〈第9回〉「稽古場を持つ」(1) (2008年4月28日更新)

 劇団には多くの人間が集まってくる。今でこそプロデュース公演が多いが、1983年当時の小劇場演劇には演劇をその劇団の運動ととして捉えることが多かった。
 運動には理念が必要である。もっとも簡単な理念とは政治的なイデオロギーである。当時の弘前劇場の理念とはなんであったか。答えは簡単である。「いいお酒を存分に飲みましょう」(今でもそういう部分がなきにしもあらずだが)である。それがαにしてΩであった。
「イデオロギー? なんだ、それは。新しいコオロギか」「理念? そんなものはない! 性欲の前に理念など必要ではない!」。今考えると怖ろしい台詞だが、世代論に固執する全共闘世代に対する斜に構えた抵抗であった。
 そして、もうひとつ、劇団という集団が避けては通れないのが男女間の問題である。この不可避な事態をやり過ごすことができないでなんと多くの劇団がなくなったり分散したりしただろうか。私もその渦中にいたことを素直に認めつつ、筆を勧めることにしよう。
 『クロノスの囁き』を終えて、私はほぼ1年と半年の間演劇活動を休んでいた。つまり、26歳になりたてで大きなホールで公演をやり、27になるまでじっと一人で高校の教師をしていたのだ。
 弘前劇場の勢いをもれ聞いて、弘前市内の自傷文化人いや自称文化人がぽつりぽつりと打ち上げやら稽古に出没しだした。頼みもしないのに批評を書いてやる(それは批評ではなく、自分は偉いのだという自己宣伝以外の何物でもなかった)、いろんな文化人に紹介してやると言ってくる。
 弘前は青森県に名だたる文化都市であることは認めるに吝かではない。しかし、それはあくまでも閉じられた空間である。そこには文学・詩・短詩系文学・演劇・書道・音楽・オペラ・バレエのすべての輪があり、その小さな輪の中で「あーでもない、こーでもない」と言い合うことが文化を体現するのだと錯覚する御仁がごまんといるのである。
 このような方々は絶対に自分の理解したものしか認めない。輪っかが小さいとどうなるか、輪っかの中でぶつかるのである。ぶつかるといってもそれは相手に致命傷を与えるとか、輪っか自体を壊すことには絶対にならない。擬闘、すなわち嘘っこの喧嘩を行うのである。
 その多くが公教育の教員であるから始末に悪い。そもそも、芸術家として二流であるから教員をやっているという自覚がない(私も教員の一人なのだが)。一流であればどんどん他へ出ているはずではないか。特に批評をものする方など、その批評というのは何処に向いているのだろうかと訝るほどであった。批評というのは、普遍に辿り着くということではないのか? 地方にだけ限定される文化などないのである。
 そして、ありもしない噂と当事者同士にしかわからない物語を勝手にでっち上げるねつ造への意志。それが地方のもう一つの権力である地方紙と結びつくならば、もう目も当てられない。
 しかし、そんなこととはまるで無関係に私は八戸に一人で過ごしていた。その頃には後にずっと希望する定時制高校にいたので、夜明けまで本を読み昼頃に起き出して本屋さんで過ごし、美味しいコーヒー屋さんをみつけて、ひたすら考えていた。「演劇は本当に自分にとって必要なのか? 演劇を道具にして、つまり俳優という他人を手段にして、自分の顕示欲を満たしたいのか」と。
 私は今でも劇団の俳優達と普段は飲まない。打ち上げならば付き合うこともあるが、演劇抜きで飲むことはまずない。一人自室で飲む方が格段に多い。
 さて、劇団内の男女関係のことである。男女がくっついたり離れたりするのは世の常だが、劇団には特にそれが多いだろう事は容易に予想できるだろう。何故ならば、圧倒的に一緒にいることが多いからである。そして、問題意識を共有する時間が多いからである。
 演出家の俳優への注文は俳優にとっては大体が理不尽である。今でこそそんなことはないが「水の中に入って2分後に出てくる」「本物のナイフを相手の頬にあて、ゆっくりと引きながら手に持っていた血糊で血をしたたらせる」「照明と音響が入る一瞬の暗闇で舞台からハケろ」。物理的に無理なことを要求するのは、人の精神の領域を舞台に具現化したいがためである。精神は物理的な法則に従わない。
