせていったのです。
 サン・ピエトロ大聖堂の改築問題は、アレクサンデル六世の時代から話題になっていたのですが、ユリウス二世は戦費を削ることでそれを実行に移します。ところが、ブラマンテが設計し、ラファエロがそれを引き継ぎというように、芸術家主導で立てられた計画は、壮麗ながらもはや改築とは呼べない大掛かりなものになっていきます。しかも、この建築は、始めた以上、教皇庁の威信をかけても完成しなければなりません。当時、教皇のもとの学芸顧問官であったジョヴァンニは、イタリア、フランス、オランダ、ドイツ等の豪商たちと手を結んで、特別贖宥状(免罪符)を発行することを発案します。この贖宥状自体は、ジョヴァンニの独創ではなく、当時既にイタリアでは出回っていたものでしたが、これを各地の豪商と提携して大量に売りさばくというアイディアは彼の発明だったわけで、青年期のヨーロッパ各地での亡命生活が逆にここで生かされているのです。
 学僧として、教皇の信任を得たジョヴァンニは1512年メディチ家の復活に成功し、フィレンツェの支配を手に入れます。その翌年、教皇ユリウス二世が熱病で死ぬと、とうとう、教皇に選ばれ、レオ十世となるのです。ドイツでは、マインツ大司教と結託したフッガー財閥が、この贖宥状の販売を一手引き受け、やや放言癖はあるが口八丁手八丁のドミニコ会士テッツェルと共に、もっとも熱心にドイツ領内に売り出されることになります。
 さて、『九十五箇条の提題』ですが、レオ十世がこの時代の並みの教皇のように、学問に無関心であれば問題がなかったと言います。この文章の初出は、ラテン語で、同僚の学者に向けて書かれていましたし、たとえそれがドイツ語訳され話題になったとしても、それだけで贖宥状の売れ行きが鈍るわけでもなかったのです。レオ十世が下手に学問をかじっていて、ルターの贖宥状批判が、それに留まらず、功績思想全体、更に、中世的キリスト教全体やローマ教皇の権威自体をも危うくするものだということを、理解できたが故に、ヨハン・エックとの論争などが実現したのです。ちなみに、北方ルネッサンスの雄、オランダのエラスムスが『校訂ギリシャ語新約聖書』を献呈した相手がこのレオ十世、それを受け取る資格が充分にある教皇で、また自身学者としてのプライドも持っていたわけです。閑話休題、このライプツィッヒでの論争が、ルターの反ローマ教皇精神に火をつけ、宗教改革、西方教会の大分裂、プロテスタント教会の成立という流れを作っていったことは確かなのです。

 学びと交わりに感謝して        榎 津 重 喜(神学生・教会実習中)

 私たちの主が東京教会の会衆の皆様の歩みにいつも寄り添って歩んで下さっていることを日々確信することができ、共に感謝し喜びたいと思います。また皆様に交わりを心より感謝申し上げます。
 さて皆様、私の顔は覚えていただいたでしょうか。ところがかく言う私がはたしてどれだけ皆様のお顔を覚えさせていただけたか甚だ心許なく大変心苦しいです。お一人でも多くの方と言葉を交わしていきたいと思っています。前々号の「きずな」でご挨拶として少し書かせていただきましたが、自己紹介が足りないような気がしますのでそれを補うことと、今回は6月16日の修養会で東京教会の印象など述べさせていただいたことも合わせて書かせていただきます。
 「若い日に一度神学校行きを決意したことがあった」と申しましたが、それは高校卒業まで過ごした郷里島根県の益田教会でのことでした。初めて教会へ行ったのは高二の春、中学時代の恩師安達悦子姉のお誘いで渡辺潔先生を招いての伝道集会のとき、1971年のことです。この世にこのような愛を説く教えがあったのかとただ驚きと衝撃の日でした。それからは週に三回も四回も学校の帰りや土、日、教会に入り浸るようになりました。牧師の指導による聖書の勉強や読書会など、また高校生同士のお喋りや歌など、今想い起こしてみても本当に楽しい日々でした。高三の夏ごろから献身をしようとの気持ちが起き、明比輝代彦牧師の助言で哲学か心理学を学んでから神学校に行くことにして結局山口大学の哲学科へ。その頃の教会生活は、小郡の宣教師館に住みながら、そこでの学生を中心とした聖書研究会や青年会活動、そして主日の礼拝に出るというものでした。それらをとおして西中国地区の各教会と諸先生方には大変お世話になりました。当時のことですけれども、防府の田内豊先生、山之内正俊先生、宇部の小泉潤先生(現在東京池袋教会の立山忠浩牧師も山口大の同学年で宇部教会の青年会メンバーでした)、徳山のE・バーグ先生、市原正幸先生、益田の明比先生(弟も少し後に受洗)、藤井邦昭先生(妹が受洗)といった先生方です。
 この頃体験したことが信仰の原点になったような気がします。特に軽井沢や熊本慈愛園でのディアコニアキャンプからは大切なものを教えられました。ひとことで言えば他者に仕えるということが信仰というものの本質的な部分としてあるということです。聖霊はまさに愛の業を起こす働きとして信仰者とともにあるということです。
 さて在学中に現在の妻との交際が始まりましたが、私が牧師になることに対して抵抗を感じていた彼女(当時ノンクリスチャン)に配(遠)慮してしばらくのモラトリアムを決め、福岡へ移って九州大学大学院での哲学・倫理学研究の生活に入りました。教会は聖マタイ教会(バーグ先生)と、それを七九年に移転改称した福岡西教会(尾田光司先生)へ。この年益田教会から転籍して同時に結婚(直前に妻は受洗)。修士課程の二年次、25歳でした。福岡西では13年教会生活を送りCS教師や役員もしました。修士論文を提出し、一つの区切りとして博士課程の合格通知をもらったならその足で神学校へと思いながらも・・・、いざ合格となったときに研究途中の課題も続けたいだとか、(欲深いのか?)奨学金も魅力だなーだとか、ずるずると進学。この時が今から振り返ると今まで決断を遅らせた分かれ目だったと想い返されます。この頃、福岡で会社勤めをしていた立山氏は神学校行きを決断されました。その引っ越しを手伝いながら自分は何をためらっているのだろうと考えたことを覚えています。
 こうしているうちに娘が生まれ、息子が生まれ、哲学や倫理学の大学非常勤講師の口も少しずつ来て(九州女学院短大、そして四大になった九州ルーテル学院大など)「来年もまたいいですか」の言葉に促されるまま、気がついてみるとあまりに長い歳月が流れていました。子どもが小さい内は生活の変化を望まなかったのもあるでしょう。
 しかし心のどこかに霧のようなものがずっとあって時折周囲の人に献身のことをそれとなく相談していました。誰かが背中を押してくれるのを期待するような消極的な姿勢でした。そんな中、信仰生活上の理由で92年に博多教会に移り、95年から書記役員、98年から代議員をしてきました。一方で大学などで若い人たちとともに命と愛、自由と平和と人権などを考える日々が流れ、その中で「ここにも自分の生きる道は確かにあるな」との思いも次第に大きくなっていました。しかし前回書きましたように、本当になりたいのはやはり牧師だったのです。すべての人が神の大切な愛の対象としてすでにみ手の中に包まれ、罪を赦され、いつも神がともにいて下さるのだという恵みを、まだ知らない人々に伝えたくてたまらない想いが固まってきたのです。しかし年齢の問題があります。牧師になりたいと言うのにもタイムリミットというものがあるだろうと思いました。今献身を見送ってしまったならもう何も言えなくなる、そして必ず最期は後悔するだけだ、決めるなら今しかない、今を逃せば高まった気持ちを無理に圧し殺さなければならなくなる、そう思って決断をしたのでした。
 心の中の霧がすーっと晴れたようです。なんの取り柄もない人間でも牧師として何かご奉仕できることがあるはずだという気持ちをもちながら、今はこうして皆様の東京教会に実習の場が与えられ、毎週のように気づきを与えられ充実した学びをさせていただいています。
   * * * * * 
 先月教会修養会で、大変拙いものでしたが「東京教会の印象」についてお話しさせていただきました。まだ十分わかってもいないのに勝手なことを言ってしまったことでしょう。無礼をお許しください。しかしこの三か月余りの交わりの中で受けました印象は、まず会衆の方々が生き生きと信仰の喜びにあふれて教会生活を送っておられるということです。目にする姿も耳にする言葉もみな信仰から現されているのです。み言葉に養われている会衆の姿があります。もちろんお一人おひとりの中では色々な課題や悩み悲しみなどお持ちのことでしょう。しかし多くの皆様が様々なところで教会のため兄弟姉妹のために互いに仕え合っておられる姿にまず感銘を受けました。これが東京教会の人を引き寄せる魅力の第一だろうと思います。
 次になんと言っても五回の主日礼拝は東京教会の最大の特徴だと思います。先日、徳善先生の「ルターとルーテル教会」の講義の中で、バッハの時代のライプツィヒの教会での礼拝の持ち方を学びましたが、月曜から金曜まで朝6時45分からの祈りと午後の祈り、土曜午後2時の説教礼拝、日曜日は朝7時から11時まで礼拝、11時半から昼の説教、午後1時半から祈り、というように何回も礼拝や祈りが行われたのだそうです。それを聞いてすぐに東京教会を思い浮かべました。五回とも出席される方はなかなかいらっしゃらないと思いますが、できるだけ多くの人に礼拝に与れる機会をという態勢は、礼拝を柱に最大限開かれた教会をめざす東京教会の根本姿勢を最も強く印象づけます。これが礼拝出席者数160名を維持している大きな背景となっています。日曜日に用事ができても一日のどこかで礼拝に与れるチャンスがあるのですから。礼拝において赦しと平安をいただいて派遣されていくことがキリスト者の信仰生活の基本だとすれば、東京教会はそれを忠実に、より積極的に実行されているのです。二人の牧師先生と役員会を中心に地道に教会形成をしておられる賜物だと思います。 そして第一の点にもどるのですが、やはり会衆の献身的な働きをとおしてはじめて礼拝は様々な具体的なものによって準備され整えられていくことができるのであり、五回の礼拝も会衆の有形無形の奉仕でもって支えられていることも見逃せません。この働きが教会のパワーに繋がっています。
 第三に、お二人の牧師がおられることです。このことは大きな恵みです。お二人それぞれの角度から聖書の解き明しが聞けるのです。説教は決してただ説教壇から語られる時間のみの作業ではなく、日常の牧会の中で会衆と人格的な交わりをもつことを基にしてことばが与えられ、罪の赦しと救いの確かさへと聖書のみことばを解き明かすのですから、牧会者の眼差しが会衆一人ひとりに届くような魂への配慮が求められます。これほど多くの会衆がおられても会衆の一人ひとりとの人格的な関わりに立ったみことばの説教に与ることができるのはとりもなおさずお二人の先生がおられて牧会の任に心を砕いておられるからだと思います。そしてそれを証しするのは昼はもちろん、早朝も夕べもずっと欠かさず礼拝出席される会衆のお姿です。そして求道中の方から多くの受洗者が生まれていることです。
 他にもたくさんありますが、まさにこうしたことによって 「神われらとともにいます」の恵みをいっそう強く感じとられるのが皆さんの(「私たちの」と言いたい衝動にかられますが)教会だと思います。ですから私も毎週四回、五回の礼拝に与かるのが大変な楽しみになっています。ルーテル教会の中でぬきんでて成長を遂げている東京教会がこれから先どんなことに挑んでいかれ、どんな教会形成をしていかれるのか、学びの種は尽きないものがあると実感します。 もちろん、さまざまな困難もあるかも知れません。しかし、まだまだ会衆の皆様の中には潜在的な大きな力があります。それがどのような教会像のもとで引き出され整えられていくかを、特に役員会のお働きと二人の牧師先生の方法に学んでいきたいと思います。それに間近に与ることができる光栄に感謝して。

聖書アラカルト34  「舟に乗る」

 《イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した》、ルカ福音書8章にある表現です。マタイやマルコの並行個所でも同じなのですが、この舟が嵐に巻き込まれます。弟子たちがうろたえ騒ぐので、イエス様が起きてこられ、嵐を鎮めるという奇跡物語になっています。伝統的に、この「舟」は、教会のシンボルだと言われています。試練や迫害の中にある教会という事なのでしょうが、主イエスが群衆を教えられた後、湖に漕ぎ出そうと言われてこの場面が始まるのです。嵐の場面に続くのは、奇跡物語集ですから、教会=舟が実践の場面に漕ぎ出された時に、嵐に出会うという解釈も成り立ちます。
 舟に乗ること、つまり、教会に仲間として加わることには、自分では完全対処していけなくなる現実との出会いの危険も含まれています。その時に、弟子たちがそうしたのと同様に、素直に主イエスに頼ることができるか、その辺りが問われてくるのでしょう。
ゴスペルファミリーコンサートを聞いて   石 井 恵 子

6月30日午後、梅雨時で落ち込み気味の気分を吹き飛ばしてくれたゴスペルコンサートがありました。フィンランドからのフフティネン先生一家五人による、日本語で歌うゴスペルミュージックです。コーラスの他、チェロ、ヴァイオリン、キーボードを使いこなして、素晴らしい福音を私達に伝えて下さいました。特にソロで歌った長女のマリカイサさんの日本語の響きが美しく、美しい日本語の喪失が危惧される今日に、私自身、恥ずかしくもありました。
 最近は市民講座などでもゴスペルミュージックに触れる機会が増えておりますので、ゴスペルコンサートと聞くと、アフリカ系アメリカ人教会のグループを思い浮かべた方も多いのではないでしょうか。
 しかしながら、宣教の歴史の中で、音楽にそって言葉を教え福音を伝えるということは古くから行われていたことで、日本でもグレゴリウス聖歌が長崎の古い口伝民謡として伝わっていたという興味深い事実もあります。ゴスペルを福音と賛美の歌と解釈すれば、日本語のゴスペルがあってもいいのかもしれません。
 フフティネン先生一家のみなさんは、新しいゴスペルの方向を探って、色々とチャレンジを続けていらっしゃいます。美しくわかりやすい言葉と音楽で、私達の心に直接福音を述べ伝える新しい時代の新しいゴスペルが、これからも育っていきますように、フフティネン先生一家のみなさんを応援していきたいと思っています。
結婚六十周年と米寿を迎えて 伊 東 祐 義
伊 都
 私達は、お陰様で本年5月14日に、結婚60周年を迎えました。又、祐義は、本年10月24日に、満88才になります。高橋さんと深澤さんから、その感想を「きずな」に投稿するようにとの、ご指示をいただきました。
 現在、私達は共に元気で、毎日を平安に暮らしており、神様に心から感謝して居ます。
 私達は、昭和17年(1942年)5月14日に、キリスト教式で結婚しました。伊都は、祐義と三菱電機に同期入社した友人の妹です。日本は無謀にも、昭和16年12月に、米国を始めとする列強諸国と戦争を開始していました。まだその頃は、日本が勝っていたので、私達は箱根に新婚旅行に行くことが出来ました。新婚の楽しさを満喫しながら自宅に戻りましたら、一通の「赤紙」が届いていました。祐義に対する召集令状です。
 すぐに久留米の野砲隊に入隊、三ヶ月の教育訓練を受けました。その後、一旦召集は解除され、帰宅を許されましたが、程なく再び召集を受け、不幸にも敵の潜水艦の魚雷を受け、全員死亡してしまいました。私たった一人が、奇跡的に生き残りました。私が生き残れたのは、伊都の兄のお陰でした。
 その頃日本軍は、米軍に対し、次第に負けるようになり、米軍が活用しているレーダーを、日本も早く開発する必要に迫られていました。そこで、日本軍から、三菱電機に、至急レーダーを製作せよとの命令が下されました。伊都の兄は、当時日本には数少ないエレクトロニクスの技術者でした。三菱電機の技術者は、殆ど重電の技術者だったので、人手が不足していましたので、伊都の兄の奔走で、祐義は会社と軍との連絡業務を担当することとなり、召集を免れ、九死に一生を得ることができました。
 熱心なクリスチャンだった祐義の母は、当時はまだ元気で、明け暮れイエス・キリストに祈りを捧げてくれました。部隊の中で、祐義一人が生き残ることが出来たということは、到底あり得ないこと。奇跡としか言い様のないことでした。
 この他にも色々ラッキーな出来事がありました。命を失う大病にも、何度か罹りました。
 戦後間もなく、祐義がクルップ性肺炎になり、重体となった時、伊都が、当時は貴重品で、入手困難だったペニシリンを、懸命に探して、それで一命をとりとめたこともあり、又伊都が乳癌になり、手遅れで危険だったのをH病院の名医の先生のお蔭で、助けて頂いたこともあり、二人が揃って、こうして元気で居られるのには、常に私達を見守り、救いのみ手を差伸べて下さるイエス・キリストと、多くの方々のお力のお蔭であると、心から感謝して居ります。
 私達は、自分の力だけではどうにもならない。自分の力なんて、本当に弱いもの、努力しても、あがいてみても、どうすることも出来ないものだということを、今迄の私達の人生の中で、嫌というほど思い知らされてきました。
 然し、イエス・キリストに祈りを捧げることにより、不思議にも、思いもよらぬ道が拡け、扶けて頂けた。これからも生のある限り、イエス・キリストのみ手に縋って生かして頂く二人でありたいと思っております。

あなたも一日神学生!      後援会世話人 中井 憲孝

 今年も「一日神学校」がやって来ます。去る7月20日(土)の午後二時よりルーテル学院大学にて後援会首都圏世話人会が開催され、今年の一日神学校の説明がありました。教会員の皆様へ一足先にポイントをご案内します。

◎[目的] 学院を支える教会の方々、および学生の家族、卒業生や地域の方々などを大学・神学校にお招きして、交流を深める。
◎[日時・会場] 2002年9月23日(月)秋分の日です。午前9時45分(受付は9時15分)から午後4時まで。ルーテル学院大学において。

◎[主な内容]
【講義】午前の部(11時10分〜12時30分)
@柴田千頭男先生「葬儀を考える」―自分・家族・教会の視点から―   
A増野 肇先生「サイコドラマの楽しい世界へどうぞ(その一)
B加藤 純先生「ピア・カウンセリングをはじめてみませんか(その一)よく聞くために」
C石居 基夫先生「トトロのと・な・り」―宮崎駿を神学する―  
D下館 正雄先生「遠藤周作のイエス像」
E市川 一宏先生「高齢社会の中の教会」F白井 幸子先生「カウンセリングの役割」   他

【講義】午後の部(14時〜15時20分)
@柴田千頭男先生「葬儀を考える」―自分・家族・教会の視点から― 
A増野 肇先生「サイコドラマの楽しい世界へどうぞ(その2)
B加藤 純先生「ピア・カウンセリングを始めてみませんか(その二)新しい展望を開くために  他

【その他の内容】
○午前と午後、平行して「こども神学校」が開かれます。
○「語ろう!神学生と」(午後)―神学生達との自由な語らいの場。
○チャペルコンサート(午後)

●前日(22日の日曜日16時から19時)東京教会にて「若者たちの集い(けんしんナイト)」が開催されます。歌、証し、ゲーム、食事会など。
 
 昨年は、過去最高の730名の参加者でした。今年は一人一人が誘い合ってそれを上回る参加者で三鷹のキャンパスを埋め尽くしましょう!
 東教区第9回「宣教フォーラム」の報告     深沢孝寿

