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2004/09/12

お知らせ


 わけあって、更新をしばらくお休みします。

 いつも見に来ていただいている方には本当に申し訳ありませんが、よろしくおねがいいたします。


 





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2004/08/28

夏のおもひで


 ごぶさたしております。

 ここ何週間か、酔っぱらいながら何か書こうと思って、だいたい書けたなと思ったところで眠っていた。朝になったら読み返す気にもならなかった。そしてオリンピックの肝心な場面は見逃した。


 オリンピックといえば、バタフライで銀メダルをとった山本貴司を、妻の千葉すずが迎える場面を見て、大人だなあと思った。すずが。

 「どうや」とか「見てみい」とか「超きもちいい」とか邪気のない言葉を、男に言わせられるのが、いい女ってもんだよなあと。

 引退しても、しっとりといい笑顔をしているし。


 北島は文句なしに抱かれたい男ナンバーワンぐらいのかっこよさだが、個人的には、すずのひそかな女っぷりに参った次第。


 そんなことが夏のおもひでか、というと、私的なこともなくはないのだが。

 高校生のときに買った浴衣を着たとか、衝動的に水着を買ったけど着なかったとか、夏も終わりなのにキャミソールを3枚買ったとか。

 そんな女の子らしい要素を散りばめながら、実際は仕事にかなりエネルギーをつぎこんで燃えつきている状況です。


 






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2004/07/28

官能


 「真珠の耳飾りの少女」という映画を見た。特にたいした濡れ場があるわけではないのだが、全編にわたって官能的だった。

 少女の苺みたいなくちびるとか、手が触れそうで触れないとか、そういうビジュアルを丹念に描くことで、具体的な行為を映すよりも、観客をどきどきさせていると思う。


 職場で、夜になって頭が溶けてくると、「そのゴールドのビーサンで俺を踏んで」などとのたまうデスクがいる。軽く足を踏んであげると喜んでいる。

 あほだなあと思うけれど、日常にちょっとした官能を見つけて楽しんでいる姿勢は悪くない。


 行為がなくても官能を感じられるのは、人間のおいしいところであり、危険なところでもある。想像力のなせる技である。


 せっかくの想像力を、嫉妬の方向にふくらませるのは、恋愛している人にありがちな傾向だ。そんなことよりも、女の子のおでこだったり二の腕だったり、男の子のすねだったりハンドルさばきだったり、そういうところに官能を感じているほうが幸せだ。

 カリカリしているよりも、ぽわーんとしているほうが、周りの人にもやもや感を抱かせることだろうし。


 よく分かってるのだが、こればかりはなかなか意識的にはできない。夏なんだからもう、ぽわーんとしていたいものだが。

 







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2004/07/20

近況


 海外出張していました。写真は北京の女の子。


 ここへきてどっと疲れが出てしまい。すみませんが、そのうち更新します。







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2004/06/20

幻想


 もう60に近い独身の叔母がいる。

 東京郊外のアパートに、何十年も住んでいる。狭いけれど日当たりがよく、眺めがよく、味のある住まいに一人、住んでいる。

 昔は出版社に勤めていたが、周りの人と折り合いが悪くなったりして、やめてしまった。そのあとはずっと、フリーで仕事をしている。気の強い人で、人に対して許せないことが多いのだ。


 円形脱毛症に悩んでいたときもあった。「ほら、私、頭にマルがあるから」と、子どもだった私に対して、笑いのネタにしていた。

 そのころは長い髪を三つ編みにしたりしていて、まだ女らしかった。ここ最近はめっきり短くしていて、白髪も染めず、服装にもあまり構っていない。なんだか、色気というものを無理に押し込めているようだ。


 ちょっと前に私が車を持っていたころ、叔母に用事を頼まれて、二人で車に乗っていろいろと話すことがあった。

 「結婚とかいう話はなかったの? 若かりしころは」などと聞くと、「私だってすごく好きになった人がいたのよ」とむきになって言う。その人とは30ぐらいのとき、ちょっとつきあっていたらしい。どういう経緯かわからないが、結局、ほかの人と結婚してしまったようだ。

 「そのひと今でも、雑誌とかテレビでたまーに見かける」という。美術系の評論みたいなことをしている人らしい。

 なるほどと思った。叔母が、骨董とか茶事とか、能とか歌舞伎とか、いわゆる「別冊太陽」な世界に傾倒しているのは、その人の影響が大きかったのだ。いまだに、その世界のことを吸収しようとしているのは、その人がまだ心の中に住んでいるからだろう。


 最近、人の紹介で、かなり美白に効果ありと思われる石けんを購入した。「これは、いけてない叔母さんにもひとつ」と思った。いつまでも少女みたいに一人の人を思い続けてないで、ちょっとは色気出してほかにも目を向けてみたら、とおせっかいな気持ちがはたらいたのだ。