 演出家が稽古場を後にする。俳優同士の不満が渦巻く「ま、長谷川の言うことは話し半分に聞いておこう、ちょっと飲もうか」云々。俳優同士の親密さは次第に濃くなっていく。かてて加えて劇中の擬似的恋愛である。模倣はいつしか本物に変わり、元々が恋などというのは錯覚以外の何物でもないわけであるから、錯覚することに俳優達はまさしく喜びを見いだしていくことになる訳だ。
「おまえらさ、そんなことは劇団以外でやれよ」
「年に4本も芝居をやって、いつ劇団以外での出会いが期待できるんだ?」
 もっともである。返す言葉もない。本人同士がややこしくなるのは構わないとするのが私の立場である。しかし、問題は「嫉妬」である。
 健全な嫉妬というより賢明な人物の嫉妬は前向きのスタンスを獲得するが、多くの嫉妬は常に物事を過去的方向に向かせてしまう。
 「努力すれば何事もできる」というのが戦後民主主義教育の根幹だった。それは、機会は平等であるという理念をねじ曲げて作られたスローガンである。天才は1パーセントのインスピレーションと99パーセントの努力によって完成する。それは正しい。しかし、その逆は正しくない。99パーセントの努力の後に1パーセントのインスピレーションつまり才能は出てこないのだ。
 ここに嫉妬の構造的なややこしさがある。一方で努力を奨励し、もう一方では才能を大事にする。民主主義教育の限界を現在の弘前劇場はどうやって越えているか。「才能」は特に問題ではない、才能がなくてもできる脚本を書き、それが有効性を持つ演出方法を構築すればいいのだ。それが答えである。そして、それ以外に地域演劇が生き延びる道はない。
そして、「才能」とは自分にはそれがあると信じ続ける力のことでもある。
 私がまったくその事情を知らないままに劇団に来なくなったり、新しく入ってくる女優に次々と手を出すヤツがいたり、その逆があったりする。30年もやっていれば大体のことには驚かなくなるが「セックスはどんどんやればいい、ただし恋愛は駄目、結婚は奨励する」という標語を掲げたこともあるが、最近はそれを言うことも止めた。そんなもん自己責任である。
 ただ、あるひどい例があった。年若い女優の親御さんが中堅俳優に「すべてを告発してやる」とねじ込んできたのだ。どうぞやってくださいというのが当初の私の態度だったが、その男優が泣きついてきた「長谷川さん、なんとかしてください」と。それなりの職業に就き、社会的な信用もあった彼には妻子もあった。
 私は菓子折を持ってご両親を訪ね、経緯と今後の方針(基本的に1年間二人を舞台には出さない)を伝え、頭を下げた。いったいオレはなにしてるんだ? と思いつつ。「自分で責任の取れないことなんかするなよな、恥ずかしい」というのがその時の偽らざる気持ちだった。しかし、てめぇのケツを拭いて貰ってあっけらかんとしている男も世の中にはいるのである。
 「去る者追わず、来る者拒まず」弘前劇場の不文律はこの頃に定着し始めた。弘前劇場は一時期県外からの劇団員が多かった時期がある。そのことについてはおいおい書いていくとして、去る者に関しては特別な送別会というものをやったことがない。少なくとも私は出た記憶がない。
 劇団は演劇という最も古い芸術に関わる場所であって、恋愛の場所では無論ない。私の考えはそうであった。その後、劇団員同士の悲喜劇はあったはずだが、私の耳には一切入ってこなくなった。精神の交わりと肉体の交わりの相互侵犯性はプラトンの昔から変わらない。

《続く》

毎週月曜日更新予定です。
■〈第1回〉命名弘前劇場(1)
■〈第2回〉命名弘前劇場(2
■〈第3回〉命名弘前劇場(3)
■〈第4回〉命名弘前劇場(4
■〈第5回〉命名弘前劇場(5)
■〈第6回〉命名弘前劇場(6)
■〈第7回〉命名弘前劇場(7)
■〈第8回〉 命名弘前劇場(8)
■〈第10回〉稽古場を持つ(2)


 
長谷川孝治(はせがわ・こうじ)

1956年、青森県浪岡町(現・青森市)生まれ。劇作家・演出家。
78年、立正大学文学部哲学科在学中に、俳優の福士賢治、舞台監督の野村眞仁とともに「劇団弘前劇場」を旗揚げ。
82年の大学卒業後は郷里青森県で公立高校の教師をしながら演劇活動を続ける。
95年、『職員室の午後』で第一回日本劇作家協会最優秀新人賞を受賞。
2005年、ドイツ公演、2007年、韓国公演を成功させる。
現在、青森県立美術館の舞台芸術監督。