屑籠の原稿 

著/ 薊野佑子 

「眠れぬ夜のあなたの夢へ…」

ある日の夏の無人駅では

セミの歌が聴こえましたか

プラットホームの屋根からさしこむ
お日さまの光
頬に触れましたか

線路の向こうの
カゲロウ
見えましたか

駅長室の置き傘が
乾いているのに
気づきましたか

花が首をたれて
あなたに会釈したの
わかりましたか

わたしもいないその場所で
あなたの音は
生きていましたか

これから届く絵葉書を
待っている人がいるかもしれません

たとえば、
眠れない夜に

冷えていく珈琲

飲みかけの珈琲が、カップの中で冷めていく
もうこれ以上、口をつけてはいけないカップ。
珈琲の暗い水面を見つめる。
その奥に映っているのはあなた。
特別な人になってしまったあなたは、それ以上でもそれ以下でもなく、
ただわたしの中にあり続ける
夏は遠く、二月の寒さが指先に点るように、
珈琲の熱も、恋心もそっと遠ざかる。
それでも尚、冷えたカップにあなたが浮かぶ。
元気ですか、どうしていますか
彼女を大事にしてますか
わたしは今も、ここにいます。

あなたの音楽

音楽がとぎれるのを怖れていた
それは過ぎ行く波だった
蝶の羽を針でとめてしまうように
耳に旋律をはりつけるピアスはありませんか
音楽が散っていくのが寂しいのです
彼がわたしにくれたのはこれだけだったから
彼が信じている唯一のものだったから
わたしにあなたがいなくても
あなたにわたしがいなくても
音楽だけはずっといる

涙に銀の花を添えて

 小さなビーズがたくさんある。透明なの不透明なの。ベネチアングラスにインドビーズ。淡水パール、ウッドビーズ。
 勾玉タイプの薄青いビーズは、透明で涙型。二号の細い天蚕糸(テグス)に通したら、ころころふるふると揺らいでいた。まるで宙ぶらりんに見えるその結晶は、哀しくて、とても哀しくて、わたしは嫌な気持ちになった。そして冷静になった。冷静じゃなかったかもしれない。でも夢から覚めるように、自分の部屋がたちまちグロテスクに立体的に、そして現実的に浮かび上がった。
 嫌な気持ちっていうのは、嫌なことを思い出しそうになることだった。それが何かちょっと考えてしまえば、漠然といていたはずの事がバカに鮮明に現実と結びついてくる。
「違うの、そういうことじゃないの。」
 わたしが眠れないのは、わたしが糸にビーズと通し続けるのをやめないのは、わたしがずっと…、
「ずっとなによ」
 あまりに長い間、季節がいくつも巡るほどに長い間、気分が晴れたことがなかったので、もはやわたしは、自分が元気なのかそうでないのか、よくわからない。
 ひとつ溜息をついてから、覚悟を決めるような気持ちでもう一度手もとの糸を見る。一粒のビーズ。細いビーズ針が指先で震えていた。わたしは少し考えてから、銀色のアンティークビーズをいくつか通す。そして小さな花を編む。冷たい銀の花を編む。涙に添えて花を編む。
 曇り空の夜明けが、白くかすむ。
 わたしがずっと………なのは、やっぱりあなたのせいでしょうか。