 でも、思い直した。石けんはいいとしても、その男に執着するなというのはやっぱり余計なお世話だなと。


 叔母は、なんだかんだとその人の幻想を支えに、日々生きているのかもしれない。それだけ支えになっている幻想を、否定することなど誰にもできない。


 人を好きになるのなんて、いつでも幻想だ。どんなに身近にいる人でも、すでに死んでしまった人であっても、それは大して変わらないのだろう。幻想のベースになる思い出が塗りかえられるかどうかの違いだけで。


 真珠の核みたいなものである。どんな石ころでもいいから、これと思ったのを貝の中に取り込めば、なんでも真珠になってしまうのだ。

 この核は違ったとか、あれの方がよかったとか、最適な核を求めてあれこれともがくよりも、ご縁のあった人を大事にして、幻想という分泌物で真珠に仕立ててあげればいい、というだけのような気がする。








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2004/06/07

罪優感


 10年ほど前に妻を亡くしたというおじさんと、なんとなく飲み仲間になっていた。大企業の研究所を退職して最近、個人の会社を立ち上げた人で、仕事がらみで知り合った。

 長身だがえらく細身で、ちょっと体が弱いらしい。強引にたとえるなら、ウディ・アレンから皮肉っぽさを抜いたような感じだ。

 あまりにもエロさを感じない、どちらかというと枯れ気味な感じに見えたので、安心してつき合ってきた。


 一度、ひょんなことから私の家にカレーをつくりに来た。ほかに参加者がいない状況だったので、さすがにちょっと踏み込ませすぎたなと、カレーを食べ終わってから後悔した。でも、何ごともなく、早い時間にさくっと帰ってくれた。紳士だなと思ったが、もしかすると、こちらの後悔が多少、伝わっていたのかもしれない。

 その人はカレーをつくるとき、「楽しいねえ」と何度も言っていた。


 「ディズニーランドは子どもと何度か行ったんだけど、ディズニーシーに行っていなくて、一度行ってみたい。一緒に行かない?」と言われた。

 「そういうところあんまり好きじゃないんですよ。なんていうか、つくられたところって」と即答した。本音だった。

 「そう。でも、男と行くところじゃないし、子どもももうそんな歳じゃないし、ほかに一緒に行ってくれる人がいないから」と言う。

 聞いた瞬間、この人の淋しさの深いところに触れてしまった気がして、重さと切なさを感じた。私は安易につき合い過ぎた、と思った。


 こういうとき、「私じゃなくてほかに一緒に行ってくれる人、いてくれ」と思ってしまうので、本当にずるいと思う。

 男として好きな人だったら、自分のほかにサシで遊ぶような女はいないでほしいと思うのに、男として見ていない人には、ほかに遊び友達の女が何人でもいてほしいと思う。


 その人とディズニーシーに行くことはないと思う。
 ただ、優しくすることを繰り返していると、いつのまにか責任のようなものが生じてしまう、ということを、身にしみて感じている。







 

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2004/06/03

島ぐらし


 先日、クロウトな友人女子と八丈島へ行った。その影響が大きかったらしい。

 北陸出張の空路のお供に買った雑誌が「沖縄スタイル」。島ぐらしへの憧れといえばわかりやすいが、ようは現実逃避である。

 都会から移住した沖縄ライフな人たちをぱらぱらと眺め、レゲエやボサノバで頭の中をゆらゆらと満たす。食い入るように物件情報を見て、いちいち生活を想像する。へんてこな間取りの一軒家を見つけ、「これは」と興奮する。


 八丈島では、東京や関西から移住した文化度の高い女たちに会った。オサレなカフェを経営していたりするのだが、都市で見かけるそれとは違う生命力を感じた。

 そこでは、ピンヒールのミュールも、ビトンのバッグも、メルセデスも、何の意味もなさない。海にもぐって適度に肌を焼き、魚や貝を採り、そこらじゅうに咲く南国の花を摘み、健康的にセックスをして、子を授かることが、女としての魅力に直結している場所だった。企業の論理のもとで日々を忙殺している生活よりも、いたって健全に見えた。


 うらやましく感じたのは、彼女たちに迷いがなさそうなところだった。カフェの女主人は、私たちの訪問で東京の空気に触れてうれしそうだったが、あせりや気負いはなく、あっけらかんとしていた。


 東京における自分は、迷ってばかりいる。迷えることが楽しいのだともいえるが、それもしんどくなってくる。なんでも選べることは、なんにも選べないことかもしれない。


 だからといって島ぐらし、というのは唐突すぎるのだが。しばし妄想することで、何かが見えてきそうな気が勝手にしている。






 

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2004/06/02

表情


 出張続きです。

 平日夕方の新幹線の車中。スーツの男たちに混じって、子ども連れの女の人がいた。

 子どもはまだ0歳か1歳ぐらいで、ひどく泣いていた。ビジネスモードな男たちの間で、泣き声はきんきんと響いた。まもなく女は子を抱いて立ち上がり、デッキの方へ歩いていった。

 女は疲れているようでも怒っているようでもなく、あまり表情のない、どちらかというとさえない顔立ちだった。無に近い表情で子を抱いている姿を見ると、ちょっと気が滅入りそうになった。

