| 牧良介のことをもう少し書いておかねばならない。戦後、それまで弾圧されてきた新劇系劇団が一斉に息を吹き返し、全国に「啓蒙」という名の興行を始めることになる。
新しい民主主義を徹底させるという有り難いけれど、少々迷惑でもある運動であった。その頃の地方演劇は「青年団活動」によって支えられていた。今でこそ青年団活動と言えば「何、それ」状態であるが、当時は大真面目な民主主義的活動だったのである。
そのような状況下に、「んなもん、俺たちだって自前でできるわ」と津軽弁でミュージカルをやろうという集団が青森市にできた。それが牧良介が所属する劇団雪の会であった。
したがって、津軽弁で芝居を成立させようという劇団は弘前劇場以前に青森にあったのである。ただ、その演技論と劇団システムはまるで違っていた。
地元の放送局である青森放送(RAB)の社員を中心に結成された雪の会は、ローカルテレビに俳優をタレントとして使うというシステムを持ち、劇作家も普段は放送の構成作家をしているという塩梅だったのである。
そして、演技方法はガチガチの新劇スタイルであった。つまり、社会主義リアリズムに大きく影響されながらの活動だったのである。
その中で牧良介は得意な存在だった。高校卒業後、法務局に15年勤めた牧は確信的に退職し、ライヴハウスを開く。「公務員は仮の姿。お金を貯める手段だった」。いつか、牧良介は私に語ったことがある。
よく言えば反骨の塊、悪く言えば単なるヘソ曲がりであった。野村、福士、そして私は青森に飲みに行くと必ず「だびよん劇場」に顔を出した。そして、明け方まで飲み明かした。早朝5時、青森駅前の市場の定食屋に繰り出し、あがったばかりの魚を焼いて貰ってアツアツのみそ汁でどんぶり飯。何度それを繰り返したろうか。
今、彼が死んだ年に近づいてきて「20も年の違う青二才とよくもあんなに……」という感慨を持つ。
牧の芝居を肯定的に見るか否定的に見るかで、その芝居の印象はまるで違う。今、私は50を越えて若い連中の芝居を積極的に見るようになっているが、その態度は「何が何でも肯定しよう」である。否定からは何も生まれない。テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼという弁証法的なスタンスを現在の若者に期待しても駄目である。褒められることを小学校時代から刷り込まれてきた連中に批判は意味をなさない。あっさりと無視されてしまう。今は議論が流行る時代ではない。それがいいか悪いかは別にして、〜っぽくていいんじゃないという構えで接しないと議論の端緒も作れやしないのだ。
牧良介に初めて見せた芝居がつかこうへいの「いつも心に太陽を」だった。渋谷のパルコ劇場でその芝居を見た私は「おー、こんな芝居もあるんだ」と福士賢治と二人で抜粋で芝居をやった。そう、その頃私はバリバリの役者でもあったのだ。
ちょっと脇に話はそれるが、私が生きている寺山修司と最初で最後に会ったのは、そのパルコ劇場のエレベーターであった。
終演後、一番後ろで見ていた私は混雑を予想して真っ先にエレベーターに駆けつけた。そして、ドアを開け一回のボタンを押した。閉まろうとするドア、そこに大きな手が伸びてきてドア閉まるのを押さえた。その手の持ち主が寺山修司だった。一緒に乗り込んできたのが蘭妖子とおそらく田中未知ではなかったろうか。
ギロリと草食動物のように大きな目を私に向けて寺山修司は私に微笑みかけた。「ああ、この人が同じ岩木山を見て育った人なんだ」私はあんなにも息苦しいエレベータ内を経験したことがなかった。
一度もその芝居を見たことのない私は、寺山修司の全著作をアパートに持っていた。近親憎悪とはかくもややこしい。
さて、「いつも心に太陽を」はホモの水泳選手の話である。私と福士賢治は狭いだびよん劇場の中をフロアに手をつきながら必死で泳ぎ回った。「ビタミンCにはキャベツよ、キャベツをしっかり食べるのが私たちオカマの義務なの」などという台詞をうろ覚えだが記憶している。
「おめだじ、なにしちゃあずよ」(おまえら何してるんだ?)と酔っぱらいがわざわざ舞台に上がってくる一幕もあったが、牧良介は絶賛してくれた。「こんな新しい芝居は見たことがない」と。事実、その頃の地方ではつかこうへいの芝居がかかることは皆無と言ってよかった。そして、こう付け加えた「でもやっぱりオリジナルだよ」
「ええ、次は絶対にオレが書きます」。私はもちろんそう言った。
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