カラッポがいる

 なにがわたしを追い詰めているのかわからない。いいえ、きっとわたしを追い詰めるのはカラッポ。なにもないカラッポがわたしに侵食する。
 ちょっと前までわたしのなかはいっぱいだった。いろんなものでいっぱいにしていた。それは失恋の痛手から逃れるためであって、その辛さは色や匂いがあって、生々しくて、わたしはそれをよくわかっていた。
 ある日、真っ黒に予定が詰まっていたスケジュール表にぽっかり休日が現れたとき、わたしは突如、発熱した。胸の真ん中から凍え出して、誰の顔も見たくなくて誰の言葉も聴きたくなくて、冬眠でもしたい気持ちになって、わたしの部屋のふとんの中だけがわたしの世界になった。
 いっぱいだったわたしは、弾けとんで。まるでヒューズがとんでしまったみたいに、一度機能を停止した。心が空っぽになって動かない。再び枕の上の頭が目をさまして、痩せて重たい体をふとんからはい出した時、わたしはまったく空っぽだった。眠っている間の世界が、夢が、一緒になってふとんからはい出してしまったみたいで、なにが本物かさっぱりわからない。何をすべきなのかとか、何をしたいのかさえわからない。好きだった人とか、その人の彼女とか、なぐさめてくれた人とか、みんな、木炭で描かれたデッサンのように、微かな印象だけを持って浮かんでくる。その印象が、喜怒哀楽の中心で、どこにもいけずに揺らいでいて、ほんのり苦い味がした。誰かに笑いかけられれば、心から笑い、悲しい映画を見たら、心から泣くだけだった。
 とにかくカラッポだ。細胞壁だけがわたしを創っていて、中身は干上がった池のよう。ちょっと前までいっぱいだった場所がカラッポ。そのカラッポは、さっぱり許容量を失って、ガスでも溜まっているみたいに、カラッポそのもので満たしている。
 「楽しいことは、ないかしら。」
 うわ事のように呟いて、その響きにまったく実感がこもってないことに気がつく。そもそもわたしは、楽しいことなんか探してもいない。ただただ「困ったわねえ」と胸の中のカラッポに相談する。
 「このままじゃあ、あんまり良くないと思うのよ。」
 向上心どころか、現状維持もする気が起きない。足もとが崩れていくのを、夢うつつな気分で眺めるだけ。
 誰にも会いたくなかったわたしが、誰かに会ってみたくなる。
 「もしかしたら、いいこともあるかも、でしょ?」
 無邪気な女友達と食事して、最近のうわさ話を一通りして。笑ったり溜息をついたりして、駅のホームで笑顔で別れた。
 「ああ良かった。友達と会うのって楽しいんじゃない。」
 胸の真ん中にほんのりぬくもりを感じながら、手を振って別れた。けれどそのぬくもりときたら、まったく頼りない。わたしが電車に乗って、わたしひとりと一緒になると、コタツから冷たい廊下にほうり出されたように、急速にその熱は冷めてしまった。
 「やっぱりまだ、そこにいたのね。」
 カラッポが無表情にうずくまっていた。悪意もなく、善意もなく、置き忘れた洗濯かごのような顔をして。わたしもやっぱり、そのカラッポを憎むことも愛することもなく、鏡に向き合うように、カラッポとおんなじ顔をしているんだと思う。

台風一過

 台風が過ぎた、午後4時過ぎに、墨田公園へ行った。
 青く晴れ上がった空の下、増水した隅田川が悠々と流れていました。
 橋の上から眺めれば、いつもよりすぐ近くに水面が揺れているのです。
 あまりに容易に手が届きそうなので、身を投げてみたくなるのでした。

 土手の上のコンクリートの柵の上に上ってみました。
 西日にほの赤く染まった大きな流れが一望できました。
 すぐそばに、あれは凌霄花のような…蔓植物の赤い花が鮮やかに咲いていました。
 しばらく風に身を任せて体を揺らしていると、唄が生まれました。
 わたしの中から、何もかも洗い流すようなゆったりとした唄が。
 すぐ下の遊歩道が濁った水に沈んでいるのをしばらくぼんやり眺めていました。

 水のひきかけた歩道の、乾いたところを選んでわたしは歩き出した。
 いつもは見下ろす川の流れが、ほんとうにわたしのすぐそばにあることが
 なんだかとても嬉しかったのです。
 わずかに煉瓦の囲いで川と隔たれた大きな水たまり…池と言ってもいいでしょう。
 そこには5センチくらいの小さな魚が泳いでいたのです。
 はじめわたしは、ただその魚に出会ったことに感動して見入っていました。
 けれどこのまま川に戻れないのではと、わたしは気の毒に思いました。
 すると一匹が跳ね上がって煉瓦の階段の上に飛び出し、ぴちぴちともがくのです。
 わたしはとっさにその魚を拾い上げ、手の中で動く様をじっと見ました。
 銀色で尾が少し傷ついていました。ひんやりとして頼りなげな感触でした。
 黒くて潤んだ瞳がまだ活力にあふれていました。
 わたしはその魚を、すぐに川の方へ放ってやりました。
 水へ帰って大きくおなりと、願いをこめました。
 手には泥がほんの少しと、小さな鱗の一片が残っていました。