 女と子は東京に近づくまで席に戻って来なかった。のぞみの新幹線には「多目的室」という場所があって授乳などができるらしいので、そういうところにずっといたのかもしれない。


 品川駅に停車中、ホームに降りた彼らが窓越しに見えた。夫らしい男が迎えに来ていた。知的な、頼もしそうな人だった。男は子を抱き上げた。子はおとなしく、かすかに笑っていた。

 夫を目の前にした女は、はじめて屈託のない、穏やかな笑顔を見せた。この人、こんなにかわいかったんだ、としばし見とれた。これだけかわいい表情のできる人なら大丈夫だ、と勝手に人の幸せを確信して安堵したりした。


 人の美しさというのは、造作ではなく表情なのだなあと思った。そして女をきれいにするのも醜くするのも男なのだなあとも。つくづく。





 

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2004/05/10

迫力


 過去に村八分にされたことがあるとか、リンチされたことがあるという経験を持つ男と、ある程度深い仲になっている傾向がある。


 そういう人でないと魅力を感じないとか、そういう人であれば誰でもいいというわけではまったくないのだが、蓋を開けてみるとそうだったりする。

 理由を考えてみると、そういう人に、ある種の迫力を感じるからかもしれない。


 ある時期、まわりに迎合しないで生きたことによる強さと、そのときの屈辱が生む怒りによる迫力だ。物理的に血を流していなかったとしても、何らかの抜き差しならない戦いを経験したということが、結果的に、男の色気につながっているように思う。

 気に入らない奴だと周りに思われるのは、その男が何らかの妬まれる要素を持っているからだ、ということもあるかもしれない。


 暴力をふるう人は遠慮したいし、喧嘩も戦争もしないに越したことはないが、それでも、生きていく上では周囲とのいろいろな戦いがある。

 迎合しない、という姿勢を貫ける人はそれほど多くはない。それも、何にも甘えずに。何かに甘えながら肩ひじ張っているチンピラみたいな人もいるが、そういう人は孤独ではない。
 周囲に対する感覚が鈍すぎるために孤独という人もいるが、そういう人は鈍さゆえに、その経験が強さに転じているということもなく、いつまでも変わらない人という印象がある。


 迎合しないことによる孤独に耐えたことのある人は、一見ソフトに見えても、独特の迫力を静かにかもし出している。


 そういえば、うちの父にもどこか一匹狼的な雰囲気がある。あまり認めたくはないが、原点はここかという気もする。


 単純明快な恋愛ができないのは、そんな単純明快でない男とばかり縁があるから、というか、自分で縁を保っているからだろう、とは感じているのだが。何に色気を感じるかは、ひとえに感覚の問題なので、こればかりはどうしようもない。





 

 

 

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2004/05/08

ちょっと好き


 「ちょっと好き」から「すごく好き」までの度合いは、実はコントロール可能だと思う。


 「すごく好き」という気持ちを抱いてしまうと、相手と一緒にいる時間や、相手を思う時間をかなりのボリュームで自分の中で割かなければ、その思いは満たされない。

 自分もヒマで相手もヒマならいいが、現実はなかなかそうはいかない。なので、理想と現実のギャップが生じて、嫉妬したり、苛々したりする。恋愛がますますエゴに支配されていく。


 一方、仕事が忙しかったり、毎日いろんな人と飲み歩いたりしている人であれば、「ちょっと好き」ぐらいの気持ちのほうが、恋愛、あるいは恋愛じみたものをうまくまわしていけるのだろう。


 忙しい人が「ちょっと好き」と思う気持ちと、ヒマな人が「すごく好き」と思う気持ちに、それほど大きな差があるとは思えない。どちらにしても、最終的にやっていることは同じだったりするのだ。

 思いの強さをどう自覚するかは、おそらく相手の魅力の度合いによるのではなく、自分の空いている時間や心の隙間をどれだけ埋めたいかという、本人の事情に比例するのだ。


 とても仕事が忙しい知り合いの男の子は、同居中の彼女に「なんで早く帰ってきてくれないの」といつも責められ、しまいには刃物まで持ち出されたという。

 彼は迷惑しつつも「こんなに愛されてる俺」とまんざらでもない気持ちもあったようだ。実際のところは、やや情緒不安定で、ゆるいバイトしかしていないヒマな彼女の事情が、思いの強さを狂気に至らしめただけなのだ。


 適度に忙しく、好きな相手には「ちょっと好き」ぐらいの気持ちでいるほうが、健康な心の状態を保っていけるような気がする。

 ちょっとヒマになると、「ちょっと好き」な人に大好き光線を放ちたくなって空回りする自分のヤバさをよく知っているので、そうやってコントロールしている。




 

 

 

 

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2004/04/29

ワケあり


 ワケありの友人女子のために、ルームシェア関係のサイトを見ていた。女子というより、もういい歳の女の人なのだが。なんだかんだといって、彼女とのつき合いの密度は年々、濃くなっている。

