トオルが初めて天体観測をしたのは、十四歳の時の皆既月食。望遠鏡の向こう側で、月の満ち欠けを、呼吸するのも忘れるほど、熱心に眺めていた。それからずっと、彼の興味は「空」のことばかり。学校で勉強することが、「空」のことばかりだったらいいと、ずっと思っていた。
だから彼の夢は、「空の博士」。
*
もっとわたしを知って欲しいの。
空に恋した男は、空を見つめ続けて
虹の色すべてを、空に見つけた。
*
一人暮らしの学生生活をしていた、トオル。ある日そこに、彼の女が転がり込んだ。それはふたりにとって、別に不自然なことでもなんでもなかった。遠い昔からの約束のように、ふたりは一緒に呼吸していた。
それは雨の日で、煙草を買って帰る途中のトオルは、涙に暮れたミソラに出会った。公園の水飲み場の横に腰掛けて泣いていたミソラ。トオルは、
「あの」
と言ったきりそれ以上何も言えず、去ることもできず立ち尽くした。彼女の泣き顔は美しく、彼は傘をさしかけることすら思いつかなかった。
ミソラは、泣いていた理由を言わなかった。
「なぜ、わたしを眺めているの?」
ミソラの問いに、トオルは適切な言葉を必死に探す。そして何がなんだかわからないまま、
「きれいです」
と呟いた。
恋人という言葉がふさわしいのかどうか、それを確認する必要はなかった。トオルがミソラを好きで、ミソラはそれが嬉しかった。
「ねえ、泣いているわたしを、好きになったの?」
ミソラはたずねる。トオルは、答えにつまりながら、頭をかいた。そしてミソラは、微笑んだ。笑った顔も、きれいだった。
*
虹の色すべてを、見つけても
それもまだ、わたしすべてではない。
すべての色は、わたしの屈折で、裸を隠す服の色なの。
*
「トオルは、博士になるんだね。」
望遠鏡を覗いている彼の後ろから、ミソラが静かにそう言った。
「なれるように、がんばるさ。そのために研究室にも通い詰めているんだもの。」
嬉しそうに言いながら、トオルは空を見つめていた。
「今日も空は、きれいですか?」
*
もっとわたしの中へ入ってきて。
空深く、細かな光がちらちらと
夜の闇へと誘い込む。
それで男は、大きく太いロケットを、
虹の彼方につきたてた。
*
「ねえ、『かぐやひめ』を知っている?」
月夜の晩に、明かりを消した部屋の中から、網戸越しの空を眺める時。ミソラは決まって、そう言うのだ。
「知ってるよ。月から来たお姫様だろう?」
トオルが答えると、ミソラは「そう」と小さく言うだけだ。
「じゃあ、『月の兎』は知っている?」
ミソラがまた、そうたずねる。
「月に見える影のことだろう?」
トオルが答えると、
「じゃあ、ほんとはいないのね。」
ミソラはそう言って月を仰いだ。
*
空の闇は深く、エクスタシーは遠く
星に届かぬロケットを、吸い込んだまま
何も産まない。
学会で、女子学生が手を挙げて、
「その実験は、愛でしたか」と質問した。
男の答えはこうだ。
「弁護士を呼んでください」
*
空は青い。
トオルは、ミソラの笑顔を愛でる。
空は白い。
トオルは、ミソラの泣き顔を愛でる。
空は赤い。
トオルは、ミソラの黄昏を愛でる。
「ねえ、『かぐやひめ』を知っている?」
月夜の夜に、夢でも見ているように繰り返すミソラ。いつしかそれに、まともな答えを返さなくなったトオル。
「お伽噺の、お姫様だろ」
答えてくれた今夜は、まだいいほう。
「トオル、わたしのこともっと知りたい?」
分厚い研究書を読みながら、トオルは、うなるような声で返事する。
「もうずいぶん長く一緒にいるじゃないか。今更そんな、つきあいはじめたばかりの、恋人同士みたいなこと。」
それでもあなたは、まだわたしのことを全部知っているわけじゃないのに。
ミソラがいなくなったのは、それから数日後。
*
男は学会で発表した。
「空は、虹の色すべてを合わせた
無色透明の暗闇で、
ぽっかり口をあけた、ひとつの穴なのだ。」
そして男は、博士になった。
*
ミソラ。
ロケットを待っている女、それがわたし。
愛なんて言葉は知らず、自然の摂理のままに、
そこにある空―――。