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2003/11/18

予定調和


 私を好きだと公言する野獣みたいな先輩(妻子持ち)。外出先から会社に電話をかけてきては私を呼び出す。

 話してくるのは仕事の話だったりするのだが、わざわざ電話で話すほどのことでもない。

 「そんなの、べつに今じゃなくてもいいじゃないですか」

 「いや、一日一回ぐらいは声聞きたいなと思って……、バカでしょ」

 こういうかわいいことを言ってくれるのが自分の好きな男だったら、どんなにたのしいことか。

 と一瞬思うのだが、予定調和に対して気が狂いそうになる自分もいるので、きっとそういう男とは縁がないのだろう。


 でもまた次の瞬間にはせつないほど欲しくなるのが予定調和の甘い魅力なのだが。



 



 

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2003/11/09

エネルギー


 男女関係が長続きするかどうかは、ひとえにエネルギーの質と量がつり合っているかどうかだと思う。

 エネルギーとは、金持ちになりたいとか、有名になりたいとか、楽をしたいとか、綺麗になりたいとか、身体能力を高めたいとか、人と違うものをつくりたいとか、人と同じ考え方をしたくないとか、そういうものの組み合わせだ。生き方に対するエネルギーと言ってもいい。

 オーラがつり合っているかどうか、というと分かりやすい。ただ、一見、そうでないように見えるパターンもある。

 例えば、激しい人と温和な人とでうまくいっている組み合わせがある。それは、激しく発散するエネルギーの強さに対して、受け止めるエネルギーの強さがつり合っているのだ。別の方向を向いているようで、エネルギーの量自体は同じで、うまくかみ合っている。

 街を歩いている人たちから有名な人たちまで、様々なカップルを見ていると、このエネルギー説は一目瞭然だ。


 そうなると、別れとは微妙なエネルギーの差から生ずるものだといえる。

 少し過剰なこちらのエネルギーが行き場をなくせば、それはごまかしきれないものになる。優しくて楽な関係だけではダメで、そのゆるい心地よさを否定しなければならなくなる。


 仕方ないと思いつつ、自分が引き起こす事態の残酷さに遭遇すると、どうにもつらい。


 



 

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2003/10/31

生かされる


 最近、死に遭遇することが多い。
 過去の友人だったり、実家の動物だったり。秋空の下、冷たくなっていく。

 彼らが死んでいく前を振り返ると、おおむね、生きるのが辛そうな感じだったように思う。

 程度はどうであれ、生きにくさを持ち合わせている人は少なくない。これだけハードな世の中、皆、いつどう死んでも不思議ではない。


 生きるとは、橋の欄干を平均台のように歩いているようなものだと思う。ちょっとバランスを崩して川の方に傾けば、あっさり死ぬ。バランスを崩しても橋の方に落ちる人は、なんだかんだと生かされている。


 死とは、おはらい箱になることではない。生きているよりも、死ぬことによって強烈な印象を与え、人々の心に生き続ける人もいる。

 死ぬ人は死ぬことで何かのメッセージを発信している。生かされている人は、まだ生きることで発信するメッセージがあるのだろう。


 自分の考えていることなど、1%も人に伝わっていないんじゃないかと思うことがある。でも、そんな自分の思いとは別のところで、少なくとも自分の体温があるうちは、周囲に何かを発しているようだ。

 その自分の役割が何なのか分かれば、生きるのはもう少し楽になるのだろうけれど、そうもいかないらしい。


 



 

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2003/10/20


 ウミガメが産卵するときに涙を流すという。

 見たことはないが、そんなウミガメの気分で涙を流していることがたまにある。

 日曜の夜、一人で部屋にいるときなど。自分や身近な人について考えているうちに、沸き起こってくる悲しみや切なさに、つい向き合ってしまう瞬間だ。

 人間、ちょっとヒマになると、そういうことに向き合ってしまうからやっかいだ。自分に酔いしれるというようないいものでもない。特に一人で暮らしているとまずい。


 誰でもそうだと思うが、日ごろ外で人に接するとき、仕事するとき、恋愛するとき、電話するとき、文章を書くとき、自分の身をいろんなオブラートで何重にもくるんでいる。
 それが卵の殻みたいに硬くなった状態で、自分の身が傷つかないように防御しているのだ。