 「教会は高齢化が進んでいる、老人は弱くなるが希望をもって次の時代を神に祈る、来るべき世代に伝える責任を負いつつ」の小泉嗣牧師(湯河原教会)の開会礼拝で、今年の第9回宣教フォーラムが7月13日(土)午前10時半から午後4時半まで、東京教会にて行われました。
 当日の参加者は115名で、テーマ「明日に向かって種を蒔く(U)」(神よ、御腕の業を、力強い御業を、来るべき世代に語り伝えさせてください。詩編71・18)でした。各教会が次世代に信仰をどう継承するかをみんなで考え、話合い、実行していくか『宣教の働き』を学びました。
 発題は中川浩之兄(市ヶ谷)により「伝道マーケティングの視点から」と題し、伝道とマーケティングの共通する課題を取り上げて話されました。教会はサービス業、誰に?どのように?何によって?相手を確認し、求め合うもの、をわかりやすい言葉で、個別性に配慮した伝道をする。消費者の生活パターンの変化(生活時間の変化)する中で、日曜日1時間半だけしか買えない教会の現実、伝道プログラムは、宣教し、活動する教会の計画・目標がいる。そして結果を検証する外で遊び、生活の中に教会が『見える』『記憶される』『興味を持つ』『買いに行きたくなる』=行動につながる。などの見方を変えるお話でした。
 昼のご飯は「焼きそば、おにぎり」を青年、各教会の有志による手作り品を買い、青年の夏の費用に当てられた。
 午後は、7つのグループに分かれて話し合いが行われ、子ども世代から高齢者世代までのグループに各自関心のあるところに参加して2時間半の話合いがありました。各グループの内容は、報告者に記載されますのでこれをご覧ください。
 私の参加した「中高生世代」は12名で話し合いましたが、それぞれが青年のころ教会へ行き、出会った人の影響を受けて今日まで信仰生活を続けてこられた方々でした。一言ずつ記しますと「ダンロの火は薪を取ったら消える(一人ではだめ)」「大きな教会でグループによる活動が盛んで、新しい人を受け入れる体制がある」「一年以上教会に来ているが、洗礼を受けなさいと勧められたことがない、言葉が難しくて判らない、献金もいくらしていいか教えてくれない(求道者)」「九州の小さな教会から出てきたが今は帰っても礼拝がない」「教会はエネルギーを貰いに行くところ、忙しくても頑張って」「自分から教会へ来た私を導いてくれる人がいた。この人がいるから洗礼を受けた」「祖母に信仰は人生に大切だよと言われて近くのルーテル教会へ、6年かかって家族がみんな受洗した」「業界の常識、教会の非常識、来会者に壁を作らない配慮を」「幼稚園は教会の将来に大切だが、若い牧師はやりたがらない」「教会へ来た動機は英会話がタダで学べるから、しばらく離れていたが、み言葉をやさしく聞くことから始めて洗礼を」「家族は信仰を継承しているが、父母、兄弟はまだ、牧師になったらまず洗礼を」
 求道者がいたことでいろいろな反省と自分の求道時から今の信仰、教会のことが話し合われました。

        
カンボジアレポート 11         鎌田 頼子

はじめに−
 チョムリアップスー!みなさま元気ですか?私は元気です。5月20日からトンレサップ湖上南西に位置する村、コンポンルアンでの生活を始めました。この村にはコンピュータは一台もないし、日本人も一人もいません。でも、E-メールに頼らずに、そこにいる人々とただシンプルに過ごすということもいいことですね。こんな生活に少しずつ慣れてきています。そして勉強になっています。私の生活は、日本にいたときよりも、カンボジアのプノンペンに住んでいる時よりもずっとシンプルになってきています。今回はそんな私のシンプルな生活を少し紹介したいと思います。

*「ボンスライ・ヨリコ」の生活
 カトリックコンポンルアン教会は、コンポンルアンのベトナム人コミュニティの中にあります。ミサをする御御堂のそのとなりには、ベトナム人の子どもたちがカンボジア語とベトナム語を勉強する教室があります。どちらの建物も舟の形をしています。湖の上に教会や家が、浮かんでいます。湖の水位にあわせて、教会も識字教室も他の舟の家と共に引越しをします。私の部屋は識字教室の部屋の奥にあります。
 「ボンスライ、ボンスライ」コンポンルアンで私はこう呼ばれています。これはクメール語ですが、日本語では「お姉さん、お姉さん」という意味です。子どもたちってエネルギーにあふれていて、いくら走り回っても騒ぎまくっても疲れることを知りません。私が一緒に遊んでくれることを知れば、どんな時でも私を誘ってきます。
 午後になって強い風が吹いてきたかと思うと、激しい雨が降り出します。屋根をたたきつけてくる激しい雨音を聴きながら、雨水を貯める仕事をします。コンポンルアンのきちんとした家の屋根はトタンでできています。だいたいの家は屋根に雨どいを作り、雨水を沢山貯められるようにしています。カンボジアの村の生活では雨水はとても貴重なのです。食事の水や、とっておきの水浴び用の水に使います。普段の生活では、トンレサップ湖の水を使います。私は自分の使う水を湖からバケツで汲み、大きな樽に貯めてから、サッチュ−(みょうばん)の塊で水をかき混ぜて作ります。これも一日の仕事です。だけど雨水が沢山貯まると、子どもたちが私の部屋にそのとっておきの雨水を部屋に運んでくれます。雨水はトンレサップの水よりもずっと冷たくて、とてもきれいで、貴重なものに感じるのです。みんなはこういうのです。「お店で売っているミネラルウォーターより雨水の方がずっとおいしいんだよ。」彼らにとってのとっておきの水。カンボジアの沢山の雨。自然の恵み。
 今とても小さな活動をしています。夕方に老夫婦の家に毎日訪問しています。そこでおじいさんの水浴びの手伝いをしています。ここ数年おばあさんが寝たきりのおじいさんの介護をしていましたが、1ヶ月前おばあさんも病気になり、左半身が麻痺し、介護ができなくなってしまいました。おじいさんの床ずれはずいぶんひどい状態ですが、そのまま何もされていません。カレンと一緒に自然な成り行きでおじいさんの水浴びの手伝いが始まりました。私たちがその家を訪れると、近所の親戚のお兄さんもやる気になって、手伝いに来てくれます。小さな舟の家に大きな大人が何人も集まって、ひと騒動です。家族も私たちが来ない時は、少しずつ自分たちで工夫して介護をするようになってきました。床ずれの具合も少しずつよくなってきました。栄養の問題はまだまだ残っているし、小さな舟の中で寝たきりの方が暮らすことはとても大変なことだけど、みんなが少しずつ助けあうことで、工夫を重ねることで、豊かな生活を送れることが私たちの願いです。

おわりに―
 プノンペンに帰って、いろいろな形で自分たちが支えられて、コンポンルアンに出かけていることを感じることができました。1人で不安になって、コンポンルアンに入る前の緊張した気持ちも忘れてしまっていました。また気持ちを整えて、コンポンルアンに向かっていくことができそうです。 Chomliap-lia!


きずな 第369号 2002年6月23日 発行 より
神信頼の確かさ   〜不安に耐える勇気〜         内 海  望

 「生きる」ということは勇気のいることです。何故なら、それは不安に耐えるということだからです。今日は元気に生きていても、明日も元気だとは限らないものです。自分自身の寿命すら知らないのです。平均寿命で推測し、将来に対して楽観的な見通しを立てても、所詮それは気休めに過ぎないことを私たちは知っています。私たちは、「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の花」とイエスさまがおっしゃったような存在であるのは間違いありません。私たちの人生には何一つ確かなものはないのです。それで人々は「確かなもの」を探し始めるのです。健康、財産、栄誉その他もろもろの事柄に依りかかろうとするのです。
 ルターは「救われている確かさ」「天国に行く確かさ」を求めて修道院に入りました。これは中世期のヨーロッパでの出来事ですが、現代に生きる私たちにとっても無縁のことではないのです。ルターは懸命に自分の努力で救われる確証を得ようとしました。しかし、最終的には、「確かなもの」を自分の手で掴むことを断念しました。「断念した」というよりも断念させられたのです。何故なら、「もう十分だ」と思った瞬間に、「未だ十分ではない」という声が内面から起こってくるのを止める事が出来なかったのです。健康、財産.栄誉などについても同じことが言えます。
 しかし、まさに完全に自分の力に絶望したその時、ルターは主イエスの愛が私たちをしっかりと掴んで離さないという事実に気が付かされたのです。絶望からいっきに「永遠の喜び」に生きる者となったのです。確かなものは「イエス・キリストの十字架のみ」と知ったのです。
 私たちも自分の力で「確かさ」を掴むのでなく、主イエスの確かさに人生を委ねる勇気を持ちましょう。その時、本当の平安を与えられます。
神からの福音を「被く」           松 田 繁 雄

 マタイ福音書の中には、時々わたしたちに理解しがたい言葉が語られています。背景に異文化があるからなのですが、今回は、一つの例として、礼服の問題を取り上げて見ました。

 平安時代の言葉に「被(かず)く」というものがあります。現代語に訳すると、「褒美を与える」あるいは「褒美を貰う」という意味になります。どちらの意味になるかは、動詞の活用で区別していたという事ですが、このあたりは話が煩瑣になるのでやめておきます。ところで、「被」という感じは現代語でも使われていて、「被る」と言えば、例えば帽子などを身につけることです。古文の「被く」も、元々は「身につける」という同じ意味から派生してきたのです。古代日本社会において、功績のあった家臣を公式の場で誉める場合に、主人が自分の羽織っている上着を脱いで、その家臣の肩にかけてやるという事が行われたようです。「肩にかける」=褒美を与える、「肩にかけてもらう」=褒美を貰う、という具合に意味が発展し、「被く」という言葉が定着したと言うことです。
 さて、冒頭にこの話を持ってきた理由は、実は、古代イスラエルにも衣装を「被く」習慣があったようだからです。ただし、この場合、功臣に褒美を与えるという意味ではなく、招待した客に名誉を与えるという意味で、もてなしの一つとして行われたのです。先ほどの日本での言葉の発展を類推して考えると、礼服を被く=招待客としての名誉を示す、招待客として丁重に扱う、という二つの意味に発展していく、となるのでしょうか。
 礼服については、マタイ福音書22章11から13節に、婚宴に招待されたのに礼服を着ていなかった人が、外の暗闇に放り出される話が出ています。この婚宴の譬話は、ルカ福音書一四章にも並行箇所を持ちますが、そこでは、前半の招待された客がみな逃げ口上を設けて婚宴に出席しようとしないので、通りに出てその辺りの人をみな招待した、という話で終っていて、礼服に関するこの部分は語られていません。現代のわたしたちと同様、イスラエルの事情に疎かったルカが、意味のわからないこの部分を削除したと考えられています。
 ところが、先ほどの、礼服を「被く」習慣を考慮に入れると、この部分の意味が少しは推測できるようです。婚宴を開いた王は、招待客のために「被く」礼服を用意していたわけで、誰もが礼服を被いて婚宴に出席するものと考えられていました。ところが、一人だけ違ったのです。用意された礼服を拒否して受けとらなかったのか、受けとったけれど隠匿して着てこなかったのか、それとも、正規ルートから入らずに、この婚宴から不正な利得を得ようと忍び込んできたものか、いずれにせよ、普通の招待客ではありえないのです。それでも、王は「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」と尋ねたのです。礼服を「被く」習慣を知っているだけで、随分このあたりの印象が変わってくることが分かります。
 次の問題は、入口で与えられた「礼服」が何を意味するかでしょう。バビロニア・タルムードの中にも、実は似たような「婚宴の譬話」があり、しかも、そこでは礼服を着けているかいないかが問題となっています。出典のベン・ザッカイという人は、福音書記者マタイとほぼ同時代のラビですから、この二つの話がお互いにある程度影響しあったということも考えられます。このタルムードの譬えの解説には、コヘレトの言葉9章8節《どのようなときも純白の衣を着て/頭には香油を絶やすな》との関連で、神から与えられた律法を身につけ、常に悔い改めてあれ、と付け加えられています。香油がユダヤ教徒の悔い改めのシンボルであったのですから、これはこれで筋の通った解釈と思われます。
 しかし、「神から与えられた」礼服として、わたしたちにはむしろ、赦しの徴として受け取ることの方が自然に思われます。ルカ一五章の「失われた息子の譬」で、礼服の習慣を知らなかったルカも、父親の赦しの最初の徴として《急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ》と語っています。礼服は、神から無償で与えられる恵みの晴れ着なのですが、わたしたちは、この晴れ着を、わたしたちの罪のために十字架上で血を流された主イエスの尊い命を通して受けていかなければなりません。そこに福音の難しさを見るのは読み込みすぎでしょうか。
 
降り注ぐ聖霊の恵み
礼拝堂の向かって右から2番目のステンド・グラスに目を留めて下さい。天の王座に就かれたイエスさまがこの世界に聖霊を与え、新しくしてくださる絵が描かれています。聖霊が星屑のように降り注いでいる様子がわかります。
 今年の聖霊降臨日もまた教会は大きな喜びに包まれ、降り注ぐ聖霊の恵みを分かち合いました。洗礼、初陪餐、転入式と豊かな礼拝が守られました。洗礼を受ける幼児の笑顔、「主の祈り」を暗唱できた小学一年生、新しい決意を胸に転入された姉妹たち、輝いていました。共に主のもとで成長し、み言葉を伝える者になりましょう。

 受洗にあたり          神谷 千晴

 先日は、柾和の洗礼を内海先生、松田先生をはじめ多くの方々に祝って頂きましてありがとうございました。
 初め、受洗するかどうかは子供自身が大きくなってから決めればいいと考えていましたが、内海先生に、洗礼は神様からの恵みで、財産の様なものだと教えて頂き、私自身洗礼の考え方が誤っていたことに気づきました。
 と同時に自分が受洗した頃のことを思い出しました。私の実家は仏教なのですが、高校三年の時に神様のお導きで洗礼を受けることになりました。当時カトリック系の学校に通い、信者の友人も多かったのですが、小さい頃から神様を身近に感じ、育ってきた友人達を羨ましく思ったものです。
 今は神様のお恵みにより、柾和がそのような環境に育つことができ心から感謝しています。
 最後に名前についてですが、柾目のような真っ直ぐな心をもって欲しい、また「和」を大切にする人になって欲しいと思いこの名にしました。
 今後も親子ともどもよろしくお願い致します。


  転入に際し          島田 愛子

 大好きな曲Amazing Graceに包まれて、ペンテコステの日に転入させていただきました。私の両親である故林正己、嘉子が大変お世話になり、この紙面をお借りし、改めて感謝申し上げます。誠にありがとうございました。
 私は一風変わった人間だと思っております。会員の皆様や親戚の人たちのように、立派なクリスチャン言葉でのお祈りができません。蔦の絡まるあの古い東京教会で幼児洗礼と堅信礼を、本田伝喜先生に施して頂きましたのに(と言うと、年齢が判ってしまいますが)甚だ俗っぽい人間になってしまいました。反省の毎日です。礼拝堂の片隅でひっそりとお祈りをさせて戴きたいと存じます。そしてどんなに疲れた時でも、その日の感謝を忘れない心のゆとりを持ちたいと願っております。どうぞよろしくお願いいたします。


 取った食べた飲んだ       いのうえ とも
    
初陪餐の感想は?
 たのしかった。
 ウエハースはちょっとおいしかった。
 ぶどう酒は気持ちがあつくなった。で もすぐにもとにもどった。
 また教会の勉強をしたい。
 内海先生ありがと。

 1995年11月20日生まれ満6歳。名前はヨハネ福音書15章14節から。
 長野教会で受洗後、97年東京教会へ転入。連休中、内海先生から初陪餐教育を受け、主の祈りもおぼえた。
 好きな科目は図工。好きな食べ物は、納豆、鮭(の皮)、ブルーチーズ、トンカツ。好きなものは、ベイブレード、サッカー、トイレで読書。どんどん友だちを増やしたいそうです。これからもよろしくお願いします。
一日修養会の報告

 梅雨の時期、朝から天候ははっきりした答えを出してくれない。6月16日は、私たち東京教会の一日修養会の開催日である。教会に来ても空模様が心配で、天気の事が挨拶がわりとなる始末だ。
 当日は当教会にとっては久しぶりの一日修養会なのだが、朝から天候に振り回されて、担当する責任者にとっては心配の種はつきない。準備は万全で、開催場所の新宿御苑への数回にわたる下見や弁当、お菓子、飲み物の手配等怠りなく進めたが、雨で教会内での開催では、せめて修養会だけは屋外で開きたいとの切なる願いが通じない事になってしまうし、参加する会員にとっても、新鮮な所で行なうことに期待も集まっている事だし・・・。
 さて聖日礼拝が終わって最後の決断の時、担当責任者が空を見やると、なんと「木洩れ日のさす天気」となっていたので、新宿御苑での開催OKのGOサインが正式に出され、34名の方々が、自家用車、タクシー電車等で御苑の正門前に三々五々集合する事となった。予定の午後一時には全員が集合し団体割引を受けて入場した。さいわいに入口の近くに広い芝生の場所を確保する事が出来て、持参のビニールシートをひろげて全員が輪になって座る事ができました。
 川西姉の司会で、まず内海先生の開会の祈りに始まり楽しい食事と交わりの時を持ち、東京教会で実習中の榎津重喜兄による「神学生から見た東京教会の感想や印象」を中心としたお話を聞いて、いかにも修養会らしい雰囲気になりました。お話しの後、内海先生と松田先生を中心に二組にわかれ特別なテーマを決めずフリートーキングで様々な問題を語り合いました。時の過ぎるのも忘れて話し合っているうちに、閉会の時間となり松田先生の閉会の祈りで幕を下ろす事になりました。
 今回は自然の中で気分も新たに語り合う事が出来気分は上々でした。
 このような会は担当者の方々は大変でしょうが、一年に一回ぐらいは行なえたら、今回参加できなかった会員の方々も参加するチャンスが増えると思います。短時間でしたが、それなりに実りの多い集会だったと感じています。思いつくまま書きましたので、楽しい会のごく一部分の紹介となりました。          (唐沢 記)

☆榎津神学生のお話は、来月号のきずなに掲載いたします。どうぞご期待ください!
見知らぬ老婦人を背負った 若き将校の祖父に       石 井  真 

 超氷河期と言われる就職難の時代に、私もご他聞にもれず五月末になってもひとつも決まらないまま残る会社が2社になったとき、ある人との出会いが、私を救ってくれました。
 次の日にある、日本IBMの面接のための資料を整理して、大学を後にしようとしていたときのことです。知っている女の子を久しぶりに見かけたので、一緒にバス停まで歩いていくことにしました。何年生になりましたかと尋ねると、もう4年生で就職活動中とのこと。いつの間にそんなに大きくなったのかと思いましたが、それもそのはず、私も大学院修士の2年生なのですから。自分が理系の大学院生であると言うと、彼女は「文系の私にくらべれば就職は沢山あってうらやましいです」と言いました。
「でも僕はあまりコンピュータエンジニアの仕事を好まないので、そんなに楽ではないですよ。明日はIBMの面接ですが、正直言って気が進まないんですよ。」と言うと、彼女もIBMを受けていたと言います。
「私は文系ですがエンジニアに興味があって、ほとんどの会社は断わられてしまうんですが、IBMは色々と親切に助けてくれて、子会社の一つを紹介してくれて受けることが出来たんです。今日その結果がきたんですが、落ちちゃいました。これから教育実習も始まるので就職活動はお休みするんですが、もうひとつ残っているのでがんばりたいと思います。」
 彼女をバス停までおくって、私は家に帰りました。その帰り道に、私は自分自身への恥ずかしさからとめどもなく流れる涙をおさえることができませんでした。
 彼女は、目が見えないのです。
 この仕事はしたいが、あの仕事はしたくない、これはいいがあれはいやだ、自分にはなにも能力がないのに、私は自分勝手にただやりたい仕事を選んでばかりいただけだったのです。自分が世の中のために何ができるのか、人のために何ができるのかなど、考えたこともありませんでした。そこには何もできない自分がいただけでした。
 私はその日から、自分の就職活動を悔い改め、一からやり直すことに決めました。間もなく、その次の日に受けたIBMから内定の知らせが届きました。
 私が彼女の手を引いて歩いたことは、これが初めてではありません。彼女を見かけた時は必ず声をかけていました。しかしながら、それは間違っていました。私が彼女の手を引いていたのではなく、彼女こそが私の手を引いてくれていたのです。そして、そのとき私は初めて、自分のつないでいた手が神様の手だったことに気付きました。
「あなたが神様のことを見捨てることがあっても、神様はあなたのことを絶対に見捨てることはありません」という内海先生の言葉を思い出します。
 私は、日本IBMのITエンジニアという仕事を通して、人種、国境、性別や障害を超えた平等な情報化社会の構築に貢献したいと考えています。

