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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ おしゃれさん (いま、仕事的にかなりせっぱつまった時期なのだが、そういうときに軽く発信したくなったりする)
スターバックスは繁殖する一方だし。インターネットをみても個人がつくったかっこいいホームページはいっぱいだ。 なんだか一億総おしゃれさんだな、と思う。
でも、その人の核というか本質のようなものは、おしゃれのベールに包まれると判断しにくい。いやむしろ、おしゃれのベールではとうてい、本質は隠せないのかもしれない。 それじゃあ本質ってなんなんだようと言われるかもしれないが、私にもわからない。 少なくとも、計算されていないところに本質が表れるのは確かだ。 見ようによってはかっこ悪く、「やっちゃった感」があるかもしれないが、本人はそうせずにはいられないようなところ。においのある部分といってもいいかもしれない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ サロン 人を評価する言葉は自分を評価する言葉だったりする。
聞くたびに、先輩あなたこそ「いい人」でしょう、と思う。仕事はできるし辛口な批評もできるが、誰にも不快感を与えない。やや太っているところも含め、とてもバランスの取れたキャラだ。 それを確信したのは、先日飲んでいるときに、「ドラえもんの道具で何が欲しいか」という話になったときだ。先輩は即座に「ニクメナイン」という薬を挙げた。 ジャイアンに殴られそうなときに、のび太がニクメナインを飲むと、ジャイアンはにこにこでれでれして、「まあのび太だからしょうがねえや」と、肩をポンとたたいて行ってしまう。「憎めないキャラ」になれる薬なのだ。
「一見さんお断り」のような雰囲気を漂わせている店や、同じ感覚を持っている人だけの言語でやりとりしているサイトなどには敏感に反応する。なるべく近寄らないようにしている。 その輪の中に入るのが嫌だと思うし、何よりも、その排他的感覚がわかってしまうからかもしれない。
きっと自分こそが排他的な人間なのだと思う。
ジャイアンに殴られそうなのび太が「ジャイアン消えろ」と言いながらボタンを押すと、ジャイアンが消えてしまう。ジャイアンの家を訪ねると、「うちにはそんな子はいませんが」と言われる。「みんなみんな消えちまえ」と言いながらうっかりボタンを押すと、人っ子一人いなくなってしまう。 そのボタンが欲しいとは決して思わなかったが、ものすごくこわかったのを覚えている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 誠実さ
誠実さとは、約束を守るとか、嘘をつかないとか、浮気をしないとか、指輪をしているとか、誕生日をおぼえているとか、そういうことではない。少なくともそれは本質ではない。
例えば、「俺は浮気をしているんだ」と何の展望もないまま妻にカミングアウトしてしまうような夫。そんなパターンの言動をしている人は、気づかないうちに周囲にかなりの害を及ぼしている。 いったん男女関係になってしまうとそのへんがうまく判断できなくて、そういう善人または悪人気どりな人を信用したり、実は誠実な人を疑ったりすることもある。
だからまあそういう形とかにこだわらず、自然にセックスしたくなる人を大事にしましょうという話、でしょうか。
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つまみ食いに応じるのも必ずしも悪くないと思う。応じるかどうかの見きわめは、つまみ食いなりの本気度がどれだけあるかによる。つまみ食いなりに、エネルギー(コスト、労力)がかかっている態度に対しては、応じる気にもなる。 例えば、世界の珍味をその国までわざわざ行って食べてみようというレベルか、デパートの物産展で通りすがりにたまたま見つけたので食べてみようという程度か、そういうエネルギーの差だ。 べつに自分が珍味だと言っているわけではないが、そういうふうに判断基準を定めておかないと、まれに混乱するので、あえて整理してみた。 それにしても、なんだか熟成している時間の方が圧倒的に長いような気がする。もういいってぐらい。 たまには主食として食されてみたいものだ。