 涙を流すといつのまにか殻がむかれ、つるつるした、ゆで卵みたいになっている感じがする。細かい殻も最後の薄い膜も、洗い流されている。

 そんな無防備な状態で人と接することができるわけもなく、何の解決にもならないのだが、その状態が気持ちよくないこともない。そのつるつるしたままで、一生、羊水のような水の中に浮いていたい気分になる。


 でも、そのまま眠ってしまって朝になると、いつのまにか新しい、ざらざらした殻を身にまとっているのだ。

 


 



 

 

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2003/10/06

笑いごと


 婦人公論を買った。「黒澤久雄が親友のマイク眞木と離婚について語る」というページを読みたかったので。


 初めて買ったが、40〜50代の女の更年期的もやもや感がぎゅっとつまっていて、なかなか興味深い。

 特集は「頑張る女を休んでみませんか」だ。VERYやクロワッサンみたいにオシャレと趣味で昇華できる女ではなく、自己啓発本を手にとってしまうような、心の問題を最重要視する女性向けの雑誌なのだろう。


 女二人の質問に渡辺淳一が答える連載が面白かった。今号のテーマは「前回にひき続き」セックスレスについてだ。

 渡辺淳一は一貫して「男ってのはこういうもんなんだからしょうがないじゃない」という感じでへらへら答えている。

 それに対して「女1」は「笑いごとではありません!」とカリカリしている。「女2」の方は、「家庭内ではムダは省かれる。アハハ」などと面白がっている。

 対談的には、男の心理がまったくわからずにいらいらしている女1のキャラがいないと成立しないのだろうけど、女2の笑いとばし加減が軽さを引き出して、いいバランスの読み物になっている。


 この二人の女を比べてみると、女2みたいな笑えるスタンスの方が賢い生き方なんだろうなあと思う。


 何でも笑いごとにしたい。

 しごとのプレッシャーも。ゆるゆるした男関係も。「そのときどき縁がある人とは、しといてもいいじゃん。女として。アハハ」というかんじで。


 



 

 

 

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2003/09/12

孤独フェロモン


 SPA! の鴻上尚史のコラムを読んでいて、どきりとした。
 孤独が生み出すフェロモンについて言及している。

 「一人暮らしをすると孤独になるので恋愛したくなり、微妙にフェロモンが出る」――詳しくは割愛するがそういう話だ。


 確かにある。孤独フェロモン。

 友人女子は、溺愛していたウサギを亡くしたとたん、史上最高のモテ期が到来したと言っていた。

 自分を振り返ってみても、声をかけられたり誘われたりするのは、どこか孤独オーラを発しているときだと思う。


 逆に、初対面の男が「僕の彼女が・・・」とさらりと言ったりするととたんにつまらない男に見えるのは、その人の孤独フェロモン値がゼロになるからだ。

 たとえ形としては恋人や伴侶と呼べる人がいたとしても、どこか孤独感や満たされな感を漂わせている人を見ると、いいねえと思う。ナイスフェロモンだ。


 岡本太郎は、自らを幸福反対論者だと称していた。
 「ニブい人間だけが『しあわせ』なんだ」と言う。名言だ。

 ニブさと引き換えの幸せよりも、フェロモンと引き換えの孤独を選びたい。


 



 

 

 

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2003/09/05

月並みな


 「親のことを考えると、そろそろ結婚しないとと思って」という人はよくいる。

 違うだろう、と思う。自分が結婚したいのだ。親を思ってというのも嘘ではないのだろうけれど、結局は安定したいという自分の気持ちが強いのだ。

 「独身の人がうらやましい」という人もいる。それも本音は違うはずで、結婚という状況に安住しているからこそ言える戯言にしか聞こえない。


 そういう月並みな言葉で自分の気持ちを表したような気になっている人には、うんざりする。もっと自分の言葉でしゃべってくれないと、コミュニケーションはつまらなくなる一方だ。