 自分が一緒に住んであげられない申し訳なさもあった。他人にペースを乱されるのが相当嫌なのだな、という自分を発見しつつ。冷たいのかもしれない、と軽く落ち込みながら。


 ネットを見る限り、ルームシェアしたい人は驚くほど多い。経済的な事情がある人はもとより、話し相手が欲しいとか、一人では淋しいという人も少なくない。

 10代のころ、寮生活に憧れた時期があったので、気持ちはなんとなく分かる。いまは、恋人でもない他人と一緒に暮らす気はないが、そのうち孤独なおばあさんになったらシェアメイトを募集しているかもしれない。


 ワケありの彼女は、甲斐性のない成金のパートナー以外は、もはや肉親に縁がない。いわば天涯孤独だが、不思議と悲壮感を感じさせない。

 生きるのに必死だと、感傷的になるヒマなどないのだろう。たまに、話しながらおもむろに涙をぽろぽろ流しているが、そのあとすっきりした顔をしている。

 強い人だけが生きていけるのだ、と思う。




 

 

 

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2004/04/17

相性


 知り合ってまもない男と食事したりするとき、「俺たち、話が合うね」と妙に喜ばれることがある。

 自分としては、特に話が合うとは思わないのだが、そう思わせてしまうところがあるらしい。

 仕事柄もあるが、つまらないオシャレな話題から下ネタまで、話を合わせるのには慣れている。
 相手がまだそれほど打ち解けていない人や、違う価値観を持っている人であるほど、「でも、そういうのつまんないっすよー」とは言いにくい。そして、どちらかというと話に乗って、気分よくさせているのかもしれない。

 そうこうしているうちに、いつのまにか御休憩や御宿泊に誘われていたりする。「話が合う」というだけで(しかも思い込み)、セックスしていい仲と思われてはたまらない。丁重にお断りすると、男はなんともせつない顔をして去っていく。


 「体が合う」という思い込みはさらにやっかいだ。

 ある女子は、うっかり寝てしまった相手に「体の相性がいい」と言われて困ったという。彼女としては特別合うというほどでもなく、明らかにもっと相性がいいと思える相手はいたのだが、そこで否定したときの冷ややかな空気が恐ろしくて、曖昧にしていたらしい。


 合う合わないというのは、ほとんどが思い込みで、願望のあらわれなのだ。相性などという科学的根拠のない物差しで自己を正当化するよりも、お互いに利用し合っていることを認めたほうがすっきりするのではないか。

 たとえ舞い上がっていても、「相性のよさ」を振りかざして相手にプレッシャーを与えるのはつつしんでほしい。

 などというと、「思わせぶりなことするな」と言われそうだが。いえ、女は常に、自分にメリットのあることを実行しているだけなのです。




 

 

 

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2004/03/29

裏腹


 人がわざわざ口にする言葉は、疑ってかかったほうがいい。

 「僕は奥さん一筋」と言いながら、適当に女と遊んでいる人を知っている。

 「俺は遊び人(女関係で)」と言いながら、いざというときには小心者という人も知っている。

 セックスに自信のある発言をしている男はたいてい、ひとりよがりで女が合わせているパターンだろう。そんなニブい男に至っては、検証にも値しない。


 善人ぶる人ほど自分のことしか考えていなかったり、逆に悪人ぶる人ほど思いやりがあったりする。善のなんたるかを知らない人は気軽に善を語れるが、善の難しさを知る人はたやすく口にしない。


 「一生幸せにする」などとやすやすと口にする向きにも、個人的には違和感をおぼえる。幸せにするってどういうことか、わかってんのかと思う。言われたことはないが。




 

 

 

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2004/03/24

職業的浮気


 ある取材先の人に言われた。

 「そうやってホメ殺して、また次の人を取材するわけでしょう」

 なかなか鋭いことを言う人だ。

 別にホメ殺しているつもりはないが、相手に何らかの価値を認めて取材をしているわけなので、自然とそういうふうに感じられるのだろう。
 「あなたに信頼を置いています」という態度は、かなり割増しされて相手に伝わっているのだと思う。

 実際、記事が出てしまったらもう、次の取材先のことを考えている。スパンの短い恋愛をしているようなものかもしれない。


 こういう関係性は、何も取材だけではない。

 監督と俳優、作家と編集者、建築家と施主、美容師と客――。異性でなくても、同性同士でもそういう面はあるだろう。

 密度の濃い信頼関係をいろいろな人と結んでいく行為がある限り、小さな浮気心と嫉妬心の発生を無視することはできない。そういう事実をクールに受け止めるのが大人社会だ。


 そう考えると、人を束縛するなんて野暮なことなんだろうなあ、と思う。私的な人間関係であっても。

 などと、ものわかりのいいふりをするのが自分のダメなところだとは気づいているのだが。



 

 

 


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2004/03/13

リカ


 ふいに思い出したのだが、小学校4、5年ぐらいのとき、漫画を描いていた。

 漫画といっても、コマ割りもなく、絵にちょっとした吹き出しと文をつけただけのものをいくつも描いて、話を展開させている程度だった。
 でも当時、そういうストーリー仕立ての漫画を描いている子は周りにいなかったので、私のお絵かきノートがクラスで回し読みされるぐらい、その漫画はちょっとした人気があった。


