〈第4回〉「命名弘前劇場」(4) (2008年3月24日更新)

 さて、ここでまた私と弘前劇場を取り巻く当時を振り返る必要がある。
 大学1年の冬の初め。今はなき『シティー・ロード』という雑誌を片手に、一橋大学のグラウンドで私は生まれて初めてアンダーグラウンド演劇に出会った。唐十郎(状況劇場)の『河童』であった。
 その衝撃は高校時代の新劇体験を粉砕して余りあった。まるで子宮のような紅テントの内部から洩れる独特の禍々しさに目眩を覚えた。
  「すいません、観客の皆さん、場内非常に立て込んでおります、まだテント内にご入場できないお客様のために、若干のご協力をお願いしたいと思います。よろしいでしょうか? それでは一列目のお客様、かけ声をかけさせていただきます、かけ声と共に皆様いっせいに右へ10センチ移動ください。それでは、セーノっ!」。30人ほどが一斉に10センチずれると、少なくとも5人は入ることができるスペースが生まれる。そして、それを今度は5センチに減らして、またもかけ声と共に一斉に観客がスペースを空けるのである。
 「いつかはオレも」
 などという根拠のない思いこみが、弘前にアンダーグラウンド演劇をという信念を生み、オレにも書けるという奇妙な確信を抱かせた。あの時ほど中央と地方との落差を感じたことはなかった。
 それまで演劇だと思っていたものが演劇という名の文学であり、それまで演技だと思っていたものが巧妙な演技という名のアジテーションであったという衝撃。
 浪岡から弘前という都会に出た時の驚きとは比べようもない喜びにも似た驚き。「ああ、これで生きていける」と思ったのは大げさでもなんでもない。人間としての喜びと言ってもまだ足りないかもしれない。
 時をほぼ同じくしてアンダーグラウンドの全国展開が始まった。黒色テントの『ブランキ殺し上海の春』、山海塾の『金柑少年』の青森・弘前公演には野村も福士もかり出され、アンダーグラウンドの洗礼を受けることになった。
 そして、その後長く私の中で愛憎相まみえることになる寺山修司も、利賀に入り込む鈴木忠志も全盛時代を迎えていた。無論、駒場小劇場を拠点に野田秀樹はアンダーグラウンドとは一線を画して活動を始めていた。
 しかし、私の中の絶対は唐十郎だった。その詩的な台詞と純情とパッションは模範などにはならない模範であり、長く私の中の劇的体験として生き続けた。
 一個の長台詞に必ず入る音楽、迷宮巡りののようなストーリー、シュールリアリスティックな舞台、それでいながら土着的な登場人物たち。かっこわるいかっこよさを身につけた俳優。根津甚八と小林薫と李礼仙はわが若き日のヒーローだった。「この現実ではない」「どこかで」展開される物語は、現実から逃走したい若い身にとってたまらなくかっこ良く見えた。
 ここ以外のどこかに自分の身を置くことは若い者にとっての特権的感情である。アンダーグラウンドにあらざるは演劇にあらず。かつての新劇好きの高校生はわずか三年で新劇を捨て、アンダーグラウンドに走った。
 しかし、見事な転向である。いや、とりつく島のない無節操さであった。まだ物事を原理的に思考することができない自分には全く気付かず、私は「特権的肉体論」を読みふけった。そして、寺山修司をなんの意味もなく、ただそれが同郷であるという理由だけで毛嫌いした。私にとってのエスタブリッシュメントは滝沢修からものの見事に唐十郎に変わった。
 ここでまた話しは少しだけそれる。青森の演劇シーンをその頃支えていた一人の俳優の話である。その名を牧良介という。現在も青森市にある劇団雪の会の中心俳優として、伊奈かっぺいの育ての親として、また寺山修司の映画『田園に死す』において、恐山は宇曽利湖畔を、仏壇を背に歩いていた俳優である。
 唐十郎が劇作の師であるなら、牧良介は演劇という現場の師であった。青森市内にライヴハウス「だびよん劇場」(津軽弁で〜だろうという推量を表す)を開き、多くの演劇青年や音楽少年、詩人、酔っぱらいを引き受けて命を減らした侠気溢れる俳優でありプロデューサーでありタレントだった。
 のちに弘前劇場の舞台にも立った彼は、珈琲には必ず砂糖を入れ、黒のスリムジーンズをはき、コロンの香りを漂わせ、爆笑ものの駄洒落や噴飯ものの堕ジャレを飛ばし、銀行を信じなかった。だから、彼の財布はいつでも札束がぎっしりと詰まっていた。「長谷川、オレはこいつが全財産なんだ。全財産を持ち運んで暮らしている」。そう嘯いて、彼は薄い水割りをいつでも飲んでいた。常用したハイライトのフィルターにはいつでも歯形がくっきりと付いていた。
 青森市本町、今は閉ざされたシャッターの前を通り過ぎる時、私は今でも牧良介の反骨と熱さを感じる。骨のズイまで芝居が好きで、それ以外の現象は彼にとってはどうでもいいことだった。
 「井の頭線の東大駒場にアゴラっていう劇場があるんだけどさ」という言葉も彼から初めて聞いたし、「よお、とーきょーで芝居やろうぜ」と初めて唆したのも彼だった。なにより、彼は他人の悲しみと不安を和らげる術を知っていた。思いっきり不良で、思いっきり思いやりがあった。
 牧良介がいなかったら現在の弘前劇場はない! と言い切れるほど彼は私たちの拙い芝居を誉めてくれた。真剣に。

《続く》

毎週月曜日更新予定です。
■〈第1回〉命名弘前劇場(1)
■〈第2回〉命名弘前劇場(2
■〈第3回〉命名弘前劇場(3)
■〈第5回〉命名弘前劇場(5)
■〈第6回〉命名弘前劇場(6)
■〈第7回〉命名弘前劇場(7)
■〈第8回〉命名弘前劇場(8)
■〈第9回〉稽古場を持つ(1)
■〈第10回〉稽古場を持つ(2)


 
長谷川孝治(はせがわ・こうじ)

1956年、青森県浪岡町(現・青森市)生まれ。劇作家・演出家。
78年、立正大学文学部哲学科在学中に、俳優の福士賢治、舞台監督の野村眞仁とともに「劇団弘前劇場」を旗揚げ。
82年の大学卒業後は郷里青森県で公立高校の教師をしながら演劇活動を続ける。
95年、『職員室の午後』で第一回日本劇作家協会最優秀新人賞を受賞。
2005年、ドイツ公演、2007年、韓国公演を成功させる。
現在、青森県立美術館の舞台芸術監督。