第二回「山科・戦争の爪痕」を訪ねて


忠魂碑・慰霊碑・墓地などをまわる (坂上田村麻呂公園・三之宮神社等)



坂上田村麻呂公園の忠魂碑


日 時 2008年8月17日(日)午前9時30分〜午後1時

コース

 地下鉄小野駅−勧修寺−坂上田村麻呂公園−山科川(花山天文台を望む)−東野・三之宮神社−西野・墓地−(昼食・懇談)−現地解散


主 催 革新・山科の会、山科平和を守る会、「山科・戦争の爪痕」調査ワーキンググループ(山科戦跡会)


勧修寺の入口


(1)勧修寺仁王堂町・勧修寺

 勧修寺(かじゅうじ)は、安朱・毘沙門堂、小野・随心院と共に山科に3つある門跡寺院の一つです。

 開基(創立者)は醍醐天皇で本尊は千手観音、皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院です。寺名は「かんしゅうじ」「かんじゅじ」などとも読まれることがありますが、寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としています。一方、地名の「勧修寺○○町」という地名の「勧修寺」の読み方は「かんしゅうじ」となっています。

 『勧修寺縁起』等によれば、900(昌泰3)年、醍醐天皇が若くして死去した生母藤原胤子(ふじわらのいんし(たねこ)の追善のため、胤子の祖父にあたる宮道弥益(みやじいやます)の邸宅跡を寺に改めたもので、胤子の同母兄弟である右大臣藤原定方に命じて造立させたといいます。胤子の父(醍醐の外祖父)藤原高藤の諡号(しごう)をとって勧修寺と号しました。

 宮道弥益は当時の山城国宇治郡(現・京都市山科区)の大領(郡司)でした。弥益の娘・宮道列子(みやじのれっし(たまこ)は藤原北家の流れを汲む内大臣藤原高藤に嫁ぎ、生まれたのが宇多天皇女御・醍醐天皇生母となった胤子(たねこ)です。高藤の流れを汲む家系を、寺名にちなんで「勧修寺流」と言うそうです。なお、高藤と列子のロマンスについては『今昔物語集』に説話が残されています。


藤原高藤と宮道列子に関する説話(『今昔物語』)

 平安時代、藤原北家の流れを汲む藤原高藤は、鷹狩が趣味でしが、ある時、鷹狩のため南山階(みなみやましな、京都市山科区)に来ていたのですが、あいにく雨にあい、雨宿りのためたまたま通りがかった宮道弥益の屋敷を訪れました。勧められるままに弥益の邸に一泊した高藤は、弥益の娘(列子:れっし(たまこ)に一目ぼれし、一夜の契りを結びました。
 その後、高藤と列子は長らく音信不通でしたが、6年後に、高藤はようやく列子と再会することができました。すると列子には娘がいて、その娘は6年前、高藤との一夜の契りで宿した子どもだったのです。そして、列子は親子とも藤原高藤に迎えられます。この娘こそが後に宇多天皇の女御となり、醍醐天皇の生母ともなった藤原胤子だったのです。


勧修寺宸殿(しんでん)


この勧修寺の宸殿(しんでん)には、さまざまな歴史があります。そもそもは、1697(元禄10)年に明正天皇から御所のの旧殿をもらい移築したものと言われています。入母屋造、桟瓦葺き、内部は書院造となっています。

 また、明治の始め学制施行により、この宸殿を使って1872(明治5)年2月5日に山科区では初めての小学校(勧修小学校)が開校しました。(別に9月28日開校説もあり山階校が最初との説もある)。

 また、太平洋戦争当時は、伏見にあった国立病院の分院となり、特攻兵や戦病者の治療が行われた所でもあるという話もありますので、訪れてみました。


坂上田村麻呂墓


(2)勧修寺東栗栖野町・坂上田村麻呂墓

 坂上田村麻呂は、801(延暦20)年、当時の蝦夷地を平定するため初の征夷大将軍に任命され、陸奥に出兵し、801年に蝦夷を制圧しました。そして、802年に胆沢城、803年に志波城を築き、陸奥の支配権を確立します。