 「なかよし」とか「りぼん」に影響されていた頃なので、話は当然のように恋愛ものだった。

 美子(よしこ)ちゃんというかわいい女の子がクラスに転校してきて、男の子にちやほやされ、以前モテていたリカという女の子が美子ちゃんに嫉妬して因縁をつける、という場面があった。

 描いていたときの私は、善良な美子ちゃんに共感しているつもりだったが、いま考えると、感情的でちょっと意地悪なリカのほうが断然、キャラが立っている。
 リカはかわいいけれど、悪役顔で描かれている。小学校4、5年で嫉妬などという感情を持つキャラを生み出したということは、つまり当時の私の中にリカがいたということだ。


 30歳になった美子とリカを想像してみる。美子はおそらく、感じのいい商社マンかなんかと結婚して、成城あたりに住み、子どものためにお菓子なんかつくっているのだろう。

 リカは、結婚して家庭におさまっているなどということは、まずありえない。仕事も野心的にこなし、デートする男も複数いて、でも皆にはヤラせない、というおいしいとこ取りをしている感じだ。

 欲張りなのだ、リカは。

 そして、実は、「かわいい」と言われるよりも、「おもしろい」と言われることに喜びをおぼえるのがリカだ。かわいいだけでおもしろくもない美子のことを、リカは嫉妬していただけでなく、おそらく軽蔑していたのだろう。

 美子に憧れていた小学生の私だったが、美子とリカを描き分けている時点で、美子にはなれなかったのだ。


 それに気づいたいま、自分に開けているのはリカ路線の茨の道だということを、改めて受け止めている。悪女ならまだ聞こえはいいが、そのうち欲張りな意地悪ばあさんになるだろう。
 まあ、それも、いいかもしれない。


 

 

 


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2004/02/29

編集


 マスコミの人間はインテリやくざだと言われることがある。

 そうだよなあ、と思う。

 人に取材してハイエナのようにネタを取り、メディアの都合のいいように編集していく。取材されるほうにしてみれば、「自分をこんなふうに編集しやがって」と不本意になることもあるだろう。

 「俺をこんな安い人間に見せるな」とか、
 「俺の家をこんなありきたりに表現するな」とか、
 「俺の仕事をこんな一言で言い切るな」とか。

 自分も、取材されて「なんだか遊び慣れた女みたいになってるよオイ」と戸惑ったことがあるので、気持ちはよく分かる。

 多くの人は、自分をかけがえのないものだと思っているだろうし、特別な存在だと思っているだろう。
 取材されて、メディアにある枠組みで「編集」された表現が、自覚している自分のイメージと違っていれば、なんなんだと思うのは無理もない。


 ただ、自分の扱われ方に非常にうるさい人がいるかと思えば、「好きに編集してくれ」とまったく動じない人もいる。

 後者のほうは、単に善良な人というのではなく、どこか肝がすわっている人だ。自分の生きかたや仕事には十分、こだわりがあるのだが、自分を大きく見せようとしない。「あなた方の都合のいい大きさで切り取ってください」というスタンスだ。


 どんなに自分が一生懸命がんばっていても、しょせん人からは、ある大きさでしか切り取られていない。相手が恋人とか伴侶とか、身近な人であっても、基本的にはそうだ。みんな、自分以外のだれかについては、無意識に自分の都合で「編集」しているのだ。


 「人から理解されていない」「私はそんな人間じゃない」ともがくよりも、「都合のいいように」と構えられるようになりたい。

 人をピエロにするやくざな職業として、自分もどんなピエロにでもなりましょう、と。

 そうなれれば、いろんなことが、楽になるかもしれない。


 

 

 


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2004/02/21

殴る蹴る


 夢を見た。

 私は部屋で男と絡まりあっていた。身近にいる男と似た特徴を持っていたが、そのものではなかった。夢の中では、そういう間柄の男という設定だったようだ。

 絡まりあいながら男はふと、思いつめたように、「電撃結婚」と早口に言った。

 意味がよくわからなかった。

 「あなたが?」男は頷いた。

 「だれかと?」男は頷いた。

 「なあんだ彼女いたんだあ」と言いながら私は床につっぷし、そのまま声を上げて泣いた。そしてしたたかに男を殴り始めた。

 男を殴り、蹴り、押し倒した。男はされるがままだった。押し倒された男の腕を引っ張り、「出てってよ」と玄関口まで引きずり出した。

 男がドアから出ようとするのを見て、まだ怒りがおさまらなかったのか、私は再び男の腕を引っ張ってドアの中に入れると、さらにお腹のあたりを蹴った。

 男は苦笑いしながら私を見て、「感情をあらわにしているさまがかっこいい」というようなことを言った。はあ?何言ってんのこの男は、とやりきれない気持ちになった。

 そのあたりで夢はフェイドアウトした。


 2時間ドラマみたいだ。現実の生活で、こんな修羅場を演じたことはないし、暴力を振るうこともない。こういう夢を見るということは、いろいろ抑圧しているものがあるのかもしれない。

