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ツエッペリン号の写真  をつぎ込んで1899年にようやく、ツエッペリン第一号の製造に着手したのだった。
 時同じ1899年に、オランダのバーグで開催された第一回国際平和会議に於て、飛行機へ弾丸や爆発物等の積み込みは禁止するという法案が可決され、飛行機は、もっと平和で知的な目的のために使われるべきだという決議が下された。この決議は、世界各国で承認され、5年間は有効とされていたため、戦争は陸上か、または海上のみに限られてしまった。
 ツエッペリン第一号が処女飛行を試みたのは、1900年の7月2日であった。それから3年後には、ライト兄弟が最初の火力飛行機で自由飛行を成し遂げてしまった。また、1905年には、フェルディナンド伯が、ツエッペリン第二号の製造を開始した。
 こうした飛行機や飛行船の反響は、1907年バーグで行われた第二回国際平和会議でも大いに取り沙汰されたが、この時、飛行機に関して提出された議決事項は、すべて曖昧で要領を得ないものであった。それが原因となってか、空域の奪いあいと空からの攻撃が始まってしまったのだ。それから40年の年月を経て、この飛行機というものが、人間の手で、しかもたった1回の動作で、広島や長崎の人々や建物の殆どを破壊してしまうほどの恐るべき手段のために使われるようになってしまうのである。
 1915年1月9日にはじめて、カイザー皇帝はツエッペリン号を使用し、英国本土空襲を決行すると発表した。そして彼の声明によると、そうした空襲は、軍艦造船所、兵器庫、ドック、その他の軍用地、及びその建造物に限る、というものであった。だから、ロンドン自体はこのカイザー皇帝の指令により難を逃れることになった。
ツエッペリン号の誕生
 飛行船ツエッペリン号の発明者である、フェルディナンド・ヴォン・ツエッペリン伯爵は、南ドイツの州ヴァーテンベルグの出身であるが、一時、狂言的な愛国主義思想を持つ貴族だと噂されたことがあった。このフェルディナンド伯爵は、1870年8月に、スペインの王位継承問題を機に勃発したある独仏戦争に、貴族軍人として参加したと伝えられる職業軍人で、地位は陸軍将校であった。伯爵は、1874年に、当時のドイツ郵政長官が書いた「空かける郵便と飛行船の旅」という題の一文を読んで、空気をいっぱいつめた飛行船なるもののアイディアを思いついたのである。しかし当時の頑固な陸・空軍の軍事関係者達に、伯の考え出した飛行船ツエッペリン号を製造するよう説き伏せることは、容易な仕事ではなかった。結局は徒労に終わったが、彼はそれにもめげず、私財
 初期のツエッペリン号は、80万立方フィートもの水素ガスを積んでいた。最高スピードは時速45マイルで、上昇限界高度は8千フィートであった。後に作られたツエッペリン号は、1605立方フィートの水素ガスを積載する能力があり、1万3千フィートの高度まで上昇でき、時速60マイルもの速度で飛行できるようになった。更に、旧式の飛行機より優れていた点は、飛行船の方が長時間滞空でき、実際、何日間もの飛行が続行できた。
 ツエッペリン号による初めてのロンドン空襲は、1915年3月31日に決行された。戦争参加一年目にして、はやくもドイツのツエッペリン号は二十回の空襲を行い、イギリス本土に三七トンもの爆弾を投下し、二〇七名の死者と、五三三名の負傷者を出してしまった。翌1916年には、二二回の空襲で、一二五トンもの爆弾を投下し、二九三名の死者と六九一名の負傷者を記録した。ツエッペリンの活躍は、この1916年がピークだったらしく、1917年と18年の間には、たったの十一回しか行なっていず、死者が五十六名、負傷者も十三名と少なかった。ツエッペリン号の最後の空襲は、1918年8月11日であった。
 ツエッペリン号は、戦闘日数延べ十八ヶ月間、イギリス上空に君臨していた訳だが、その地位も、このような大型飛行船は、戦闘機による攻撃に対しては極度に弱いという事実が発見されると、見事に崩れ落ちてしまった。また、ツエッペリン号は、電光や火花等の引火によって、頻繁に自然発火し、墜落するという弱点も発見された。
 1916年9月2日、W・リーフ・ロビンソン中尉が、ロンドン南東部の上空での空中戦で、ツエッペリンSL11型を見事に撃墜した。この時彼は、戦闘機からの感光弾がどれだけの働きをするかを実際に証明してみせた最初のパイロットになった。戦争が終結するまでに、全部で二十九機ものツエッペリン号が大砲や戦闘機、あるいは自然発火等により墜落してしまった。
 ドイツ軍は、兵器としてツエッペリン号の能力を大いにかい、かつ大々的に公言したにもかかわらず、1918年頃までには、ドイツ軍のツエッペリン号に対するかいかぶりは、世界中の笑い種になってしまっていた。そんな世評に対して、「ドイツ空軍の英国本土大空襲1914−1918」と題する本の著者、J・モーリス大尉はこんな風に論評を書いている。「戦争の歴史は、勝利と敗北で成り立っている。輝かしい勝利や悲惨な敗戦もある。しかし、ボン・ツエッペリン伯の巨大飛行船が撃墜されていく姿に匹敵するほどの輝かしい敗戦は、近代の戦争では見ることができないだろう」と。
 おそらく、最も輝かしいツエッペリン号による襲撃は、1915年の10月13日、ジョイム・ブレイサブト大尉の操縦するL15型ツエッペリン号が、ロンドン中心部にあったリシウム劇場に一個の爆弾、ストランド劇場に二個の爆弾を投下し、見事に命中させた時であろう。


 それからちょうど五十四年後−−正確には一日足りないのだが−−フェルディナンド・ボン・ツエッペリン伯が発明した驚異ともいえる飛行船ツエッペリン号の名をつけたイギリスのロックン・ロール・グループが、同じリシウム劇場で、華々しくセンセイショナルなデビューを飾り、ビートルズに勝るとも劣らないグループとしての地位と名声を築きあげるべく、スター街道へと乗り出したのである。

  リッチー・ヨーク著
  ロックの覇王
  レッド・ツエッペリン物語 より
 
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