| そして、私は津軽平野のど真ん中にある五所川原市にある県立高校の定時制に異動した。八戸時代の2年間は臨時講師であったので、正式に高校教員として採用された時、私は27歳になっていた。1983年の春であった。
今では勤務時間体制は全日制と同じ8時間勤務だが、その当時の定時制高校は夕方4時までに学校へ行けばよく、生徒が帰る9時には帰ってもよかった。一日の労働時間が5時間という職場は、物書きにとって最高の条件であった。
あらゆる物書きはそうだろうが、最低でも一日3時間は机に座って真っ白な原稿用紙か真っ白なディスプレイに向き合うことが仕事になる。後から後から言葉が出てくることもあれば、5時間座って一行も出てこないこともある。
築30年の官舎は一階に6畳とキッチンとトイレ。2階に6畳が二間あって家賃が7000円であった。しかもその家賃は年々老朽化が進むにつれて500円ずつ安くなっていった。そこにいた5年間は弘前劇場の土台を作った5年間であったと言っていいと思う。時間がたっぷりあって、私は一人で孤独に勉強に励んでいた。
その頃、福士は測量のアルバイトから営業の正社員となり生活は安定し始めた。成田雄平と木村一夫、白季千加子は去り、再び弘前劇場には私、野村、福士、そして田中亜美が残っていた。
とても重要なことなのでその頃の書くという環境について書いておく。まず、職場にはコピー機はあったが数は少なく、青焼き(大きな建築用の図面にはまだ使われている)が主であり、電動の和文タイプライターが最も活字に近いものだった。その扱いに慣れた頃、最初のワードプロセッサーが登場し、かつコンピュータに「一太郎」なるワープロソフトが登場した。
私は学校ではワープロを使い、個人的にはもっぱら手書きで台本を書いていた。お世辞にも上手いとは言えない私の癖字を判読できることが弘前劇場の俳優になる条件であった。
昼近くに起き出して近くの温泉に行く。勿論、ほとんど客はいない。お湯が動いていないのでそろそろと体をお湯にはさんでいくこと3分。たまさか屁でもしようものなら背中に一筋の火傷の跡を背負うことは必定であった。つまり、そのくらい時間がたっぷりとあったのである。温泉から上がって、近くの食堂へ行き第1食を喫して下駄をはいて本屋さんへ行く。ゆったりと本を吟味し、数冊購入するとまた官舎に戻ってソファーに寝っ転がって本を読んだ。
携帯電話もインターネットもない平和な時代だった。しかし、バブルの足音は確実に迫っていた。
『ペパーミント・フェイス』(1983・9)
『線香花火の香りの中で』(1983・10)『木馬に乗った花嫁』(1983・11)『心中志願』(1983・12)。これらの作品は太宰が愛した4人の女というシリーズである。毎月1本の芝居をやる。
人生には若気の至りという瞬間が必ずある。
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