 ひさびさに「ほほう」というようなヒット作だったので、とりあえず記録しておく。


 

 

 


 

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2004/02/08


 実家の父の書棚から借りた文庫本に、飛行機の搭乗券の半券が挟まれていた。

 「11月29日 ANA247便 福岡 禁煙」

 本の黄ばみほどではないが、搭乗券の色も薄くなっていたので、最近のものではないと分かった。裏に小さく「99」と印刷されていたので、おそらく99年の11月に福岡へ行ったのだろう。

 単なる出張だったのだろうと思うが、ふと発見してしまう、こういう半券のたぐいは、妙になまめかしい。

 その半券には、私の知らないそのときの父の緊張感や高揚感、あるいは倦怠感がまとわりついていたはずだ。


 身近な人であっても、自分の知るその人は、いつも自分向けの顔をしている。自分の視線が届かないところで、どんな思いでどんな顔をして行動しているのか、なかなか知るすべはない。

 誰しも、家族や恋人に見せる自分と見せない自分、見られたくない自分を持っている。それは、相手に対する無意識の礼儀なのかもしれない。


 人には多かれ少なかれ、闇がある。闇の存在を発見してしまうと気になってしょうがないのだが、それは無理やり明るみに引っ張り出さなくてもいいのだと思う。

 じっと見ていれば、たまに細い光が差して、闇の一部がチラリと照らされる。そのぐらいが、どきどきしていいような気がする。


 父から借りた文庫本は、向田邦子の「無名仮名人名簿」だった。父と娘のぎこちない関係をよく描写するこの人の本を、父も私も好んで読んでいる、というのが不思議な感じだ。

 

 

 


 

 

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2004/02/03

(前のコラムが誤解を招きそうなので早めに更新)


ゆでたまご


 ゆでたまごの殻をむいてもらったことがある。

 バイキング形式の朝食を、ある男と食べる機会があった。男は自分の皿にゆでたまごを持ってきていた。私はゆでたまご好きなのだが、バイキングテーブルに置いてあるのが生たまごに見えたので、自分の皿には持ってこなかった。

 男がゆでたまごの殻をむき始めたので、なんだゆでたまごだったのなら持ってこようかなと私は言いつつ、ほかのおかずを食べていた。まもなく殻をむきおわると、男は私の皿にそのゆでたまごを置いた。

 予想外のことだったので「いいの?」と言うと、男は「うん」と言う間もなく新しいゆでたまごを取りに行った。


 どうということもない出来事だが、私には人に対してこういうことはできないかもしれない、と思ったので、妙に感動した覚えがある。

 自分のことは自分でやる、という感覚で育ってきたので、人に対しても自分のことは自分でやんなさいよ、という気持ちがなんとなくあった。

 なので、肉親でもなく、利害関係もない相手に、当たり前のようにゆでたまごをむいてもらったとき、こういうことをされるとうれしいんだ、としみじみ思った。


 名店のディナーや、高価な指輪や、オリジナルラブソング(いずれもほとんどもらったことはないが)などを頂戴するのも気持ちいいのかもしれないが、そのエネルギーとコストのかかり具合で思いを示されているような、「説明責任を果たしました」みたいな感じがしないでもない。


 ゆでたまご的感覚で人に優しくできる人は、たぶん、恋愛や人間関係にそれほどコストをかけなくて済むはずである。お金だけでなく、労力も含めたコストだ。


 ちょっとした男がらみにも精神的な労力を払って疲れている私はまだまだだなと思う。


 

 

 


 

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2004/01/31

動物たち


 男というのはまことに女を苛々させる動物なり。

 例えば、
 酒のうんちくを聞かされている女の退屈を察せない鈍感さ。

 例えば、
 将来への決定力のなさに失望している女に甘える態度。

 例えば、
 避妊に失敗したときの女の精神的動揺を感じとれない無神経さ。


 男が「けっこう気をつかってる俺」と自負する10倍ぐらい、女には気をつかったほうがいい。それも、女々しくではなく、男っぽく。

 「何かあったら俺んとこへ来い」というような男気が見たい。オオカミでもライオンでもなく、ゾウのような雄大な男気。



 


 

 

 

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2004/01/24

変わる


 過去のことはあまり振り返らないので、自分が書いたことをかなり忘れてしまっている。ふと読み返してみると、なんだ究極の愛について書いていたわ(ユーミンの歌をネタに)、などと改めて発見したりする。

 たった半年か一年ほど前に書いたものを見ても、今の自分との違いを感じる。それ以上前になるとなおさらだ。昔の私は強がりで生意気で幼稚だなあと思う。


 自分が変化することは嫌いではなく、むしろ積極的に変化したいと思ってきた。


 でも、ある男に言われたことがある。
「あなたには変化を求められるから辛いんだよね」と。

 それを聞いて愕然とした。確かに、人の変化は魅力的に映りやすい。でも、おそらく本当は、その人の変化するところよりも、変化しないところを好きになっているはずなのだ。


 「変化がないからもうこの人には飽きた」という状況があるとすれば、それははじめから相手を好きになりきれていなかった、ということなのだろう。


 いまは、「変わらなくても好きだから大丈夫」と言えるぐらい大人になったかもしれない。



 