 戦国時代のキリシタン女性     「カタリナ永俊尼」      中井 憲孝
    (種子島と二人の女性   その2)

 西之表港を囲む市街地の背後に迫る丘の中腹に、栖林(セイソン)神社が古いたたずまいを見せています。その北隣に御拝搭(オハート―)と呼ばれる種子島家代々の島主の墓地があり、林に囲まれた四角形の広い静かな空間を提供しています。この墓地は西之表市の指定文化財にもなっており、保存にも力を入れ、手入れの行き届いた場所になっています。入口にある大きな看板「御拝搭墓地配置図」を頼りに数多くの墓石の間を辿って行くと、正面奥に「永俊尼」「喜入忠政夫人(永俊尼の娘)」「鶴(喜入忠政夫人の娘)」と表示された三体の石塔を見つけることが出来ます。石の傘を頭に戴いた小振りの形は女性の墓らしい印象を与えます。
 カタリナ永俊尼は謎に包まれた女性ですが、数少ない関係資料の中からその姿の一端を紹介してみたいと思います。一つは宣教師マテウス・デ・コウロスによって1616年(元和二年)に書かれた本国への年報書簡です。「副管区長は、偶像崇拝のはびこっている薩摩の国へ一イルマンを送り、その国に散在している多数の信者に会って、神父を派遣すべきかどうかを相談させました。その後神父の訪問が実現し、人々はその来訪を喜んで迎えました。というのは、ミサにあずかったことが一度もない人々もいたからです。神父は殿(十八代島津家久)の夫人(桂安夫人)の母親(カタリナ永俊尼)の屋敷に宿泊しました。この夫人は信仰の厚いキリシタンです。彼の滞在中、殿の夫人(桂安夫人)が贈物とともに挨拶の言葉を伝えて来ました。彼女は異教徒ではありますが、聖水とろうそくを求め、彼女および長男(十九代島津光久)のために神に祈ってくれ、と願いました。それを聞いたキリシタンはみな心に深い慰めを得ました」(「鹿児島のキリシタン」結城了悟著より引用)
 もう一つの資料は1624年(寛永元年)に宣教師ジョアン・ロドゥリーゲス・ジラスの記した年報書簡です。「イエズス会の一神父が薩摩国のキリシタンを訪問して、彼らに告解や聖体の秘跡を授け、これほど盲目で頑迷な異教の中にあっては、さらによく信仰を守るように、と彼らを励まし慰めました。彼らの柱となり庇護者となっていたのは、カタリーナというその国の領主(家久)の姑です。きわめて高貴な人で、両親や祖父母も信徒だったから熱心なキリシタンです。キリスト教を棄てるようにという女婿(家久)の挑戦に対抗する霊的力を、彼女はこの神父来訪によって特別に受けることができました」(「鹿児島のキリシタン」結城了悟著より引用)
 この頃の日本では二代将軍徳川秀忠から三代将軍家光の時代で切支丹の大迫害・弾圧が江戸幕府により行われていました。中央の意向を受ける形で、島津家久は姑であるカタリナ永俊尼に切支丹の教えを棄てるように相当強く迫ったと思われますが、最後まで永俊尼が首を縦に振らなかった為、一つの決心を迫られることになりました。
 1633年(寛永十年)領主島津光久の代にカタリナ永俊尼は遂に鹿児島から種子島へ約二十人程の家族や奉公人と共に追放されてしまいました。その場所は西之表市から東へ約五キロ程入った大長野という丘の麓辺りと伝えられています。今でも畑地や森の広がる寂しい場所です。この頃鹿児島でも切支丹信者が多数捕らえられ処刑されたということです。
 その後、時代は1637年(寛永十四年)の島原の乱を経て、やがて種子島の永俊尼のもとには、島津家の有力な家臣である喜入摂津守忠政と基多村越中守に嫁いでいた娘達が、切支丹の母を持つという理由で離縁され送られて来ました。ところで栖林神社の後方に榕城中学校、榕城小学校がありますが、この一帯は昔島主の城(赤尾木城)のあった所です。少し南側に井上と呼ばれる昔家臣の住まいがあったと言われる一角がありますが、晩年に永俊尼達はこの地に移されて来ました。そして1649年(慶安二年)永俊尼はこの地で75年の生涯を静かに閉じることになります。遂に鹿児島に戻ることがなかったのは、頑なに信仰を守り通した証しなのでしょう。
 さて初めにこの永俊尼には謎に包まれた部分があると書きましたが、それを物語る一つの資料を紹介したいと思います。(島津家本旧記雑録後編八八より)
「光久公御母堂桂安夫人ハ島津備前守忠清ノ女ニテ其ノ御母ハ肥後ノ士皆吉久右衛門続能ノ娘ニテ法名永春ト云、始ハ肥後宇都城主小西摂津守行長ノ室ニテ女一人ヲ生ミ、行長滅亡タル後島津忠清ノ小西ニ御預ニテ居ラレシニ娶ラレ桂安夫人ヲ生ミ、慶長十四年鹿付ニ来リ、忠清死後今郷田氏辺ニ居ラレ、竪野ノ御祖母様トモ、又ハ永俊尼トモ為申由也、行長ト生メル女子ハ喜入摂津守忠政ノ室トナレリ」 (注)島津備前忠清は薩摩藩出水地域の領主の子であったが、知行を召上げられて宇土の小西行長の元に預けられていた。
 この資料の信憑性に疑問を持つ歴史家もいますが、私としてはかなり可能性のある記述だと思います。一六三七年の島原の乱で天草四郎を首班とする切支丹達が籠城した原城が全滅させられますが、その中に小西行長の家来だった皆吉久右衛門がいたと言われています。
 理解を助けるために少し年代別に事象を並べてみます。
1574年(天正二年)永俊尼誕生。
1588年(天正十六年)豊臣秀吉が肥後国を二分して北半分を加藤清正に南半分を小西行長に与える。清正は隅本(現在の熊本市)を、行長は宇土(現在の宇土市)を居城とする。(行長三一歳)
1593年(文禄二年)島津備前忠清、小西行長に預けられる。
1600年(慶長五年)関ケ原の戦い。小西行長、石田三成らと共に京都にて斬首。
1609年(慶長十四年)行長の死後、のちの永俊尼と結婚した忠清は子供を連れて鹿児島へ行く。
1616年(元和二年)島津光久公誕生。
 ところでカタリナ永俊尼の出生については幾つかの説があるようです。小西行長の娘説、備前岡山の大名宇喜多秀家の家臣明石掃部頭全登の娘カタリナ説、小西行長の妹カタリナ説と諸説あり、皆吉久右衛門続能の娘説もその一つです(私もその説を取ります)。
 以上、カタリナ永俊尼の波乱に満ちた生涯を紹介しましたが、切支丹迫害の吹き荒れたあの時代に、多くの信徒を援助し頼りにされ、種子島に幽閉されても最後まで信仰を貫いた生き方には一つの感動を覚えます。なお、御拝搭にあるカタリナ永俊尼の墓石の側面には「慶安二年乙丑九月八日」の没年とわざわざ付け加えるように「是人於仏道決定無有疑」(是の人の仏道に対する信仰には疑いが無い)と刻まれています。当時の厳しい弾圧を逃れる為の方便だったのでしょう。
[参照資料] タネガシマ風物誌(下野敏見著)、鹿児島のキリシタン(結城了悟著)、殉教者カタリナ永俊と島津家(木村フジエ著)

聖書アラカルト33      「イバラ」

 ナホム書で《絡み合った茨》、イザヤ書で《その城郭は茨が覆い》と描写されているように、この植物は日当たりの良い場所に群生する性質を持っています。また、各枝の先端に鋭い一対の刺を持つ事から、ぶどう園などの防護柵や山羊や羊の囲いとして用いられる事も多いと言います。ヨハネ10章の《羊の囲い》もこうした茨と石との構造物であった可能性が高く、マタイ21章のぶどう園に巡らした垣も同様のものであったと思われます。《それゆえ、わたしは彼女の行く道を茨でふさぎ/石垣で遮り/道を見いだせないようにする》これはホセア書の言葉ですが、外からの侵入を阻む、いまで言えば鉄条網のようなイメージが湧いてきます。
 さて、この茨の中に蒔かれた種は、伸びようとしても茨に遮られて枯れてしまいます。この同じ茨で、兵士たちは《冠を編んで》十字架のキリストの頭を飾ったのでした。
 
 はじめまして      ケンゾー(健造)ガードナー

 健造と申します。よろしくお願いします。新しくJ3に入りました。かんたんに私自身について、紹介させていただきます。14さいの時にアメリカのEVAGEILICAL LUTHERAN CHURCH に入りました。そして私は、YOUTH MINISTRY に入って活動する機会を得ました。また、そこで私は、YOUTH MINISTORY が、ただの活動だけにとどまらず人と人との関係を形成する場でもあることに気づきました。大学を卒業した後、GLOBAL MISSION について調べ始め、その結果、日本へ行くことを決心しました。
 現在、本郷教会で英語を教えています。そこでたくさんの人々と出会うことができました。慣れないがために日本の教会で働くことは喜びであると同時に不安もあります。日本のキリストの信者の方たちは、とても信仰心が強く感心しております。日本の信者の方たちから学ぶことは多く大変勉強になります。この経験を生かしアメリカへ戻って日本人の信仰の強さを伝え、アメリカ人の信者にも見習って欲しいです。
・きずな句会
・役員会だより



きずな 第368号2002年5月26日 発行より
主イエスこそ世界の主! 〜マタイ二八章一九節〜        内 海  望
 復活されたイエスさまは「わたしは天と地の一切の権能を授かった」と宣言されました。これは私たちの日常の経験とはまったく違います。私たちの日常生活を支配している力は経済(財貨)、仕事、病気、老い、死であるかに見えます。実際、私たちの心はこれらのことでいっぱいなのです。
 これらの事柄が私たちの上に猛威を振っています。私たちの心は不安でいっぱいなのです。その不安を取り去りたいので貯金し、健康を気遣い、懸命に働くのです。
 神さまから頂いた人生をよりよく生きるために健康を大切にし、生活設計を行うことは大切です。与えられた命を大切にすることは信仰者の責任です。しかし、不安を解消するために行うのであれば、それは人生を憔悴させてしまうだけです。またその不安は決して解消できる者ではありません。むしろ、不安を解消するために財産をたくさんためればためるほど不安はつのっていくだけです。まして、死を無くするなど決して出来ないのです。
 このような時、イエスさまは「そうではない。わたしに一切の権能が与えられたのだ」とおっしゃるのです。支配者の交代です。しかもイエスさまの支配は力でなく、十字架の愛による支配なのです。イエスさまの愛はすべての人々に及ぶのです。このイエスさまの愛を信じる時、私たちは一切の不安に逆らって平安を与えられます。
 私たちはなお、この世の力に苦しめられるでしょう。しかしその時、断固として、「死よ、私の王は主イエスだけである」と宣言するとき、私たちには新しい未来が開けてくるのです。不安は去り、私たちの心に永遠の命に生きる喜びが溢れてくるのです。
キリストにあって一つ              松 田 繁 雄
 《多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。...中略...一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。》コリントの信徒への手紙一、12章からの引用です。有名な部分なので、改めて説明するという事ではないのですが、きょうは、「ほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」という点に注目してみてみたいのです。
 一つの小さなエピソードがあります。第二次大戦のユダヤ人難民の話ですから、多分何かの本で読んだのでしょうが、出典についてはよく憶えていません。こういう話です。ちょうど、フランスがナチス支配下に置かれていた時代ですが、ドイツ国境付近からはるばる逃げてきた難民たちが、ピレネー国境近くの小村に集結していた時がありました。ここに来るまでも、フランスのパルチザンの世話になったりとなかなか大変だったのですが、首尾よくスペインに潜り込めれば、自由の国アメリカに逃れ出る道が開けます。一方、この国境の村は小さいので、かくれ潜むということが出来ず、時間が経過するにつれ危険が増してくるという状態でした。しかも、スペインの国境警備隊は、なにも難民に好意的なわけではなく、むしろ難民を中に入れない事にこそ彼らの使命があったのです。
 さて、話の中心は、一人の赤ん坊です。夫をナチスに連行された一人の母親が、この赤ん坊を含む三人の子どもを連れて、やはり難民として避難して来ていました。パルチザンの兵士は、このひどく目立つ難民集団を、早急にスペインに導く必要がありました。彼がとった手段は山越えでした。全難民に、夜中の11時に集合するようにと、集合地点を明らかにした指示が出されます。30数人の難民が、その夜集合地点に集まり、その中には、二人の娘の手を引き、赤ん坊を負ぶった、母親の姿もありました。「山道だぞ、赤ん坊は足手まといになる」「いや、みんなが逃げる権利を持つ」「無理だ」「俺が運ぶから、ガタガタ言うな」等の会話が交わされた後、全員がこの険しい山道を登っていきます。途中で、パルチザンのリーダーは一行と赤ん坊をバスク解放戦線の兵士に委ねます。道はますます峻険になり、一行の中でも一番年配の一人が、ついに、「もういい、ついていけないから、自分をここにおいて先に進んでくれ、もう一歩だって歩けない」と悲鳴を挙げます。これに対して、兵士は「おまえはまだ少しは歩ける。せめて倒れるまで、命の最後の一滴を使って赤ん坊を背負っていけ、力尽きたら、それから死ねば良い」と答え、実際息絶え絶えのこの老人に無理やり赤ん坊を背負わせます。不思議なことにこの老人は何とか歩きつづけますが、別の老人から悲鳴が揚がります。兵士は同様な会話を交わし、こんどは先の老人を解放してこの別の老人の背に赤ん坊を括り付けます。こういう事がさらに2度3度と起こり、険しい上り坂が下りに変わり、夜も白々と明ける頃、一行は無事に一人の欠ける事もなくスペインに到着したのです。
 終始緊張し、逆らえば殺されるというほどに険悪な表情をしていた、バスク人兵士の顔に笑みが浮かびます。そして、彼は十字を切り、神に感謝をして言ったのです。「まことに主は、ほかよりも弱く見える部分をもって、われらを救い給うた。」つまり、足手まといに思えた、この赤ん坊が居なかったら、兵士の対応も、「頑張れ」だけに終っていたかもしれないし、その程度の励ましでこの難局を切り抜けられたとは思えないのです。まさに、重荷であるはずの赤ん坊の存在が、死の淵から這い上がる力を老人たちに与えた。それは同時に、自分たちにも果たすべき使命があると自覚することができた弱者に、神が与えてくれた奇跡のプレゼントのように思えたのです。
 《重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい...わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである》これは、マタイ福音書11章28節以下にある主イエスの言葉です。イエス様は重荷をすべて取り除いて自由にしてくださるとは言わないのです。押しつぶされそうなその重荷を神に委ねて、代わりに主イエスの軛を負いなさい、と言われます。その荷は決して軽いものではないでしょう。しかし、わたしたちは負荷なしでも生きられないのです。むしろ、私たちの生きる力を引き出し、生きる目標を与えてくれる軛、それが、前の例では一人の赤ん坊であり、多分、わたしたちにとっても、わたしたちの教会にとっても、大切な働きのひとつなのでしょう。困難な時だからこそ、他者を思いやる心が自分自身を救う道にも繋がる、という事が実感できるのです。そしてそれができる事がキリストに繋がるという事の意味だと思います。
ようこそ、宮澤先生!      ―聖霊降臨日に転入式を行いました。
 久しぶりです。かつて神学生としてお迎えした宮澤(鈴木?)先生でしたが、今度は労を分かち合う牧師としてお迎え出来ることは大きな感動です。思い出されるのは、仮会堂で聖餐の用意をされる姿です。真摯に礼拝を迎える姿勢を感じました。献堂式も共にしました。
 新しい任に就かれますが、これからもみ言葉に支えられることを信じて、共に歩みましょう。主に用いられる喜びのうちに。
 宮澤真理子(ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校チャプレン)
 4年間の札幌北教会の働きを終え、東京教会に戻ってまいりました。わたしが神学生の時、東京教会のみなさんにはたいへんお世話になりました。またこうしてみなさんとご一緒に教会生活ができるようにとの上からお計らいを思いますと、感謝の気持ちでいっぱいです。
 実はわたしは悩みの多い神学生でした。牧師としての召命を受けておりましても、目前には心を乱すことが様々にありました。からみあった糸のような心で日曜日を迎えておりましたが、礼拝を通し、み言葉に後押しされて、勇気が与えられていく、そんなことの繰り返しであったように思います。
 教会のみなさんのお姿にも励まされておりました。み言葉を聞くために、日曜日に焦点をあてて体調を整えておられることをお聞きしたり、礼拝前の静寂なひとときに感じました。みなさんが主の十字架のもとで真剣にみ言葉を聞こうとされている、そのお姿は、きっと、初めて教会に来られた方に大切なメッセージを伝えていることと思うのです。もちろん、家族の方へも同様です。
 み言葉の解き明かしをされる内海先生、松田先生のお働きを覚えて祈り続ける者でありたいと思います。
 信仰の共同体の仲間に加えていただいたことを感謝いたします。どうぞ、よろしくお願いいたします。
種子島と二人の女性 −歴史の片隅に生きた−       中井 憲孝
 鹿児島の南方海上に浮かぶ種子島に、私は学生時代に初めて訪ねて以来、その魅力に捉えられ、これまでに数回足を運んでいます。
 先ず種子島の簡単な紹介をしておきます。鹿児島市から南へ約115Kmの海上にあり、面積456Ku、南北に52Kmの細長い島です。標高の一番高い所でも海抜282mですから、どちらかと言うと平べったい地形です。ここに北の方から西之表市、中種子町、南種子町の3つ行政区域があり、人口は島全体で5万人弱です。また、20数Km西方の沖合いには九州で最も高い山・宮之浦岳(1935m)を擁する屋久島が浮かんでいます。種子島へのアクセスは鹿児島空港から種子島空港まで飛行機では僅か40分、高速船ジェットフォイルでも鹿児島北埠頭から西之表港まで約1時間50分間で、鹿児島からも気軽に行ける場所の一つになっています。
 島内には数多くの観光スポットがありますが、今回の本稿の目的はそこにはありません。私の心に残った歴史上の二人の女性を紹介したいと思います。
[その一]
 鉄砲伝来の陰に国際結婚第一号の女性
 西之表の市街地を南に少し歩くと、道の途中に「若狭墓地入口」との表示があり、そこから通りを外れて坂道を7、8分上がると墓地に辿り着きます。小高い丘の中腹と言った感じの場所です。振り返って見ると港の前方に海が見渡せます。
 この墓地の一角に、長い間風雨に晒されて丸味を帯びた古い石柱が建っています。これが「若狭の墓」です。
 一五四三年(天文12年)のポルトガル人による種子島への初の鉄砲伝来はあまりにも有名な話ですが、その陰に生きた悲劇の女性「若狭」のことはあまり知られていません。この墓地内に建つ西之表市観光協会の案内板「若狭姫墓地」に記された由来を紹介しておきましょう。
 「大永七年(西暦一五二七年)丁亥四月十五日鉄砲伝来の時の鍛冶工八板金兵衛清定の娘として生まれる。清定は天文十二年(西暦一五四三年)第十四代島主種子島時尭公(この時十五歳)の命によりポルトガル人から購入した鉄砲の国産化を試み、日夜苦しみ外形は寸分変らないものができたが、筒底をふさぐネジ止めの部分がどうしてもできなかった。ポルトガル人に製法を問うと娘の若狭を嫁にくれたら教えてやるという。殿様の命令であり鉄砲は完成しなければならず、しかし可愛い娘を、はじめて見る異国人の嫁にはどうしてもできない。父母は父母で若狭は若狭で迷い苦しみ幾夜も泣き明かしたといわれる。鉄砲の完成は殿様の至上命令であり鍛冶工清定の悲願である。若狭はついに意を決しポルトガル人の妻となった。この時若狭は十六歳である。そして翌天文十三年に帰島したが、ふたたびポルトガルには行かなかったといわれている。この事を八板家の系図は、若狭天文十三年八月、牟良叔舎(ムラシュクシャ)に嫁ぎ蛮国に到る。感ありて一首を詠ず。『月も日も、日本(ヤマト)の方ぞなつかしや わがふた親のおると思えば』 天文十三年、蛮船に駕来して父子相見ゆ。数日にして若狭大病と詐り死すと為す。棺槨を営みて殯葬す。蛮人これを見て、涙を流さずと記されている」
 以上読めば大筋は理解できると思います。最終的に国産第一号の鉄砲は完成しますが、その裏に一人の若い女性の悲しい存在があったことは私達の胸を打ちます。なお、若狭に関することは先の八板家系図と「言い伝え」だけによるもので、他にはないことから史実を疑う声も以前からあるようです。
 ここで他の関係資料にも当たってみます。ポルトガル人の来訪に関しては慶長年間(一五九六〜一六一五年)に書かれた「鉄砲記」、そして当時のポルトガル国側の資料にもその記述があるそうです(ガルワノ聞書)。鉄砲記ではその時のポルトガル人の名前を「牟良叔舎(ムラシュクシャ」と「喜利志多佗孟太(キリシタダモタ)」と書かれていますが、喜利志多佗孟太は二人分の名前と考えられています。ポルトガル側の資料では種子島に到着した三人をフランシス・チモロ、アントニオ・デモト、アントニオ・ペロタと記されているそうです。ここから、
牟良叔舎をフランシス、佗孟太をデモトに当てはめる説も出て来ます。
 当時、女性の立場は低く、まして異国人との婚姻であれば恥ずべきこととして隠すのが当然と考えられたであろうと思えば、敢えて八板家系図に残された記録は信ずるに値すると考える声も多く、私自身も実際にあった事と考えます。
 父親思いの一人の若い女性の犠牲の上に国産の鉄砲が完成し、その後、凄まじい殺傷力を持つ鉄砲があっと言う間に当時の武士達に伝わり、戦国時代の戦法を変える程なくてはならぬ存在になって行ったことを思えば、一層複雑な気持ちにさせられます。
(その二 戦国時代のキリシタン女性「カタリナ永俊尼」 は、次号に続く)
カンボジアレポート10―2            鎌田 頼子
はじめに 
 チョムリアップスー!皆さまお元気ですか?私は元気です。この手紙を今バッタンバンで書いています。以前手紙で書いたこともある、あの素敵なカトリック・バッタンバン教会のゲストルームのベッドの上で、パソコンと向かい合っています。ラチャナハンディクラフト・バッタンバンのカタログ製作の仕事をやっと終え、そしてキケさんとのミーティングもやっと終え、一息入れた所です。
プノンペンのオフィスのコンピュータが1週間ほど故障したので、ずいぶん仕事も遅れてしまいました。予定より5日遅れて、いよいよ20日から、コンポンルアンでの生活が始まります。少し緊張しています。
*コンポンルアンに−
 4月26日〜28日まで再び、コンポンルアンを訪れました。クメール正月の時に私はコンポンルアンに行きたかったのに、行けなくなってしまったのです。
 私が教会に到着すると、いつも手伝ってくれているカレンは、この間のおばあさんが丁度クメール正月休暇の、15日15:00に静かに息を引きとったことを私に教えてくれました。おばあさんの最期に共にいることができなかったことがとても悔やまれました。どんなにお金がかかっても、何をしてもやはりコンポンルアンに来なければならなかったと後悔しました。私には、カレンは私がその間コンポンルアンにいなかったことを少し怒っている様にも感じました。カレンは、私に「ヨリがいなかった時、私は毎日通って、身体を拭いたり、薬を塗ったりしていたんだよ。でも亡くなる時は本当に傷もきれいになって、顔もきれいになって、教会の前で亡くなったんだよ。」と一生懸命に話しました。このおばあさんは、数日間なぜか家族からの手厚い介護を受けられずに、ボロボロの格好で家の片隅に寝かされていたのでした。日本で仕事をしていた時も、このようなケースがない訳ではなかった。その場面に遭遇することは、私にとって、誰が何をすることが本当に望ましい姿なのかがわからなくなる瞬間の連続でした。ただいつもそこにある生きることと死ぬことを見つめていたような気がします。そして結局はできるだけのことしかできないという決断と、ある意味では、家族ではない他者である自分が接するしかないという、あきらめの気持ちも含みつつ、その方に接していました。私自身は、少しそんな状況に慣れてしまっている部分も持っているように思います。だから、もう1人の私は「私がいなくても、カレンが少しでも優しい手当てができたからよかった。」と、心の中で言っていました。でもカレンが私を怒ったことも、理解できるように感じました。それは、彼女に家族からの手厚い介護が受けられずに、家の片隅でボロボロになって寝ているおばあさんの現実を、独りでみていると感じさせたからだと思います。もう1人の私はやっぱり、彼女に何も言えませんでした。おばあさんは長い長いコンポンルアンでの生活を終え、幸せに死ぬことができたのだろうか…。
 20日からの私のコンポンルアンの生活はこれからどんな風になるのだろう。これから私のコンポンルアンでのミッションが始まるのだと思います。
*サッチュ−(みょうばん)の話
 コンポンルアンで、白い大きな石の塊を見ました。「これはなに?」と聞くと、それはクメール語で「サッチュ−」だとわかりました。みょうばんです。これは水を浄化させる働きがあるということです。トンレサップの水を瓶に汲んでから、みょうばんの塊を手でつかんだままグルグルと数回かき回すのです。しばらく観察していると、水の中にある不純物が小さな塊になって、水面に浮かび上がり、最期には底に沈むのです。その上澄み水を使うというわけです。その水を使ってみると、「凄く硬い!」と感じました。でも後でクメール語のソムナン先生に聞くと、皮膚の湿疹にも効くそうです。みょうばんには消毒の作用があるのです。100リットルの水に対して、1グラムでいいとのこと。丁度皮膚に湿疹ができていた私も早速使ってみました。そこらへんの市場で簡単に手に入ります。1キログラム約2000リエル(約0.5ドル)。今毎日試しに使っています。早く治ることを願いつつ。
聖書アラカルト32   マムシ

