【キリスト教入門講座】 79                                        2001.05.11

旧約の始まり(21)

 《それは、ヨヤキン王が捕囚となって第五年の、その月の五日のことであった/カルデアの地ケバル川の河畔で、主の言葉が祭司ブジの子エゼキエルに臨み、また、主の御手が彼の上に臨んだ》(エゼキエル一章二節以下)とあるように、エゼキエルという預言者の召命は、極めて厳密に計算することができる。ヨヤキン王は第一次捕囚でバビロンに連れていかれました。《彼はヨヤキンを捕囚としてバビロンに連れ去り、その王の母、王妃たち、宦官たち、国の有力者たちも、捕囚としてエルサレムからバビロンに行かせた》(列王記二四章一五節)と記録されているこの事件は、紀元前五九八年のことです。そこで、エゼキエルの召命は、紀元前五九三年のことだと分かります。また《第二十七年の一月一日に、主の言葉がわたしに臨んだ》(二九章一七節)と書かれている事から、少なくとも二十二年間は預言者として活動を続けたことが分かります。エレミヤほどではないがその足跡の明確な預言者の一人です。
 エゼキエルという名前は、「神が強くされる」という意味を持ちます。『先祖が酢いぶどうを食べれば/子孫の歯が浮く』という格言にまつわる対話(一八章)の場面は、責任のない第三者あるいは犠牲者としての立場から、自分が民の罪を引き受けていく、という新しい自覚への大きな転換を記録しています。そして、これもまた、エゼキエル自身がなしえたことではなく、ひたすら神によってもたらされた新しい心、新しい霊の働きによるものなのです。エゼキエル書には《主の言葉がわたしに臨んだ》が四十六回、《そのとき、彼らは、わたしが主であることを知るようになる》が十八回使われている等、徹底的な神中心の思想が見られます。民が自ら悔改めて救われるのではなく、神ご自身が民に霊と心を与えて回復される、これがエゼキエルの中心的使信であり、語られた希望だったのです。
 今回は、捕囚の時代に語り続けた預言者エゼキエルを見ていきます。次回は、第二イザヤを見ていく予定です。

☆ エゼキエル書のアウトライン。
  1.エゼキエルの召命(1〜5章)
   召命のとき(1〜2章)
   象徴的行為による応答(3〜5章)   
  2.ユダ、エルサレムの告発(6〜12章)
   偶像礼拝という罪の実態(6〜8章)
   エルサレムへの裁き(9〜11章)
   捕囚のしるしによる告発(12章)
   
この中11章には、ペラトヤによる非常に具体的な殺人の罪の告発が含まれています。
  3.イスラエルの歴史と罪(13〜24章) 
   この部分は、イスラエルの歴史の回顧と、それにまつわる厳しい預言、および折々触れられる含蓄のある譬話によって
   構成されている、ひとかたまりの物語部分です。
   ここに、役に立たぬぶどうの譬(15章)、2羽のワシとぶどうの木の譬(17章)、『先祖が酢いぶどうを食べれば子孫の
   歯が浮く』という諺(18:2)、オホラとオホリバの譬(23章)等が含まれている。また、エゼキエルの妻の死が、エルサ
   レムの滅亡の出来事と二重写しに印象的に語られています。
  4.諸国民への審判(46〜51章)  
   近隣の国々へ(25章)
   フェニキアの都市たちへ(26〜28章)
   エジプトへの審判(29〜32章)
   ただし、エレミヤの召命(1:4-10)、陶工の家での啓示(18:1-12)、未来の王(23:1-8)等を含みます。
  5.イスラエルの回復(33〜39章)
   見張りとしての役割(33章)
   約束の言葉(34〜36章)
   枯れた骨の復活(37章)
   マゴグのゴグへの裁き(38〜39章)
  6.エレミヤに関する歴史的補遺(52章)
   この部分では、新しい神殿の幻を中心に、神聖国家の将来展望が語られます。47章以下では、水が清められることを
   通して、新しい嗣業の割り当ても行われます。

☆ 預言者エゼキエルの時代。
  一章3節の《祭司ブジの子エゼキエル》という表現からいろいろなことが分かります。まず、この召命の時点で、父ブジが存命であり、在職中であったこと、エゼキエル自身は見習という程度の年齢の若者であったことなどが分かります。また、祭司階級であったエゼキエルが、預言者としての召命を受けることにより、人々を指導し教え導くという役割をもちます。その活動中にエルサレム神殿の崩壊という出来事(前587年)に出会うのですが、等しく祭司階級を襲った絶望から、一部の祭司達が速やかに抜け出し、律法の護持者、民の教育者としての立場を確立していく上で、この祭司出身の預言者エゼキエルの存在は大きかったのです。
 捕囚以前のエルサレムでの祭祀は、あくまでも犠牲の儀式中心のものでした。ヒゼキヤ、ヨシヤの改革を経過して、さすがに神殿から偶像は排除されましたが、偶像を求める心は相も変わらず続いていました。8〜9章で表現されている偶像礼拝は、表面的には、立派なヤーウェ宗教の仮面をかぶりながら、厚い壁の内側に偶像を閉じ込めている、というこの時代の心象風景を表現しています。犠牲が中心である以上、祭司の職務も、犠牲を通じて神と民の仲立ちをする者、しかも改革後は地方聖所は否定されていたので、その形式を保存するものとしての存在意義しか祭司達にはなかったのです。それでも伝統的に彼らは指導者です。エルサレム神殿の完全崩壊(これで犠牲があげられなくなります)後は、祭司としての職務の決定的な変化を必要としていました。エゼキエルはその模範でもあったのです。律法とシナゴグと教師(ラビ)この三つが揃った時期をユダヤ教の成立期と見ます。まさにエゼキエルの活動を通して、捕囚期に、ユダヤ教が成立していったのです。

☆ 枯れた骨という使信を通じて
  《谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた》37章にある、「枯れた骨」と呼ばれる、エゼキエルの見たヴィジョンです。この骨の群はイスラエルの現状を表し、すなわち絶望することしかできない現在を表現しています。《これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる/見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む/すると、お前たちは生き返る》この神からの励ましを受け、エゼキエルが骨に預言すると、《音がした/見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた/わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った》しかし、これらの骨は生き返ったとはまだ言えなかった、霊が含まれていなかったからです。人は命の息を吹き込まれて始めて生きるものとなる、そこで、エゼキエルは今度は《霊よ、四方から吹き来れ》と預言することになります。《わたしは命じられたように預言した/すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った/彼らは非常に大きな集団となった》、これは実に壮大な命のヴィジョンです。ヘブライ語の霊という言葉は、同時に、息でもあり、風でもあります。この三つの意味を重ね合わせながら、絶望するしかない民に、神だけが与えることのできる新しい命という、希望を語っていくのです。人にはできない、しかし神にはできる、このことがエゼキエルの預言全体を通して語られる、神の主体的な救済の使信なのです。