闇が、嗤った
「僕は、立ち止まり、月を仰ぐ」
「月は鋭く砥がれた刃のように冷たく輝いていた。
今夜もまた、呼んでいる。
遠く響く、少し掠れた遠吠えが、俺を…。
その声は、おいでという甘い囁きのようであり、 僕は恍惚とした眩暈を覚えた。
「どうやら待ちわびているようだね」
囁きとともに、耳元に届く生温かい息にはけもののにおいが混じる。
俺と同じ、獣の匂い、薫ったのは闇だ。
「怖い?」
くすくすと笑うその声は、まるで無邪気な少年の様で、生々しい野生の匂いとの違和感が俺を戸惑わせる。
「…お前は…誰だ…?」
「・・・あなたは、判っているはず・・・ですよ?」
闇が、嗤った。
「月の鋭い晩は僕たちは最も遠くなる。知っているくせに」
「今の…今のお前は、知らない。そんな目をした…お前は…」
俺は奴から目をそらす。ふっと奴の気配が俺に近づき、首筋を生暖かい空気が撫でた。
「それなら、思い出させてあげるよ…」
吐息が、俺の頬を掠った。一瞬、相手の気配が遠くなり…そして、突然、俺の肩に鈍い痛みが走る。
「僕を拒むのっ!?」
俺は奴の頭を、強引に引き剥がす。赤い一筋がその間に伝うのが、闇の中にあやしく浮かんだ。
甘い血の匂いに、奴の気配がぐっと濃くなる。じゅるりという舌なめずりの音まで聞こえてきそうな気がした。
「逃れられないよ、僕からは」
静かな、彼の声。
「お仕置きが必要だね。出よ、闇の眷属、僕の下僕」
奴の右手が翻り、闇に溶ける色合いの獣が、奴の足元に絡みつく。ぐるると喉を鳴らす獣の様子が、俺に対する並ならぬ敵意を伝えてくる。俺の血で染まった唇をゆっくりと舐め、奴は艶然と笑った。
「どうだい? 少しは思い出すことが出来たかい・・・?」
その声に、血がつめたく騒ぐ。
封じろ、ふうじろ、フウジロ。闇がさざめいた。
無意識のうちに、左手がポケットを探る。奴を…奴を封じることの出来る、強い魔具を…。指先に、呪を施した鏡が触れる。反射的につかみだしたそれは、使用者の力が対象よりも強くなければ、何の意味もなさないそれだ。
「くッ……!」
「そんなものが、通用すると思っているのですか?」
「…させるさ…」
俺は沈みかけた月に素速く視線を走らせた。月の力が弱まると共に、奴の足元の闇も衰えていく。時間。それさえあれば、この鏡でもなんとか…なる。
「ふぅん、考えたね。でも、そうはさせないよ! 行きな!!」
低く咆哮し、闇を切り裂くようにして獣が俺に襲いかかる。
「ク…ッさせるか…!」
鏡を出し、眼前に構えて闇を睨む。鏡に映るは奴よりもなお昏き俺の闇。鏡は闇を、光に換える。襲い来る闇に、俺は光を叩きつけた。一際高い咆吼が闇に響く。がくりと地に身を伏せた獣は、すぐにゆらりと体を起こした。まだ、これでは致命傷に足らない。
「…ねえ、あなた、大事なことを忘れてるよ」
「…何だって…!?」
「ぼくを傷つけずに、僕の下僕を傷つけようだなんて、ね…」
「それに僕は月に寵愛されし者。僕の意志は月の満ち欠けさえ動かすんだよ」
見上げた月が、滲み、溶ける。奴の瞳から溶け出した輝く闇が、天上に赤い月を浮かび上がらせた。
「君が僕を怒らせるからいけないんだよ」
月と同じ、艶かしい血の色をした奴の目が一瞬だけ―ほんの一瞬だけ、揺らいだような気がした。
「ただ、僕の手の内に落ちてきて欲しいだけ…なのにさ。」
ふ、と。彼が嗤った。それは、儚く消え入りそうな声で、俺は、どうしたらいいか戸惑う。その…迷いを、俺は、知っている気がする。
「いつだって、ただそれだけを望んで来たのに。知っているんでしょう?だから今夜のあなたは…こんなに、優しいんだ…」
揺れる赤い瞳は、もやは血ではなく、沈む柘榴。俺は躊躇い、掲げた鏡を無意識のうちに伏せた。奴の瞳がすうと細められ、微笑みの形をかたどる。吸い寄せられるように、俺は、ふらふらと奴の傍らに歩み寄った。
「ほら、もうあなたの目の中には、僕しかいないよ」
両手を広げた奴の腕の中は、闇に満ちている。それは時に、永遠と安らぎの誘惑に彩られる。もうひとつの…闇の顔だ…。
俺は、闇に包まれた。包まれる…いや、肌を通して、闇が俺を侵していく。ザワザワと、闇が俺を貪り食う音が薫った。闇の中、光る赤い瞳が狂気に満ち、それに呑み込まれる快感が首筋を伝った。快楽にとろりと濁った目で見上げる。奴は、まるで自分が包み込まれているように、恍惚と笑っていた。
「もうすぐだよ……もうすぐだよ…兄さん」