 《蝮の子らよ》とバプテスマのヨハネは、ユダヤ人指導者たちに呼びかけます。この蝮という言葉は、毒蛇一般を表わす語として用いられていたそうですが、ヨルダン川岸の低木の茂みに群生すると言われています。人間のうちに潜む邪悪さを譬えるのに、手近の危険な動物を用いたのでしょうが、毒を用いて相手を倒すというやり口には、確かに陰湿なものを感じます。主イエスも《木が悪ければその実も悪い》という諺に関連して、《蝮の子らよ》という呼びかけをしておられますから、この蝮のイメージはかなり普遍的なものだったかもしれません。
 さて、旧約聖書にも、この蝮にあたる動物は出てきます。多くは「クレオパトラの蝮」と同種の生き物で、現在で言うところのコブラに近いものです。列王記のヒゼキヤ王の業績に数えられている《モーセの造った青銅の蛇》の破壊についても、カナン地方でよく発掘される青銅製のコブラ像(つまり、聖書の蝮)と関連があるのでは、とも考えられています。もし主イエスの聴衆たち、ヨハネの聴衆たちが、こうした偶像を知っていたとすれば、《蝮の子ら》という呼びかけは、形式的にモーセに繋がる者への痛烈な批判ともなったはずです。


きずな 第367号2002年4月28日 発行より
美しい五月よ! 〜聖霊降臨の喜び〜      内 海  望
 多くの詩人によって「美しい五月よ」とうたわれた五月を迎えます。冬が去り、復活祭の喜びを共に分かち合い、今生まれたみどり児のように新しく生きる時です。
 ときあたかも新緑の候、新しい創造の季節です。思わず心弾ませる喜びに満ちた季節の到来です。このような時に教会は聖霊降臨日を迎えるのです。
 ルターは「創造主にして聖霊なる神さま。私たちの魂を訪れ、恵みで満たして下さい。私は清くなります。命の泉よ、愛の焔よ」と祈っています。
 古い罪の自我がキリストの血によって洗い清められ、新しいいのちが創造される時こそ聖霊降臨の時です。復活のキリストは私たちの新しい命の泉です。
 聖霊降臨はそのような出来事でした。意気消沈していた弟子たちが聖霊の力により、新しいいのちを与えられ、大胆に福音を語り始めました。その力に満ちた説教は人々を圧倒し、三千人もの人々が悔い改め、群れに加わったと記されているほどです。
 また弟子たちがこもごも語るキリストの福音は当時世界各国からエルサレムに集まっていた言葉の違う人々を一つにしました。バベルの塔建設を始めたことによって言葉が通じなくなり、散らされていた人々を一つにするという愛の働きをもたらしたのです。まさに「命の泉よ、愛の焔よ」と呼びかけるにふさわしい働きです。
 私たちにも、この聖霊の恵みが与えられるのです。ちょうど野山を散策する時、新緑の美しい色彩、花の香りが私たちの心を豊かにしてくれるように、聖霊は私たちの心を渇くことのない生ける水、隣人を愛する喜びで満たしてくれるのです。
 どんなに世界に暗雲が覆っていてもイエス・キリストこそ世界の希望です。み言葉に生き、み言葉を伝える群れとして新しい歩みを始めましょう。

洗礼と堅信            松 田 繁 雄
 イースターは賑やかな祝祭日ですが、今年は、特に受洗者に恵まれました。二人の乳児、二人の幼児に囲まれて、夕礼拝に普段出席している成人の方が一人受洗されました。この方だけが洗礼と同時に堅信も受けました。良い機会ですので、今月は、この「洗礼と堅信」について、考えてみたいと思います。
 マルチン・ルターは、パウロの「無償の義認」を「恵みのみ」の標語として再発見した宗教改革者なのですが、そのルターが道を拓いたプロテスタント教会では、往々にして洗礼を「神への応答」としてとらえてしまう傾向があります。実際、この傾向は、ルターがまだ生きている間に、再洗礼派の運動として現れます。「自覚的に神に応答していく」信仰が不可欠と考えた、ミュンツァーたちは、幼児期に受けた洗礼を無効と宣言して、再洗礼を迫ります。農民を中心とした、この行き過ぎた改革運動の根本精神は、この洗礼観にあったのです。ルターの農民戦争に対する過剰反応も、多くの問題をはらみますが、洗礼というものを、このように人間側の応答として考えてしまう傾向というのも、この後のプロテスタント史に暗い影を落としていきます。
 海外ミッションによってその礎を据えられた日本のプロテスタント教会は、ルーテル教会も含めて、再洗礼派→ピューリタニズム→新世界での伝道至上主義という流れの影響を受けて始まっています。そこでは、幼児の洗礼を軽視し、成人洗礼こそが「本来の洗礼」と考える、「信仰告白主義」がまかり通っていました。信仰というのも、何らかの形で表現されなければいけなくて、殊に乳幼児の場合は、言葉で応答できないから、洗礼も半人前、という考え方です。バプテスト教会などでは、今でもこの考え方が当たり前と思われています。
 さすがに、ルターの系譜をひく、日本福音ルーテル教会では、この考え方がおかしい事に気付きます。全国総会の場で、小児陪餐の問題が取り上げられた事を覚えている方も多いでしょう。実は、その前史があるので、洗礼に幼児成人の区別はない、という事がまず確認されたのでした。わたしたちの礼拝式文でも、旧来のものでは、洗礼、幼児洗礼という区別が設けられていました。先ほど書きましたような、日本プロテスタント伝道史の中では、このままにしておくと、どうしても「信仰告白主義」の影響を受け過ぎてしまいます。そこで、あたりまえの事ですが、改めてルター派としての洗礼の意味を確認しておこうという動機だったと思います。
 わたしたちは《皆、罪の下にある》ので《ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で》救いの中に数えてもらうのですが、その目に見えるしるしが洗礼です。洗礼は、このように神さまが与えてくれるプレゼントなのですから、恵みに対する応答ばかりを重視する考え方は、最初からおかしいのです。「でも、信仰的な応答、と考える成人と、親に抱かれて洗礼を受ける乳幼児には違いがあるではないか?」と首をかしげる方も居られるかもしれないですね。
 実は、これは洗礼の問題ではなくて、堅信の問題なのです。堅信は文字通り、信仰を固めるという機会で、それこそ信仰的な応答が意味を持つのです。現在の式文には、洗礼に幼児と成人の区別はなく、成人の場合は、洗礼に引き続いて堅信式を行っても良い、となっています。
 さて、全国総会で議論になった小児陪餐というのは、現在わたしたちが行っている初陪餐を、どのように行うべきかという問題でした。洗礼を受けた者は、教会生活の殊に聖餐の恵みを受けて、成人式にあたる堅信へと導かれるのですが、その者が乳幼児である場合、いつから聖餐式に与らせれば良いのか、という議論です。洗礼は神の恵みで、陪餐はそれに伴うもの、と考えれば、いつからでも良いという答えも成り立つのですが、総会の結論は、「学齢期までに」という形で、各教会の判断に委ねるものでした。
 ご存知のとおり、わたしたちの教会では、この初陪餐の時期を小学校入学、堅信の時期を高校入学と、目安を設け信仰生活にリズムをつけることを考えました。この結果、今までの考え方では対応がまちまちだった、幼児から青少年期の洗礼に関する位置づけがはっきりとしてきました。成人でも青少年でも洗礼が神の恵みだという事に変わりはないのですから、その機会はすべての年齢層に開かれています。ただし、受洗者が学齢前であれば、洗礼を受け初陪餐を待ち、小中学生であれば、洗礼と同時に初陪餐を受け、堅信を待つという事になります。高校生以上の成人が受洗する場合には、堅信も同時に行って良いのですが、受洗、初陪餐だけをして、次に堅信の機会を待つという選択もできます。洗礼=神の恵みという基本に立つだけで、これだけの新しい可能性が見えてくるのです。

イースターの喜び
 イースター礼拝は感動的でした。その余韻はしばらく私たちの心に響いていました。
 徳善先生が説教で触れられたように復活祭後の第一主日を「今生まれたみどり児のように」と呼ぶ慣わしが教会にはあります。ここに集められた文章の一つ一つには文字通り生まれたばかりのみどり児から成人に至るまでの方々の新しいいのちの息吹が感じられます。イースターの感動を新たにしております。
 今、世界は望みを失いつつあるように見えます。しかし、復活の主イエスは確かに生きて働いているのだということを実感させられます。苦難の中にある初代教会の人々が語ったように「それでも主の御旗は進む」のです。主イエスに信頼し、主に希望を置いて歩みましょう。
 ところで、一年間に五人の赤ちゃんが誕生したのですよ。ご存知でしたか?
 受洗にあたり            山本 雅英

 あなたがたは世の光である (マタイ5・14)
 平和を実現する人は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。 (マタイ5・9)
 昨年の10月31日宗教改革記念日に誕生した赤ちゃんにこの二つの聖句から二文字をとって「光平」と名づけました。というのは咋年9月のニューヨークのテロが私達夫婦にとって大きな衝撃を与え、これから大人になっていく息子には、まず神様を第一とする者となり、平和を求める者になって欲しかったからです。
 そしてこのたび、神様の恵みにより光平が洗礼をうけることができたことを、心から嬉しくおもっております。また、洗礼を授けて下さった内海牧師先生、松田牧師先生、暖かく祝福してくださった東京教会の皆様には心からお礼申し上げます。
 私たち夫婦はまだまだ信仰的には未熟ですが、光平とともに信仰的に成長し、まず神様を第一とするクリスチャンホームを築いていきたいと思っております。そして、これから光平を堅信礼まで導けるよう、神様に委ねていきたいと思っております。これからもよろしくお願い申し上げます。ありがとうございました。


  明の受洗について          渡辺 雄二

 一九九一年のイースターも今年と同じ3月31日でした。その年、札幌教会で内海牧師から母親の郁子は洗礼を受け、教会生活が本格的に始まりました。
 11年後の今年、私たちの初めての子供明も同じ3月31日のイースターに内海牧師から洗礼を受けさせていただきました。
 明は昨年の9月11日、あのニューヨークの同時多発テロ事件の日に生を得ました。私は当初、別の名前を考えていましたが、偶然にも同じ日に起こったこの事件の大きさに喜びも半減され、「生」に対する強い力を名前に入れようと思いました。そこで、太陽(日)のように人々を照らし、生きる力を与え、月のように人々を照らし、やすらぎをあたえる。何よりも人々のために生きてもらいたいと願いを込めて、「日」と「月」から明と名づけました。
 二度と多くの人々を悲しませるような事がないように、この子供達が生きる世界が平和であり、その中で人々のために力いっぱい生きられるように。祈りをこめて。


 洗濯機では落ちない心の汚れ    ―娘・未希子の受洗            坂口 夕紀子

 娘の未希子は生後1ヶ月で内海先生の祝福を頂いて以来、常に牧師先生をはじめ教会の皆様の愛情に囲まれて育ちました。特に9時半の礼拝のお話とCSの先生方のご指導は、神様の存在を信じるよう幼い心を育てて下さったと思います。洗礼の意思はまず年上の兄弟姉妹の聖餐に預かる姿を見て「自分も」というのが第一の願いでした。
 内海先生のお話の中で、「洗礼を受けるということは、神様の家族に加えて頂くことであり、新しい心を頂くこと」とありました。先生が「新しい心が汚れたらどうする?」と質問されると「洗濯機で洗う」と答えた娘の発想に先生もびっくりされたと思いますが、「毎週神様の御言葉を聴くために教会にくるのは、洗濯機では落ちない心の汚れを綺麗にするためなのだよ」と教えていただきました。娘はこの先生のお話がとても新鮮に、印象深く感じたようで、その後もずっと覚えていては繰り返しています。聖餐を受けられないことで、ちょっと残念な気持ちもあるようですが、「来年小学校にあがったらCSのお姉さん・お兄さん達と同じになるから、この1年いろいろ準備しようね」と内海先生から説明して頂きましたので、来年のイースターを楽しみに教会生活を過ごして欲しいと思います。
長い人生、成長して堅信式を受け、「恵みによって生かされている」ことを信じる人間になって欲しいと心から願っています。


 「娘の洗礼」                皆川 雅子

 昨年のある秋の日のことでした。礼拝に出席した帰りの電車の中で、5歳になったばかりの娘の紗代が突然「お母さん、紗代もお母さんみたいに『キリストのからだ』食べたいなあ。」と言い出したのです。その日は聖餐式があった日でした。あまりに唐突であったのと周囲の目が気になったのとで頭の中が真っ白になっている私に、さらに「あとね、『キリストの血』も飲みたいんだよね。」と追い討ちをかける娘。慌てて「それはね、洗礼というものを受けていないと駄目なの。」と言うと、娘は是非とも来週にでもその「洗礼」なるものを受けたいと言い出しました。
 正直言ってその時点では私自身、「喜び」よりも「困惑」のほうが先に立ちました。なぜかというと娘の父(つまり私の夫)はクリスチャンではないので、まずは彼に娘の洗礼について納得してもらわなければならないと思ったからです。
 家に帰って夫にその話をすると案の定「洗礼を受けるのって、そんな理由でいいの?」と言われました。確かに娘は教会学校に通い、カトリックの幼稚園にも通ってはいるものの、果たしてどれだけわかっているのやら…。
 途方に暮れて内海先生に相談すると「子どもというのは大人が思っている以上に純粋に物事を理解しているものです。」と言われました。
 そうか、こればかりはあれこれ考えるものではなく、すべては神さまのお導きであり感謝して受け止めなくてはならないと思い直し、夫には「紗代の気持ちを尊重させてあげたい。」と言って(夫が納得したのかどうかは実のところ未確認!)、無事娘はイースターに受洗することができました。同じ年の坂口未希子ちゃんも一緒だったこともあり、本人は大喜びです。
 かの司馬遼太郎氏が「子どもは地域を繭のようにして育つ」と何かに書かれていたのですが、まさに娘は東京教会を繭のようにして育ってくれています。もちろん私自身もそうだった(今でもですが)わけで、本当にいろいろな方々に心からお礼を申し上げます。
 そしてこれからも家族共々よろしくお願いいたします。