 とはいいつつも自分の本音を突きつめると言葉が出てこなくなったりする。ので、このサイトもなにかと沈黙状態だったりして。

 飲みの席なんかでは歯切れよい言葉も出てくるのですが、どうも。


 



 

 

 

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2003/08/17

更新時期


 仕事の原稿を書かなければならないのに、怠惰に溺れている。


 溺れるといえば、客観的にみて、溺れ合っているような男女関係は少なくない。楽と性欲に溺れている惰性的な関係。本人たちはそうは思っていないのかもしれないが。

 他人のそういう状態を見ると、その緊張感のなさに苛々しつつも、どこか羨ましいとも思っている。でも、代わりたいかといわれれば、代わりたくない。


 つい最近、どちらかというと惰性で続いていた関係に区切りをつけた。
 相手に背を向けた瞬間、目に涙が浮かんだ。意外だった。

 惰性ばかりだったとは言い切れないのかもしれない。相手としては惰性ではなかったのかもしれない。たとえ惰性だったとしても、否定されたことの痛みがないわけはないだろう。

 相手に対する尊敬はまだある。ただ、気づいたら尊敬よりも失望の方が勝っていた。


 人が絶えず変化するのに合わせて、人間関係にも更新の時期が来る。そのタイミングは、生理的感覚がおのずと決めてくれる。


 こうして文章を書くことで自分の判断を正当化するわけではないし、できるわけもない。ただ、感傷的になるよりも、多少は冷静に捉えられるような気がしたので。


 



 

 

 

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2003/08/13

与える


 恋愛の醍醐味の一つは、与える喜びだ。好意や情報、美味しいものを提供して、相手に喜んでもらうことの喜び。

 それが分からないのか、与えられることばかり求めている人もいる。


 例えば、自分から誘ってきたのに店も提案できない男。

 こちらの希望を尊重しているつもりなのかもしれないが、そうであれば的外れだ。こちらからの情報やエネルギーを得たいと思って会おうとしているのであれば、自分からも何か与える気構えを見せてほしい。

 店の決定一つに、与える行為の希薄さが表れている。店の情報誌を漁り読みする必要はないが、大人なんだから、と思う。


 さらに、セックスできないからといってめそめそするのもどうか。たとえ食事をおごらされただけで終わっても、へらへらしているぐらいの余裕がほしい。与える喜びを知っている人は、美味しい食事を提供して会話を楽しんだだけでも、喜べるものだ。


 与えられることばかり求めている人は、一人よがりのセックスをする。セックスはコミュニケーションなのに。

 というか、大人なんだから。

 



 

 

 

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2003/07/31

飼われ感


 「ありし日は4〜5人の女と同時進行していた」と自慢する、野獣みたいな先輩がいる。

 彼の女に対するポリシーは、「電話されたら負けだから、すべての女に自分からしつこいぐらいに電話する」ことだという。「今何してるの?」なんて電話をさせる隙を相手に与えないことで、同時進行も可能だったようだ。


 「電話されたら負け」という考えが新鮮だ。「電話したら負け」という駆け引きのような小賢しい次元ではない。

 常に電話する側になることで、相手をコントロールする位置に立つ。「女とつき合っているすべての男は、女に飼われているも同然」という彼。その「飼われ感」を少しでも緩和するために、自分がコントロールできる立場を保とうということか。


 おそらく私は、「自分が容易にコントロールできる男ではつまらないので電話しない派」だ。鎖でつなぐよりも、果てしない大草原で放牧する方が、いい牛になるんじゃないかと。




 

 

 

