靴さがし

著:薊野佑子

 人が集まる町は汚い。たくさんの人が何かしらの痕跡を町に刻んで行く。
 信号の脇にあるゴミ箱に、いらないレシートを無造作に放る。昨日の昼、コンビニでおにぎりを買ったとき、ポケットにつっこんだレシートだった。早智子の指から離れたそれは、走り過ぎていく車の風に煽られあさってな方向へと優雅に翻る。
(あ…)
 早智子は拾う気にもなれず、信号待ちの人ごみの足元にレシートが舞い落ちるのを眺めていた。アスファルトの歩道の上で、白いレシートが眩しく這いつくばっている。
(わたしも町を汚している。)
 自分のモラルが脆弱なことに一抹の空しさを感じる。これも一種の罪悪感だろうかと、早智子は鼻先で笑う。
 人の波が動き出し、信号が青になったことに気づいた早智子は、ワンテンポ遅れて歩き出した。たくさんの人の背中がすでに先を歩いていた。
(どこに買い物に行こうか…)
 行く手の大通りには、雑貨屋や洋服屋、ドラッグストアから百貨店まで、なんでもそろっている。学生時代には、ほとんど毎日夜遅くまでうろついていたが、仕事に就いて週末の昼間しか来なくなった今では、雑踏の匂いや電光掲示板にノスタルジイすらかんじられる。
 大きなビルをぼんやりと視界にとらえながら、早智子は信号を渡りきった。脇を素早く自転車が通りすぎる。追い越しざま、なにかがぽとりと、誰も気づかないようなあっけなさで落ちた。
(あ、落し物)
 早智子が声に出しそびれ慌てて足元に落ちた物を手に取ったときには、すでに持ち主の背中はみるみる遠ざかっているところだった。
「あの!落としましたよ!?」
 落し物は財布だった。持ち主はジーンズにTシャツの男性だったが、こざっぱりした財布には大事なものが入っている気配が漂っていた。早智子は自転車を追いかけて走り出した。

「待って!あの、財布落としてます!」

 叫び声に周囲を歩いている人々が振りかえり、ちょっとした仕草で自分の荷物を確かめる。早智子は人ごみを押しのけて、遠くの自転車を見失わないように必死で追いかけた。別に親切心からではない。ただ、『ハンカチ落とし』のゲームに巻き込まれたようなものだった。自分のそばに落とされたなら、落とし主を追いかけなければならない。そういうルールが、モラルとは別に早智子の中に義務として根付いていた。だから実のところ迷惑なハプニングでしかなかった。よりによって自転車の男が落とした財布なんて、拾いたくもない。しかもヒールの高いサンダルが、アスファルトを蹴るたび足を痛めつける。

「待って!!」

 ほとんどヒステリックになりながら早智子は叫ぶが、人ごみに紛れているせいか声はまったく届かないらしい。

「ちょっと!!ねえ!」

 なぜこんなにまでして、走らなければならないのか。足をもつれさせながら早智子は舌打ちした。と、気力の限界に近づいているその時に、疾走は妨げられた。大通りの角を曲がった瞬間の、植えこみの前に人がしゃがみこんでいたのだ。

「きゃあ!」

 反射的に裏返った声で叫びながら倒れる。人にぶつかる柔らかい感触と、固いアスファルトに叩きつけられる感触が慌しく交錯した。

「なんなの?!こんなとこに座ってないでよ〜」

 体のあちこちが痛むのをこらえながら、早智子が身を起こす。ぶつかったのは、二十歳前後の女性だった。

「いたた…」

 ぶつぶつ言いながら立ちあがろうとした早智子は、足元に違和感を覚える。まっすぐ立てない。良く見るとサンダルのかかとが壊れて取れかかっていた。

「さいってー!」

 走ると痛いし長くは歩けないという、もともと足に合っているとは言えないサンダルだったが、給料をはたいて買ったお気に入りのデザインだったのだ。早智子は落胆を隠せなかった。自分の足元を恨めし気に眺めていると、ふと自分の視界にぶつかった女性がまだ座りこんでいる姿があった。
(あれ?)
 漠然とした違和感にかられて早智子は彼女を見た。彼女は顔を伏せてうずくまっていた。そしてスカートから伸びている足は、裸足だった。丁寧にぬられたピンクのペディキュアが一部はがれている。

「あんた、靴は…?」

 

***

 

 足の甲にできた水ぶくれがつぶれて、さらに黒ずんだ染みになっている。梨絵は眉をひそめてそれをなぞり、浅い溜息をついた。
 すべてはあのミュールのせいだ。確かに梨絵は、彼と町を歩いているときに「あ、これすっごい可愛い!」と無邪気にショーウィンドウの前で立ち止まった。おしゃれにあまり興味のない彼が、わざわざそれを記憶していて誕生日にプレゼントしてくれたのに、どんな不満を言えようか。サイズだってきちんと合っていた。ただ、形が合わなかっただけなのだ。
(次のデートは、絶対車にしてもらおう。)
 足が痛くてもう歩けない。彼にもらったミュールをはいて、その一言は言いにくかった。喉が渇いたと言って喫茶店に入り、さして美味しくもない紅茶を前に長々と居座った。そういうデートもたまにはいいが、とにかく足の痛みが重症だ。
(あ〜、可愛いんだけどなー…)
 靴擦れするからといって、ミュールをはくのに靴下をはくなどという斬新なファッションは許せない。これも義理人情、おまけに愛情。そうあきらめて、夏が終わるまではこのミュールをはき続けるしかないと梨絵はタカをくくっていた。