「聖霊の導きによって」            峯吉 博文

 学生時代、とあるキリスト教を名乗る教団の信者となり、長年を過ごしてきた私は、そこで間違った神認識を叩き込まれました。律法主義的な教えを貫くことで救われる(天国に入れる)ということです。救われたいがために義人を装うという生活が何年も続きました。
 やがて、そのような生活に疲れ果て、いつしか教団にも足を運ばなくなり、残っ
たのは、日毎に天国から遠ざかっていくという不安だけでした。その頃、よからぬことが立て続けに起こり、これも神の律法から離れたがための報いか、と不安は膨らんでいくだけでした。
 そんな中で迎えた二〇〇〇年クリスマスの季節。この頃、かって経験したことが無かったほど、毎日が絶望、毎日が「死にたい」と思う連続だった。何度、創造主である神を恨んだことだろうか。
 イヴの夜、何のあても無く、目的も無く、フラフラと街中を彷い歩いていたとき、ふと「ルーテル」という文字が目に入った。教会があるらしい。行ってみると、クリスマス特別礼拝が行なわれるようだ。入るのをためらったが、思いきって参加することにした。
 牧師の説教が始まった。ルカによる福音書二章から説教がされた。牧師の口から語られる神の言葉を聞いたとき、イエスは特定の誰かを救うためではなく、私を救うために降誕してくださったことを知り、自分がどんなに小さな人間であろうとも、神は無償で愛してくださっていることを知りました。それまで抱いていた神認識が間違いだったことにもはじめて気が付きました。一気に絶望感が吹っ飛び、死にたいという気持ちも無くなりました。まさに劇的です。神の言葉には命があります。
 聖霊の導きにより、二〇〇〇年一月から夕礼拝に出席させていただいていますが、その頃の松田先生の説教は、ローマの信徒への手紙八章あたりからで、律法主義の束縛に苦しんでいた自分には、とても助けになりました。また、求道者会では内海先生が忍耐強く教えてくださったおかげで、今年二月には、キリストを信頼せずにはいられなくなり、洗礼を受けることを決意しました。
 今回、無事に洗礼を受けることができました。忙しい最中、大変だったかと思いますが、準備をしてくださった東京教会の皆様方、ならびに牧師先生方には、とても感謝しています。ありがとうございます。仕事の都合により、今後も夕礼拝中心の出席となりそうですが、折を見ては昼礼拝にも参加したいと思っていますので、その節はよろしくお願い致します
初めて音楽祭に参加して!  ―東京教会ハンドベルクワイヤ―  木村さと子

三月二十一日、本郷弓町教会で催された二〇〇二年ハンドベルクワイヤ音楽祭に参加しました。もちろん、外に出て演奏するなどという事は考えられない、まだまだ力不足の現状を承知の上、徳善先生からの薦めに勇気を持って立ち向かい一歩一歩腕を磨いていくチャンスになる事を願ってメンバー一致団結の思いで参加することにしたのです。
当日、各派の十ヶ所の教会が参加し、来客も加え二百名近い方々が集りました。
 午前中、各教会が20分間ずつのリハーサルをし、午後一時より各クワイヤの衣裳をつけ、礼拝堂にて礼拝を守って音楽祭の始まりです。第一部はS社のベルを使用する教会です。他教会は、教会での奉仕のみならず外部へ向けての演奏活動を長年に経ってなされています。ある教会は可愛らしい子供を交えての演奏でした。これ又、難しい曲を子供たちは、快やかに大人達と一緒に演奏をしていました。会衆の前で演奏をする事に、経験豊富なプロ級のリンガーの方々が奏でるベルの音色は美しくしかもベルを持つ手の動きの技があざやかで素晴らしいものでした。順番を待ちながら聴いている私達のドキドキはどこえやら、本当に曲の調べにうっとりしていました。
 一部が終りベル交換の準備もでき、いよいよ第二部、東京教会からの番です。一瞬にして先程のうっとり気分は消え現実に引き戻され、緊張がみなぎります。今まで練習してきたことが力となって、二曲を最後まで演奏しなければという思いで一同、無我夢中で演奏をしました。
とにも角にも、私達にとっては、無事最後まで演奏できたという喜びで本当に胸をなでおろす思いでホットしました。そして、もっとホットされたのは、指揮をされた徳善先生だったと思います。本当に貴重な経験の時を与えられ、そして他教会の美しいベルの調べに心傾けて聴くことも出来、よろこび一杯の一日となりました。この経験を生かし、ベル奉仕をさせて頂けることに感謝しつつ、私達リンガーも美しい音色を奏でられるよう思いを一つにして先生のご指導を受け、練習を積みクワイヤを育ませて行きたいと思います。
 最後になりましたが、この半年間参加に向けてエールを送って励まして下さった両牧師先生、会員の方々、少しでも自信を持てるように婦人会三月例会の前に聴いて下さった会の方々、又、当日、祝日の中遠くから聴きに来て下さった会員の方々、又、「東教区総会」の為、練習に励んでこられた内海夫人が参加できなくなられ、ベルのピンチヒッターをして下さった方、12月から加わって猛練習をなさった方、そして手こずる私達をあきらめずご指導下さった徳善先生、ネーム作りやガウン運び等の手伝い、風邪ひきや仕事で忙しい中も目標めざし頑張ったメンバーの方々―。本当に沢山の方々の温かい思いと祈りに支えられて参加する事が実現できた尊い一日であったことを、この紙面を持って御礼申し上げます。
 ありがとうございました。
カンボジアレポート10―1        鎌田 頼子
はじめに− 
 ずいぶん遅くなってしまいましたが、イースターおめでとうございます。カンボジアは暑さの真盛りです。そして先月はツアーでカンボジアを訪れるお客様を沢山お迎えいたしました。長い内戦を終え、復興に立ち向かおうとしているカンボジアを訪れる人々が増えて来たのでしょう。ステンミエンチャイのゴミ捨て場も何故だかとても有名になってきました。ゴミ捨て場の近くに住む人々は、ゴミ捨て場に来る外国人をどんな風に感じるのだろう…。
 ところで、今回のカンボジア便りをお届けするのがずいぶん遅くなってしまって、申し訳ございませんでした。毎日毎日、この便りを書けない事を悔やみながら過ごしていたのですが、ついに一ヶ月お休みさせてしまいました。これは全くよくない兆候ですね。しかし先月私はラチャナの人々と、ベトナムに行ったり、水上生活者の村コンポンルアンに行ったりと、外出の多い月でした。そんな体験を少しでも皆さまと、今回は2回分わかちあいたいと思います。

* 初めてのベトナム−ラチャナの人々と
 ハンディクラフトのローカルNGO、ラチャナ・ハンディクラフト・バッタンバンのスタッフ2名とウルさんと共にベトナムに行ってきました。ベトナムの伝統的な機織りや草木染めの現状を学習するためです。ウルさんを除いて、ラチャナスタッフの2名シバナさん、ノブさん、そして私もベトナムは初めて。ハノイのNoi Bai空港に降りたとき、私たちはカンボジアと違う空の色を見ました。灰色がかった空の色…。ウルさんは以前ベトナムで働いていたので、ベトナム語が話せます。タクシーの運転手さんと何やら打ち合わせをしているのか、ベトナム語で楽しそうに話しています。その時、ラチャナのスタッフ、ノブさんが、不安そうにシバナさんに言った言葉は残りの3人を驚かす、というか笑わせてしまう一言。「私たち、売られてしまうのではないかしら…?」私たちみんな仲良しなのに、そんなことするはずないじゃない!私には彼女が冗談でそれを言ったのか、それとも正気で言ったのか判断はできないけれど、この一言は私にとって非常に興味深い言葉だったことは確かです。多くのカンボジア人はベトナムとベトナム人を嫌いであることが多いです。カンボジアは、ロン・ノル政権、ポル・ポト政権の時も、反ベトナム体制をとり、当時その体制の中で教育を受けてきた者からしてみれば、ある意味では反ベトナム感情は自然に植え付けられているものだと感じます。にもかかわらず1979年のベトナム軍のカンボジアへの侵攻、その後間もなくベトナム型社会主義のヘン・サムリン政権が樹立され、カンボジアはベトナムの統治下に置かれました。カンボジア人にとってはとても恐ろしく、そしてくやしい気持ちでいっぱいの出来事ではなかったかと思います。ある時、カンボジア人の友達と話していて、私が「'ユアン'という、ベトナム人という意味のクメール語は良くないよね。これは'泥棒'という意味なんだから。」と彼女に言ったとき、彼女は堂々と何の迷いもなく、「でもベトナム人は本当に泥棒なんだから。」と私に話したのです。  国立結核センターで働く日本人スタッフも嘆いていました。患者さんがベトナム人だとわかると、触れたくないという仕草をあらわに、彼らの洋服を指先でつまむように扱うこともあるとのことです。
 シェムリアップの地雷博物館のア・キラさんも彼がクメールルージュの少年兵だった頃は、常に上司から「究極的な敵はカンボジアの木を盗み、破壊するベトナム人だ。」とか、彼の外界を何も知らなかった無知につけこみ、「ベトナム人は大きな歯と口髭をもった巨人だ」と吹き込まれていたそうです。後に彼がベトナム人が自分たちと同じ大きさの人間だとわかった時は、驚いたと同時にホッとしたとのことです。

おわりに―
 Happy Khmer New Year! カンボジアは4月14日が新年のお祝いです。プノンペンに普段住む人も田舎に帰り、街は静かです。今年のカンボジア正月はプノンペンで過ごすことにしました。
 久しぶりにカンボジア便りを書いて、気分がしゃきんとなった気がします。これを読む皆様の心がそうなるのかどうかは不確かなのですが。それではまた来月会いましょう。  Chomliap-lia!
よろしくお願いします!        榎津 重喜
 
 はじめまして。今年神学校に入学し、教会実習でこちら東京教会にお世話になることとなりました榎津です。母教会は博多です。自分の娘と同じ年齢の新入生たちに紛れたキャンパス生活に喜ばしき戸惑いを覚えながらのスタートでしたが、早くも授業の質と量の深さ広さに圧倒されています。そしてこちら東京教会では内海先生、松田先生をはじめ会衆の皆様に教会実習生として温かく迎えていただき、こう言うのも変ですがまずはホッとしてしまったところです(いいのかどうかわかりませんが)。これから一年間、主日礼拝を中心とした教会生活を皆様とご一緒にさせていただきたいと思います。どうかよろしくお願いいたします。
 若い日に神学校行きを決意したことのあった私ですが、ここまで来るのに三十年近くもかけてしまいました。三十年ですから多くのことがありましたが、神様のことを説教をとおして伝えていくという大変責任の重いつとめは、自分などが担えることではないと思っている間に時間はどんどん経ってしまいました。しかし信仰生活を送りながら、また学校で若い人たちに語る生活の中にあってかつての思いは消し難く、人の言葉ではなく神様の言を中心に人々と共に生きたい、み言に生かされる喜びを牧師となって伝えたいという気持ちは自分の中から死ぬまで消えないだろうということだけは確かだと思えてきたのです。また教会の集まりの様々な場で牧師の数がこれからいっそう減っていくとの話がでるたびに、もしも私にゆるされてお役に立てることがあるならと、献身の決意を固めたのでした。
 その意思を表明したときに、多くの兄弟姉妹方から大変な励ましと祝福をいただき、また家族のよき理解もありました。その人々の気持ちに厳粛に向き合いたいと思います。私のために祈り支えて下さる人々のことを覚えます。そして何よりここまで忍耐をもって守り導いて下さった神様に感謝します。み言に立って考え語り行動できるような、そしてすべての人が神様から信仰による永遠の命に与る生をすでに与えられ生かされているのだという真実を、一人でも多くの人に伝えていける牧師とならせていただきたいと祈りながら、与えられた学びの時を用いさせていただこうと思います。
 東京教会の皆様、どうぞご指導と交わりをよろしくお願いいたします。


きずな 第366号2002年3月24日 発行より
ペトロは激しく泣いた     〜ルカ22章62節〜     内 海  望
 ペトロは挫折しました。「そんな人は知らない」と人々の前でイエスさまを強く否認したとき、主が振り向かれました(61節)。その瞬間、彼はみ言葉を思い出し、打ちのめされました。彼は外に出て激しく泣き続ける他はありませんでした。一人の忠実な弟子がくず折れたのです。意志がどんなに強くても倒れることはあるのです。自分の意志に頼っていたペトロ、雄々しく群衆に立ち向かおうとしたペトロでしたが、敗れ去りました。
 このペトロは再び生きます。しかし、その前に死ななければならなかったのです。それはペトロではなく、イエス・キリストが彼の中で生きるためです。ペトロはペンテコステ以来、殉教の死をも恐れない使徒となったのですが、そのようになるためには先ず自分の力が打ち砕かれなければならなかったのです。
 このように打ち砕かれ、自己の力において全く無力になったペトロを再び立たせた力もまたみ言葉でした。イエスさまはペトロの離反を告げる際に、「立ち直ったら」(22章31節)と、彼の復活を予感させるみ言葉をも語って下さったのです。これは「あなたは自己に死ぬが、私の愛において生きる」という約束のみ言葉です。
 今や、自己の力において全く無力となったペトロですが、イエスさまの十字架の愛が自分のうちに生きて働き始めたことを知りました。ペトロは「私ではなくイエス・キリストが自分のうちに働く」という素晴らしい事実を経験したのです。
 この自分のうちに働くイエスさまの愛に生きたとき、ペトロは「わたしの小羊を飼いなさい」という主のご命令に生きる使徒として歩み始めたのです。この「死から復活の命へ!」という喜びこそ受難節から復活祭への歩みなのです。
 共に復活の命に向かって歩み出しましょう。
復活の朝の女性たち                  松 田 繁 雄
 十字架を見守っていた女性、埋葬に立ち会った女性、週の初めの日の朝墓参りをした女性、主イエスの死と復活に関わるこの女性たちが、同じ女性たちだったのか、という小さな疑問があります。今回はこのことについて考えてみましょう。
 マルコによる福音書では、マグダラのマリアとヤコブの母マリアが共通で、サロメが十字架と復活の朝の場面には現れてきます。その意味では、同じ三人がこの一連の出来事に関わったのだと、見えるのですが、詳しく見ると、違うのかな、と思える部分があります。ヤコブの母マリアについて、十字架の場面では《小ヤコブとヨセの母マリア》、埋葬の場面では《ヨセの母マリア》、復活の朝は《ヤコブの母マリア》なのですが、なぜヨセとヤコブの兄弟を分けて書いているのか、ヤコブと小ヤコブとは同一人物なのか、という疑問が浮かんできます。
 十字架を見守っている女性たちについて、マタイでは、《マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母》という書き方をしているのですが、ゼベダイの子らがヤコブとヨハネである事を考えに入れると、マルコの《ヤコブの母マリア》もこちらの女性である、という可能性が出てきます。マタイは、埋葬および復活の朝の女性たちに関しては、一貫して《マグダラのマリアともう一人のマリア》と語っており、文脈から、マグダラのマリアとヤコブとヨセフの母マリアと推測できるようになっています。ルカによる福音書では、十字架、埋葬の両場面ではただガリラヤから来た婦人と語られるだけで、復活の朝になって始めて、《マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア》と三人の名前が明らかにされています。
 どの福音書も、この三人のほかにも女性が関わっていたと証言しているので、矛盾ではないのですが、代表する三人の女性の名前に関して、複数の伝承があった、と考えて良いのです。その場合、ゼベダイ家以外のヤコブ(多分、小ヤコブ)の母→ゼベダイ家のヤコブの母と伝承が推移したと考えられるので、元来はマグダラのマリアと小ヤコブの母マリア他数名が、この出来事に関わっていた女性たちなのでしょう。ゼベダイ兄弟たちの母親は、サロメという名前だと、考える人も居ます。この説に従えば、ヤコブの母マリアはヨセフの母でもあり、ゼベダイの母とは別人で、つまり小ヤコブの母マリアなのだという事になります。他にも、ガリラヤから付き従ってきた婦人たちは居たようで、ヨハネ福音書に母マリアの姉妹、クロパの妻マリアが出て来ますし、《そのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた》と書かれている女性の一人に、使徒言行録に出てくる、ヨハネ・マルコの母マリアをあてる伝承もあります。一つ気づく事は、マリアという名前の氾濫でしょう。このように、当時のユダヤではもっともポピュラーな女性名の一つがマリアだった、と思われるので、なかなか、与えられた情報だけから、《もう一人のマリア》を特定するわけには行かないのです。
 ところで、以上見てきたような、人名など細かい違い以上に大きい違いが、実は、福音書の復活の朝の出来事にはあります。マグダラのマリアが、はたして単独に復活の主イエスに出会っているかどうかです。今まであえて触れて来なかった、ヨハネ福音書の物語では、《週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、...墓に行った》のは、マグダラのマリアただ一人でした。《墓から石が取りのけてあるのを見た》彼女は、あわてて、シモン・ペトロともう一人の弟子(多分ヨハネ)を呼びに行き、この二人が駆けつけて空の墓の証人となる、と他の福音書とまったく違う話になっています。その直後(福音書では20:11以下)、復活の主イエスに出会う場面があるのです。この復活の主が現れる場面は、実は別系統と思われる、マタイ福音書(28章9節以下)とよく似ています。ただし、マタイの場合、マグダラのマリア一人ではなく婦人たち(この場合、マグダラのマリアともう一人のマリア)に現れる事、マタイでは、女性たちは《近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏し》て居るのに、ヨハネではまだ何もしないうちに《わたしにすがりつくのはよしなさい》と注意されてしまう、というような違いが見られます。
 どうやら、わたしたちが思っていたよりも多くの女性たちの証言が、福音書のイースターの朝の出来事に混在している事がわかります。復活の第一の証人としてのこれらの女性たちについて思い巡らしてみる事もなかなか意味のある事かもしれません。

聖書アラカルト33  ウサギ

 《野うさぎ、これは、反芻するけれども、ひずめが分かれていないから、あなたがたには汚れたものである》レビ記11章6節にある食べ物に対する戒めです。他に、ブタは、ひずめがあるけれども、反芻しないから、食べ物の中に血をまじえてはいけない、子牛の肉を牛乳で煮てはならない等、ユダヤ教には細かい取り決めがあり、今でもこれが守られています。ガラテア書などを見ると、パウロとペトロが、この食物の取り決めをめぐって、対立をしたという記録が見られます。こういう経過を経て今のキリスト教が成立しているので、まったく無関係ではないのです。
 さて、ウサギに話を戻しますと、聖書の中には、レビ記の上の箇所以外では、申命記に同じような決まりがあるだけで、まったく登場しません。しかし、キリスト教伝説の中では、イースターのシンボルとして、卵と並んで、イースターラビットがゲルマン以来の伝統だそうです。シンボルとしての元来の意味は失われていますが、キリスト教のイースターの伝統の中で、卵にいのちを吹き込むという大切な役割を与えられてきました。
 