 また都においても810(弘仁元)年の「薬子の変(藤原薬子・仲成らが平城天皇の復位をもくろんだが失敗に終わる)」では平城上皇の脱出を阻止し、変を鎮圧しました。

 また、坂上田村麻呂は、仏教の信仰も深かったようで、牛尾山法厳寺(牛尾観音)との関係も深く、清水寺を創建したことも有名です。

 平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生み、また太平洋戦争の戦時中は、「武の坂上田村麻呂は、文の菅原道真を超越する最高最強の軍神」とされていました。

 坂上田村麻呂は、54歳で死去。「この地で葬儀が営まれ、嵯峨天皇の勅によって、鎧、兜、弓矢、刀を付け平安京に向かって立ったまま葬られた」とされ、この墓地が、1895(明治28)の平安遷都1100年祭に際し、整備されました。

 そして、戦時中は山科区の4小学校(山階・勧修・鏡山・音羽)の児童・生徒が毎年参拝することになり、「軍神」にあやかって「必勝祈願」を祈りました。小さい子ども達が往復を歩いて、一日がかりの「参拝」でした。こうして「戦意高揚」が図られていったのです。

 山科では、この「坂上田村麻呂墓」のほかにあと「天智天皇陵」「大石神社」が参拝の対象となっていました。

 しかし、最近、京都大学准教授の吉川真司氏が、「清水寺縁起」の中の「太政官符」の表題に記された内容から田村麻呂の本当の墓は、1919(大正8)年に偶然発見された「西野山古墓」であることを発表しています。


坂上田村麻呂公園・忠魂碑


(3)坂上田村麻呂公園・「忠魂碑」

 坂上田村麻呂公園にある「忠魂碑」は、「陸軍中将 松井兵三郎謹書」とあり、1932(昭和7)年10月に「帝国在郷軍人会山科勧修分会」により建立されたと記されています。

 「陸軍中将 松井兵三郎」という人は、旧陸軍の第16師団(京都師団)の師団長を1927(昭和2)年3月5日から1930(昭和5)年8月1日まで勤めた人で、この地とも深い関係があったのではないでしょうか。

 詳細はわかりませんが、この前で「学区葬」や「必勝祈願」が行われたであろうことは容易に見て取れます。

 また、石碑裏面には「合祀 日清日露戦争 支那事変 大東亜戦争 戦没殉国英魂 昭和三十年三月」ともあり、戦後になって追加されたものと思われます。

 戦争当時の山科で、こうした「忠魂碑」は他にはなかったのでしょうか。現在確認されているものには、山階校内にあったという記録がありますが、他の詳細は現時点では不明です。


山科川からの望む花山天文台


(4)山科川から見える京都大学花山天文台

 坂の上田村麻呂公園から山科川に沿って三之宮神社に行く途中に「京都大学花山天文台」を眺めることができる場所があります。

 資料によれば、1945(昭和20)年7月の段階では空襲に備えて北花山天文台付近に「高射砲部隊」が配置されていたという(小林啓治・鈴木哲也『かくされた空襲と原爆』機関紙共同出版、一九九三年・五十七ページ)記事があります。

 また地元の方も実際にこの高射砲の音を聞いておられます。


 「それは遠い遠い昔、私がまだ小学校、いや国民学校六年生の、初夏のよく晴れた日の事だった。山階国民学校のサイレンが、「プアー」「プアー」「プアー」と、断続的に大声で叫び声を上げた。空襲警報発令である。やがて山科の南の空から、米軍の爆撃機B29の大編隊が、大轟音と共に低空で現れた。その数、数百機、いや、新聞報道では千機以上と報道された。日本空襲の初めの頃は、戦闘機による反撃や、高射砲による反撃を恐れて、一万メートル以上の高度で飛行してきた。その為、白い飛行機雲を引きながら飛んでいた。青空に真白い飛行機雲、生まれて始めて見る美しさに、子供心に感動したものである。戦況は、すでに沖縄は米軍に上陸占領され、本土決戦も間近と囁かれていた。B29が来襲しても、日本の戦闘機は一機も飛ばない。高射砲の迎撃すらない。

