〈第7回〉「命名弘前劇場」(7) (2008年4月14日更新)

「あ、この女性Uさん、武蔵美の学生。慣れてるから彼女に任しておけば大丈夫だから」そう言って、山海塾制作の滑川五郎は去っていった。
 私は一体どこに行くのかもわからない浅草東武線改札口に立ちつくしていた。何やら知らないがスーツケースが一個とUという同い年くらいの女性も一緒だった。
「初めてでしょ」「は、はい」「はいこれ切符」彼女がよこしたのは鬼怒川温泉までの切符だった。「何も心配しないでいいから、ただし、アレは駄目だから」。それはどーいう意味かと尋ねたかったがやめた。どうやら私は売られたらしかった。
 鬼怒川温泉駅につくとモロにヤーさまとわかる人物が迎えに来ていた。「やあ、よろしくお願いしますよ」。語尾が上がってしまう北関東なまりのその男はわれわれを宿舎に案内した。
 宿舎といっても親分の家の屋根裏部屋である。「台所にある炊飯器にはご飯はいつでもあるから、冷蔵庫の中にあるもの勝手に出して食って」。男はそういうと黒塗りの外車で走り去った。
「ツンはつけたことある?」「いや、ないです」「じゃあそれ付けて、ここでちょっとアラベスクやってみましょ」「なんスか、それ」「あたしが向こうから走ってきてあなたの肩に乗るから、そいで2回くらい回ってから右肩を抜いて、あたしを落として」「……」「あなたの腰にしがみついたら、ゆっくりと地べたにわたしを降ろして」「はい」「ムチはまた後でね」「???」。
 ワンステージ30分300円、1日6ステージの10日間が始まった。ストリップ興業は基本的に10日を単位として行われる。私たちは大きな温泉旅館の座敷やフロアで酔っぱらい相手にハダカを見せて踊るわけだ。
 唐十郎と李礼仙がペーペーだった頃同じような境遇に置かれ、唐十郎はそこで芝居の保たせ方を会得したらしい。すなわち、まず観葉植物の陰に隠れる。これで3分稼げる。それから大げさにムチを振って1分……。先達の言葉通りには勿論いかなかった。
「オレ、目が肥えてっけどね、あんちゃん踊り始めて3カ月っちゅうとこだろ」とヤーさまが自信ありげにのたまった。「いや、5日目です」とはとてもじゃないが言えなかった。
 私は芸能人がサングラスをかける理由を初めて知った。掛け持ちであっちの旅館こっちのホテルと走り回っていると目バリを落とす暇がないのである。さらにムチは当たる瞬間は全く痛くなく、先端が回り込んで当たる瞬間こそが痛いものだと、文字通り身をもって知った。
 同じ宿舎の隣にフィンランド人のカップルがいた。その女性の方を確かシルビアと言ったが、その美しさはただごとではなかった。私たちは同じ食卓で「イカの塩辛」をおかずに丼飯を食べながらたどたどしい英語で話し、鬼怒川のほとりを散歩した。シルビアの相手役にツンがなかったので、私は私のツンを見本にしてシルビアと裁縫をした。
「いつかフィンランドに帰るの?」
「いつかはね」
「日本にはどうして来たんですか?」
「世界を見たかったの」
 世界は鬼怒川温泉で理解できるとは思わなかったが、世界が人間の欲望で構成されているのなら、確実にその一部は身をもって体験できるだろうと私は理解した。ただ、それを説明できるだけの英語力はなかったし、彼女にもなかったはずだ。私たちは曖昧な笑顔を互いに見せながら作業をした。そして、ただ一度だけ同じ舞台に立った。
 大学4年の時はほぼ卒業論文のために暮らしていた。例外的に『恋』(1981)という芝居は書いたものの、私は脚本を担当しただけで実際の制作や演出は野村と福士に任せっきりで、この頃入ってきた俳優兼舞台装置係である鈴木徳人と福士の友人たちが舞台を作り上げた。
したがって、『恋』に関するディテールに関しては正確なことは覚えていない。
 その頃舞台に関わっていた人たちは今でも東京公演に顔を見せるが、芝居を人生の真ん中に置いている者は少ない。
「芝居を人生の真ん中に置く」とは何か。これは地域で演劇を続ける上でとても大きな問題である。
 人生の真ん中という言い方は簡単なようでいて多くの犠牲を強いる。正業(それが何を意味するのかは判然としない、何故ならば食うために生きているのではなく、生きるために食う人がたくさんいるからである。ちなみに私も生きるために食べている方である。この二つは全く違う位相を持つはずである)。
 生きるとは死の意味を考え続けることであり、相対的な価値基準を認めないということである。このあたりのことは後ほどじっくり説明するとして、もう少し大学時代のことを書いておきたい。
 私は卒業論文に「鮎川信夫論」を書いた。荒地派の巨人である。山口昌男の「周縁理論」
が全盛であり、フランス構造主義以降のポストモダンが次々と紹介される中で、何故「鮎川信夫」だったか。
 最初に提出した卒論の論題は「ベルトルト・ブレヒト論」であったが、その異化的効果がどうにも肌に合わずに急遽鮎川信夫に変えたのだ。
 私は、世界の存在の秘密を著述できるのは詩人だけだと今でも思っている。例えば「私」というのは普通は主語として用いられるが、その「私」を主客がぴったりと寄り添っている私たちには考えることができない。
 演劇とは人間を考えるツールでもある。いや、むしろ人間を考えるのでなければ演劇とは言えない。論理と経済は人間の一部であって、解釈が可能なものを人類は科学という名で呼んできた。しかし、論理からは逸脱するもので、わたしたちの心のある部分に触れてくるものは確実にある。それを詩人は言葉ですくい上げるのではないか。それが、当時の問題意識であり、今でもこだわっている私の演劇論の中核である。

《続く》

毎週月曜日更新予定です。
■〈第1回〉命名弘前劇場(1)
■〈第2回〉命名弘前劇場(2
■〈第3回〉命名弘前劇場(3)
■〈第4回〉命名弘前劇場(4
■〈第5回〉命名弘前劇場(5)
■〈第6回〉命名弘前劇場(6)
■〈第8回〉命名弘前劇場(8)
■〈第9回〉稽古場を持つ(1)
■〈第10回〉稽古場を持つ(2)


 
長谷川孝治(はせがわ・こうじ)

1956年、青森県浪岡町(現・青森市)生まれ。劇作家・演出家。
78年、立正大学文学部哲学科在学中に、俳優の福士賢治、舞台監督の野村眞仁とともに「劇団弘前劇場」を旗揚げ。
82年の大学卒業後は郷里青森県で公立高校の教師をしながら演劇活動を続ける。
95年、『職員室の午後』で第一回日本劇作家協会最優秀新人賞を受賞。
2005年、ドイツ公演、2007年、韓国公演を成功させる。
現在、青森県立美術館の舞台芸術監督。