 神学生を送るに際して
 本文中にあるように、白髭さんは6ヶ月間、小泉さんは1年間、神学生として当教会において教会実習をされました。それぞれが良い実習体験をされたようで嬉しく思います。ここで学んだことが、牧師としての働きに良い結果をもたらすことを心から祈ります。
 白髭神学生は3月10日の教職按手式において正式に牧師となり、熊本の大江教会に赴任されます。小泉神学生は飛び級で3年生となり、7月からはいよいよ宣教研修に入ります。お二人の上に主の豊かな祝福があるようにと祈ります。
 一つだけ先輩牧師(老牧師?)としてアドバイスすれば「その教会を愛すること」、これが牧会の決め手です。お二人も東京教会を愛して下さったから多くの良い経験をつむことが出来たのです。ご苦労さま、そして、ありがとう。
不思議な対話        白 髭  義
 3月3日に神学校の夕べが、10日には按手式が、どちらも東京教会で守られた。それらを含め、私が今回日本福音ルーテル教会の牧師に任命されるうえで関わった諸プログラムにはいつも東京教会が身近かにあった。また、一昨年の春から3ヶ月と昨年10月から今月までと、神学生としての研修もさせて頂けた。終わりに当たって今、感謝の思いでいっぱいである。
 この2月13日をもって私は60歳になったのであるが、それが牧師としてのスタートラインとなる。主の恵みはことのほか深く、人の目にはハンディーと見えることさえも益としてくださることを3年間の神学校生活で味わい知ったことである。今後のことも委ねつつ生きてゆきたいと願っている。
 東京教会の皆様とはもっと膝をつきあわせたお話の機会が持ちたかったが、とにかく神学校の勉強がハードで、思うようにならなかったのは仕方なかったかもしれない。それでも何か不思議な対話が継続していたような気がしている。毎週お顔を拝見し、挨拶をし、共にみ言葉に聴き、共に配餐にあずかるという体験の中にそれがあったのではないだろうか。「心が通じている」という実感を伴っていたが、決して自分勝手な思い込みではなかったと思う。それは神学生であった私の最大の学びに通じていた。要するに、安心と信頼を東京教会の方々は私にプレゼントしてくださったのである。
 「信徒を育て、信徒に育てられる牧師に」これは東京教会のある信徒さんからいただいた言葉である。「育てる」ことも大変なことだろうと思ったが、「育てられる」ことはそれ以上のことかもしれないと感じた。年齢的に若くなくても「育てられる」恩恵にあずかれるとしたらそれはすごいことではないか。その恵みの環境の中で「育てる」職務を実践するならそれが牧師のベスト・コンディションなのかもしれない。
 どうか皆様ひとりひとりの上に神様の豊かな祝福がありますように。熊本にお
いでの折はぜひ大江教会にもお立ち寄りください。ありがとうございました。


感謝をもって          小 泉  基
 正直に言いますと、神学校の下級生の間で実習教会が東京教会であるという話になりますと、「ああ、大変ね」という反応が一般的です。それはもちろん、日曜日の朝7時の礼拝が始まる前から、夜8時すぎに最後の礼拝が終わるまでの実習時間の長さを指しており、そして、かく言う私もそう思っていたひとりだったのですが、一年間の東京教会での実習を終えるにあたって、まことに実習時間の長さに見合った、学ばせていただくことの多かった実習であったと、感謝の思いでいます。
 東京教会を訪れる人は、まず他教派の方々さえもうらやむこの記念会堂に目を奪われることでしょう。確かに「会堂が伝道する」さまを、私もこの一年間少なからず目にしてきました。しかし教会はやはり「人の集まり」です。博学強記の松田先生と、細部にまでこだわりの行き届いた内海先生の配慮のもと、教会に集うおひとりおひとりが、それぞれに自分のスタイルで教会生活を送っておられる様子を見せていただいたことによって、「教会とは何か」という、私自身の問いに、ひとつの光を投げかけていただいたように思います。
 ロビーで交わされるさまざまな種類の言語の響き。私の家族も温かく迎えてくださった教会学校の子どもたち。薄暗い礼拝堂が一瞬にして極彩色のステンドグラスに彩られる冬期の朝7時の礼拝。毎週の祖父母と孫の出会いに思わされる、紡がれていく教会の歴史。デニーズでの朝食とおしゃべりの時間。私の大きな楽しみであった聖歌隊でのひととき。私がこれまで経験してきた役員会とはひと味違った引き締まった役員会。諸式のひとつひとつ、なかでも病床洗礼と告別式に同席させていただいたこと。そして、配餐時にグラスに葡萄酒を受け取って下さる、おひとりおひとりの手の在りよう。
 いちいち数えあげることはできませんが、こうした東京教会での出来事のひとつひとつが、残された学びの、また牧会に出るにあたっての私自身の血肉になるのだと信じています。献身までに教会生活を送ってきた修学院、宇部、下関、大森教会という「私の教会」に、これからは東京教会を加えて、残された学びを続けていきたいと思っています。ありがとうございました。
「マタイ受難曲」による 聖金曜日礼拝に向けて         森山 亮二 
 ドイツ人がうらやましいと思ったこと。それは「マタイ受難曲」の意味が対訳や字幕を見なくても、聴いた瞬間に理解できることです。今から275年前の1727年の聖金曜日にバッハの「マタイ受難曲」を始めて聴いた会衆の感動はいったいどんなものだったのでしょうか。朗々と歌われる福音書、各場面での「信仰告白」としての独唱、そして心からの祈りである「コラール」。三時間以上の演奏時間も長いと感じることもなく、次々と展開する受難の物語に魅せられたのではないでしょうか。さて、東京教会での聖金曜日礼拝では口語日本語訳による演奏を行います。原語であるドイツ語に細心の配慮をして作られた作品だけに、日本語訳をつけるために音を変えた部分や、かなり無理をして歌っている部分も多くあります。しかし、ルターがラテン語の聖書をドイツ語に訳したことにより全会衆が理解できたことと同様に、バッハの音楽と共に言葉が直接伝わることは大きな意義があると思います。バッハの教会音楽の本来のあり方を、東京教会で多くの方々に体験していただきたいと願っております。チラシ等がありますので多くの方をお誘いくださいますようにお願いします。

 以下に今回の演奏曲の中からご紹介します。

第1曲合唱「神の子羊」 十字架を背負ったイエスを見つめている「シオンの娘」とその報告を受ける「信ずる者達」の、2群の合唱による緊迫した応答と、子供の声によるコラールがおりなす壮大な曲。

第37曲「あなたを苦しめるのは誰ですか」・第54曲「主の御かしらは、いばらに傷つき」この2曲のコラールは今回会衆も加わっていただく予定です。(聞くだけでなくコラールで参加できます。)

第39曲アルト・アリア「お許しください、主よ」ペテロの否認の直後に歌われるアリアでヴァイオリン(今回はフルート)が涙を象徴している。

第49曲ソプラノ・アリア「主は私たちのために死なれた」、「十字架につけろ」という激しい合唱の間におかれたアリアで、受難曲中唯一通奏低音がなく直訳すると「愛ゆえに」となる中心的アリア。

第65曲バス・アリア 「私の心をあなたのように清くしてください」自分の心を清めイエスをそこに葬ることを願う歌詞。

第68曲合唱「私たちは涙にくれています」終曲としての「子守唄」。「お休みください安らかに」が繰り返される。


きずな 第365号2002年2月24日 発行より
「主イエスに従う」    ―自由への第一歩―        内 海 望
 四旬節(受難節)に私たちは改めてイエスさまに従うことを命じられています。 ツインクの詩の一節を思い出します。
 
  あなたは力をも 富をも 喝采をも望まれませんでした。
  あなたは誤解され、軽蔑される最も卑賎な者の姿をして人間になられました。
  今はまだ私は出発点に立って 第一歩を踏み出そうとしています。
  私はまだ自分の外見に不安をおぼえ、軽蔑されはしないかと恐れています。
  あなたと共に歩むこの歩みにおいて どうか私をしっかり支えて下さい、
  あなたを通して私が自由になるために。
 
 イエスさまに従うことは自由になることなのです。私たちが主イエスに従うことをためらうのは、私たちが自分自身に縛られているからです。食べること、飲むこと、人間関係、生老病死について思い煩うのです。目は自分自身に向いているのです。うつむいて生きていると言ってよいでしょう。
 このような私たちに対して、イエスさまは「目を上げなさい」とおっしゃいます。目を上げましょう。その時、私たちは私たちの前に「身を屈めて」、私の負うべき十字架をご自分で担って、私と共に歩んでくださるイエスさまの愛に出会うのです。
 この主の愛に触れた時、私たちは自分自身への思い煩いから解放され、立ち上がり、自由への第一歩を踏み出すことが出来るのです。この第一歩は復活の命へと続く永遠の道への第一歩なのです。
 四旬節を自由への第一歩として歩み出したいと思います。
 ユダをも赦される神   ーマタイによる受難物語の一断面ー       松 田 繁 雄
  
 2月13日から四旬節に入りました。主イエスの十字架の死の意味を深く考える期節です。今年はイースターが早く、3月31日に当ります。四旬節は受難の期節ですが、今年はマタイの年、受難物語もマタイの視点からと思います。聖金曜日には、恒例の「マタイ受難曲による礼拝」も行われます。この機会に、マタイによる十字架といのちの希望への信仰を概観してみましょう。

 マタイ、マルコ、ルカ三つの福音書を共観福音書と呼び、ほぼ共通する流れを描きながら、それぞれの神学を加えている、ということはご存知だと思います。また、教会の礼拝で使われる福音書の日課が、3年サイクルで、それぞれマタイ、マルコ、ルカを中心に組み立てられていることも、よく知られています。今年はマタイの年なので、是非マタイによる受難物語、という切り口で何かを書いておこうと思ったのですが、改めて日課を見て困りました。四旬節第三から第五にかけて、なんと三週間も少し系統の違うヨハネ福音書からの日課が採用されているからです。そこで、まず、共観福音書に共通する流れを概観してから、マタイ福音書、殊に、ユダの自殺に関わる場面について取り上げていくことにします。
 共観福音書の受難物語を、纏まりごとに小見出しをつけて並べていくと、次のようになります。殺す計画→ユダの裏切り→食事の準備→主の晩餐(聖餐設定)→ペトロの離反予告→ゲッセマネの祈り→逮捕→最高法院での裁判→下役たちの暴行→ペトロの離反→ピラトの訊問→死刑判決→十字架刑→イエスの死→墓への葬り。ヨハネによる福音書では、食事の準備がなく聖餐設定の場面もありません、過ぎ越しの食事はユダの裏切りの場面としてのみ語られているのです。また、ゲッセマネの祈りに当る場面はなく、代わりに最後の説教、最後の祈りが14から16章にわたって展開されていくのです。このように、ヨハネによる受難物語と、共観福音書の物語とは、同じ受難物語でもかなり様相が異なり、それぞれの元となった資料も違うものであると考えられるのです。
 閑話休題。共観福音書の流れを頭において、マタイによる受難物語の特徴を見ていきましょう。まず、目に付く部分が、ユダの自殺に関する伝承(27:3〜10)です。実は、このユダの自殺に関しては、使徒言行録にも最初のペトロの説教(1:16〜22)の中で、別の原因譚が語られています。二つの話を比べてみることで、ユダの裏切りと自殺という、救いようのない事実の中でも、マタイが多少ともユダに好意的な伝承を選んでいることが分かります。ユダの裏切りの代価として買い取られた「血の畑(土地)」をエレミヤ書の「陶器職人の畑」に結びつけたのもマタイでしょう。エレミヤの言葉は裁きですが、その中に同時に「ただ神の意志による救済」も含まれています。救われるはずもない者への救済、自業自得の不信仰により国敗れたユダの民にかけられたこの同じ言葉が、マタイによってここでは主を裏切ったユダの最後に手向けられているのです。
 マタイのこの部分の編集には、もう一つ大きな特徴があります。それは27章1〜2節、11〜14節と続くピラトの訊問の場面を外枠に、いわばサンドイッチを作るように、ユダの自殺の場面がはめ込まれているという事です。ピラトというローマのユダヤ五代目総督については、ユダヤ教の側からヨセフス、フィロンといった同時代の証言が残されていて、相当に残虐、悪辣な代官であった事が分かっています。ところが、四福音書すべてに共通して、このピラトがイエスの処刑に対しては乗り気ではなかった、と好意的なのです。この全体の基調の中で、マタイは、ピラトの審問の場面に、ユダの自殺を挟み込みました。ちょうど、サンドイッチを食べる場合に、パンと挟まれたおかずを一緒に口に入れるように、ピラトの赦しとユダの赦しを一つのセットとして読者に提供したのです。ピラトに罪はあっても赦された神は、ご自身を裏切り、御子イエスを死に渡してしまったこのユダをも赦す神、マタイは編集によってこう考える余地を残し、さらにエレミヤ書の引用を加えることで補強していくのです。マタイに拠れば、裏切ったユダは、国の場合も人の場合も神の大いなる赦しに包み込まれます。そしてこの神による赦しがわたしたちの罪の上に注がれた時、それは主イエスの復活に象徴されるような、恵みによる罪の贖い、そして、永遠の命の約束へと繋がって行くのです。
聖書アラカルト30  ナルド

 《一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた》マルコによる福音書の受難物語の冒頭を飾る有名なエピソード(14:3〜9)です。不思議なことに、この物語は、マタイ、ルカには採用されていません。一方、ヨハネ福音書では、12章にベタニアのマリアが香油を主イエスの足に塗ったという形で残しています。いずれにせよ、主イエスの受難と関わりのある、ベタニアでの印象深い一幕であったことは間違いないのです。
 さて、このナルド、旧約でも雅歌で《王様を宴の座にいざなうほど/わたしのナルドは香りました》(1:12)と歌われています。原産地はヒマラヤ、ネパール、インド、根と茎の基に強い香り成分を持ち、その絞り汁を油に溶かし、古くから商用特産物として、アラバスターの壺に入れて取引されていたと言われます。香料として使う時には、壺を割らなければならない上、イスラエル近辺では栽培のできないインドからの輸入品であったため、高価なものでありました。300デナリオン以上という数字が、福音書には出てきています。
2002年度(宣教90周年) テーマ「今をこえて」 ―東京教会定期総会報告―  深沢孝寿

 今年の総会(1月27日)も前日に雪が降り寒い日でしたが総会礼拝に引き続いて議事が行われました。(正議員235名のうち出席者65名、委任状91名でした。)
 新宣教5ヵ年計画、初年度の報告と今年の計画・課題などが審議されました。
 その概要をご報告いたします。
【報告事項】(総会資料より)
 2001年度の教会活動報告の概要
1、役員会報告・・・・・・・・・・・・・・・・・承認
  世紀元年は神さまと会員のみなさまの支えにより充実した教会活動が行われましたことを心から感謝いたします。
☆教勢について
 昨年は18名の会員が与えられました。
(受洗者11名、転入者7名)特に、長い間求道生活をされた方、密かに待ち続けた家族の思いに決断された方々の受洗は感謝です。また、信仰の継承を願う会員の赤ちゃん7人の誕生をお祝いいたしました。
 一方、召天者4名の方々を憶えます。
他に家族を亡くされた方3名の葬儀も行われました。更に、2002年年頭には、内海季秋牧師をみ国にお送りいたしました。
☆複数牧会について
 内海・松田牧師の協力態勢のもとで、「5回の主日礼拝、ヌーンサービス、洗礼準備会、ホームページ、人間講座、家庭集会など」の多くの牧会が充実して進められたことは複数牧会3年目の賜物と感謝いたします。教勢と礼拝出席者(延べ約八千人、聖日平均155人)は、「年度目標」を超える結果となりました。
 しかし、10時の礼拝(英語)は、先生の負担を軽減する後任者が急がれます。
☆宣教計画推進の体制継続
 宣教百年記念会堂を与えられた東京教会の宣教計画の推進は、複数牧会体制により力強く進められていますが、この計画と目標達成には今後も複数牧会の継続とこれを支える会員の協力が必要です。
☆その他、昨年は若者にターゲットを当てた講演会(村上陽一郎先生)や地域とのかかわりとして「大久保まつり」への参加継続などが行われました。
 しかし、財務委員会や総務の活動ができなかったことを深く反省しています。
2、書記報告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・承認
☆2001年度「行事報告」
☆2001年度「教勢報告」
☆広報「きずな」報告
 内容については資料をご覧ください。
3、各委員会報告・・・・・・・・・・・・・・・・承認
☆特別委員会(オルガン関係)
 パイプオルガン設置準備に関し製作工事の日程、搬入の荷姿等について発注先のシュッケ社と協議を行いました。
 募金委員会では募金目標額の変更について総会に提案することとしました。
○ 教会諸活動報告・・・・・・・・・・・・・・承認
○ 決算報告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・承認
(資料の一部誤りを正誤表で訂正)
☆一般会計決算は収入170万円の減(特別献金など)を支出で229万円の圧縮に努めましたが100万円の赤字となりました。赤字解消が今後の課題です。
☆建築積立金特別会計は、パイプオルガン特別会計より前年の繰り出し分を戻し入れました。 ☆パイプオルガン特別会計
 (貸借対照表を追加資料として配布)
 オルガン募金から1,190万円を繰り入れ処理いたしました。
☆収益事業会計は収入(貸室料ほか)の
343万円から会堂維持費、人件費ほかに320万円を支出いたしました。
【審議事項】
2002年度教会宣教活動計画
1、主題聖句・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・承認
 「主はわたしの光、わたしの救い。
   わたしは誰を恐れよう。」
           (詩編二七・一)
 創立90周年テーマとして 
     ―今をこえて―
が決まりました。「見えない未来、取り巻く社会からの不安は解消されないが、このみ言葉は主を礼拝する群れにとって福音のすばらしさをあたえてくれる。神は必ず「今をこえて」明日を用意してくださる。教会創立90周年を迎え、パイプオルガンもあたえてくださる恵みの神さまに感謝し、信頼して歩みましょう。」

2、教会宣教計画(総会資料7〜10頁)
 「力強く宣教できる教会」として、昨年承認の「新宣教5ヵ年計画」2年めを目標に教会形成の歩みを続けて生きたいと思います。
 目標数値の予算については一般会計予算と差がありますが収益事業会計と伴わせて達成を目指したい。複数牧会4年目(最終年)の今年、永続的な複数牧会態勢を継続していくために必要な目標です。
 今の宣教プログラムを続けられる教会として、将来を展望する財務会計の検討する委員会を開催したいと思います。
☆この提案に〔動議〕が出されました。
 一般会計が初年度から未達であり「新5ヵ年計画」の予算を今年度の一般会計予算と同額とし以下2005年までの目標予算も修正すべきである。採決の結果賛成多数で一部修正が採択されました。

3、年間行事計画・・・・・・・・・・・・・・・・承認

4、2002年度教会予算・・・・・・・・承認
 収入2,800万円、支出2,883万円となり、83万円の赤字予算となった。
 この赤字は決算では解消するように努め、今年度は特別会計からの繰り入れはしないことにしたいのでご協力をよろしくお願いいたします。

5、パイプオルガン建設予算・・・・・・承認
 昨年承認の予算総額と同じです。

6、パイプオルガン募金目標の変更
 委員会で報告の通り建設予算総額から指定献金を差し引いた額「1,750万円」を募金目標とする変更を提案いたしました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・承認
 総会当日現在の入金額1,373万円です。今年は募金最終年であり目標達成を目指して努力します。

7、宣教90周年記念事業・・・・・・・・承認
 今年実施の記念事業については早急に具体案を決めてお知らせいたします。
 来年にかけて実施する計画(パイプオルガン披露、この10年の記録作成)についても準備の状況をお知らせします。

