「いいじゃないの。ちょっとくらいご主人を貸してくれたって。」
わたしはぶつぶつ言いながらアイスティーをストローでかきまわした。
「あんたねえ、人妻に向かって同じこと言える?」
向かいの席で友人が言う。
「だって人妻じゃないもん、彼女は。不倫みたいに言わないでよ。」
「だったらそんなむきになることないじゃない。っていうか、そういうものよ。」
わたしは友人から顔を背けてふくれた。
「よくわかんないよ、わたしには。」
毎日通る近所の塀の上。いつもどおり彼女は、気持ちよさそうに寝そべりながら、わたしを一瞥した。
『またおまえか。』
って顔。
「そんな顔しなくたっていいでしょー。」
『好きにしたら』
つんとわたしから顔を背けたまま知らん顔。自信たっぷりな様子。わたしがカオルくんの家に来ると、いつもこんなかんじだ。
まるで魔女の飼い猫みたいなメスの黒猫キキは、ご近所さんカオルくんの猫だ。わたし自身は猫を飼ったことはないので、キキってまるで不思議な存在。
そんなある日だった。カオルくんの家の前を通りかかって立ち話しをしていたところ。
「そうだ、お願いがあるんだけど…」
カオルくんがキキを抱えて、申し訳なさそうに切り出した。わたしよりふたつ年下の彼に、ふんわり笑って「お願い」なんて言われると、わたしはすぐさま「うん、いいよ」と言ってしまいそうになる。
「実は母方のおばあちゃんの具合が悪いらしくて、明日家族でお見舞いに行きたいんだ。」
「うん?」
わたしは、カオルくんのお願いの内容が予想できてしまい、少し戸惑う。
「キキ、あずかってもらえないかな。たぶん一日くらいだから。」
わたしはなんて返事をしていいのかわからなかった。
「わたしはいいけど…」
「あ、家族の人とか嫌がるかな?」
そうじゃなくて…。とわたしは思いながらカオルくんの腕の中にいるキキを見た。彼女は、自分の名前が会話の中に登場していることがわかるらしく、なんとなくそわそわしていた。
「キーキー…」
わたしが呼んでいるのが聞こえているくせに。彼女は、リビングにすまして座り込んだまま、こちらを見ようともしない。時々退屈そうに長いしっぽをぱたっとを動かすだけだ。カオルくんに言われたとおり餌も用意したのに、まったく手をつけない。
「そんなに嫌わなくてもいいじゃないのお。何がそんなに気に入らないのよ。」
キキに話し掛けながら、わたしはその答えがなんとなく思い当たっていた。
「わたしが、カオルくんと仲良くするのが気に入らないんでしょー。」
キキがちらりとわたしを見る。
『ひとりで何言ってんの?』
って顔だ。自分の言葉に少し後悔。だってそれは、わたしのほうだった。
「カオルくんのお姫様は、キキだもんねー。」
わたしもリビングに寝そべりながら、キキの顔をのぞきこむ。彼女はふっと立ち上がってわたしから少し距離を置き、また座り込む。
「平気だよ。カオルくんのことはちょっと好きだけど、でもキキにはきっとかなわないから。」
冗談のつもりでわたしはそう言ったけれど、言ってみてから、なんだかそれが冗談とは思えなくなってきた。美人で甘え上手で、大変なライバル。艶やかな黒い毛並みと金色の眼。スマートでつんとした姿を眺めていたら、なんだか溜息が出てしまう。
「キキ、ごはん食べなよ。せっかくの美貌が衰えるよ?」
わたしは言ったが、やはりキキはわたしの方には見向きもしなかった。
「もう知らないからね。」
あきらめて、わたしはキキをリビングに置き去りにしたまま、二階の自室で眠ることにした。
次の日は日曜で、わたしは昼すぎまでのんびり寝坊した。目覚めるとお母さんが洗濯物を干しているところだった。
「あ、おはよ〜」
わたしは言いながら、まだ餌の入っているキキのお皿を見つけた。そうだ、わたし猫をあずかってたんだ。振り返って、お母さんがベランダのガラス戸を全開にしているのを見ると、嫌な予感がした。