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2003/07/23

老女


 玄人な友人女子とレンタカーで西日本を旅していた。

 いくつかの地方の街で朝、喫茶店に入った。東京の喫茶店でモーニングセットを食べているのはだいたいサラリーマンだが、地方では圧倒的に老女だった。

 ほとんどの老女は一人で、ゆっくり、黙々と、バタートースト、ゆで卵、サラダ、コーヒーを食していく。食べ終わると、隣りの席のばあさんと世間話をする。顔見知りなのか初対面なのかは分からない。当たり前のように、淡々と話している。


 地方の、やや文化の香りのする街では特に、そんなばあさんのたたずまいに惹きつけられることがある。

 商店街をほうきとちりとりで掃除する、寺の階段を一段一段ゆっくり上がる。

 おそらく夫はとうに亡くしていて、人間が本来、向き合わなければならない孤独と対峙している姿だ。だが、それらはとても自然で、すべてが穏やかに流れているように見える。その成熟した穏やかさは、うらやましくさえある。


 自分がその境地に至るまでには、どれだけ仕事をこなし、人と出会い、セックスをし、動揺し、喜び、反省し、冷や汗をかき、有頂天になり、虚無感におそわれ、失望し、笑い、悲しむのかと思うと、

 ため息が出る。



 

 

 

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2003/07/18

ED


 「EDは医師に相談して治しましょう」みたいなことをテレビで宣伝している。

 あれで勇気づけられるEDの人も世の中にはいるのかもしれないが、かえってプレッシャーを感じる人も多いのではないか。

 たたないときはたたないで、そんなにがんばって治さなくても、と思う。その人が抱えている何かによる自然な反応なのだろうから。お金をもらってその機能を提供しているような人であれば話は別だが。

 コラムが書けないときは書けない、ということの言い訳のたとえとして。

 


 

 

 

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2003/06/29

ピーターパン


 勝新太郎の七回忌での中村玉緒をテレビで見たとき、彼女がどれだけ夫を好きだったかが痛いほど伝わってきた。


 自由奔放な夫や恋人を持つと、非常に魅力的な時間を過ごせる一方で、淋しさも多く味わうことになる。

 玉緒がパチンコにはまったり、バラエティーの仕事をこなしたりしていたのも、夫への思いを消化するためにバランスを取っていたのかもしれない。



 小学生の頃、ピーターパンの物語に心を奪われた。本も何度か読んだし、テレビで放送していたアニメも見た。

 ピーターパンの魅力に翻弄され、振り回されるウェンディ。妖精のティンカーベルに嫉妬するウェンディ。子ども心に、妙に共感した。



 うたた寝していたら、なんだか無難な男と結婚する夢を見た。結婚式の最中に、この男を好きになれないと初めて気づき、これが夢であってほしいと祈った。

 夢でよかった。けど、現実もそれなりにせつない。

 ピーターパン的状況を消化するために、いかに仕事に熱中するか、とか。


 

 

 

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2003/06/12

熟す


 小雨のなか、シャッターの下りた店の軒下で、男が苛立たしげに携帯で話している。

 「だから今日はちゃんとメールしたでしょ」

 会えないことに不満をもらす女を諭しているようだった。


 よくある話だ。

 好きであれば会いたいのだろうけれど、それを主張して相手を困らせるのは本末転倒のような気がする。

 じりじりと、会える機が熟すのを待つのも一興ではないかと。


 そのときの感動を味わうがために私などはストイックにすぎるのかもしれないが。水をやらないで熟して甘くなるトマトみたいに、と思いたい。


 

 

 

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2003/05/30

興味ない


 ひさびさにナンパされました。

 終電に乗り、駅から家まで歩いているときだ。「飲みに行きませんか?」ときた。
 無視しようと思ったが、いろいろと私に関してコメントしながら、ねばり強くついてくる。

 「今からじゃだめなら、来週でも再来週でも」と言う。長期的スパンな誘いだ。普通は「今すぐ飲みに行って、あわよくばやりたい」的な感じなのだが。

 「いやあーだめですねえ」
    「なんで?」
 「興味ないんで」
    「なんで? じゃあ興味あることって何?」
 「酔っぱらってるんですか?」
    「いや酔っぱらってない。シラフ」
 「よくナンパしてるんですか?」
    「いや、してない。ねえ、だめかなあ」