8、役員選挙規定の一部改正・・・・・・承認

9、新礼拝式文の採用・・・・・・・・・・・・承認

【検討事項】
◎宣教体制と牧師人事について
◎土地の有効利用について
 を今後の課題として説明し、質疑をいただきました。(内容は議事録を参照ください。)     
ルーテル学院大・神学校 聖歌隊&ラウス・アンジェリカ  ジョイント コンサート
 2月10日午後、ルーテル学院大学・神学校の聖歌隊とハンドベルクワイヤによるジョイントコンサートが行われました。(当日11時の礼拝では、讃美とハンドベルによる礼拝奉仕もしてくださいました)卒業される方々を囲んだあたたかい雰囲気の中で、素晴しいコンサートになりました。
 東京教会でも、ハンドベルクワイヤが練習にはげんでいます。メンバーの皆さまから、感想をいただきました。

 私たち東京教会ハンドベル・クワイヤは、3月21日(木)に行われる『教会ハンドベル音楽祭』(於・弓町本郷教会礼拝堂)に参加する予定で、現在、猛!?練習中であります。
 そんな折に、願ってもない機会に恵まれ、素晴らしい演奏を聴くことが出来ましたことを心から感謝いたします。
 とはいえ、未だ駆け出しの新米メンバーではありますが、この新鮮な感動に触発され、普段の成果!?が無事発揮できます事を祈るばかりです。
 音楽を愛したルターの教会として、感謝と讃美に満ち溢れる豊かな礼拝が守れるよう、微力ではありますが努めて参りたいと思っておりますので、皆さん、どうか温かく、長〜い目で見守って下さい。   M・S

 初めてハンドベルの演奏会を拝見しました。
 自分も東京教会のハンドベルに入会させて戴き、ようやく一ヶ月がたち、何も分からないことばかりでしたが、その美しい音色に魅せられてしまいました。
 皆様、合宿までして練習なさったとか伺い、私の練習不足が恥かしいばかりです。皆さん楽譜を余り見ることもなく指揮者を見ながら大きな素振りで自身満々で、演奏をなさっていらっしゃるのを見ると、あゝいうふうに自信を持って演奏出来るようになるのは何時の日か・・・と思うばかりです。               M・H

 ハンドベルの演奏会は今までに聴いたことはあったが、今回は、ただ聴くだけではなく、ベルの持ち方、打ち方などにも目を向けた。私自身ハンドベルの一員として練習をしているので、同じベルを使ってもこんなにも音色が違うのかと驚いてしまった。
 音の強弱、その他音が流れるように耳に入ってきた。演奏を聴いて一番心に残ったのは、指揮者と演奏者の気持ちが一緒になっていることだった。               S・S
カンボジアレポート10  鎌田頼子

はじめに− 
 チョムリアップスー!みなさんお元気ですか?私は元気にしています。日本はまだ寒い日が続いていることでしょう。カンボジアは少しずつ暑くなってきています。ここカンボジアは、乾季が終わる少し前、4月、5月が最も暑い月です。近頃は全く雨が降りません。土の道が多いカンボジア、そしてプノンペンはバイクと車の排気ガスと土埃とで喉も痛くなります。うがいをしてみたり、レモンをかじってみたりしています。
 先月の終わりに、みんなでプルサト州の視察に出かけました。プノンペンから車で約4時間の所です。ちょうどプノンペン−バッタンバンの中間点にあたる所でしょうか。今回はそこでの出来事と、ステンミエンチャイゴミ集積場で出会った家族について報告します。

* プルサト州の視察そしてクルアサー・タマイの展示場を訪れる
 プルサト州コンポンルアンで、新しいメンバーである山崎敏子さんも含め、無事、教会コミュニティのみなさん、ソファール神父さんとの再会を果たすことができました。その後私たちは、プルサト州の町を視察しました。コンポンルアンの水上生活とは異なり、そこには水道、電気、電話、そして比較的大きな市場もありますし、きれいで手ごろな価格のホテルも見つけることができました。カトリック教会もあります。コンポンルアンからバスに乗って約1時間の所にある街です。日本での生活に慣れた身体には、ずっとコンポンルアンでの水上生活を続けることには多少疲れることもあるでしょう。これから私たちがここで活動を続ける際には、時々街に出てきて、身体や心を休めることも必要になってきます。今回はプルサトのDepartment of Education youth and sports、Department of Rural Developmentを訪問しました。プルサト州にはまだ日本のNGOはありませんが、保健医療のNGO、地雷関係のNGOなど約30のNGOがあるそうです。コンポンルアンの教育委員会にも訪れてみました。一度話を聞いただけでは詳細はつかめませんが、彼らがベトナムのコミュニティの子どもたちに対する差別という概念を持っているとは感じませんでした。公立学校の数が不足しているということだけではなく、ベトナムの子どもたちがクメール語を話せない、授業についていけない、友達を作りにくい…。そんなことも彼らが学校に通うことのできない原因のようです。
 ある日、私たちの泊まっているホテルのレストランに、クルアサ−・タマイ(「新しい家族」という意味の名のNGO:フランスから)による展示会のチラシを見つけました。テーマは「トンレサップ湖での生活」です。これは何か新しい手がかりをつかめるのではないか。私たちはそう思い、みんなで出かけていきました。
 それは仏教のお寺の講堂で開かれていた、とても素敵な展示会でした。沢山のパネル展示、そこにはカンボジアの概要、トンレサップ湖周辺の生態系、トンレサップ湖の水域の変化について、トンレサップ湖周辺に住む人々の職業、生活の仕組み、そしてクルアサ−・タマイ子どもに対する文化継承プログラムや、弱い立場にある女性を支援するプログラムの紹介など、大人でも十分に堪能できる見事な展示がありました。実際、小学生の生徒が数グループに分かれて、クルアサ−・タマイのスタッフの説明を聞きながら一枚一枚のパネルに見入っている姿を見ることができました。それは、カンボジアの森が失われつつあること、トンレサップ湖周辺の農業が激減していること、カンボジアの文化の美しさを多くの人たちが理解されることを目指しているものでした。このような情操も豊かにされるような教育は、カンボジアの公立学校、しかも地方の学校ではまだまだ少ないように感じます。
 フランスから来ているスタッフが1名いたので、彼女に話を聞くと、クルアサ−・タマイはプルサトにはオフィスを持っていませんが、今回は10ヶ月をかけて、トンレサップ湖周辺の町を訪れて、お寺などに協力を求めて場所を提供してもらい、巡回展示をしているのだそうです。
 私自身もカンボジア本来の自然や文化の豊かさにもっと触れつつ、その豊かさをカンボジアの人々と共に喜べるようになりたいと思います。

* チャンターの病気と栄養失調−ステンミエンチャイのゴミ集積場で 「本当にお金がない!」
 1月25日、私たちと共に働くスタッフ、サッチャーと私は、ステンミエンチャイのチャンターの様子をみに行きました。チャンターは9ヶ月になった男の子。以前から久美子さんやサッチャーから話は聞いていましたが、私はこの日彼と初めて会いました。他のどの子よりも小さくて、ずいぶん弱っているようでした。チャンターはこのごみ山で生まれ、そして、気管支と肺の病気を持っているとのことでした。ステンミエンチャイのゴミ集積場を訪れたら一目瞭然、そんな彼がここでは生活することが難しいとわかります。彼らは1日中ゴミを焼却する時のすさまじい煙が立つすぐ横で、彼らは粗末な作りのテント小屋を作り、生活しているのです。チャンターの母クワンは1年半前から、自分の故郷プレイヴェンを離れ、お姉さんとここに住んでいます。姉妹二人とも夫がいません。
 喘息気味で、食が細く、小さく痩せてしまったチャンターをみながら、クワンは自分のできる限り、お乳を飲ませようと努力したり、お粥を食べさせようとしたり、自分で買ってきた薬を飲ませようとしていました。毎日フランスのNGOスマイリングチルドレンによる炊き出しと簡単な医療の出張サービスがすぐ近くの集会場で行なわれているのですが、彼女は子どもをそこに連れて行くのをやめてしまったというのです。理由を尋ねると「先生は、いつも病院に連れて行きなさい。としか言わないから。」だというのです。そして約6ヶ月前、こんなこともありました。
 チャンターの具合が悪かった時に、私たちは、彼らを無料の病院に連れて行く手伝いをしたのですが、どういう訳かクワンは、薬だけもらって、すぐに子どもを連れて帰ってきてしまったのです。それは本当に子どもが適切に治療されたのかどうかと不安になる出来事でした。
 今回はその理由を尋ねてみました。すると彼女は「お金がないから。」と答えました。そこは診療無料の小児科病院なのですが、身内の付き添いが必要なこと、そして食費は全て自己負担です。彼らは、誰かの助けで病院に行くことができたとしても、そこに滞在するお金もないというのです。毎日姉妹が交代でゴミ拾いをして、リサイクルできるものを集め、売って得ることのできる収入が1日約2000リエル(約0.5ドル)。それは姉妹が助けあって成り立つ小さな家族が、やっと食べていけるかいけないかという額です。しかも母親が一日中子どもの様子を観察しているという訳にもいきません。
 クワンは本当に疲れてしまったのでしょう。子どもの調子が悪くても「今日は日差しが強いから(チャンターの)身体が熱いだけだ。」と言うのです。でも私はチャンターの身体は本当に弱っていると感じました。お粥を食べたり、母乳を飲む元気もなくなっています。このままにしてはいけない!と私たちは考えました。
 私たちは病院に行くための交通費と母親の病院滞在中の食費をサポートすることにしました。「子どもを必要なだけ入院させて大丈夫だから。」という一言を付け加えなければなりませんでした。子どもは無事に入院することができました。子どもが退院したとの知らせを受けて私たちはステンミエンチャイの彼らの家を訪れました。再び具合が悪くならないために栄養を沢山与えて、体力をつけさせなければなりません。そうでないとまた同じことの繰り返しです。母親クワンは子どもを毎日スマイリングチルドレンの栄養不良児デイケアセンターに通所させたいと言ってきました。この彼女の気持ちが変わらない内に、早速私たちは担当のワッタナー先生に尋ねました。先生は快く受け入れてくださるとのお返事でした。
 デイケアセンターでは朝から夕方まで栄養不良児を預かり、1日2回の食事摂取介助や健康面の観察をします。しかし家族が朝夕、子どもの送迎をすることと、毎日必ず子どもを連れてくることが必要条件です。バイクタクシーのお金を持っていない彼らはそのセンターまで朝夕徒歩で長い道のりを往復しなければなりません。彼らはそのことを承知してこの希望をやっと出したのです。
 子どもがセンターに行っている間、姉妹2人でゴミ拾いをすれば、2倍のお金を稼ぐことができると言って張り切っています。私自身は、本当はこの姉妹たちが好んでゴミ拾いをしながら生計を立てたい、ここに住みたいと思っている訳ではないと感じました。それでもやはり私は、「ゴミ拾いの仕事を一生懸命しなければ駄目だよ。」と彼らに言うしかありませんでした。それは自分の感情と言っていることが矛盾していることに充分な位気づかされる瞬間でした。彼らのほうがむしろその現実をしっかり受け止めて、私に「そうなんだ、そうなんだ」と言っているように感じました。これからどんなことを私たちは彼らにしていけるのだろうか。カンボジアに滞在して1年過ぎた今、私は改めてこのことを考え始めました。

おわりに−
 2月、3月は日本からのお客様が沢山JLMMカンボジアを訪れる予定です。とても楽しみです。スタッフのサッチャーも、「お客様の出身地はどこなんだろう?」「岡山はどこ?」「東京は?」と興味津々です。そしてとうとう私たちはオフィスに日本地図を貼ってしまいました。私も改めて日本地図を眺めると、早くも望郷の念が…。まあ!そんなことでどうするのでしょう。まだ離れて1年しか経たないのに。まだまだ頑張らなければならないことが沢山あるというのに…。と自分で自分を奮い立たせつつ、暮らしている所です。
 それでは皆様もお元気で、また来月。  Chomliap-lia!
3月の教会行事予定

☆3日(日) 午後4時〜6時 神学校の夕べ
☆10日(日) 午後7時 教職按手式
☆15日(金) 午後0時15分 ヌーンサービス
☆27日(水) 午後7時 聖水曜日礼拝
 28日(木) 午後7時 聖木曜日礼拝
 29日(金) 午後3時 聖金曜日礼拝
       午後7時   〃 (J.S.バッハ「マタイ受難曲」による)
☆31日(日) 復活祭(洗礼式、聖餐式) 午後祝会


 ◎3月24日(日)11時礼拝 説教は清重尚弘先生です。
      説教題「主がお入用なのです」
 なお清重先生は、4月1日より九州ルーテル学院大学学長として熊本に赴任されます。
先生の新しいお働きのため祈りましょう。



きずな 第364号2002年1月27日 発行より
それでも21世紀に希望を持とう  ―総会に際して―    内 海  望
 聖書を読み進むに連れて、「人間の未来に対する想像力の貧しさ」に気づかされます。私たちの想像力は、その時、その時の時代の状況によってくるくる変ります。ある時はバラ色の夢想になったり、またある時は灰色の絶望になったりします。そのような想像力は、情感に動かされる場合が殆どです。
 聖書は、私たちの想像力を遥かに越える形で神さまの祝福の約束を語ります。しかし、人間は自分たちの経験と知識でしか状況を判断しないし、約束を理解しようともしません。ユダの王アハズは「安らかに[神に]信頼しているならば、救われる」と預言者から神さまの御言葉を告げられたのに、慌てふためき軍事同盟に頼り、国を滅ぼしてしまいました。「あなたの子孫は星の数ほど大きくなる」という神さまの約束を一度は信じたアブラハムでしたが、その信頼が揺らいだとき、姑息な人間的な手段を用いて現状を打開しようとして、かえって家庭を混乱させ、苦境に追い込まれました。
 しかし、そのような人間の脆弱な、罪深い行為を遥かに超えて、神さまの救いのご計画、祝福のみ手はこの世界に生きて働いているのです。それを私たちはイエス・キリストの十字架と復活において確かに見たのです。
 私たちは二十一世紀を希望に胸ふくらませて出発したとは言えません。むしろ、私たちを灰色の絶望へと誘い込むような出来事の連続です。このような時、私たちは人々の批判のただなかで「戦後民主主義が虚妄と言われるなら、私はその虚妄に賭ける」と語った丸山真男にならって、主のみ言葉に賭け、主にある希望を語りつづける群れになりたいと思います。
 主が生きて働いて下さるから、私たちは二十一世紀にも情感に動かされない確かな希望を持つことが出来るのです。
 数にまつわる話              松 田 繁 雄
 干支というと、「ことしは馬年だったかな」という具合に、つい十二支を思い浮かべがちですが、辞書を調べると、むしろ十干の方が基本に思われます。いずれにせよ、この十二、十などの数が、特別なものとして、洋の東西を問わずに考えられてきた形跡があります。
 十二進法に関する最古の記録は、既に古代エジプト文明の中に見られ、一方、十を基本とした十干という考え方は、既に、中国の殷(いん)代から日の数え方として用いられています。この両者の交流も、メソポタミアで、六十進法が現れたり、中国でも十二支との組み合わせで、六十で一巡する干支が考えられたり、という形で出てきます。まったく別の考え方(例えばギリシャ哲学の四元素)から、四という数字も特別と考えられます。月の満ち欠けの周期が二十八日なので、それを四分割した七という数字も特別視され始めます。四と五を足して九(重陽)十二を四で割って三という具合に、古代世界の中で特別な数字の世界は広がっていきます。ところで、十二という数については、一に続く三つの数(二、三、四)で割り切れるということで、神秘な数とされていましたが、逆に、二、三、五に続く素数、七も神秘的な数になります。十二ヶ月、七曜日など暦では、この二数が基本です。
 《あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。...あなたがたのことが心配です》とガラテヤの信徒の手紙にあるように、パウロは、特別な日や月、数字を尊ぶ傾向に批判的で、偶像礼拝並に嫌悪しています。逆に言えば、キリスト教の中にもそういう傾向がかなり見られたという事です。天地創造は七日間、十二部族、十二使徒、十戒、四十年等々、旧約新約を問わず、ある種の数がやはり好んで使われていた事が分かります。なお、奇数はその和が二乗数となるため、一般に尊重されましたが、ラビの格言も三節五節の対句が多く、マタイ福音書などの新約の文書でも、似た傾向が見られます。これも、聖書が神の言葉でありながら、人の言葉でもある、その一つの現れなのでしょう。
内海季秋先生を偲んで    伊 藤 和 雄
一、最初の出会い
 1933年(昭和8年)、私が五歳の時、兵庫県川辺郡立花村塚口に住んでおりました。大阪・神戸間をつなぐ阪急電車の塚口駅が最寄の交通機関で、その塚口駅のすぐ近くに日本福音ルーテル塚口教会があり、私は母に連れられて教会の日曜学校に通っておりました。
 その教会の牧師が季秋先生で26歳の若さで、牧師となられ最初の赴任先でした。3歳年下のミチ夫人と新婚間もない頃で、私の家にもご夫妻でお訪ね下さり、ミチ夫人は六歳年長の母をお姉様と呼んで頂き、親しいお付きあいが続いたと季秋先生から承りました。
 私の記憶では日曜学校へ行くのが楽しく特にクリスマスの集いが印象に残っており讃美歌の幾つかは60数年たった今でもはっきり覚えております。其処で植え付けられたキリストの教えは私の人生観・私の信仰の原点となり、その後教会こそ行きませんでしたが、絶えず神様の存在を意識して生活して参りました。
 季秋先生ご一家の塚口での伝道は1932年から36年の4年間でしたが、印象に残られた付き合いは、森永太一郎翁と私の母だったと仰っておられました。(「森永翁と季秋先生」と題したきずな第343号2000年4月23日発行をご参照下さい)私の母とはご夫妻と年令が近かったに反し、森永翁は季秋先生より40歳年長でありました為、当時同居されていた季秋先生の御母堂と話が合い、泊まっていかれたり、時には徹夜で信仰伝道を論じ合われた様でした。

ニ、再 会
 私は1978年から現在の下落合に居住しておりまして、大久保とは至近距離であり乍ら殆ど訪れることもなく推移しましたが、1997年3月偶々車を運転して大久保通りを走っておりまして、赤信号で停まった所、右手の新しい建物から「福音ルーテル」の文字が跳び込んで参りました。すぐ信号が青に変わった為、そのまま通り過ぎましたが、翌日どうしても確かめたくなり、快晴であった為、自宅から徒歩でその場所に行き、先ず左手の掲示板で私が豫ねてより探しておりました、日本福音ルーテル教会である事を確認、礼拝時間をメモにとり、立ち去ろうとしたのですが、ふと牧師名の内海とあるのが遠い昔の記憶と重なって気になり、無意識のうちに階段を登って玄関の前に立ちました。「何か御用ですか」と男性の方(望牧師)が寄って来られたので、昔塚口の教会に行ったことを話しましたところ、すぐさま「私の父です。今比処に一緒に住んでおります・・・」との事で、三日後の日曜日礼拝に出席、挨拶させて頂きました。私自身当時5歳であった為記憶はなかったのですが、母のことをよく覚えて下さっており、以後毎日曜日礼拝で、季秋先生の左隣に座らせて頂き、礼拝の後色々お話しを聞かせて下さり、今日に至りました。
 季秋先生は、前年の1996年12月長年連れ添われたミチ夫人に先立たれ、大阪から越して来られ三ヶ月目の事であり、私の方は同じく前年の10月長男が山へ出かけ遭難しました5ヵ月後とあって、お互いに傷心の身であったため、この出会いは強烈なものでした。神様が私の事を哀れと思し召して、この出会いに導いて下さったものと信じます。
 一年後の1998年4月復活祭に望牧師より洗礼を受け、その直後季秋先生に祝福して頂いた事は、私の人生最大の感激でした。
 先生は短歌をお作りになる趣味があり、多くの歌を教えて下さいました。
 特に最愛の奥様を亡くされた直後でもあったので、奥様を偲ばれて歌が圧倒的に多く、その幾つかをご披露させて頂きます。日付は私にお示しくださった日です。
かりそめの病と見えしこと乍らとはのいこいに行けしわが妻   (98年3月1日)
 1998年3月11日、家内を連れて伺った際、4月の復活祭に洗礼を予定している私の為、
なきつまの思いあふるる洗礼の惠に生きる君に幸あれ
と歌ってくださった上、御著書「ガラテヤ人への手紙」を頂きました。
また4月12日受洗日当日に
母そばの手をとりともに洗礼の惠を祝う妻のおもかげ
と歌ってくださいました。
10月25日93歳の誕生日には
恋々と亡き妻思う老らくの心たち切り新たに生きん
99年元旦には
新たなる年をむかえて新たなる思いに生きむ新たなる年
2000年10月25日の誕生日には
九十五共に喜ぶ妻の顔聖國にいこう身にしあれど
2001年元旦には
新たなる思いに生きん新たなる年の始めの新たなる時

