〈 ピーターパンを知ってる? わたしは、彼が好きだった。
けれど、わたしはネバーランドに留まれなかった。…ううん、留まらなかった。
わたしは自分の世界に帰ることを、自分から望んだから。
けれどその代わりに、2度とネバーランドに行けない代りに―
―わたしはずっと、彼のことを思いつづけなければならなくなったのだ。 〉
「ピーターパンみたいにさ、僕がなるから、ティンカーベルにならない?」
残酷なほど、記憶は鮮明に蘇る。
幼い彼がわたしに囁くこのシーンを、わたしは繰り返し繰り返し夢に見る。
「ねえ?」
どうして忘れられないのだろう。
「 … は、なるっていってるんだ」
彼は、彼女の名を呼ぶというのに。
彼女は、目の大きな綺麗な子だった。気が強くて、甘ったれで、始終いろいろな人と喧嘩をしては、次の日にはべったりと手をつないで歩いていた。かつて彼女はわたしが一番好きだと言って、わたしにぴったり寄り添っては、猫みたいな舌足らずな声でわたしの名を呼んだ。
「どうする?」
夢の中で、幼いわたしと彼は階段の踊り場の水飲み場にいて、学校の薄っぺらなガラス越しの光がいやに明るく降り注いでいる。
真夜中に見た古い映画のワンシーンのようだ。光が強すぎて、色彩がすべて失われている。
「 … 」
彼は、わたしの名を呼ぶ。幼い真摯な声と、少し困ったような笑顔で。
「 … どうする?」
彼はやさしい子だった。わたしのことが好きなくせに、誰にでもやさしかった。
子どものころからずっと変わらない。そんな風に彼はやさしくて、ずるかった。
彼をみつめる夢のなかの幼いわたしには、なぜか顔がない。
顔がないのに、わたしは彼女がどんな表情をしているか、いやになるくらい知っている。
日に透ける茶色の髪、白い頬―曖昧な笑顔。人当たりのやわらかな外見と裏腹の強い独占欲。 …ああ、わたしも同じだ。あの頃から、少しも変わらない。
彼女は言うのだ。
「わたし、ウェンディになる。」
ウェンディはネバーランドに留まることができなかった。
そうして彼女はもう2度とネバーランドに行くことが出来なかったのだと―みんなそう思っているけれど、ほんとうはちがうのだ。
ネバーランドにずっと囚われているのは、ピーターパンでもティンカーベルでもない。
ウェンディなのだ。
ウェンディは、ピーターパンの特別ではなかった。 彼女は結局、自分の世界に帰るのだから。
ピーターパンは、彼女を止めることはないのだから。
ピーターパンとずっと一緒にいるのは―彼とずっと一緒にいられるのは、ティンカーベルだ。
なんという呪縛だろう。
ピーターパンはネバーランドを出て、ネバーランドを忘れ、大人になってしまったというのに、わたしはずっと、彼に囚われ続けている。もうどこにもいない彼に。
〈 ピーターパンを知ってる? わたしは彼が好きだった。
けれど、わたしはネバーランドに留まれなかった。…ううん、留まらなかった。
わたしは自分の世界に帰ることを、自分から望んだから。
けれどその代わりに、2度とネバーランドに行けない代りに―
―わたしはずっと、彼のことを思いつづけなければならなくなったのだ。〉
わたしは、ウェンディ。
けれどもそれを選んだのは、まぎれもないわたし自身なのだ。
Never Land―どこにもない国。
わたしはここで、どこにもいない少年の彼を探しつづけている。