 「つきあってるひといるんで」――あながち嘘でもない
    「何それ、言い訳じゃん」――断る理由にならないのか?
 「私もすごい忙しいんで」
    「じゃあつきあってる人に会えないじゃん」
 「いや、その人に会う時間も確保しないといけないんで」

 考えたこともない架空の状況を話している自分に違和感をおぼえながらも、そう言うとやっと足を踏みとどめてくれた。

 「すいませんねー、また」
 「また」はないのだが、ついなんとなく言ってしまった。


 「興味ない」というのは「あなたに興味ない」ということだったのだが。いくらがんばってくれても、こういう判断は一瞬でできてしまうものなので。

 そのくせ、こうしてネタにしてしまう。いろんな意味で嫌な女だと思いますが、まあエンターテインメントとして。


 

 

 

 

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2003/05/23


 浮気に寛大な人は、本人もそこそこモテている傾向がある。

 「きっと奴もこういう感じでモテているんだろう」と想像できるから、寛大になれるのだ。

 おねえ様にかわいがられたり、おじ様を手の平で転がしたりしてきた二人が、もとのさやに戻る。口には出さずとも、冒険して一皮むけた感じは漂うのだろう。

 そういうのもまた悪くないのかもしれない。

 かわいい子には旅をさせる。ただしその間、自分も旅をするのだ。


 その旅具合のバランスがなかなか取れないのが現実だとは思うが。一つの理想としてはありかと。


 

 

 

 

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2003/05/19

片想い


 小学生の頃、父が大阪へ単身赴任していた時期があった。

 月に1〜2度は帰ってきていたが、その久しぶりの父がいる場で、母が何かの拍子に「でも、現地妻がいるのよね」と言ったことがある。

 普段そういうことはあまり言わない母なので、急に何言っちゃってるんだこの人は、と思った記憶がある。ただ、その言い方があまりにも明るくさらりとしていたので、軽い冗談だと思ってその場は流れた。

 いま考えると、あれはけっこう本気で言っていたのではないかと思う。

 本当に現地妻がいたかどうかは別にして、少なくともそのとき母は、父に片想いしていたのだ。


 恋人や夫婦という、お互いの気持ちの合意があるはずの関係であっても、その長い関係の中で、どちらかの片想いの時期が存在する。むしろ、両想いの時期の方が少ないのかもしれない。

 そのとき相手の心を占めているのは、異性とは限らない。仕事や趣味に相手の心を奪われて、片想いということもある。


 自分を振り返ってみる。男が仕事で余裕がなくなり、こちらの方が片想いしていた時期があったと思えば、1〜2年後には向こうからのアプローチが頻繁になってくる、ということもあった。

 片想いしていた相手は、だいたいが忘れた頃に連絡してくる。そういうときには、もはや別の男が登場していたりして、どうしたものかと思ったりする。(その瞬間、モテ気分を味わうことも確かだが。)


 多かれ少なかれ皆、片想いしたり片想いされたりを繰り返しながら、人生を進めていくのだろう。

 たとえ結婚しても、離婚しても、独身でも、40、50、60になっても片想いかーと思うと、生きていくってせつない。


 

 

 

 

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2003/05/16

ラブとエロ


 「最近、ラブが足りない」といった言い方は耳にするが、
 「最近、エロが足りない」といった言い方はめったに聞かない。

 ラブとエロは表裏一体だと思うのだが、どうなのだろう。たとえ小学生でも、「好きな人」にはエロを感じるはずだ。


 エロの方は、エロ産業の中においては単独で成立するものもあるかもしれない。だが、産業抜きに考えると、なかなかエロ単独では成立しにくいのではないか。


 「誰々はセックスフレンド」などと定義する人がいるが、けっこう疑わしい。セックスフレンドに対してラブがないと誰が言えよう。

 あるいは「誰々は本命」などと定義する人もいるが、それも疑わしい。本命とは何なのか。安心できる人といった意味であれば、都合のいい相手ととらえることもできる。「都合がいい」という意味では、セックスフレンドと大した差はないようにも思える。