 だいぶ日も傾いてきた。
 わたしはここちよい風の名残を惜しみながら、そろそろ家に帰ろうと思った。

 オヒサマ が 欲しい日

ナイテルノ?
ナイテルワケジャナイ。雨ハショッパクナイ。
海ハカナシイノ?涙ナノ?
サウデハアリマセン。
涙ガ 感情ヲトカスヨウニ、海ハ スベテヲトカシコンデ
ノミコンデイルノデス。
ソレハ、カナシクアリマセン。

午前2ジ、オヒサマ ガ ホシカッタ。
白熱灯ジャ ダメダッタ。 
皮フ ハ 焼けるヨウニ熱かったけど
体ノ芯ハ ヒエテイタ。胸ノ マンナカ寒かった。
アッタカクナリタカッタ。
朝ガ来タ。ダケド 外ハ 曇っていた。
オヒサマガ ホシカッタ。

ドウシタノ?  ドウモシナイ。 ケド ドウカシテル。

ボクハ ドコニモ イナイ。 イツデモ ドコデモ イナイ。
サウシテ ココニイル。 ココハ ドコデモナイ。
ボクモ ダレデモナイ。 トキハ 淀んダママ。
フクソスウ ノ セカイ。

ユメハ サメタラ キエタ。冷メテ キエタ。
トギレタ ヲンガク ノ ヤウニ。ピエタ。
霧散シテ キエタ。

トヲク、安っポイ スピーカー カラ 聴コヘル
カヨウキョク ノ ヲト、
スギユク 祭バヤシ ノ ヤウニ
ワタシヲ オキザリニ シタ。

全国 イキヲ ヒソメテ 雨音キク。
日本列島 雲ノ シタ
灰色雲ノ 支配下で
ウツ病ノ切なさと闘ッテイタ。

トリ ハ トブ。 雨デモ トブ。 ホントニ トブ。
オトギバナシ デハナク
アタリマエノ ヤウニ。 トブ。

サリゲナイ強迫観念ガ 日常ヲ襲ウ。
コッソリト 軽ヤカニ、灰色ノ死神ガ 降リテキテ
死ンデシマエ ト ワタシ ニ 囁ク。
自由ト平和ニ ポッカリ浮カブ
清ラカナ 絶望 ダッタ。

ミズウミと消費者

 彼は、自分が単純であることを恐れていた。けれど単純さを求めていた。透明な彼は、深い水の底に泥を沈めていた。
「消費されるのが怖いんだ」
 自分から離れていく人が多ければそれだけ、自分が単純だと言われている気がする。
 彼は小さな巻き貝のように黙り込む。他の言葉に耳を澄まし、相手を消費してやろうと、努めています。
 いつも淀んでいるウンディーネは、その透明な浅瀬も、深いところの泥沼も愛せると思いました。ただ、この水を泳ぎまわり自分のものにしようとするあまり、飲み干してしまうことだけを恐れているのです。

(サスペンス)

