ミ ソ ラ

著/ 薊野佑子

 トオルが初めて天体観測をしたのは、十四歳の時の皆既月食。望遠鏡の向こう側で、月の満ち欠けを、呼吸するのも忘れるほど、熱心に眺めていた。それからずっと、彼の興味は「空」のことばかり。学校で勉強することが、「空」のことばかりだったらいいと、ずっと思っていた。
だから彼の夢は、「空の博士」。

もっとわたしを知って欲しいの。
空に恋した男は、空を見つめ続けて
虹の色すべてを、空に見つけた。

 一人暮らしの学生生活をしていた、トオル。ある日そこに、彼の女が転がり込んだ。それはふたりにとって、別に不自然なことでもなんでもなかった。遠い昔からの約束のように、ふたりは一緒に呼吸していた。

 それは雨の日で、煙草を買って帰る途中のトオルは、涙に暮れたミソラに出会った。公園の水飲み場の横に腰掛けて泣いていたミソラ。トオルは、
「あの」
と言ったきりそれ以上何も言えず、去ることもできず立ち尽くした。彼女の泣き顔は美しく、彼は傘をさしかけることすら思いつかなかった。
ミソラは、泣いていた理由を言わなかった。
「なぜ、わたしを眺めているの?」
 ミソラの問いに、トオルは適切な言葉を必死に探す。そして何がなんだかわからないまま、
「きれいです」
と呟いた。

 恋人という言葉がふさわしいのかどうか、それを確認する必要はなかった。トオルがミソラを好きで、ミソラはそれが嬉しかった。
「ねえ、泣いているわたしを、好きになったの?」
 ミソラはたずねる。トオルは、答えにつまりながら、頭をかいた。そしてミソラは、微笑んだ。笑った顔も、きれいだった。

虹の色すべてを、見つけても
それもまだ、わたしすべてではない。
すべての色は、わたしの屈折で、裸を隠す服の色なの。

「トオルは、博士になるんだね。」
 望遠鏡を覗いている彼の後ろから、ミソラが静かにそう言った。
「なれるように、がんばるさ。そのために研究室にも通い詰めているんだもの。」
 嬉しそうに言いながら、トオルは空を見つめていた。
「今日も空は、きれいですか?」

もっとわたしの中へ入ってきて。
空深く、細かな光がちらちらと
夜の闇へと誘い込む。
それで男は、大きく太いロケットを、
虹の彼方につきたてた。

「ねえ、『かぐやひめ』を知っている?」
 月夜の晩に、明かりを消した部屋の中から、網戸越しの空を眺める時。ミソラは決まって、そう言うのだ。
「知ってるよ。月から来たお姫様だろう?」
 トオルが答えると、ミソラは「そう」と小さく言うだけだ。
「じゃあ、『月の兎』は知っている?」
 ミソラがまた、そうたずねる。
「月に見える影のことだろう?」
 トオルが答えると、
「じゃあ、ほんとはいないのね。」
 ミソラはそう言って月を仰いだ。

空の闇は深く、エクスタシーは遠く
星に届かぬロケットを、吸い込んだまま
何も産まない。
学会で、女子学生が手を挙げて、
「その実験は、愛でしたか」と質問した。
男の答えはこうだ。
「弁護士を呼んでください」

   空は青い。
トオルは、ミソラの笑顔を愛でる。
   空は白い。
トオルは、ミソラの泣き顔を愛でる。
   空は赤い。
トオルは、ミソラの黄昏を愛でる。

「ねえ、『かぐやひめ』を知っている?」
 月夜の夜に、夢でも見ているように繰り返すミソラ。いつしかそれに、まともな答えを返さなくなったトオル。
「お伽噺の、お姫様だろ」
 答えてくれた今夜は、まだいいほう。
「トオル、わたしのこともっと知りたい?」
 分厚い研究書を読みながら、トオルは、うなるような声で返事する。
「もうずいぶん長く一緒にいるじゃないか。今更そんな、つきあいはじめたばかりの、恋人同士みたいなこと。」
 それでもあなたは、まだわたしのことを全部知っているわけじゃないのに。

 ミソラがいなくなったのは、それから数日後。

男は学会で発表した。
「空は、虹の色すべてを合わせた
無色透明の暗闇で、
ぽっかり口をあけた、ひとつの穴なのだ。」
そして男は、博士になった。

 ミソラ。
 ロケットを待っている女、それがわたし。
 愛なんて言葉は知らず、自然の摂理のままに、
 そこにある空―――。

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