 二つの言い方を比べると、本命と言われる方がだんぜんうれしいような感じがする。でも、考えてみると、本命というのもなんだか保険みたいで、どうも腑に落ちない。結婚したら、「セックスしないけど本命」みたいな状態にもなったりするようだし。


 男女間の少々のいざこざはラブというよりもエロで解決できると思うし。みんなもっと正直に言えばいいと思う。エロが足りないと。


 

 

 


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2003/05/11

ダメな人


 ダメな人になるのは簡単だ。

 楽な方へ楽な方へと流れればいい。仕事をしなくなり、部屋が汚くなり、体の線が崩れ、顔に緊張感がなくなる。簡単だ。

 それにブレーキをかけるのは、「こんな自分を認めて生きていけるか」という、プライドのところだ。いつも綺麗な人や、仕事をばりばりこなしている人は、ひとえにプライドの高さがそうさせているのだろう。

 プライドの高さとは、客観的な目によって培われる。何らかの形で人の目にさらされない人が、プライドを保つのはけっこう大変だ。

 人が仕事をしたり、社会活動をしたり、結婚したり、子を産んだりするのは、単に経済的、精神的な理由だけでなく、ダメな人にならないための知恵かもしれない。客観的な目をあえて設定するのだ。

 ―――だから何だ、と言われそうだが。


 いまこの瞬間、家に持ち帰った仕事に手をつけられない状況を言い訳するかのように書いてみた。堕落と隣り合わせな独り身として。


 

 

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2003/05/06

色気


 連休中、半分取材をかねて西日本を転々としていた。合間に従兄弟の家へ立ち寄ったりもして、かなりいろんな街を見た。

 旅先で、いい男には出会わなかったが、いい女はいた。何人か印象に残っている。

・ローカル線にヤンキー彼氏と乗っていた、中山エミリふうの女の子(18歳ぐらい)
・空港行きのバス待合室にいた、小雪ふうの姉妹(25〜30歳。妹らしき方が目立つ)
・ローカル線に一人で乗っていた、MAXの誰かふうの女の子(23〜24歳ぐらい)

 なかでも印象的だったのが、

・公衆浴場の露天風呂にいた、小池栄子あるいは浅野温子ふうの女(27〜29歳ぐらいか、不詳)

 だ。とにかく強烈な色気を放っていた。目の力が強く、体はミロのヴィーナスぐらいの豊満さ。

 私が男だったら、一発お願いしたい、というか、ちょっとでもかかわってみたい。
 あるいは、もし自分のつきあっている男がその人と関係していたと分かっても、しょうがないと思わせるような、圧倒的なオーラだった。

 案の定、彼女は風呂から出たら男と一緒だった。予想通りの自由業っぽい若い男だったが、彼女とつりあうほどの貫禄はない。残念だ。


 色気というのは何なのだろう。

 上の3人にも色気はあった。でも、種類が違う。上の3人の色気は、何かの瞬間に一転してつまらないものに変わってしまうような代物だ。たいていの女の色気は、その程度だろう。

 一方、露天風呂にいた彼女は、人間としての強さというか生命力のようなものをなみなみとたたえていて、それが色気に昇華されている感じだった。

 もしも彼女が戦時中の世にいたら、闇ルートでレアな物資や食料をうまいこと仕入れて来て、自分の子どもたちに食べさせていそうな。それでいて悲壮感もゆがみも感じられない、そんな人になっていたことだろう。

 たぶんそんな女は、いつまでも男に飽きられない。


 色気とは生命力だ。もちろん女だけでなく、男も同じだろう。


 

 

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2003/04/28

研ぎ澄ます


 他人と一緒に暮らしたことはない。

 一人暮らし歴9年。今日、ひさしぶりに両親と食事をしたところ、
 「あなたみたいな生活をしていると、家事なんてしたいとは思わないでしょう」と母。一人暮らしレベルの家事ではなく、人と一緒に暮らしたときの炊事洗濯、子育てという意味らしい。