三、2001年以降
 4月15日の復活祭には礼拝に出席され乍らお疲れになったのか祝会には欠席されました。今まで祝会には必ず出席され、一緒に御馳走を頂き沢山のお子様方の楽しそうな姿を見る都度、塚口時代の楽しい思い出を先生と話し合っただけに寂しい気持ちでした。
 5月6日の礼拝に出席なさったのを最後に体調勝れず、5月16日望牧師より社会保険中央病院の観察室に入られたとご連絡を受け、直ちにお見舞いに伺いました。自宅からは車で十分の至近距離の為、毎日欠かさずお見舞いしたのですが、ご高齢による衰弱はあっても特に治療を要する箇所もなき為、6月11日八王子の天使病院に移って静養される事となりました。
 6月26日伺った際には、元気に起きておられ遠路の見舞いを感謝する、と言って下さり、私とは不思議な関係ですねと
喜んで下さいました。
 7月11日も顔色良く意識ははっきりされてご機嫌はよかったです。
 7月24日には
久方の光のどけき春の日に共に歩きし思い出新た
と、歌ってくださいました。
 1997年3月6日、東京教会に出会い、九日日曜礼拝で季秋先生に再会した時は両日とも素晴らしい春の好日であった事を思い出しました。
 8月8日には、病院の人は皆親切で感謝している、食事は美味しく食事の時間が待ち遠しい、と言われ、また昔の塚口が懐かしいと仰り、今度私が来るまでに短歌を作っておくと言ってくださいました。
 8月22日には、お世話をする小母さんが三度全部召し上がり九五歳とは思えぬ程若々しいと驚いておりました。
 9月に入り4日には極めてお元気そうだが言葉が余り明瞭でないのが気になりました。
 26日、10月10日、20日にはご自分でには車椅子を動かされ、病院の廊下・食堂を廻っておられ言葉数は減りましたが、お元気そうに見受けられました。
 11月13日に伺った際に、誰だか判らぬ様でしたので「塚口の伊藤ですよ」と申しましたら、ニコッと笑顔が返って来まして、そろそろお出になる頃と思ってましたとおっしゃり、見舞客、お世話をする人達に感謝の言葉を述べておられました。
 11月27日には
真実にわれは生きると誓いたる十四の春の思い出にわく
 小学校卒業の思い出を歌われたとの事で、父は歌人であり医者であった、今でも父の影響は相当なものと思う。洗礼を受けたのも十四の時で、私の家はキリスト教にも関係があったと色々お話を聞かせて下さいました。8月8日伺った時、次に歌を作っておくとおっしゃり乍ら、それっきりだった為、もう無理かなと諦めておりましただけに、この日突如歌を下さり慌てて手帳に書き留めた次第です。(注十四は昔流の数え年でしょう)
 看護婦さんからは、この日快晴であった為、私が伺う前にドライブに出かけられたと聞かされました。
 12月18日可なり衰弱が目立ち「有り難う」以外聞き取れませんでした。昔、塚口のクリスマスの楽しかった話をしました所、微笑んでおられ私だと判って頂けた様でした。別れ際の十数分に亘る握手は何時もと変わらず、力強いものがありました。
 12月28日が私にとり最後の面会となりましたが、呼びかけに微かに反応されるだけで、手は冷たく、私はその手を両手で包み込み、長い長いお祈りをさせていただきました。
 年が明け、3日朝、望牧師からお電話で前日夜8時22分の御逝去の連絡を受けました。元旦の礼拝を無事終わり、2日の夜であったため、ご親族全員臨終に立ち会われ静かに眠る様息を引き取られた由です。
 今頃は天国で奥様と5年ぶりの再会を喜んでいらしゃる事と思います。
 私の信仰のスタート時再会後受洗の決意をした時と節目には必ず季秋先生の存在があり、最後まで密度の濃いご指導を賜りました事を厚くお礼申し上げます。
 天国から今後の教会の成長・発展を暖かく見守ってくださるものと信じております。
「洗礼を受けて」

☆受洗者紹介☆
 田島一水兄(美和子姉ご夫君)、吉川貴士兄です。
「企業戦士として働いてきました」というクリスマス祝会での受洗者のお言葉が心に残ります。私とほぼ同年輩のお二人なので感慨もひとしお深いものがあります。戦後間もなく、まだ戦禍の跡がなまなましい社会で人生を始めた者の共通の気持ちでしょう。万感の思いが込められていることでしょう。
 お二人を心から歓迎致します。一緒に主イエスによって示された道を歩みましょう。
 それにしても、息子二人の受洗とは吉川和子さんが羨ましい! (内海)


田 島 一 水
 このたび皆さまのお仲間に加えていただきますことを深く感謝いたします。
 私は1965年にこの教会で本田傳喜先生により結婚式をあげていただきました。当時、妻のほうはすでに教会員でしたので、数ある結婚式の形式の中から、その一つとして教会での結婚式を選んだわけでした。キリスト教徒でないのに教会で結婚式をする、クリスマスの飾り付けをしたり、プレゼントをするなど、奇異な風習(?)が日本では当り前のように行われます。このことを揶揄するつもりはありません。私自身がそういう日本人の一人でしたから。しかし、いわゆるカタクリ夫婦として出発したこの36年間、いつも心のどこかにわだかまりがありました。同時に日曜日の教会で聴く讃美歌に心が熱くなったり、学生の頃から楽しみに聴いている西洋音楽、特にJ・S・バッハの音楽の大部分が、彼の教会活動と密接に関係があることを認識するに従い、音楽を通してもキリスト教の世界を知り、親しみ、深める事ができるのでは、と思うようになりました。
 幸い、この教会には音楽が満ちあふれています。もっぱら聴くだけの音痴で、恥ずかしながら65歳にもなってやっと歩き始めた道です。神さまの助けと皆さまの指導により歩いて行きたいと思います。よろしくお願いいたします。

吉 川 貴 士
 私の父は12年前、この東京教会から神のもとに召されました。母と二人の妹も信者でここの教会のお世話になっています。
 このような環境にいながら、私はこと宗教に関しては、神社、寺院、教会での表面的且つ実用的な行事や儀式に、宗教的な背景なしにその便利さを享受するという極々平均的な日本人でありました。
 約30年前、ドイツの会社との合併会社を設立したとき、考え方の違いでぶつかることが多く苦労しました。このとき経験した契約の概念を初めとして、考え方の根底にあるものは、彼らが何代にも渉って染み付いているキリスト教の考えに基づいていることが分かったとき、キリスト教をかいま見た気がしました。
 会社を離れ、これまでとは全く違った分野の方々との交流をするようになり、また一昨年の長期に渉る病院生活で死を目の当たりにして、これからの生き方と人生の終焉をどう迎えるかを考えるようになりました。
 こうした折、私の身近にあったのはルーテル教会でした。一年間勉強してから洗礼を受けるつもりで2001年はスタートしました。ところがこの一年間何も勉強できていなかったため、今回は諦めようかと思っていたところ、内海牧師先生からこれから勉強すればよいとのお言葉を頂き、決心するに至りました。
 洗礼当日、非常な喜びと幸せを感じつつ、これから神と対面し、み心を一生かけて探求していこうとの決意を新たにしました。
 このような宗教的に未熟な私を受け入れて下さった教会の皆さまと牧師先生方、それになにより神に感謝いたします。

新しい問いかけ (その2)          白髭 義 (ルーテル神学校神学生)
 昨年の11月号で、長い社会人生活を経て牧師になろうとしている私が教会に貢献できることは何だろうかと書いてみた。そのことも含め教会の色々な方とお話ができればと考えていたが、学業が多忙でなかなか実現していない。けれども意外なことからヒントのようなものが与えられるようになっていった。
 牧会カウンセリングの授業があって、昨年秋から12月にかけてある施設を訪れ実地訓練を受けるということをしていた。東村山市にある多磨全生園(ぜんしょうえん)というハンセン病(らい)患者療養所である。入所者は、ハンセン病自体はすでに治癒しているが、後遺症とか併発の病気と闘っておられる。らいは日本ではほぼ根絶されているので新規の入所者はないので患者平均年齢は年々確実に高まり今では七十歳を越えている。
 ハンセン病が全治したからといってもここを出ていく人は誰もいない。出て独立の生活を始める自信も若さもなく、郷里や家族のもとに戻る道は厳しく閉ざされている。おそらく殆どの方がこの全生園で余生を送り続けるのではないだろうか。その患者さんたちを個々に訪問し話を聞かせていただくというのが私たち神学生に与えられた課題であった。紙面の都合上詳しいことは書けないのだが、深い感銘のうちにこのプログラムは終了した。
 他の二人の若い神学生よりは患者さんたちの年齢に近かった私は、比較的出てくる話題を理解しやすい立場にあったかもしれない。けれども楽観的なことばかり言ってはおられなかった。カウンセリングは表面的な会話のやりとりにだけ終始していてはならないからである。
 指導してくださった教授は、カウンセリングのポイントとして「傾聴」と「共感」ということを挙げられた。会話の進行の中で患者さんが表出される感情を全面的に受容し、それに共感しながら傾聴しなさいというものである。そして私にはこれがなかなかそのようには運ばない。そういう自分を発見するという体験をしたのである。
 自己の問題点を知るというのが今回の臨床体験の目的でもあった。そこから改善の課題も明らかになってきた。しかし肝心なのはここから先である。なぜならそのためには自分が変わらなければならないからである。示唆的だったのは、私の長年たずさわった職業の性格にも原因があるのではないかと指導教授に言われたことだった。
 私が実際に牧師の仕事を始める時には六十歳になっている。それでも宣教のために自分を変えてゆけるのであればなんと楽しみなことか。そういう心境が今私に訪れている。そのようなことをとおして教会のお役に立つ、そういうことでどうだろうと考える今日この頃である。

聖書アラカルト 30    
 ヨブ記32章に出てくる馬は、力の象徴です。実際、古代世界の中で、馬や戦車を使った戦術は、相手を圧倒するものでした。しかし、申命記17章に《王は馬を増やしてはならない》とあるように、旧約の民、イスラエルは、あえて馬を戦車を使わぬ戦いを続けてきました。《戦車の馬は、百頭を残して、そのほかはすべて腱を切ってしまった》というダビデ王の記事は、この時代までこの伝統が守られてきた、ことを意味します。残念ながら、その伝統は、息子たちによって次々と破られてしまい、ソロモン王に至っては《戦車用の馬の厩舎四万と騎兵一万二千》とまで、書かれるようになるのです。
 とは言うものの、この馬を用いない、というイスラエルの戦術は、カナンへの入植において、山側に勢力を張る、という一つの歴史を作り上げました。決定的に不利なはずの、馬を用いない用兵でも、坂や林、迂回路の多い山道では、逆に相手の騎馬隊を孤立させて戦う事ができます。後の時代でも、一見不利不可能と思われるような神の命令が、実は唯一の解決策だったりします。馬に頼らない、この生き方は、イスラエルにとっては、単なる言葉以上の意味を持っていたのです。
狂犬病ワクチンを送る会からの報告  高橋雄二
 送る会とネパールのNZFHRCによる飼い犬、コミュニティドッグ等に対する狂犬病ワクチンの予防接種は、昨年12月から今年3月まで、首都カトマンズを含むカトマンズ盆地内主要八都市で実施されます。今回、送る会からは7人が参加し、11月下旬から10日間、犬と猫にワクチンを打ち、その他に日本大使館訪問、バクダプル、バネパ両市町との会見等、短い滞在期間でしたがフルに活動しました。活動は各地で話題になり、新聞にも取り上げられ、またネパール政界からも注目されました。
 第1回目の活動は、生憎、ネパールは国家非常事態宣言下で、連日、毛沢東主義者と政府軍、警察との戦闘があり、いつ、どこで銃撃戦や爆弾テロが起きるか解らない状況でした。町中は軍隊の物々しい警戒で、本物の機関銃や装甲車なぞ見たことのない私たち日本人は少なからず緊張しました。しかし、ネパール側スタッフの熱意によって、そのような事態にも関わらず中断される事なく予定どおり行われました。まだ活動は継続中なので数字は集約されていませんが、1月現在2500匹は終了しているはずです。ネパールから狂犬病をなくす大きな一歩となりました。これも教会の皆さまのご支援のおかげと感謝しています。
カンボジアレポート 9  鎌田 頼子
はじめに― チョムリアップスー!みなさんお元気ですか。私は元気です。前回のお便りでお知らせしましたように、先月はバッタンバンでクリスマスを祝い、本当に楽しく、有意義な時を過ごすことができました。その後はプノンペンの事務所の中で過ごすことの多い日々でした。久しぶりに先生や近所の女の子からクメール語の授業を受けることができました。そして日本より、新しいレイミッショナリーである山崎敏子さんがカンボジアに到着いたしました。日本人スタッフ3名の共同生活が始まりました。 これからもJLMMカンボジアをよろしくお願いいたします。

* 1年が経とうとしている…カンボジアで生活し始めてから、そろそろ1年が経とうとしています。この間の日曜日、久しぶりにおしゃれをしようと思って、マーケットの小さなヘアサロンに出かけました。足の爪をきれいに形良く切ってもらって、ペディキュアをしてもらうためです。「足の爪切って、色を塗ってちょうだい!」とたどたどしいクメール語で頼みます。「まあお座りなさいよ。」とお店のお姉さん。どうやら彼女は、お店の主人の娘さんです。しばらく待たなければなりません。先客がいるのです。「待てるよね?」女主人と、先客は口をそろえて私に言いました。「うん、待てるよ。」「あなたってナニ人?」「日本人よ」「日本人なのにクメール語話すのね。」「少しだけどね」「どこに住んでるの?1ヶ月そこ借りていくらなの?お給料はいくら?誰と一緒に住んでるの?どんな仕事をやっているの?いつ日本に帰るの?…そうか、まだ結婚してないんだー。」等々。全く飽きることはありません。他のお客さんも来ました。「なあに、この人フィリピン人でしょ?」「違うわよ。この人は日本人なのよ。もう1年ぐらいカンボジアに住んでるんだってさ。」「そうなんだー。で、何やってるの?どこ住んでるの?…ふうん、手の爪は塗らないんだー。」ナドナド。こんな風にお店で過ごし、ペディキュアの代金は1000リエル(約0.25ドル)。あるバッタンバンの夜、ラチャナの代表を務めるシバナさんの息子、プッティとその友達にお食事に誘われたその帰り、彼らは私を滞在しているバッタンバンカトリック教会まで、バイクで送ってくれました。「星ってなんていうのだったっけ?」「プカーイ。」「今日の夜は、プカーイがきれいね。」と、私。他にもお互い話してみたり、聞いてみたりしたい事があるのでしょうけど、お互いきっとこんなことを考えています。「…とは、クメール語でなんていうんだろう。えーっと…。」「…と言ってもよりこはわかるだろうか。英語ではなんていえばいいんだっけ。えーっと…。」そんな時、聞こえるのはバイクのエンジンの音だけ。私はその静かな時の流れをふと感じ、今の私ってこんな風にいろいろなことを思ったり、願ったりしながら過ごしているのだな、とつくづく感じています。 またこれから1年後、私はどんな時を過ごしているのでしょうか。

 * ステンミエンチャイで―タマリンドウの葉を使って皮膚にたくさんの発疹のある子どもたちが、ステンミエンチャイにはいっぱい。どうしてこんなふうになってしまうのでしょうか。西洋医学の薬をたくさんほしがるのはカンボジアでは常識的ですが、「身近にあるもので、皮膚を清潔に保つこともお互い学ばないとね。」と、棚町さんとよく話しています。タマリンドウの木はカンボジアのいたるところに生えている木ですが、この葉を塩と一緒に2倍の水で、水が半分になるまで煮ます。その煮出し汁に患部を浸すと、患部が消毒され、治りが早いとのことです。棚町さんが中心となってタマリンドウの自然薬を早速みんなで作ってみることにしました。村を訪れて、数人の大人に協力を得ながら、準備をしました。子どもたちは「何をやっているんだろう?」と不思議そうに、そして興味津々です。さあできあがったよー。みんな楽しそうに、訳もわからず、ばしゃばしゃと手や足をタマリンドウのお湯で、沐浴しています。ある所では、身体中にたくさんの発疹を作りつつも、「寒い、寒い。」と言って、水浴びを嫌がっている子どもが現れました。お母さんも、サッチャー先生(われらのJLMMカンボジアローカルスタッフ)も、「これは温かいから大丈夫!」となだめて全身浴。今度は「熱い、熱い。」と言いながら泣き始めてしまいました。そんなに温度は高くないのですが、カンボジアの国の習慣ではなにしろ、お湯を使って身体を洗うことがほとんどないものですから、びっくりしてしまったのかもしれません。それとも、傷口がしみて痛かったのかもしれません。こんなことを今ステンミエンチャイで行っている所です。

―おわりに 昨年2001年のクリスマスに保土ヶ谷カトリック教会の渡邊裕成神父さんが送ってくださった言葉の中に「やみの中で輝く光に人々があずかることができますように。」とありました。その言葉が私の心の中に残り続けています。闇の中に輝く光があるということを信じて、それを探し求めていく者でありたいと思います。今回はとても短くまとまったお便りになりました。読みやすかったでしょうか?今ラチャナのカタログを編集中で、一日中事務所で過ごすことが多いのです。だから今は事務所の中の小さな出来事を味わうだけです。早く編集、印刷を終えて、バッタンバンに行って仕事をしたいです。今週の終わり19日から24日までプルサト州コンポンルアンに訪れる予定です。今度は新しいメンバー山崎敏子さんも一緒です。それではまた来月のお便りをお楽しみに!
チョムリアップ・リア!
☆ヘイズ夫人からのお手紙
 皆さまのご好意で積み立てられたロナルド・ヘイズ記念資金は、ペルーとブラジルの教会で行われている、次のような有意義なプロジェクトに、三等分して援助されました。この喜びを、皆さまと分かち合いたくて、これらの活動の概要を紹介したいのです。5月に訪日する予定なので、その時お会いできることを楽しみにしています。                  マリリン・ヘイズ

○三つの活動の概要
1.ウチュイ・ルナ(ペルー)
 クスコ地域で、ストリートチルドレンのための働きをしています。200人ほどの子供たちの保育、教育、医療など、更に、25〜30人のための養護施設も持っています。
2.ヴァソ・デ・ルーヘ(ペルー)
 ILEP(ペルーのルーテル教会)が主催する、緊急飢餓救済活動。この働きは、自分たちも犠牲者であり、飢餓を経験したペルー人信者によって運営されています。ILEPが料理のための設備を準備し、3箇所で日々百食を子供たちを中心に配付しています。
3.レコンキリアツィオン・ド・メノール (ブラジル)
 このプログラムは、ブラジルルーテル教会と協力して、いまやホームレスに近い、ストリートチルドレンたちのために活動しています。活動の場は、サンパウロの街中です。
・きずな句会
・役員会だより12月

※「きずな」は東京教会の広報誌です。詳しい内容をお知りになりたい方は、
電話メールなどで教会までお問合わせください。