日米安保体制の国から日本国憲法体制の国へ


−−陵ケ岡・鏡山地域の三人よれば学習会(2006.11.17)−−


 2006年11月17日(金)、月例の陵ケ岡・鏡山地域の平和学習会が行われました。今年はシリーズで「平和新聞」に掲載されていた「憲法講座」をテキストに学習を進めています。

 今回は「第10回〜12回 日本国憲法のあゆみ」を学習しました。

 最初にテキストを読み合わせて、その後自由討議を行いました。

 学習では、次のようなことを学びました。

◆第10回◆ 日本国憲法のあゆみ(1)  自衛隊創設の頃

憲法9条の体制は、一切の軍備を持たないことでスタートしました。しかし、この体制は、朝鮮戦争の勃発にともなうマッカーサーの指令による警察予備隊の創設(1950年)、占領の終結と同時にアメリカと結んだ安保条約(1952年発効)、自衛隊の創設(1954年)によって、次々と変えられていくことになります。

 自衛隊の創設の頃には、政府は、「憲法九条は、自衛権を持つことを認めている。自衛のための実力部隊を設けることは、憲法に違反しない」という新しい9条解釈を持ち出してきます。

  1950年代の半ばは、改憲論がにぎやかに展開された時期でした。この頃の改憲論は、自主防衛、天皇の元首化、家族の保護、国家に対する国民の忠誠義務、参議院への間接選挙制の導入など、9条をかえるだけでなく戦後改革の成果である民主主義、人権尊重を否定しようとする復古的な内容のものでした。

 当時は、警察の中央集権化、教育委員の公選制の廃止、靖国神社国営化の動きなどが進められた時期でした。

 こうして押し寄せる改憲の荒波を阻んだのは、当時の国民による平和と民主主義を守る運動です。平和委員会の前進である「日本平和を守る会」も時期を前後してこのころに結成されています(1949年)。

 こうした運動が取り組まれたことによって、創設された自衛隊もあくまでも「国防」を目的とするものであり、「海外出動はしない」(1954年6月2日参議院決議)とされ、「集団的自衛権は違憲」という政府答弁もなされたのでした(同年6月3日)。

 そして、1955年の衆議院選挙、56年の参議院選挙で、憲法「改正」に反対する社会党・共産党などの革新派議員が3分の1を確保し、当時、鳩山内閣が改憲のために画策していた衆議院に小選挙区制を導入する法案も審議未了、廃案になるなど、明文改憲への動きは阻止されたのです。

◆第11回◆ 日本国憲法のあゆみ(2)  二つの安保条約

 1951年9月8日、サンフランシスコ講和条約と同じ日にアメリカとの間でこっそりと結ばれた旧安保条約(1952年4月28日発効)は、日本がアメリカに対して一方的に義務を負うものでした。
 @米軍の日本駐留を受け入れながら、米軍には日本防衛の義務はない、
 A米軍は日本国内の治安維持のためにも出動することがある、
 B米軍の「極東」における軍事行動によって日本が戦乱に巻き込まれる危険性がある、
 C同条約にもとづいて駐留する米軍の地位に関する協定は、国会の承認にかけられず、その内容は国家主権や国民の人権を大きく制約するものであった、
というのがその主な内容です。

 全国で2000ともいわれる安保改定反対の組織が結成され、集会、デモ、ストライキ、署名運動、請願運動などが取り組まれました。結果としては安保条約は改定されましたが、こうした国民の取り組みは、随所にその「刻印」を条約の中に残しています。
 たとえば、アメリカの日本防衛義務を明確化した5条は、「日本の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃」があった場合に、日米の「共同防衛」を限定しました。これは、「集団的自衛は違憲」という自衛隊創設以来の政府の9条解釈を引きずったものです。
 また、6条は、「極東における国際の平和と安全の維持に寄与」することを米軍の駐留目的に含めていますが、この「極東」がどこまでを意味するのかが、安保改定の時の国会で問題とされました。結局、これは、「大体において、フィリピン以北並びに日本及びその周辺であって、韓国及び中華民国(今の台湾)の支配下にある地域」とされ、ふつう地理的にいう「極東」の範囲よりもはるかに狭い領域になっています。

第12回◆  日本国憲法のあゆみ(3)  有事立法を遅らせた1970‐80年代

 1960年代以降、明文の改憲の動きは影をひそめ、憲法解釈の変更によって、憲法の趣旨をねじ曲げる路線、「解釈改憲」路線が主流となります。こうした路線を政府がとらざるを得なかった背景にも、国民の平和憲法擁護の声が潜んでいるのです。

 1963年に自衛隊のなかで極秘裏に行われた「三矢研究」があります。そこでは、朝鮮有事をきっかけに情勢が緊迫するなか、臨時国会が招集され二週間で87本の法律が一挙に制定されるという「シナリオ」まで描かれていました。こんな内容の極秘資料が、1965年の国会で社会党議員によって暴露されました。佐藤栄作首相(当時)は、「かような事態が政府が知らないうちに進行しているとは、ゆゆしきこと」と答弁せざるをえず、関係者も処分されました。

 1978年、自衛隊の栗栖弘臣統幕議長が、「法律がなければ、自衛隊は有事に超法規的措置をとるしかない」という物騒な発言をして、金丸信防衛庁長官(当時)に解任されます。しかし、この時以降、有事立法の研究は、政府の責任で進められていくことになります。

 こうした動きを通じて虎視たんたん狙われてきた有事立法は、結局、2003年と04年の国会になってかなりの部分が整備されていくことになります。

◆話し合いの中で◆

 話し合いの中で次のようなことが話題になりました。

○日本には「日本国憲法体制」と「日米安保体制」がある。タテマエは「憲法」だが、実質は「安保」で、いままではそれでごまかしてきたが、それができなくなって、日本を全面的に「日米安保体制」にしようとしている。しかし、法的には条約よりも憲法が上位なのだから、本当の意味で「日本国憲法体制」にしなくてはいけない。

○日本の自衛隊(軍隊)は何故海外進出をしようとしているのか。やはり、グローバル化した日本の大企業の活動を抜きにしては考えられない。企業と軍隊が進出してきたら、現地の人がどう思うかは明らかだ。

○戦後の政治をめぐる動きは、護憲派と改憲派のたたかいの中で進んできた。60年安保闘争でも一見「負けた」ように見えるけれど、運動の結果で防いでいる面もあるということもよく見ていかなければならない。

○今の国民は、「キレる」はあっても「怒る」はない。国民の怒りのエネルギーをどう、おおもとの原因のところに向けていくかが課題だ。

 次回は12月15日(金)に学習会を行う予定です。 【A】