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重要な人物だったりするのだが、彼氏とはいえない。なんとも定義できない関係。 周りにもそういう人たちが、わりといる。親子かと思うぐらい深い愛情を注いでいるのに、表向きには友だちとしか言いようのない関係がある。 むしろそういう人たちのやりとりの方に、一般につき合っているという関係の人たちのやりとりと比べて、重みを感じることがある。 昨日たまたま、ちょっと有名なクリエーターの女の人に会った。その人は、もと夫の苗字をいまだに使っていて、もと夫と一緒にまだ会社を経営していた。苗字を戻さないのは、その女性が世間に売れてしまった頃の名前が、もと夫の苗字だったから、いまさらめんどくさいということだ。 「向田邦子の恋文」という本を読んだ。向田邦子は、妻子持ちで10歳以上年上のカメラマンと恋愛していて、そのことをほとんどだれにも言わなかった。秘密を抱えたまま、飛行機事故で死んだ。 来週、弟が結婚する。皆に祝福される関係は、単純にすばらしいと思う。
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紀香は女ながらにして、英雄の器を持っている。日韓親善大使になったり、アフガニスタンに行ったりすることが、あれほどはまる女性タレントは他にいないだろう。紀香自身、阪神大震災で地元が被災したことが、そういう活動の原動力になっているらしい。 そこで、藤原紀香を1000ポイントとしたときの、男女問わず有名人の英雄っぽさを独断でポイントしてみた。ピックアップしたのは、何らかの形で「国民的」な人気を博したり、社会活動に絡んだりした人だ。 <英雄っぽさの度合い> SMAPのメンバーで最も英雄っぽさが高いのは香取慎吾だ。日本の子どもたちに明るい未来をもたらす、天性の英雄資質を持っている。 あくまでも私の勝手な感覚でポイントしているので、あまりつっこまれると困る。
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・加納典明(写真家) 理由を考えてみた。おそらく、その無防備さ、そして潔さが、エロチシズムを感じさせるのだろう。その証拠に、 ・サンプラザ中野(歌手?) には、感じない。なぜか。サングラスをかけていることで、無防備ではないからだ。頭は裸なのに目は隠したいというスタンス。潔くないのだ。 しかし、サングラスをかけてしまう気持はわかる気がする。人は、スーツなり制服なり、サングラスなり帽子なり、何か自分を守っておくフィルターがほしいのだ。 「ありのままの自分」でいるつもりでも、過去の経験とか知識とか、見栄とか焦りとか不安とか、ついいろんなもので塗り固めてしまうのが人間だ。いったい自分の本音はなんなのか。人の本質はなんなのか。なかなか、その根っこに行き着くことができない。 そんな感じだから、「飾らない」ことの象徴として、ハゲをみるとどきっとするのだろう。 ということで、エロチシズムとは「心を見透かされる感」なのかもしれない。ハゲあるいは坊主の人がそこら中にうじゃうじゃいたら、世の中、かなり落ち着かないだろう。
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昔、秋元康が書いた文章の中に、「ある女友達は電車やバスに乗ると必ず、『この中で、キスしてもいいのは、この人と、ぎりぎりでこの人』と想像して、一人で楽しんでいる」という話があった。 なかなかいい話だ。こういう女は、一人の男にいじいじと執着したり、果てはストーカーになったりなんかしない。健康的だ。 かくいう私。「キスしてもいい人」までは、さすがに日常的には想像しない。許容範囲が狭いのか、生々しすぎて想像できないのか。 「もう一回飲んでもいいのは、この人と、しいていえばこの人」。 いやー、傲慢だね、女ってのは。「飲んでもいい」って何様なんだか。いいのだ、心の中では。まあ、現実にはいろいろタテマエもあるので、そうわがままも言ってられないが。
その人は、吉本芸人ばりの押しつけがましい類ではなく、ひょうひょうとそこはかとなくオモシロさをかもしだしていた。大勢の中、独自ワールドで、周りをじわじわと巻き込んでいた。 (ちなみに勝負とか言ったものの、特にせっぱつまっていないので、ここで積極的にどうこうというエネルギーはない)
ちなみに、「キスしてもいい?」と聞く奴も死んでくれ、と言いたい。
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ようは、「いまさら言うな!」ということが言いたかった。 二人で旅行しているぐらいなので、お互いに大事なのは十分わかっている。だが、それを言葉にされると、とたんに薄っぺらくなる。「そんなもんかい」という感じ。
言葉にしたとたん、陳腐化するもののなんと多いことか。
