夏休み ― The girl after Wendy

著/ 暮嶋有未

 この夏、毎日のように電話していた友達と、久しぶりで直接会うことになった。
 目覚ましもかけないのになぜだかきっちり目が覚めた午前8時、何気なく引いたカーテンからさしこむ光があまりにも大量であまりにも明るかったので、わたしはひどくびっくりしてしまい、そうしてなんだか、うんと泣きたいような、うんと笑いたいような、やるせない気持ちになった。

 最近あまり、夢をみない。
 夏の間は、毎日のように夢をみていて、それがいやでいつも明け方まで起きていたというのに、なぜだか最近はひとつもみない。夢ひとつ見ずに―ただただ、泥のように眠る日々だ。

 午前9時、予定より少し早めに家を出たわたしは、各駅しか止まらない地元の駅で、のんびりとやってくる電車を待った。

 わたしは電車に乗るのが好きだ。
 お天気のいい日、充分時間がある時に、ひとり電車で揺られていると、なんだかやけに満ち足りたような、安心した気持ちになるのだ。
 電車のなかでは、音楽を聴こうとしても集中できないし、本を読んでも酔ってしまうから、たいていなんにもせずにぼうっとしている。窓の外の景色が陽射しに溶けるようにしてきらきらと流れてゆき、閉じた瞼の裏にオレンジ色の残像を映す感じが好きだ。陽射しは、柔らかであればあるほどいい。

 わたしは秋の生まれで、そうしてもうすぐ21になる。
 夏も、もう終わりに近いのだ。
 肩にかけていた鞄を膝に載せた拍子に、自分の着ている洋服の、短い袖に目が止まる。しみじみと見たその袖は、お気楽なシュークリーム型をしていて、こんな服を着ていられるのもあと少しだなあと思う。 来年こんな軽やかな服を着る頃には、わたしはなにをやっているのだろう?
 …見当もつかないようにも思うし、なんとなく知っているような気もする。

「まだ就職活動中で、スーツばっかり着てるんじゃない?」
 友人のひとりは、いつまでものんきなわたしにあきれて、そう言った。
「そんな情緒にひたってる暇、多分ないわよ!」
 そうだね、就職は相も変わらず厳しいらしいしねと、わたしは彼女にもっともらしく相槌を打ち、そして、のんびりにしてちゃだめねと笑った―ような気がする。
 現実は濃いようでいて薄いようで、わたしは自分の時間の濃度を測ることがうまくできない。
 焦点を捉えられず、ただ、戸惑うばかりだ。

「ちゃんと見なきゃ。」
 別の友人―今日これから会う彼女は、かつてわたしにそう言った。
「ちゃんと、人を視界にいれなきゃだめだよ。」
「あんたは、自分から視界を限定してるんだから。」
 そうね、でも結構努力してるんだけどなあ―わたしはその時そう応えたけれど、でも正直にいって、ぴんときていなかった。それどころか、別にそれで構わないのにとさえ思っていた。
 視界というのは、その人の世界のことだ。
 今のままで、万事ことなき世界に、どうして無理に波風を立てる必要があるのだろう――?
 その時は、そう思っていた。

 電車に揺られて長いこと座っていると、わたしは、なぜだかいろいろなことを思い出す。
 例えば今みたいな友人の言葉や、昔見た映画の1シーン…それから、夏の間幾度となく見ていた、ピーターパンの夢のことも。

 この夏、わたしは長い間忘れられなくて、好きだと思っていた人を、ようやく過去にした。
 8年思いつづけてきた人を、ひとつの季節をかけて忘れた。
 人の思いと時間の関係は微妙だ。
 わたしはやっぱり、時間の流れを上手に汲み取ることができない。

 眠り姫もラプンツェルも、少女期の物語なのだといつかなにかで読んだことがある。
 全ての少女は繭のような高い塔のなかでひたすらに眠って、いつか自分を目覚めさせてくれる王子様を待っているのだと。
 少女と呼ばれる年齢だったわたしは、その説に相当な違和感…相当な否定の気持ちを持った。そんなのは嘘だ、つまらない幻想だ、と。 
 今は、なんだか悲しい説だと思う。
 だってそれは幻想というより、かつて少女であった人の感傷だ。

 たとえば、誰かがうんとわたしのことを好きになってくれたら、わたしもその人を好きになって、そうして呪いは解けるのだと思っていた。眠り姫や、ラプンツェルみたいに。
 けれどもわたしに呪いをかけたのは悪い魔法使いでも血のつながった両親でもなく、ましてやピーターパンでもないのだ。
  わたしをいつまでもネバーランドに閉じ込めているのはわたし自身。 だから、呪いを解くことができるのも、わたし自身でしかありえないのだ。
 百人の王子様も、今のわたしを救えない。

 「かたんかたんかたんかたん」
  地下に潜ってゆく電車の中で、〈それでも〉とわたしは思う。
 それでも、わたしは生きていく。いつかは、ここを抜ける時がやってくる。
 それは別に深淵な哲学でもなんでもなくて、頼りない直感のような、祈りのようなものだ。
 〈もうすぐわたしは、自分の足でここを出てゆく。〉

 この宙ぶらりんな時間は、そのための準備時間だと思おう。
 長い眠りも、自分で世界を開くための、充電なのだと思えばいい。
 これはそんな、夏休みだ。

 電車はうねるようにしてゆっくりとカーブを描き、それにつられてわたしも少し傾いた。
 午前10時、もうすぐ友人の待つ駅に着く。

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