 それがどうだ。彼に対して、そんな気を使う必要があったのだろうか。ラブラブ気分で足の痛みも笑ってこらえて、捨てられてりゃ世話がない。

「ちょっと、意味わかんないんだけど。」

 彼はうつむいて、「ん」と無意味にうなずいた。駅前の電信柱に寄りかかって、落ちつかなげだ。こういう仕草が可愛くて好きだと、いつもなら思うところだったが今はそれどころではない。

「おまえって楽しいのか嬉しいのかとか、よくわかんないし。一緒にいて時々辛いっていうかさ…」

 きっとそれは、ミュールのせいで足が痛くて気がそがれていたからだ。と言おうか梨絵は一瞬考えたが、この雰囲気では余計に気まずくなりそうだと思い直した。

「その点俺が、今好きな子は……すごく屈託がないっていうか、ほっとするんだ。」

 梨絵は彼の言葉を聞いて手足が冷たくなるような気がした。彼が遊んでいるタイプならば、もっと気が楽だった。彼は嘘をつくタイプではないし、少し優柔不断なところはあるが温厚で誠実な人だ。少なくとも梨絵はそう思っている。彼がこう言うのならきっと、もうどうしようもない。

「好きな子…」

 梨絵は「好きな子ができたんだ」と笑って言おうとしたが、自分の口から出た声があまりに暗かったので後を続けられなかった。

「ごめん」

 気まずい沈黙を起こさせない勢いで、彼は言った。梨絵をまっすぐに見ようとしない彼の瞳にちらちらと罪悪感が浮かんでいる。ふいに梨絵は、怒りを覚えた。

「は?ごめんってなに?」

 泣きたい気持ちで一杯のはずの梨絵は、ちぐはぐに彼を意地悪く睨んでいた。
(今のあたしって、最悪だ)
 そうは思ってみても、もう後には引けなかった。彼がおろおろと返答に窮している様子を軽蔑するように鼻で笑って、梨絵はミュールを脱いだ。

「いらない。合わなくて足痛いんだ。」

 梨絵はそろえたミュールを、彼に向かって投げつけた。反射的にそれを受けとめた彼が、人の良さそうな純粋に驚きの表情で彼女を見る。
(最低最悪だ)
 梨絵は、彼の視界から一瞬でも早く消えてしまいたかった。震える裸足で回れ右をして、迷いなくまっすぐ歩き出す。ほこりっぽいアスファルトは足の裏に不快な感触だった。背中に彼の視線が貼りついているような気がして、梨絵はしばらく振りかえることもできずに歩き続けた。もう彼が見えるわけがない場所までずっと。そして大通りの角を曲がって、そこにうずくまってしまった。
(自己嫌悪で死んでしまいそう。)

 

***

 

「あんた靴は?」

 梨絵は顔を膝にうずめたまま上げることができなかった。靴は今、恋人に投げつけてきたところだと答える余裕などない。ただ首を横に振って、かまわないでくれと見知らぬ女性に合図した。
 しばし呆然とそれを見ていた早智子は、ふと我に返って落し物の財布を握り締める。ちょっと考えてから中を開けて入っている物を確かめた。免許証とどこかの店のクーポン券やポイントカード、文字の消えかかった感熱紙のレシート。現金は一万三千円ほど入っている。

「二足は買えないかな…」

 その呟きがぼんやりと梨絵の耳に届くが、胸に渦巻く感情にすぐさまかき消される。早智子はかまわず、念のため自分の財布の中身も確かめた。ひとりうなずいて笑顔になる。

「ねえ、靴買いに行こう」

 早智子の放った言葉は、くっきりとした印象を持って梨絵の耳に響き、ばらばらだった彼女の聴覚と思考とをつなぎ合わせた。梨絵が顔を上げて早智子を見たとき、ふたりの間に凛とした空気が生まれていた。

「わたしの靴と、あなたの靴。前のよりぴったりのをさがそ。」

 そっけないほど渇いた声で早智子は言い、かかとの壊れかけたサンダルを道路脇の植えこみにぽいと投げた。聞き流してしまいそうな彼女の言葉を、梨絵は耳の中で繰り返してかみしめ、少しぼんやりした顔で早智子をまじまじと見る。

「さがすの、さがさないの?」

 すでに歩き出そうとしている早智子に「さがす」と小さく答えて、梨絵も歩き出した。
 合わないけれど欲しい靴もある。足にマメができてから合わない靴だと、いらない靴だと気づくこともある。けれど合う靴が無くて、妥協するときもある。
 そしてきっと、裸足で靴を探すこともある。ぴったりの靴がないならば。

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