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私は「は?」と言った。 すぐに彼女、「ごめん、思ってもないこと言った」と訂正。 「でしょ」 女友達が大事というのも嘘ではないのだろうが、常にいろんな男の家に転がりこんでいる彼女が言うと、説得力ないことこのうえない。いわば「女力(おんなりょく)」で男をとりこみ、生活基盤を確保しているような人だ。
自分の言葉の虚構にも即座に気づくぐらい正直なのが、彼女のいいところだ。
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「やっぱり価値観が違った」「生活ペースが合わない」「趣味が違う」、いろんな理由がつけられる。なかには裁判にして金までかけている人もいる。 でも、別れる理由のほとんどは、 飽きた でいいんじゃないか。 では、愛する理由、というとぎょうぎょうしいが、好きになる理由はといえば。 そそる だろう。やっぱ。
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スノビッシュな話題にカムフラージュされながらも匂いたつエロ。先輩のうんちくの10倍ぐらい、両脇の人たちが気持ち悪かった。
もう電車はなくなっていて、私はタクシーで帰れる距離だが、先輩の家は遠い。 先輩はちょっとさびしそうに、銀座の街へ消えていった。どこかに一人で飲みに行ったか、会社へ戻ったか、長年つき合ってる彼女の家に行ったか、どれかだろう。
「この枯れ葉のような味が…」とか言いつつエロな展開を計算して着実に実行する奴の方が、たち悪い。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 友人から聞いた。単なるピロートークなのだが、このセリフを聞いて、いい男じゃん、と思った。というか、いま自分が言われたい言葉として、しみじみした。
仕事がらもあるが、雑誌も本もよく買ってしまうし、新聞もメールマガジンも取ってしまう。すべて消化不良。 一人の人間にとって縁のある情報はしょせん限られているし、興味のないことは吸収できない、ということはわかっているのだが、それでも情報を取り入れようとする焦燥感。いったいなんなんだろう。疲れる。 できればどこかの島あたりで、美と食とエロだけの中で暮らしたい。そして、情報がなくてもできる芸で身を立てたい。
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三島由紀夫の「永すぎた春」を読んでいる。 人を待つときのひまつぶしにブックオフで100円で購入したのだが、たまに琴線に触れる文章に遭遇して、どきっとする。 「幸福というものは、どうしてこんなに不安なのだろう!」 「もっと君が蝶々みたいに、何も考えないで軽々と行動すれば、どっちの女も傷つかないですむものが、わざわざ大さわぎに持ち込んでるんだ」 「百子さん、そんな風に手を握ったりしてちゃだめだ。君に自信があったら、男を完全に自由にしておかなくちゃだめだ」 現代文学にはないストレートさで、鋭いところを突いている。これらの明言から諭されることは、 ・幸福を追い求めるな といったところだろうか。さすが近代文学の巨匠。恋愛上級者向け。 夏は女性誌の占い特集が盛んだが、「この夏こそ幸せになる!」とか力んでいる人がいたら、目を皿のようにして占いを見るより、三島本がいいかもしれない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ という話は、以前にも書いたことがあると思うが、改めて触れてみたい。 例えば、女は愛を確かめたいがためにセックスするが、男は自分の存在意義を確かめたいがためにセックスする。それほど、自己の存続の危うさを常に感じているのが男だ。だから、同じ理由で、無意識的にかっこつけている。
私の知るなかでは、以下のようなイタい男がいる。
周りの目を気にしすぎてイタい男 八方美人すぎてイタい男 素直すぎてイタい男 自分の殻にとじこもりすぎてイタい男 女とやりすぎててイタい男 地方出身コンプレックスでイタい男 しゃべりすぎてイタい男
ただ、そのイタさが魅力と表裏一体だったりするから、女はそこに情愛を感じてしまったりする。漫画家の倉田真由美が言うところの「だめんず」(だめ男好き)のルーツはここにある。
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オレンジ色の直径45センチの羽根。カバーは濃いグレー。 そのあまりのかっこよさに、素通りできずに購入してしまった。 家に帰って組み立てて(組み立て式)、スイッチを入れてみると、「最弱」でもあまりにも強風だった。その辺にあった新聞広告とかが風に舞う。
しかし、笑うぐらい強風なのだが、オレンジ色の外見は存在感たっぷりで、慣れてくるとだんだん「使えないけどかわいいやつ」と同居している気分になる。 ネタとしても、もう少し同居していてもいいかも、と思う。