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しかも、本人からは報告されず、数日後に人づてに聞いた。 車で正面からつっこまれ、全身打撲。通院で済んだが、本人は「死ぬと思った」らしい。
なぐさめるというとおこがましいが、結果として、また距離を縮めることになってしまった。
同情だけでもない、と思った。どうでもいい人なら、たとえ事故にあってもどうでもいい。そうではなく、やっぱり気になってしょうがなかった。 理屈でいくら自分をコントロールしようとしても、現実の不意打ちにはかなわない。いったい世の中には、自分の行動に筋を通せる人がどれだけいるのだろう。
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年賀状はその人のいまを伝える媒体として、その表現方法を私は注意深く見ている。「子どもが産まれた」という報告まではいい。その際に写真を載せるのもやむをえない(ただ、どの子もそれほど違いはないように見えるが)。 だが、その後も毎年、年賀状に子どもの写真というのはどうだろう。「いまの自分」の最大表現は子どもなのか。子どもは別の人格があるはずなのだから、問題はあんただろう、と思う。写真なら本人のを載せてほしい。 子どもの写真を見せられたら、「かわいい」と言うしかない。よほどのことがない限り、かわいいのだ。かわいい写真を選んでいるし。もうその時点で批評の入り込む余地がなくなってしまう。 それから、結婚したとたん年賀状が夫婦連名になり、子どもが産まれるとその名前まで載せてくる向きも疑問だ。いつから家族ぐるみのつきあいになったのか。
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「世の中にある物」ということでみれば、すべてホンモノともいえるし、「作り物」ということでみれば、すべてニセモノともいえる。 例えば、ヴィトンのモノグラム柄のバッグがあれだけ氾濫すると、正規の商品であってもチープに見えたりする。逆にモノグラムをパクったデザインのギャル系バッグが、むしろかわいく、オリジナリティーにあふれて見えたりする。 例えば、リリー・フランキーは「自分は何をやってもどこかニセモノっぽい」と自任しているらしいが、その文章を、私はどんなコラムニストのものよりも好きだったりする。 真面目に見えることがホンモノで、不真面目に見えることがニセモノ、ということはない。大事なのは、どれだけ考えられているかだ。不真面目に見えても、それがよく考えられているものであれば、おのずと完成度は高くなり、思いも伝わりやすくなる。 ホンモノとニセモノという選別意識をもって、多くの人は、自分や自分のしていることを守ろうとしているのだろう。それは、弱さの裏返しかもしれない。
こういうことを教えてくれる男は、まだまだいっぱいいるのだろう。そういう男たちは、たとえ一時の縁であっても、自分にとってすべて「ホンモノ」だ。
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どうでもいい男になかば期待をこめて誘われるとき。この対応は難しい。人間、人に対してそう簡単に冷たくできないわけで。でもやっぱり、その期待がどこかきもちわるかったりするわけで。 これが好きな男であれば(セクシャルな意味ではなく)、「はい、よろこんで!」という感じなのだが。 そのきもちわるい期待の正体をつきつめてみると、意外に単純だった。 きもちわるい男とは、結婚したそうな男だ。 そうなのだ。単にやりたがっている男のほうが、まだきもちいい。
これでは悪循環だ。つらいのう、男。
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夕方、大物のインタビューがドタキャン。代わりにたまたま電話を受けた売り込み元を訪問。行ってみたらなんだか貧乏くさい人たち。つらい。街頭で署名を求められてもどうしても署名する気にならない人たちみたいな。貧乏なのと貧乏くさいのとは違う。がんばっているのはわかるが、社会を動かすにはもう少し洗練が必要だ。それはバランス感覚だ。センスとも言う。小泉純一郎がなんだかんだといって人気があるのはそのへんだ。 すっかり萎えたので口直しに家の近くの屋台でうまい魚とおかずを買う。「お嬢ちゃんかわいいからおまけしといたよ」。言うのはなぜかおばちゃん。いいけどそんな3人分ぐらい肉じゃが食べたら太るよ。もう10時だし。屋台では紺のスーツに白いシャツ軍団が酔っぱらっている。ネクタイで鉢巻しそうな勢い。平和なり。 家のポストを開けると寿切手の封筒。「突然ではありますがこの度レストラン○○において人前式にて結婚式を挙げその後ささやかな食事会を予定しております つきましては」。眺めつつ魚と肉じゃがを食べる。これこそささやかな食事。ささやかな日。ささやかな幸せは特になし。いい男とも会わず。
