山科・平和運動のあゆみ(1)

山科平和を守る会結成前夜−−「ふたば会」「みどり会」の頃


 1954年3月1日、アメリカがビキニ環礁で水爆実験をしたのを皮切りに、核保有国による核実験が次ぎ次に行われました。そんな中で唯一の被爆国である日本で、核兵器の廃絶を求める署名活動が始まり、日本平和委員会や日本原水協などが結成され、1955年には、第1回原水爆禁止世界大会が開催されました。こうして日本でも本格的な平和運動がわき起こってきたのです。

 このような全国的な状況の中で、当時、京都大学の物理学教授であった四手井綱彦先生を中心として、何人かのメンバーによる話し合いのグループが生まれました。このグループこそが、山科における平和運動の最初の種子となったのです。

 このグループは、改まった結成の集会を行ったこともない、ごく自然にできあがったグループでした。このグループの人たちは、この一粒の種がやがては芽を吹き、すくすくと育って立派な一本立ちの木に成長することを願って、「ふたば会」という名前をつけたのでした。そして、地道な学習活動を積み重ねながら、仲間づくりに取り組み始めたのでした。

 山科で一粒の種として発足した「ふたば会」は、やがて仲間も増え、活動も進む中で、「いつまでも双葉でもあるまい」ということで、グループの名称を「みどり会」とすることになりました。

 「みどり会」は、思想・信条・政党・政派を超えた。誰でもが自由に参加できるグループであることを大切にしながら、時には京都平和委員会から講師を招いて学習会をしたり、原水爆禁止世界大会への代表派遣を視野に入れての運動にも取り組むようにもなりました。こうした運動には、山科から保守・革新の枠を超えて多様な人たちが加わるようになってきました。

 こうした学習や運動の経験を通して、「みどり会」の中では「山科の地域組織であるだけでは十分でなく、全国組織への加盟ということが必要なのではないか」という議論が起こり、それが「山科平和を守る会(山科平和委員会)設立」の取り組みへと発展したのです。

 山科平和を守る会(山科平和委員会)設立への取り組みは、他団体・個人の参加や協力ももちろんありましたが、その設立運動の中心を担ったのが、この「みどり会」だったのです。

 山科の地に、一粒の種が蒔かれ、やがて双葉が生まれ、学習などの地道な活動が肥料となり、すくすくと育って緑の葉をつけ、山科平和を守る会(山科平和委員会)という平和の樹の幹となり、枝となったとう歴史を記憶にとどめたいと思います。

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