 

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2004/01/17

愛・その3


 「おもしろい人たちと飲んでるから」と電話をくれたのはTという男だ。

 行ってみるとTのほかに3人の男がいて、みんないい感じにできあがっていた。それぞれ仕事がきっかけでTと仲良くなった人らしい。


 Tと3年ぶりに会ったという男が酔っぱらいながら私に言った。

 「僕はT君のことが大好きなんですよ。どおですかT君は」

 「いやあ、大好きですよ」

 その人は何度も同じことを言っていた。

 3年間会わなかったけど大好き、というのがいいなと思った。前回の占い師に会って以来、愛とは何かつらつらと考えていたが、こういうのも素敵な愛ではないかと。


 束縛もせず、連絡もせず、でも心の中にほんのりといる。あるいは隠れているけど何かの拍子に登場して、エネルギーをくれる。

 依存しない愛というのがテーマかもしれない。私には。



 


 

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2004/01/14


 中野で仕事がらみの帰り、ふらりと占いの店に入った。特にせっぱつまった心理状況だったわけでもなく、冷やかし程度だったのだが。

 占い師は、どちらかというと経営者として有能そうな50歳ぐらいの男だった。断定口調でいろいろと指摘され、多くは思い当たることだった。抽象的な質問をぶつけてくる人で、「愛」について禅問答のようになった。


 「じゃああなたが最も恐れていることは何? お金に困ること?それとも愛情に対してハングリーになること、つまり孤独?」

 「お金は別に。愛情に対して……ですかね」

 「孤独を恐れてるんだね」

 「ということでしょうか」

 「じゃああなたは売れない芸術家と一緒になれる? あなたは才能を認めているんだけど世間には認められていなくて、あなたが食べさせなければならない」

 「………無理かもしれない。仕事ができて自立した人がいいので」

 「冷たいね」

 「想像したことがないので、なんとも」

 「経済力と愛情の両方を求めようなんて無理だよ。理想を求めすぎる」

 「そうでしょうか。自立してくれる程度でいいんですけど」

 「じゃあ、愛情とは何? 一言でいうと」

 「愛情ですか? 一言で? うーーーーーん」

 「………答えられない?」

 「うーーーーん」

 「僕は、愛情とは、その人がいないと生きていけないことだと思う。その人を失ったら、息ができない」

 「………」

 「その人から生きるエネルギーをもらっているということだよ」

 「ああ、生きるエネルギーですね。それはわかるような」

 「でも、ほとんどの人には当てはまらないけどね。結婚式なんかで永遠の愛を誓い合っているけど、ぜんぜん嘘。慣性に従って、居心地がいいだけの人への感情を本当の愛だと勘違いしている」

 「本当の愛ねえ…」

 「僕も経験したことはないからわからないけどね」

 「経験したことがあるからおっしゃっているのかと思っていました」

 「ない。あったらここにいないよ」


 それ以上は追究しなかった。

 前回のコラムで、犬にフリスビーを投げるような愛情について書いた。だが、その占い師が言わんとする愛情の姿は、そんなバラ売りできるチョコみたいなものではなさそうだった。

 結局、彼の言う愛情の全貌はよくわからなかったが、おそらくそれを得られる人は、ものすごい幸せとものすごい絶望を味わうのだろう。羨ましいような、恐ろしいような。


 手相を丹念に見られ、色気を利用した商売をするといいと言われた。占いの店を出てふらりと入った古着屋で買ったのは、マリリンモンローが「七年目の浮気」で着ていたような形のワンピースだった。



 


 

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2003/12/29

無雑作に


 昔、鶏鍋をつつきながら男の前で泣いたことがある。

 今ぐらいの暮れの日で、日本酒のたくさん置いてある、どちらかというとオヤジ客の多い店だった。

 暮れの過ごし方についての私の提案に、男が気のない態度を表した。私はあからさまに不機嫌になり、鍋の中でやわらかくなった野菜を自分の取り皿に乱暴に移し始めた。「乱暴に」とは、その男の表現だ。自分でも驚いたが、気がつくと私は泣いていた。


 正確には、私が目に涙を浮かべた時点で、男がそれを察知し、「泣くなよお」と言ったのだ。それを聞いて紙ナプキンで涙をおさえようとすると、さらに涙があふれた。

 居酒屋で泣く女など、相当迷惑だろう。隣りのテーブルでは、男女4人ぐらいのグループが、ときおり下ネタを交えながら鍋をつついていた。幸い彼らは私の泣きに気づいていないようだった。あるいは気づかないふりをしていたのかもしれない。