 それについて深く考えたことはない。でも先日も初めて会った仕事先の人に飲みの席で言われた。「あなたは結婚していないでしょう。生活感がないから」。

 そんな雰囲気を発しているのかと改めて思った。


 確かに一人の生活を満喫しているし、いまや淋しいとも思わない。

 ただ、一人でいると夜、テレビもつけず、やや暗めの部屋で、考えごとの中にトリップし、気づいたら眠っていた、ということがよくある。

 そんな静寂を打ちやぶって、わりとつき合いの深い人が電話してきたり、訪ねてきたりすることもある。はじめは邪魔された感じでおっくうなのだが、結果的にトリップ状態から救ってもらえたとも思える。

 他者の効用を感じる瞬間。


 とはいえ、人と一緒にいる時間が長ければ長いほど、自分独自の感覚が薄まっていく気もする。決まった人と一緒にいたら、当然その人の影響を受ける。より「その人ベースの自分」「その人あっての自分」にならざるを得ないだろう。

 ある意味で妥協、ある意味で融和。それを目指すのか、より一人で自分を研ぎ澄ますのか。
 少なくとも当分は、自分には一人の生き方が自然らしい。


 トリップからの目覚めに深夜、愕然としながらも、そんな自分とつきあっていくしかない。

 

 

 

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2003/04/18

タフ

 タフでなければ生きていけない。

 肉体的にもだが、特に精神的にだ。
 日和っていてもだめだし、思いが強すぎてもいけない。人の思いに反応しすぎてもいけない。

 仕事していると、つくづくそう思う。もちろん仕事していなくても大変だ。

 タフでなければ、いまごろ気が狂って死んでいる人がたくさんいるだろう。いろんなことの重みに耐えかねて。

 それでも耐えられる人は生きていく。生きているだけでみんな、大したもんだ。

 そんな中で流れ星みたいに通りすぎるものを、人は幸せと呼ぶ。

 

 

 

 

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2003/04/11

 自分にとっては切実じゃないけれども刺激的な映像がテレビから流れてくる。

 それらに対してどう思うかというところでは、多くの日本人にそれほど大差はないと思う。少なくとも、オリジナルな情報や知識を持っていない限り。
 だからこそ皆、オリジナルな情報を持っている人、専門家などの言葉に、熱心に耳を傾けている。


 そのうちの一人といえる人。戦時下のバグダッドで取材してきたという、あるジャーナリストの女性をテレビで見た。名前を見て、この人は小学校のときの同級生の妹だと確信した。印象的な家族だったので、よく覚えていた。

 知人だということもあったかもしれないが、彼女の顔つきに釘付けになった。自分の目で見たものについて淡々と語る表情。メディアの中の、あるいは世間一般の、知識だけでものを言う人すべてが圧倒されるような、静かな強さだった。

 イラクの様々な映像は衝撃的ではあるが、私にとって切実だったのは、彼女の表情だった。人間の顔つきとは、こんなに違うものかと思った。


 それ以来、電車に乗っても街を歩いていても、人の顔をよく見るようになった。

 最初は、何も考えていない顔ばかりだと感じた。おそらくそれは、戦時下の人々の表情と暗黙のうちに比べていたからかもしれない。そんなものは、違って当たり前だ。

 けれども、だんだんいろんなものが見えてくるようになった。その人の暗さとか、前向きさとか、苛立たしさとか、冷静さとか、攻撃性とか、目先のことしか見えない性質とか、マゾヒズムとか、サディズムとか。
 ネットのいろんなホームページを見るよりも、ある意味リアルな情報が得られる気がする。

 たぶん今まであえて見ようとしていなかったものを、改めて見ている感覚だ。そういう見方をすると、目をそむけたくなるような人も少なくない。

 けれども、いま日本で生きている自分にとって、この人たちの顔を見ることは、間違いなく切実なのだと思う。

 

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