他のみんなに見離されることと、
じぶんひとりに見離されることとは、
どちらがよりおそろしいだろうか。

註)サスペンス【suspense】(名)気がかり。不安。

ヘンデルを聞きながら

 熱に浮かされ、体は軋み、夜明けが来てもまだわたしは眠らない。
 自分の発する言葉の意味も分からない。指だけが勝手に動き続けるのだ。指はまるで、わたしのことをなんでも知っているみたい。
 わたしには何も分からない。わたしのことなど何も分からない。それを知っているのはわたしだけ。それが唯一わたしであること。
「我思う。故に我あり。」
 こんな古びた言葉を頼って、わたしは今夜も空虚感を堪え忍ぶ。
どんな言葉がわたしを救うの。どんな音がどんな色がどんな匂いが?
わたしは一心に思い描こうとする。けれどたちまちシャボンに触れたかのように
その姿形はわたしの中から見えなくなる。
 しかたなく恋人を思い浮かべて、これがわたしに必要なのだと思い込む。それは正しいと思う。間違っているかもしれない。だけど唯一の救済ならば、それは絶対に正しいのだ。この瞬間においてそれは正義だ。
 タイプの音がせわしない。わたしの声は死んだまま。喉はひりひりとして、わたしから歌を奪い取ったまま。小川洋子の小説の、声をなくしてタイプライターで話す女性を思い出す。そんなどうでもいいことに、わたしは落ち込むのだ。熱のせいだ。
 ヘンデルのヴァイオリン曲は、何故いまこんなに狂って聞こえるのだろう。わたしが病んでいるからでしょうか。軽快で高らかな旋律は、まるで常軌を逸して聞こえるのだ。ヘンデルが病んでいるのでしょうか。
 腰骨が冷たく軋んでいます。頭の方は生ぬるく足先は凍えています。わたしは病んでいます。だけど、そのほうが真実な気がするのは何故でしょう。
 哀しいほど素直です、今のわたしは。
 そしてきっと、誰も傷つけません。わたし以外は誰も。
 そろそろ横になりましょう。もう一度白い錠剤を飲んで。痛みの癒える薬を飲んで。

エゴイスト

池袋のファーストフード店の三階、窓際の席。コップには冷えきった珈琲がまだ半分も残っている。
かれこれ一時間、ただこうやって一人の時間に沈んでいる。家族も友人も恋人もいない。知らない人だけがたくさんいる。こういう場所が、どこよりも独りになれる。こんな時間も、わたしは大切だ。
ぼんやりしていると、隣のテーブルの客が煙草に火を点けた。
(あ、ここは喫煙席だった。)
はじめて気がついた。
(別にかまわないけど。煙草の煙は、何故だか嫌いじゃないもの。)
と、いつも煙草の匂いがするあなたの顔を思い出す。一人でいると、なんだか安心してあなたの事を考えていられる。楽しそうにしているところを家族や友人に気取られるのが嫌なのだ。
(何か後ろめたい事でもあるみたい。)
実際あるような、ないような、あるような気がする。理由のわからない憂鬱にふと襲われて溜息。
外を見ると、歩道が人で混み合っている。人で道が見えない。
(せわしないなあ。ところでわたしは、なんでこんなにのんびりしてるんだろ。)
今日は本屋に行って、だけど収穫が得られなくて、なんとなくデパートをうろついて…香水のテストペーパーを何枚かもらった。上等の香水だと紙も上等。綺麗で楽しいから、ほとんどコレクションになっている。
(今日はどんなのをもらったっけ。)
ゆっくりとした動作で鞄の中を探る。匂いが混ざってしまって甘ったるい。
(ん、今日の一際きつい香りは…これかな)
一枚のシンプルなテストペーパーに鼻を寄せて、眉をひそめた。
(『エゴイスト』だ。)
シャネルの香水のひとつだ。
(ふ〜ん、わたしにぴったりだわ…名前が。)
ついでにあなたにも。それにこれって男物だったっけ。
いつも煙草の匂いがするあなたに対抗して、香水をつけようかと、この前思いついた。わたしが煙草の匂いを嗅ぐと動悸がするように、あなたもその匂いでどきどきするようになるかしらと、ちょっとしたいたずら心のようなもの。
(『エゴイスト』か。それも面白いかしらね。)
ユーモアのつもりでしばし検討してみる。
(そのまんますぎて洒落にならないわ。それにあんまり好みじゃないし。)
またも煮え切らない落ち込みに襲われる。自分で自分の考えに傷ついているらしい。
(莫迦じゃないの)
自己嫌悪を打ち消そうとして、逆に追い打ちをかけてしまう。心底うんざりして考え事をやめる。これ以上自分をおとしめる事も救う事もすまい。
いつのまにか窓の外の街灯、水銀灯がついている。薄闇に煌々と光っていて眩しいことに気づく。腕時計を見ると、四時すぎだった。
(そろそろ帰ろ。)
とりとめもない独りの午後だった。

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