〈第13回〉「戯曲太宰治論」(1) (2008年5月26日更新)

 弘前の繁華街である土手町。いまでこそシャッターを降ろした店も多いが、1984年当時はまだバリバリのオシャレな街だった。代官町を土手町方向に折れて、紀伊国屋書店を過ぎたら最初の歩行者用信号で左折する。歩くこと約2分で総煉瓦造りの平屋が見えてくる。スペース・デネガである。
 デネガとは津軽弁で「そうじゃない?」という推量を表す接尾語であって、牧良介の「だびよん劇場」を充分に意識した名称である。男と女がいる。男が女に言う「オメ、わとばすぎだんデネガ」女が恥ずかしそうに答える「ンだびよん」あえて標準語訳はしない。今日も弘前のどこかで男女がそんなことを言ってるかもしれない。
 そのスペース・デネガの中に、弘前劇場のフランチャイズシアターである「スタジオ・デネガ」がある。東京下北沢のスズナリの縦横高さにそれぞれ一間を足すと「デネガ」になる。まだあまり売れていない頃の青年団も燐光群もここで芝居をやった。
 私の頭の中にある劇場は常にデネガである。つまり、芝居を書く時に俳優の出ハケは常にデネガの寸法を基本にして書かれる。『戯曲太宰治論』以降の芝居でデネガで行われなかった芝居はない。
 話は私が五所川原に引きこもっていた頃に戻る。明けても暮れても本と原稿書きを続けていた私は、「ああ、こうして一人の高校教員で終わっていくんだろうな」と思いつつ、それも決して悪くはないと思い始めていた。何故なら、「私」がどこから来てどこへ行くのかさえ知れば人生はそれで目的を達すると考えていたからであり、集団でものを作ることに疲れていたからでもあった。
 元々徒党を組むのが嫌いであって、しかも「よりよい妥協ができるもの」が政治であるならば、そんな集団などいらないと思っていたからでもある。何よりも、誰にも邪魔されない生活は怠惰の中に無限の宇宙さえあった。人には会いたくなかったが、昼間に働いて夜に学校に来る定時制の生徒の逞しさは、「演劇」という道具を使って「オレは何をしてるんだ?」という疑問をいつでも突きつけていた。
「はい、長谷川です」受話器を上げて、それが演劇関係者だったら即座に切るのだが、電話の向こうから響いてきた声は聞き覚えのないものだった。
「私、鳴海っていいます」
「はい」
「あんた、東北肛門病院って知ってる?」
「ええ、瓦ケ町のですよね」
「そこに現代美術のギャラリーを建てようと思ってんだけど、ついでだから小さな劇場も作ろうと計画してるんだよ」
 鳴海さん、いやその後の呼び名に変えて鳴海先生は私を紹介してくれた人物の名を上げ、いい劇場にするにはどうしたらいいのか話したいので鍛治町(弘前一の盛り場)で一杯やらないかという。
 東北肛門病院の院長だった鳴海先生は、エッセイストであり現代美術の愛好者であり、なにより自分という「存在」の不可思議を常に考えている人だった。
「アントニオ・タピエスって知ってる?」。知っていた。スペインの現代美術家で、そのタピエスを開館記念展としてやりたいのだという。そのセンスから推して、鳴海先生の全体像がわかるだろうと思う。
「芝居小屋で一番大事なことはなんだい?」
「タッパ(高さ)と暗闇です」
「ちょっと相談に乗ってくれないかな」
 それから数回私は鍛治町で鳴海先生と飲んだ。そして、芸術の大切な話しやくだらなさの話しをした。先生にとって大事なことはお金ではなくて「真・善・美」にあるということ、行政を待っていたら見たい展覧会は死ぬまで見ることができないこと。だから、自分でギャラリーを作り、芝居小屋を作るんだという。単純で明快な話しだった。
 バブルのはじける前、青森や八戸にはまずこんな豪快な人は出てこなかった。弘前はやはり深くて不可解である。そして、そのわからなさが独特の魅力を生み出している。すべては人なのだ、人の魅力が街のすべてなのだ。
「なんか、やれよ」。
 スナックからラーメンを一杯だけ頼み、中身を全部私に食べさせて自分はスープを啜りながら先生が言った。
 自分の力だけで何事かを成し遂げることはある程度できるだろう。しかし、それだけでは限界がある。人と人を結びつけたり離すもの、それも人である。
「はい」
 私はそう答えていた。長い一人の時間が一杯のラーメンで終わった。その頃からかもしれない。私は一人でいることがものを創るためには不可欠で、そのことに耐えることができなければ所詮仲良したちの発表会しか創れないのだと考え始めたのは。それはたぶん劇作家としての決意であった筈だ。家族や恋人がいても脚本を書き上げる瞬間は生まれるときと死ぬときと一緒で一人なのだと。最後の長いカーテンコールが終わると私は今でも一人になる準備を始める。無論、私とて社会生活を営んでいる訳だから他人との完全な没交渉は考えられない。
「みんなで協力し合いながら作り上げた芝居です」という台詞を耳にするとき思うことがある。「それは嘘だ」。私はそう思う。主体的に創造活動に参加はできるだろう。しかし、魂の段階で他者と完全に折り合うことなどできないではないか。私の魂を他者がどう生きてくれるというのか。
 そのソリテュードを受け入れなければそこには降りていけないのだ。そこってどこなんだという問題は残るが。

《続く》

毎週月曜日更新予定です。
■〈第10回〉稽古場を持つ(2)
■〈第11回〉稽古場を持つ(3)
■〈第12回〉稽古場を持つ(4)
■〈第14回〉戯曲太宰治論(2)
■〈第15回〉戯曲太宰治論(3)
■〈第16回〉戯曲太宰治論(4)
■〈第17回〉東京公演(1)
■〈第18回〉東京公演(2)
■〈第19回〉リアルとは何か(1)
■〈第20回〉リアルとは何か(2)



 
長谷川孝治(はせがわ・こうじ)

1956年、青森県浪岡町(現・青森市)生まれ。劇作家・演出家。
78年、立正大学文学部哲学科在学中に、俳優の福士賢治、舞台監督の野村眞仁とともに「劇団弘前劇場」を旗揚げ。
82年の大学卒業後は郷里青森県で公立高校の教師をしながら演劇活動を続ける。
95年、『職員室の午後』で第一回日本劇作家協会最優秀新人賞を受賞。
2005年、ドイツ公演、2007年、韓国公演を成功させる。
現在、青森県立美術館の舞台芸術監督。