「お母さん、猫、知らない?」
「あら?そういえば朝にはいたけど…」
わたしはそれから家中の部屋をのぞいてはキキの名前を叫んだ。わたしが呼んだって返事なんかしてくれたことはないけれど、それでも呼んだ。わたしは家を飛び出して、カオルくんの家まで走って行った。
「キキー!いるの?」
玄関から庭に向かって叫ぶ。見当たらない。どうしよう…。わたしは昨日キキを最後に見た時のことを思い出す。わたし、キキに何か悪いことしたかな。わたし、キキのこと邪魔だと思ってたかもしれない。だからキキはどっかに行っちゃったのかもしれない。罪悪感と後悔がわけもわからず押し寄せる。
カオルくんの、ふんわり笑う顔が頭をよぎる。彼になんて言ったらいいの。
公園や、商店街、ご近所さんにもたずねまわったけれど、キキは見つからない。腕時計を見ると、四時になっていた。陽射しが穏やかに橙がかっている。わたしは、再び彼の家へと向かった。もうこれで見つからなかったら、家に帰ろう。
キキはいた。塀の上に。いつもどおり気持ちよさそうに寝そべりながら、わたしを一瞥する。『またおまえか。』って顔。わたしは体中の力が抜けそうになった。
「キキ、おいで」
わたしは両手を差し伸べたけれど、やはりキキは動かない。安堵と疲れと、そしてなんだか寂しくなって、わたしはキキのいる塀に寄りかかるようにして座り込んだ。
「どうやって連れて帰ればいいんだろ。キキのバカ…」
わたしはそのままぼんやりそこに座っていた。
「あれ?どうしたんですか?」
唐突に彼の声が頭の上から聞こえた。
「どうって…カオルくん、あれ?」
上を向くと、きょとんとした無邪気な表情の彼に出会った。
「僕だけ先に帰ってきたんです。おばあちゃん元気そうだったし。」
「早く言ってよ、そういうことは…」
わたしは気が緩んで、泣きそうになりながら言った。
「駅からおうちのほうに電話したんだけど」
塀の上のキキがカオルくんの腕に飛び込む。眼を細めて喉を鳴らしながら甘えている。
「キキ、ただいま。お留守番してくれたのか?」
わたしはその様子を見て、なんだか情けない気持ちになってしまい。本格的に涙がこぼれるのをこらえきれなくなった。
「あれ、あの、だいじょうぶ?」
カオルくんがおろおろしながら言う。
「キキ帰ってくれないから…」
わたしが恨めしげにキキを見ると、彼女はとぼけるようにほんの少し首をかしげる。それから彼の腕を飛び出し、さっそうとした足取りで庭の奥へと入って行っていく。
そして、カオルくんとわたしだけが残った。彼はしゃがみこんで、座り込んでいるわたしの頭をぽんぽんとなでてくれる。キキはご主人をちょっとだけ貸してくれたみたいだ。
「わたし、キキもカオルくんも大好きだよ。」
わたしは泣きながら、やっと言った。
数ヶ月後、わたしはキキともカオルくんとも、結構うまくつきあっている。
「ねえねえ、写真撮っていい?」
「え、俺?」
「やーね、あなたはいいのよ。キキを撮りたいの。」
「なんだよお。」
「フィルムが余ってるんだもん。キキ美人だからいいモデルじゃない?」
わたしは言って、キキにカメラを向けた。けれど彼女は、ちらりとこちらを見ると優雅な仕草で背を向け、座り込んでしまった。
「あら?こっち向いてよ。」
わたしがしつこくキキの正面に回りこもうとすると、うるさそうに姿勢を変える。とうとう、カオルくんの方へ逃げ出してしまった。
「どうしたキキ、ただの写真だよー」
結局わたしが撮影したのは、漆黒の塊を抱えて立っているカオルくんだった。
「やっぱり嫌われてるのかしら。」
「そんなことも、ないと思うんですけどねー。」
カオルくんは軽く言って、ふんわり笑った。