【キリスト教入門講座】 76 2001.03.30
旧約の始まり(18)
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箴言に《穴を掘る者は自分がそこに落ち/石を転がせばその石は自分に返ってくる》(二六章二七節)という諺が書かれています。日本で言えば、「天に唾するものは、...」というところでしょうが、まさにエステル記が愛読されている理由は、このわかりやすい勧善懲悪の筋立て、「穴を掘った」はずのハマンが逆に「そこに落ちてしまう」という粗筋にあるでしょう。ユダヤ人の人たちが民族的熱狂に駆られると、プリム祭が盛大に行われ、プリム祭が盛大なほど、愛国的ムードが盛り上がるという相関関係があるようです。 このエステル記が反映している時代は、ルツ記が書かれた時代とほぼ同じ時代、紀元前四八〇年頃、設定は、第一次帰還で帰らずにペルシャに残ったユダヤ人社会、ということです。物語が成立した時代も、ほぼ同時代といわれていますので、物語とは言いながら、ペルシャ支配の時代に、ユダヤ民族が置かれていた状況を類推する良い資料になります。 |
| 実は、エステル記には、「神」に関する記述が一箇所もありません。このため、旧約の正典が定められる過程で、最後まで問題となった書物の一つです。このエステル記には、姉妹編とも言えるギリシャ語版エステル記があり、こちらは外典に入っています。こちらの成立年代は、セレウコス朝支配の時代、黙示文学という特有の文学形式を取っています。エステルという名前と物語の設定が、外国人支配者の下で戦いを続けるユダヤ人たちの心の支えであったことは確かなようです。 ルツ記に続き、エステル記を見てきました。次週からは、預言書を見ていく予定です。 |
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☆ エステル記のアウトライン。
1.物語の発端(1章)
クセルクセス王の酒宴(1:1〜4)
王宮での7日間の酒宴(1:5〜11)
王妃ワシュティの不服従と処分(5:12〜22)
2.王の最初の命令(2〜3章)
代わりの王妃の探索(2:1〜5)
モルデカイとエステル(2:6〜11)
エステルの王妃選任(2:12〜18)
国王殺害の陰謀(2:19〜23)
3.ハマンとモルデカイの闘い(3〜5章)
ハマンとモルデカイ(3:1〜6)
ユダヤ人絶滅の陰謀(3:7〜15)
モルデカイのエステル説得(4章)
エステルの招待・第一夜(5:1〜8)
モルデカイ処刑の準備(5:9〜14)
4.分岐点(6:1〜11)
5.モルデカイの勝利(6:12〜7:10)
ハマンの失望(6:12〜14)
第二夜とハマンの失脚・処刑(7:1〜10)
6.王の第二の命令(8章)
ハマンの家の跡始末(8:1〜2)
ユダヤ人の防衛と報復の勅許(8:3〜17)
ユダヤ人による報復(9:1〜15)
7.物語の結び(9〜10章)
報復とプリム祭のつながり(9:1〜28)
プリム祭の規定(9:29〜32)
モルデカイの栄誉(10章)
☆ エステル記に見られる捕囚後の時代。
エステル記が書かれた時代がいつにせよ、そこで描かれている時代は、キュロス王の帰還命令と、エズラ、ネヘミヤの間の時代です。この時代、多くのユダヤ人は、故国に帰らず、ペルシャというこの新しい世界の中で、広がり活躍をしていたと言えるのです。わたしたちは、とかくユダヤ本国の事情のほうを本流であるとして、帰らなかったユダヤ人たちの歴史を軽く見る傾向があります。しかし、後のローマ支配化の時代、ヘレニズムと呼ばれる文化圏に広がっていったユダヤ人たち、ディアスポラと呼ばれる彼らが、その時代に急に現れたわけではないのです。また、バビロニア・タルムードという存在に端的に表わされるように、エルサレム陥落後のユダヤ教の中心は、バビロニアに移ります。そのバビロニアには、捕囚として連れて行かれ、第1次帰還でも第2時帰還でもパレスチナに戻らなかったユダヤ人たちが残っていたわけで、この人たちが戦後のユダヤ教再興運動と無関係とは考えられません。そこで、この時代、この人々を唯一語ってくれている、旧約の書物、エステル記の意味は大きいのです。
エステル記の中には、他国民の怨嗟の的になる、あるいは、収奪の目的となる程度の富を積み重ねたユダヤ人たちが登場します。また、王の命令が各州ごとに、各民族ごとに、と書かれている所から、ペルシャ帝国内のあらゆる地域でユダヤ人が成功していた様子がうかがえます。と同時に、彼らの頑固なまでの宗教へのこだわりが、(モルデカイの礼をしなかったというのもその意味ではないかと言われています)周りの諸国民と摩擦を起こしていたようです。この周辺との緊張関係の中から、ユダヤ教は現在の形を取り、またキリスト教も生まれてきたと言えるのです。
☆ ユダヤ人気質とプリム祭
くじのことをアッカド語で「プル」(pur)と言います。この言葉はエステル記第3章7節にも、くじ引きの場面で使われています。《それゆえ、この両日はプルにちなんで、プリムと呼ばれる(プリムは複数形)》(9:26)、これがプリム祭の由来です。聖書の記述どおりプリム祭は、アダルの月の14日に行われますが、暦の誤差のため移動祝日になっています(イースターと同じ)。現行歴では2〜3月の間に祝われ、ちなみに、2000年は3月20日、21日、2001年は3月2日、3日でした。湾岸戦争が停戦した日がちょうど1992年のプリム祭の日だった、ということもあります。プリム祭は、シオニズム運動の盛んであった時代には、国威発揚のための祝日という色合いを帯びたこともあります。しかし、本来は、その前日のエステルの断食日と合わせて、悲しみの後の喜び、不幸の後の幸いを手放しで喜ぶ、賑やかな祝日です。この日には、「エステル記」を朗読し、貧しい人に施しをして、贈り物を交換し、そして何よりも、できる限り大掛かりな宴会を開くのです。《悩みが喜びに...変わった》(9:22)というその喜びを表現するのに、タルムードは「めちゃくちゃに酔っぱらいなさい」とまで書いています。普段は飲食に控えめなユダヤ人たちが、民族の解放と救いを祝って羽目を外して楽しむのです。《その地の民族にもユダヤ人になろうとする者が多く出た》(8:17)という記述は、意味や状況は変わっても、いまでも生きているのです。