 ある時、花山天文台から高射砲が発射された。「ポン」「ポン」「ポン」。砲弾は、B29のはるか下で炸裂していた。その破片が厨子奥にも落ちてきた。警察官が来て、その破片を回収していった。ああ、情けない。

 B29は、潮岬を目標にし、紀伊水道を北上して、神戸、大阪を爆撃して、琵琶湖を目標にして帰路についていた。そのため、山科上空は通路となり、この日も「ゴオー」「ゴオー」と、轟音を轟かせて飛んで行く。私達は、防空壕に入り、時々空を見ていた。先頭の飛行機が北の空に消えても、まだ南の空から涌いてくるように、B29が飛んで来る。・・・(後略)」
(全日本年金者組合京都府本部・山科支部「やましな」186号、8ページ)より


東野にある三之宮神社


(5)東野にある三之宮神社

 三之宮神社の由緒書きによれば、醍醐天皇の延喜年中(901〜922)に本社殿を建立し、のち醍醐天皇をも合祀。その後はなはだしく退廃したが、後小松天皇(1392〜1412)の勅によって再興されたとあります。

 また後水尾天皇により1613(慶長18)年に社殿を改築し、1623(元和9)年勅願所の綸旨によって「三之宮」と称するようになり、明治に至るまで、「毎年宮中より神供米一石を下賜されていた」とあります。

 また、後小松天皇が奉納した大般若経六百巻も現在に伝わっています。

 この「大般若経」は山科各郷の「転読会」を通じて中世の山科七郷のまとまりのきっかけになったと言われています。

 「三ノ宮」は別説に「一ノ宮=岩屋神社」「二ノ宮=山科神社」「三ノ宮=三之宮神社」「四ノ宮=諸羽神社」との説もあり、山科の各神社との関係をうかがい知ることができます。

 境内には、「区民誇りの木」などもあり、南側は東野公園(元山科刑務所の畑があった)や東部文化会館などがあります。


三之宮神社の慰霊碑


(6)三之宮神社の慰霊碑

 三之宮神社にある戦没者慰霊碑は、1995(平成7)年8月15日に建立されたものです。

 慰霊碑建立趣意書には次のように書かれています。

 昭和十二年七月支那事変が勃発し 其の後大東亜戦争の終焉に至る間 我が国の陸海空三軍の将兵は 国家の存亡をかけ アジアの安定と解放のために 愛する肉親と郷関に思いを残し 熾烈極まりなき戦場において 悪戦苦闘の果て 自らの尊い生命を国家に捧げ散華された  私達は 戦後五十年の節目にあたり 祖国の防人として今日の平和と繁栄の礎となられた当村出身の多くの戦没者に対して 謹んで哀悼の意を表し その遺徳を顕彰すると共に そのご冥福をお祈りするために この碑を建立し 常しえの平和を御誓いするものであります  願わくば 英霊よ 安らかに御鎮まりください

西野離宮町にある墓地


(7)西野離宮町にある墓地

 日本の墓地には、必ずと言って良いほど、戦没者の墓石が見られます。山科の各墓地も同様です。

 私たちは、「第二回『山科・戦争の爪痕』を訪ねて」の最後に、山科南団地の南側から国道 一号線に至る一帯に広がる西野離宮町の墓地にあるお墓におまいりしました。

 戦没者のお墓は、他のお墓よりも背が高く、先が尖っているのですぐにわかります。

 普通、墓石の正面には戒名などが書かれていますが、戦没者の墓石には「故 陸軍兵長 ○○○○之墓」などと実名で書かれていることが多く、中には「勲○等」と書かれているものもあります。

 また側面などには「昭和○○年○月、○○にて戦死」など戦死した時のことが書かれているものもあり、当時の状況をうかがい知ることができます。

   山科からも、こうして多くの人々が戦場にかり出され、尊い命を失っていったということがわかります。



(8)地元から提供された戦争の頃の山科の写真紹介(略)