男も「家庭用」をぜんぜん選べないものだから、いつまでも安らかな生活になれない。 今年の夏もとりあえず、いろんな意味で家庭用とは縁がなさそうだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「そもそも近代以前の日本には恋愛などという言葉はなく、明治維新後に、西洋文化とともに恋愛という概念が入ってきた。 という説を、読んだことがある。この説を聞いたとき、思わず膝を打った。それ以来、現代においての「色」の復権をひそかに望んでいる。 恋愛というと、そこには頭脳が存在している。私はこの人と恋人関係になるとか、なりたいとか、なればとか。なんとなく知的な行為という高尚さを漂わせている。責任感みたいなものも存在する。 でも、色というと、体が反応しているとか、思い切り感覚に任せた感じだ。知的イメージなど吹き飛ばし、人間の下品さや筋の通らなさをも受け入れるキャパがある。語感がエロにも似ている。 これまで「恋愛」という言葉で語られていたことを、すべて「色」に置き換えたら、かなりのもめごとや悩みがすっきりするんじゃないかと思う。おそらく、あまり無理がなくなるだろう。 想像してみてほしい。気心の知れた同性同士で発する一言として。 「最近、恋愛はどうよ?」 「最近、エロはどうよ?」 「最近、色はどうよ?」 いいじゃないか、色。声に出して読みたい日本語だ。 自分の感覚を正当化しているだけなのだが、こんなことでもして、恋愛マジョリティーに対抗するしかない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ こんにちは。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 上司に「会社をやめたい」と2回ほど言ったのだが、結局は「まあ待ちな」ということでおさまっている。「もうちょっとしたら(異動とかの)機会があるから、その後でも遅くないんじゃ?」などと諭されつつ。 やめた後は「フリーになる」とかなり本気だったのだが、上司には、狂言と思われたかもしれない。確かに、フリーのライターになって当面は仕事が来るあてはないし、収入は激減するだろうし、つらいだろう。去年、調子に乗って買ったクルマ(格安中古)も売らなきゃだ。 が、サラリーマンもつらいぜ。みんな、よく折り合いつけてるぜ。 ということで、フリーになる日をめざして、仕事も募集中です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ワールドカップ、日本ついに負けてしまいましたね。異様に盛り上がった祭りも終了し、夏休みの後の小学生のような寂しさの漂う日本。 なんと言っても、トルシエの一挙一動からは目が離せなかった。連日マスコミで報道されるトルシエの写真や映像、どのショットもスクラップしたいぐらい、ポーズがすばらしい。 同じくトルシエの挙動がツボにはまっている友人女子は、「サッカーの試合中、テレビの端っこに四角い枠で、トルシエの姿をずっと映してくれればいいのに」と言っていた。名言だ。4年後にはそんなチャンネルがあることを望む。(トルシエ続投はなさそうですが、どこかの監督ってことで)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・ スマップの中居正弘に注目している。 中居が、自身の「冷たさ」を芸としてもうまく表している。 子どもからNHKまで対応可能な万能タレントとして、一見、人当たりも良さそうだが、「いい人」キャラではない。そこは香取慎吾と違うところだ。 しかし、中居には、ぞっとする冷たさがある。 演技は、自分の中にある材料からしか生まれない。中居自身の持つ冷たさに、他の追随を許さないものがあるのだろう。 もちろん、芸に対しても演技に対しても、中居の向上心はかなりのものだと思う。その向上心による研ぎ澄まされた感じが、逆に冷たさを際立たせている。 バラエティ感と冷たさの二面性という芸風。ますます完成度を高めてほしい。 ていうか、「模倣犯」の予告しか見てなくてこんなこと書くのもなんですが…。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ナンシー関さんが亡くなったことに、意外にも少なからぬ喪失感を感じている自分を発見した。雑誌に載っているコラムをたまに読む程度の読者だったのだが。 亡くなってからの報道を見ていると、テレビ関係者はこれまで、ナンシーさんの批評をかなり気にしていたようだ。そして、「痛い」と感じつつも、彼女への評価は高かったようだ。 ある友人(男)は、ナンシーさんの本の出版関係の飲み会で本人と同席して、「ナンシー・ショックから立ち直れない」と言っていた。おそらく、彼の本質を突くような批評を、一瞬にしてされたのかもしれない。 わかっていても、人は世間やメディアによって、知らないうちに踊らされる。それを冷静に指摘してくれる人がいなくなると、自分たちのいるところがわからなくなるような不安。 それだけ人は危うく、それを指摘できる人がごくまれだとわかったということが、ナンシーさんに対する喪失感かもしれない。
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