【キリスト教入門講座】 73                                        2001.03.09

旧約の始まり(15)

 まず、ユダヤ教がいつ始まったと言えるのか、という事から話題にしていきます。もちろん、主なる神が天地を造られた時から、というファンダメンタルな説もあるのです。学説としては、、最も古く遡るものでも、モーセの時代まででしょう。この時初めて、神の言葉の律法という概念が生まれたのですから、律法宗教としてのユダヤ教の始まりにはふさわしい時期かもしれません。しかし、この時代には、まだユダヤという国家はないわけで、ユダヤ教の成立期というよりも、イスラエルの成立として考える方が良いでしょう。もっとも遅い時期に考える学者達は、紀元70年のユダヤ戦争におけるエルサレム陥落をその初めと見ます。確かに、ユダヤ暦といわれる暦が、この年を元年としていますから、根拠はあるわけです。しかし、この時代はむしろキリスト教とユダヤ教の分離の時代と考えて良いので、そういう意味では、ユダヤ教の成立はもっと古い時代に考えたいのです。そこで、大半の学者達が、バビロン捕囚の時代を、ユダヤ教の成立の時期とします。諸々の要素から、これがもっとも妥当な説だと思います。この時代に、律法を中心とする現在の宗教形態、そして、シナゴグや礼拝形式などが定まったのです。
 きょうは、このユダヤ教の成立、バビロン捕囚について考えていきます。次週からは、引き続き各書の概要に戻ります。

☆ バビロン捕囚に至るユダの歴史。
  兄弟国イスラエルがアッシリアによって最終的に滅ぼされた時のユダの王が、ヒゼキヤだったことは、前にも書きました。ヒゼキヤの父アハズがアッシリアの同盟者になっていたため、この時点でユダは滅亡をまぬかれます。しかし、属国的な立場に立たされたユダに、当然アッシリヤの神々が持ち込まれてきます。この状況に危惧を抱いたイザヤ、ミカら預言者集団は、北王国の災厄を、神に対する背信、契約を破る民への神の裁き、として強調し、ヒゼキヤ王を敬虔な愛国者として教育しなおしたのです。ヒゼキヤの宗教改革はこのような背景から生まれました。従って、理念としての改革は、この時ほぼ完全に準備されていたのです。改革の流れの中で、ヒゼキヤは、アッシリアのサルゴンが没したことに乗じて、反アッシリア同盟を組織し、その中心に君臨します。しかし、アッシリヤがシャルマナサルの下に再強化されると、この同盟も、改革も、共に崩壊していくのです。
 ヒゼキヤの子供のマナセは、状況の無理を受け入れ、アッシリヤと講和することを最優先にしました。再び、アッシリヤの宗教が神殿に入り込み、マナセ王は、積極的にこれを取り入れさえしたのです。しかし、マナセの子供、ヒゼキヤの孫である、ヨシヤが王位に着いた時に、アッシリアは崩壊寸前の状態でした。伸びるだけ伸びた国境線を維持するほどの力が残されていなかったからです。この機会を生かし、ヨシヤの宗教改革は、祖父の曳いた線に従って断行されました。皮肉なことに、宿敵アッシリアの滅亡が、ヨシヤの死を結果します。これを好機とパレスチナ侵略を開始するエジプトのファラオ(ネコU世)、阻止しようとしたユダ軍は壊滅し、ヨシアも戦死します。そして、この後、ユダはエジプトとバビロニアという二つの勢力のどちらかに支配されるという歴史を辿ります。最終的な亡国、バビロン捕囚はもはや避け難い運命でした。

☆ シナゴグの始まりと律法の整備。
  バビロンでのユダヤ人の待遇は、そんなに悪いものではありませんでした。もともと全員が連れ去られた訳ではなく、指導力のありそうな、貴族や宗教指導者を選んで連れて行ったので、バビロニアでもそれに相当する生活を保障してくれました。捕虜として扱うというよりも、各国各民族の指導者の中に、バビロニアに同調する勢力を作り上げることで、大帝国を維持しようという政策の下、強制的に呼び集められた者たちだったのです。バビロニアは軍事力でというより、文化の力で君臨しようと試みました。その文化的圧力に対抗するユダヤ側の手段が、律法の厳守であり、安息日のシナゴグでの礼拝だったのです。シナゴグは、初めは子供たちを教育するための場として提供されました。ユダヤ人教師たちは、その教育の基本に、律法教育を据えます。こうして教育現場で使われる中で、それまでかなり不備であった律法が、いまの形に整備されてくるのです。安息日には、シナゴグでの教育も本来休みのはずですが、その日に礼拝を行うことが習慣となりました。捕囚前までは、単なる祭儀宗教に過ぎなかったユダヤ教が、この時、近代的な経典宗教へと生まれ変わるのです。

☆ 捕囚からの帰還とユダヤ教の定着
 捕囚からの帰還は、第1次と第2次とに区別して考えなければなりません。第1次帰還の様子は、エズラ記、ネヘミヤ記の時代なので、次回に取り上げることにしますが、大きな問題として、イスラエルの純潔を守るために、雑婚を禁止したということ、神殿祭儀が再開された事の2つにだけ触れておきます。この2つは無関係ではなく、神殿祭儀を再開するに際してもっとも問題だったことは、異教的な影響や偶像の存在だったので、雑婚を禁止するという強引な方法をとってでも、その根を絶つ必要があったのです。ところで、第1次帰還からさらに半世紀近く遅れた第2次帰還のグループは、既に神殿が再構築されていたにも拘らず、神殿祭儀に復帰することを拒んだと見られます。彼らは、首都エルサレムから一定の距離をとって再入植し、各地にシナゴグ共同体を作り始めました。もちろんエルサレムの権威や、神殿への巡礼、神殿税などを拒否したわけではないのですが、神殿中心の祭儀とは違う宗教形態が、この頃からユダヤ各地、ガリラヤなどで見られ始めるのです。そして、この宗教活動は、反偶像ではなく、非偶像を基本としていたのです。