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つまみを買ってマンションの部屋に着いたとき、彼女の携帯が鳴った。男の声が聞こえた。コートを脱ぎ、ストッキングを脱ぎながら携帯で話す彼女。「あーそうなんだ、そりゃ大変だねー。がんばってよー。まあまた肉でも食いに来なよ」。 かなり美人なのに、その性格は思っていた以上に豪快だった。部屋も男っぽい。大きいテレビと固そうなベッドと酒の瓶とロックのCD。「嫁が欲しくてさー、だって家に帰ってご飯ができてるなんて最高じゃない?」。わかるような気がした。この部屋を見てなおさら。 男とのつきあい方については意見の合う部分が多かった。 ・休みの日にはほとんど会わない さっき電話をかけてきた男は、友達以上恋人未満ということらしい。そういう関係の持ち方もなんだか似ている。とはいえ、私の場合はなんだかんだと気持ちに揺れがあるのに対し、彼女にはどっしりと安定感があった。33歳。焦りも悲壮感もなく、人生楽しそうだ。 「つまみに」と彼女が出してくれたのは燻製の肉だった。フルーツでもチーズでもなく、肉。なんといっても、「肉でも食いに来な」とあれだけかっこよく言い放てる女はそういない。その男気に、ひさびさに参った。
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さすが、北国に引きこもって超高視聴率ドラマを書いていただけあって、何かを超越したような人だった。倉本聡は長渕剛と仲がよく、二人ともいつも何かに怒っているところが共通しているらしい。 そんな中、偶然についての話があった。 倉本聡が飲み屋でその男と出会わなければ、あの長寿ドラマはなかった。そんな偶然について、しばし考えた。 私も、あの飲みの席で、あの男に出会っていなければ、いまこうして車に乗っていなかったかもしれない、と。自分の車で自由に旅している男だった。その車に乗ったとき、その自由さをうらやましいと思った。他にも何らかのきっかけはあったが、周囲の心配もよそに私が中古車を買ってしまったのには、男の影響が大きかった。 そう考えると、たとえいまごろその男がどこかのおねーちゃんとよろしくやっていようと、素直に感謝の気持ちで満たされてしまうのだ。
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外が寒く、部屋の中で暖かくしているときに、たまに思い出すのがユーミンだったりする。しかも中学生の頃に聴いていた曲。 昨今の音楽シーンを鑑みてユーミンを持ち出すのは正直恥ずかしいものもあるのだが、思い出してしまったものは仕方ない。ユーミンだ。 なかでも、「A HAPPY NEW YEAR」という曲に、中学生の私はシビれた。いまでもシビれている。以下のフレーズに。
愛の歌といえば、あなたに会いたいとかあなたなしでは生きていけないとかI want youとかneed you とかmiss you とか、自分の都合を押しつけるものばかり。そんなことを言われても、こっちも忙しいんだし、一人の時間も欲しいし、逆に重荷になったりする。 自分が介在するか否かは別として、相手の幸せを願うのが愛情ではないか。
きっと今年の年末も、車に乗りながら偶然「A HAPPY NEW YEAR」を聴いたりして、わけもなく神聖な気持ちになったりする自分がいるのだろう。
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「飲食店のデザインでは、その場所でおねーちゃんを口説けるか、それが大事」という彼は、二言めにはエロを持ち出す。 「トイレの照明は暗めにする。明るすぎると、女の子がトイレに立ったときに気持ちが冷めちゃうから」 私もエロをよく持ち出す方だが、こちらはエロに対して人類学的なアプローチを試みているのに比べ、この人から感じるのは、エロへの実践的アプローチだ。 外見からもそんな実践的アプローチが見受けられる。もともと男前な顔立ちなのに、皮ジャンを着たり大きいサングラスをかけたりして、さらにいっぱいいっぱいにかっこつけている。なのでちょっと笑えたりもするが、これもおそらく戦略で、芸風なのだと思う。 この人の20年後、30年後を見てみたい。60になってもエロを芸風にしているだろうか。たぶん、若いいまに比べてエロにも深みが増して、それが店のデザインに反映されるのだろう。そんな素敵な店なら、ぜひ行ってみたい。