 男は迷惑そうではなかったが、明らかに困っていた。

 自分でもつまらないことで泣いたものだと思う。
 気のない態度を示されても、もう少し強引に自分の意思を主張すればよかったのかもしれない。ただ、自分の中では、気のない態度を示されたら意味がない、と思っていた。あまりにも繊細に考えすぎ、理想を追い求めすぎたのかもしれない。

 男は私が泣いた発端は分かっても、理由はほとんど理解していないようだった。自分が泣く理由さえはっきりと分からないのに、人が泣く理由など理解できるものではない。


 男はしばらく、なぜ泣いているのか探る態度を示していたが、そのうち、「もういいや、分かんねえ」と投げやりに言った。

 その言葉を聞いて私は少しむっとしたが、それでいいとも思った。分かったふりをされるほうが、むしろ溝は深くなる。

 そんなこんながあっても体を合わせてしまえば、お互いに少しは分かり合ったような気になる。言葉は永遠に真実にたどりつかないが、行動は少なくともその場の真実だ。


 たとえば、飼い犬にえさを与えれば美味しそうに食べてくれるし、首や頭をなでれば気持ちよさそうに目を細めてくれる。

 だが、犬が日がな一日、庭の木を眺めながら何を思っているかは知るすべもない。たとえそのとき、犬が心の中で涙を流していたとしても、そんなことは犬に任せておくしかない。

 悲しそうな犬の目の前をかすめるようにフリスビーを投げ、なかば面倒くさそうな彼の態度を無視してでも気を紛らわせてやろうとする。
 そういう無雑作ないろんな行動が、愛情というものかもしれない。



 


 

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2003/12/06

女職業


 飲み相手と別れた後、新宿の女性専用サウナで一夜を明かした。

 場所柄、利用客は夜の商売の人、しかも韓国の人が圧倒的に多い。なんというか非常に濃いクロウトっぽさ。日本人のOLグループのねむたい会話などは聞こえてこない。

 夜が深くなるにつれ、洗い込まれた白いガウン一丁をまとって、女たちが仮眠室にわらわらと集まってくる。

 リラックスチェアや床の上にごろごろとマグロのように転がる女たち。そんな女の体に挟まれていると、家にいるときのようにくよくよと考えることはない。
 なんというかこう、クロウトな女として、ただただ自分の体のマネジメントについて考えている。この後はどれぐらいサウナに入って最後に髪を洗おう、とか、朝は韓国海苔でおかゆを食べよう、とか。

 「癒し」や「ごほうび」といった甘ったるさもなければ、「女を磨く」とか「自分ブランド」といった最近のアンアンみたいな鼻息荒い感じもない。そこにあるのは他者の目ではなく、自己管理という黙々とした営みだ。


 サウナを出て午前5時、ドンキホーテで食材やレアグッズを物色していると、ロングコートを着たおっさんと店内で何度も目が合う。女であることを面倒くさいと思う瞬間。今、女職業の業務時間外なんだけど。

 思い切り避けるように方向転換したら、どこかへ行ってしまった。


 


 

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2003/11/24

甘やかな酩酊


 酒には救われる。

 白ワインかと思ったらスパークリングワインで、開けると泉から湧き出るように金色の水したたる。ボトルの感じと蓋を見れば一目で分かるはずも。そういう間抜けなことをしてしまうのもまた一興。絨毯から漂うは共犯的に微笑む快楽の香り。

 濃厚な深紅のアマリリスを購入。花粉の出るめしべだかおしべだかが出てきたらすぐに取ってしまうようにとの指示。断たれる生殖行為。

 衝動的に聴きたくなったビートルズ後期のアルバムも購入。普段より大きめの音量で部屋中を満たす。


 男に電話してみたところ出ず。基本的に電話は震わせているらしく。2時間後に返答あり。どうやら立てこんでいるらしく。「何か楽しいことしてるの?」と問われ。一人で酒盛りしていると言うと「どんどんやって」と。この言葉だけで、その前の時間よりも確実に楽しく過ごしている自分。かなりおめでたい。ほんとにおめでたい。

 つまみは白かびチーズ、ブロッコリー、天草特産かりん糖ちりめんじゃこ入り。

 購入したばかりの本は坂口安吾。偽善と欲望に対して意識的な人。あまりに意識的すぎて、本命の女とは生涯セックスしなかった。そしてどうでもいい女と溺れていた。体だけを愛していると自認しながら。


 生きるとは、自分といかにつき合うかだ。

 自分の時間をどうやり過ごすか、誰を選び誰を選ばず、どうつき合いどう距離を置くのか。

 うわっつらな女の集団でつるんだり、つまらない男と会食したりするくらいなら一人で酒盛りしている。

 排他的な人間だと思う。変な緊張感を少しでも感じると居心地が悪くなる。人に対して一面では惚れこみつつ、他面では失望し、ダメ出しをする。そして一人の時間を増やしていく。

 孤独な夜を酩酊して踊りながら過ごす。そんな時間を少なくとも甘やかに過ごせるうちは、当分はタフに、なんとかごまかしつつ、生きていくのかもしれない。


(こんな文章を飲みながら書いていた。せっかくだから公開しておきます)


 


 

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