微かに遠く、獣の猛り声が聞こえる。兄さん…俺の脳裏をその言葉がかすめ、そして快楽に埋没しようとしている。
「そこまでだ」
そのとき、夢を覚まそうとするかのように声が響いた。力強い意志の波に、闇はたじろぎ、奴の足に渦を巻いて縋りつく。闇は再び獣の形をとる。奴の足元に獣。そして俺の背後に、月と同じ赤い衣の女が浮かんでいた。闇の中、鮮血のように紅い女の唇がくうと弓形をとる。ちっと奴が舌打ちする音が、微かな風に乗って聞こえてきた。と同時に、奴の足元でうずくまっていた獣がゆっくりと身を起こし、降り注ぐ月光の下、その姿を変えはじめた。
「まさか今になってあんたが出てくるとはな…。多少予定は狂うけど、仕方ないね。」
奴の嘲笑を、女はものともせず、俺に歩み寄った。
「…誘惑されてんじゃないわよ。」
「…礼を言う。またあんたに助けられるとはな…紅の魔女、光と闇の羽間に住まいし者…」
「御託はやめて。斗環(とわ)、あなたいつからそんな腑抜けになったの?……こんな奴にメロメロにされるなんて。」
「こんな奴だなんて、非道いなぁ。僕は、知ってるんだよ。貴女が…」
言葉を続けようとした奴の口を、闇色の指輪を嵌めた大きな手がそっと覆った。
「少し悪さが過ぎたようだな、鷹羽(たかは)。おかげであんたに会えたわけだが、お互い過保護もほどほどにしたほうが良さそうだ。闇が、そろそろ痺れを切らしそうだよ…。」
「そう。そんなに私に会いたかったの。可哀想にね。生憎だけど・・・」
女は俺を見下ろして、唇の端を吊り上げて笑った。
「…私はアルジに忠実なつもりよ?」
ふいに覆われた手をひき剥がそうと、奴が身を捩るのを捉え、俺は咄嗟に頭上をふり仰いだ。月を背にして高く飛んだ赤い衣が、俺の手の中の鏡に反射する。月に溶けた赤い鳥は、鷹羽の背後の男の銀髪を千切った。 響き渡る、人身に戻った女の高らかな笑い声。宙を舞う銀の煌めきに鷹羽が一瞬視線を向けたその隙に、俺は奴に駆け寄り、その喉元に手をかけた。だが、奴のその細い首筋に指が触れた瞬間、俺は激しい衝撃とともに弾き飛ばされた。
「悪いが、私も主には忠実な方でね」
銀髪が闇に揺らぐ。その傍で奴…鷹羽が艶然と微笑んだ。
「兄さん、やっぱり僕、斗環が欲しいよ。」
俺の手の中で、鏡が音も立てず砕けた。力場が傾ぎ、鏡が押し留めていた力が暴力的に弾ける、そして俺は自らの魔具を砕かれた事への動揺で、受身の態勢を崩した。鼓膜を揺るがす無音、眼窩を穿つ闇、躰を引き裂く重力。激しく明滅する自我の狭間で、赤い悲鳴が聴こえた、気がした。
「殺しちゃダメだって言わなかったっけ?」
クスクスと笑い声。倒れ臥した2体の生命に、鷹羽はゆっくりと近付いた。
「斗環」
細い指が、ゆっくりと俺の髪をかき上げ、あらわになった耳元を吐息混じりの囁きがくすぐる。髪の流れに沿って、首筋を滑る指を払おうとしたが、身体は骨の軋むような音をあげるだけで、全く俺の言うことを聞いてくれなかった。指一つ動かない状態では、女に指示を与えることもできない。
「鷹羽、時間がない。」
奴と目線を同じくするために跪くと、男はその長く冷たい指で、俺の顎を掴んだ。
「さあ、決断の時だよ」
男の瞳はやはりあの、誘惑の闇に満ちている。体の痛みのせいなのか、彼の力のせいなのか、心までが緩慢に縛られていく。
「斗環…だ…め…」
かすれ気味の声に我に返った。東の空が白みはじめる。もうすぐ。もうすぐ俺の待ち侘びた時がやってくる。時と、残された俺の力の戦い…俺は、そっと女の手を探った。
「再生の…時…力を貸してくれ、姉さん」
薄曇りの空の端に見える光に、砕けた鏡の欠片を向ける。夜の闇と、朝の光の狭間の空気が、破片に光を集めた。光に霞む視界の中で、奴の顔が微かに歪む。それは、どこか泣き出す直前の顔のように見えた。俺は、その表情を知っていた。
〈また…繰り返すんだね…〉
眩い光の中で、奴が―鷹羽がそう呟くのを聞いた気がした。
〈僕たち、何時になったら―…〉
思い出したくなかった。こんな鷹羽は…。昼と夜とに引き裂かれた俺の片割れ。奴が光を取り戻したかったのと同じに、俺も闇に惹かれていた。俺たちが最も遠くなる、月の細い夜の中で…。
すべてを振り切るように、目を閉じた。俺は利かない指で印を結ぶ。すべてを、終わらせるために。
光が、溢れる。
今夜も俺を呼んでいる。最後の声が ― 遠い。
………THE END ?