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男陣から女陣に発せられた質問のエッセンスをまとめてみる。 ・彼氏いる?いない? おそらく、かなりベタなのだと思う。ただ、特に下ネタに関する露骨さでいえば、他の追随を許さないものがあった。というか、いままで男ばかりの世界にいたせいか私の合コン経験自体、たった2回目なのだが。 しかし冷静にみると、彼らの異様なエネルギーは、決して性欲むきだしというものではなく、サービス精神の高さゆえなのだと感じた。すべては「合コンプレイ」なのだ。もはや合コンという様式を楽しんでいる。 「エッチのときに女の子の生理の血を見て失神した」という男もいた。バカだなーというエピソードをおくめんもなく暴露する。そんなバカを演じながら、タシケントから電話がかかってきたりする。ニューヨークじゃなくてタシケント。なんだかわからないすごみ。 エリートらしいエリートにはそそられないが、バカを演じるエリートは好感度高し。などと思うのは、向こうの思うツボなのだろうが、まあエサにはされずに済んだ。酔っぱらって送り届けられたけど。
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牧師は白人だったりして、結婚と愛について説教をたれる。歌ったことのない讃美歌を歌う。バージンじゃないくせにバージンロードと呼ばれる通路を歩く。 こんな気持ちを抱くのは、うちの父も同じらしく、弟の式でも「ものものしいな」と言っていた。こんなときでも冷静で、感覚に正直な人なのだ。 いちばん気恥ずかしいのはなんといっても「誓いのキス」だ。夫婦や恋人同士がしょっちゅう人前でキスする欧米と違って、日本ではあくまでもそれは習慣ではない。にもかかわらずいきなりキスだ。不自然だろう。 このときはやはりうちの父もぴくっと反応していた。「ここまでやるかね」という感じで。そりゃそうだろう。日本においてはキスは日常ではなくエロだ。二次会の最後に友人たちの前でキスさせられるのはいいとして、家族の前でエロはタブーなのだ。 披露宴では、父は新婦の父と打ち解けて愉快そうだった。しかし最後のあいさつで、また本領発揮。無難に済ませればいいものを、「司会はホテルの人に頼むというから、ちゃらちゃらした感じなのかと思っていたが、意外に押さえた仕切りで…」と、批評に入っている。ひやひやする。 「弟が私を卒業した」とかいって、感傷的になっている場合じゃなかった。この厳しく鋭い男をなんとか乗り越えなければ、私は私の人生を新展開できないかもしれない。
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男、女、男の三人兄妹の末っ子。落ち着いていて、バランスがよく、堅実で、趣味がいい。アグレッシブではないが、その安定感が彼の持ち味だ。姉の私からみても、なかなかいい男だと思う。よくもここまで成長したもんだ。 小さい頃は、めそめそしていた。3年保育の幼稚園の年少組に入ったとき、同学年の友だちになじめず、遠足では年長組の私と一緒にお弁当を食べていた。 寝るときに「本を読んで」といわれて読んであげることもよくあった。休日の朝は、よく私のふとんに入ってきて、「寒い寒い」などと言って“貧乏家族ごっこ”をしたりした。 兄はヒーローみたいな人で、それに憧れていた私と弟とは、それなりに何かを共有していた。 そんな弟が、いつのまにか感じのいい彼女をつくっていた。そして、さしたる迷いもなく、結婚するという。その彼女の写真を見て、私に似ていると指摘する人が何人かいた。 そうか、弟は私を卒業していくのだ。とっくに卒業していたのだろうけど、改めて実感する。 卒業していく男、か。昔つき合っていた男が結婚するというニュースを聞いたことは、まだない。そんな日が来たら、いま弟が結婚するときのように、「あんたも成長したよのう」という気持ちでいたい。昔の男も、兄弟みたいなものだ。
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