| 大学を卒業して、私は青森県の公立高校の教員をし始めた。何故か。夏休みと冬休みがあったからである。そして、私の本格的な演劇修行が始まった。年齢は26になっていた。学生時代を私は演劇修行時代にあてない。何故ならば、学生というのは積極的なモラトリアムの時代と規定すべきであるからだ。
青森県立高校の最初の赴任地は八戸市だった。青森県は3方を海に囲まれていて、文化圏も大きく言って3つに別れている。県都のある青森、城下町である弘前、そして新興産業都市の八戸である。
「津軽」と「南部」。八甲田山を挟んで存在する2つの地域は廃藩置県以前は全く別な藩だった。そこに住む人々の気性はまったく違うと言っていい。津軽にはラテンの血が流れていると私は確信しているが、南部には独特の鈍重さがある。決断は早くはないが、いったん決めたらテコでも動かない頑固さが南部にはあるが、津軽にはカッと燃え上がってすぐに覚めてしまう部分がある。
「煎餅のふち囓り」という言葉がある。青森県の煎餅を知らない人にはなんのことかわからないだろうが、青森県の煎餅には本体の回りに薄いフチが付いているのだ。そのフチばっかり囓ることを「煎餅のフチ囓り」といって、新米の公務員が青森県のフチつまりは海沿いの僻地を転々とすることを指すのである。
私もその例にもれず、フチ囓りをずいぶんとやった。しかし、もう東京から戻り、青森県に居を構えたのである。「そんじゃあ、ちゃんと芝居でもやろーか」となるのは当然である。
当時、野村は弘前文化会館に常駐し福士は建設コンサルタント会社で測量のアルバイト、鈴木徳人は黒石市で自営業を営んでいた。それに木村一夫、田中亜美、そしてシンガーソングライターとして活躍したこともあった白季千加子が加わっていた。
「階段状の舞台を作れるよ」。野村が言う。「階段状?」「ホールにある平台を全部使って階段を作る」。今ではだからどうしたんだという話ではある。しかし、ライヴハウスでしか芝居をしたことがなかった私たちには、舞台機構の全てを使って芝居が作られることそのものが驚きであった。「えー、パーライトを100台も使えるのか?!」。これもだからどうしたんだの世界である。しかし、お茶漬けの味に慣れた者にいきなり横メシのフルコースを与えた場合どうなるか?「失礼します」か「やってやろうじゃないの」の反応はいずれかである。私たちの場合、後者を選ぶことになった。
当時はまだ週休2日制などない時代である。私は『クロノスの囁き』(1982)を書き上げ、土曜の半ドンが終わると今でも覚えているが、野村の実家の自動車修理工場から15万円で買った三菱ミニカに乗って弘前まで車を飛ばした。
かつて福士賢治が深浦町から車を飛ばしたように、私も反対側の八戸から八甲田を越えて車を駆ったのである。土曜の夕方から稽古をやって、深夜から飲み始め、翌日曜の午後から深夜まで稽古をやる。そして、明け方に八戸へ帰り、全く寝ないで月曜の授業をこなしてた。
私はいまでも車の中でラジオや音楽を全く聴かないが、その習慣はその頃に醸成された。考えるのである。八戸青森往復で7時間(軽自動車の性能はそんなものである)、ひたすら演劇について考えるのである。台詞を吟味しかつ覚えるのである。テレビもビデオも見ない、ついでに音楽も聴かない。シェークスピア作品完全読破とその戯曲分析でペンだこができた。それは無駄であったとは思えない。そのノートや資料の類は完全に散逸というか、破棄されている。私には妙な癖があって、作品が完成してしまうとそれに付随するもの全てを捨ててしまうのである。そうしないと次なるステップにいけないのだ。
だから、私の舞台写真は極端に少ない。写真はどうしても捨てられないという御仁がいらっしゃるが、私の場合はあっさりと捨ててしまう。高校の卒業記念の写真は最低でも20数枚はあるはずなのだが見事に一枚もない。これは生涯捨ててはならないと思った手紙の類も多々あったはずだが現在は一通もない。
『クロノスの囁き』はそのタイトル通り、時に関する芝居なのだが、見事にそのストーリーを忘れている。
弘前文化会館ホールのキャパシティーは500である。演劇の特性(俳優が生の声で語り、生の肉体をさらす)を考えれば、500という数字はあまりに大きい。せいぜいが300、理想を言えば200というのが演劇の観客の限界であるだろう。
『クロノスの囁き』はその限界を超えた場所で上演された。当然、俳優の演技は等身大を越えざるを得ない。しかし、それを照明と装置が補完した。
野村は一週間かけて舞台と照明を仕込んだ。劇場機構によって演劇の身なりは随分違ってくるのだと気づいた舞台だった。そして、劇団弘前劇場という名前は、まず私たちに、私たちの中に定着した。
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