「花泥棒は
   夜がお似合い」



企画
   <花泥棒は夜がお似合い>
            参加作品

作・水鳥 まほ
絵・たかむら 市悟


 1人の男が、夜のロンドンを歩いていた。夜に融けるか融けないかギリギリ
のオリーブ色のトレンチの衿を立て、比較的早めのテンポで歩調を刻む。咥え
た煙草の煙と吐く息が、白く混ざりながら顔の周りを漂っている。

 男の名は、ジャン・ピエール・デュポン。人は彼を幸運な男と呼ぶ。

 ジャンの職業は、元ピアニスト。ある日突然音楽界に姿を現し、そして1年
後に突然姿を消した、伝説の天才ピアニストである。今でも復活を望む声は高
いが、ジャンにはもう、ピアノで金を稼ぐ気はないのだ。何故なら、金はあり
すぎるほどに余っている。これ以上使い道のない金は作りたくなかった。
 唯一の肉親であった叔父が莫大な遺産を残して死去し、今やジャンはこの街
でも指折りの富豪となっている。たまに街を歩き、たまに自室でピアノを弾き、
たまに美術商から何か買う。それが彼の今の生活の全てだった。

「随分遅くなってしまったな。」
短くなった煙草を靴の裏で揉み消し、ジャンは呟いた。珍しく遠出をしたバー
でよい音を出すピアノに巡り合い、久し振りに人前で弾いているうちに時を忘
れてしまったのだった。
 辺りは人気がなく、寒々とした空気が流れるのみ。ジャンは肩を竦めると、
再び歩みを進めた。
 彼の家は昨年までは叔父が住んでいた、町外れの屋敷だ。散歩と思って車に
乗らずに家を出たのが、今になって悔やまれる。かじかんだ指を暖める努力す
らせずに、ひたすらジャンは足を動かした。次の十字路を渡って、100mも
行けば屋敷が見える。家が近づいた実感に少しばかり頬が緩まる。
 車のヘッドライトは感じられない。左右を確かめずに、ジャンは十字路の中
央へ足を踏み出す。その途端、ジャンの背中に衝撃が走った。
 何か重いものがぶつかる感触。衝撃の数秒後に、鈍い痛みが背中を覆う。
「な・・・・に?」
車が来る音も、光も感じられなかった。衝撃も、そこまで大きくはない。
 振り返ったジャンの目に映ったのは、地面に座り込んだ黒ずくめの少女だっ
た。彼女が、ジャンの背後からぶつかってきたらしい。ただそれはわざとでは
なかったようで、少女も驚いたように自分の身を眺めている。
「何か急いでいたのか?前方は確認して走るべきだな。」
ジャンはそう言うと、少女に片手を差し伸べた。少女もおとなしく、その手に
縋って立ち上がる。
 十字路の4隅に設置された街灯が、少女の金の髪を照らし出す。頭の後ろで
一つに纏められたそれは、黒ずくめの服には似合わない輝きを持っていた。こ
ちらを見上げる驚いた顔も、幼いながら整っている。
「ごめんなさい。」
少女は鈴を振るような小さな声で答えた。彼女は慌てたように首を振り、周囲
を見回す。ジャンもつられて、彼女の背後に目をやった。
 すると、右手の方から小さな灯かりがチラチラとやってくるのが目に入った。
少女は握った手をびくりとすくませると、慌ててまた走り出そうとする。だが
彼女が振り解こうとした手を、何故かジャンはしっかりと握り締めた。少女は
驚いて振り仰ぐ。
「放して!」
小声で、しかし真剣な声で抗議する。それでもジャンは手を放さなかった。
「私、悪いことしてないわ。警察に捕まる訳にはいかないの。お願い、放して
ちょうだい。」
小さな灯かりはどうやら、少女を追ってきた警察らしい。風に乗って声が届い
てくる。
 唐突に、ジャンは少女の手を握ったまま、自宅の方角へ走り出した。
「どこへ行くの?」
少女は驚いて問い掛ける。それに答えず、ジャンは100m先の自分の屋敷の
門までの道を走りぬけた。少しばかり息を弾ませながら、重い門を開ける。
 ジャンの屋敷は広い。昼間は家政婦がいるが夜はジャンのほかは誰もいない
ので、明かりの消えた大きな屋敷は無気味に見えた。
「ここは?」
先程から何も言わずに自分の手を引くジャンを、少女は不信な目で見遣った。
自分を警察から救ってくれたのか、それとも別の目的があるのか。
「私の家だ。」
ジャンはそれだけ答えると、大振りな鍵を一本取り出し、細工の施されたドア
を開けた。灯かりは消えているが、暖炉に火は残ったままで、あたりはほっと
する程暖かかった。
 ジャンはようやく少女の手を放すと、壁にいくつかある電灯のスイッチを入
れた。暗いと不気味なだけの豪華な部屋が、暖かい光で満ちる。少女は華麗な
装飾の数々にしばし見蕩れた。
「こっちへ。」
ジャンは短くそう言うと、奥の部屋へ続く扉を開けた。少女は分けも解らぬま
まに、後に続く。
「少しここで待っていたまえ。」
 ジャンはそう言い残して部屋を出ていった。そこは応接室らしく、ソファに
低いテーブル、よそよそしい装飾品が置かれている。少女は小さくため息をつ
くと、入り口に一番近いソファの端に腰を下ろした。
 普段質素な生活に慣れている少女は、どうにも落ち着かない。やがてジャン
が湯気の立つカップを手に戻ってくるまで、ずっと目を伏せたままだった。
「飲みたまえ。」
カップの中身は紅茶で、琥珀色の水面に金の輪が浮かんでいる。少女はおずお
ずと手を伸ばし、これまた値の張りそうなティーカップに眉をひそめた。
「気に入らないか?ミルクの方がよかったかな。」
眉をひそめた理由がわからないジャンは、見当違いな事を尋ねる。
「・・・・どうして私をここへ?金持ちの気まぐれなの?」
紅茶に口を付けないまま、少女は問う。ジャンは微笑を浮かべて考え込むポー
ズをとった。
「どうだろう。・・・・昔、君に似た少女を知っていたから、というのでは答えに
ならないかな?」
使い古されたナンパのようなセリフに、少女は吹き出す。あまりにも、ジャン
には似合わなかった。
「嘘じゃない。本当に・・・・良く似ている・・・・。」
ジャンは昔を懐かしむように、目を細めた。
「君、名前は?」
「あなたこそ誰?」
精一杯背筋を張って切り返す少女に、ジャンはまたしても笑みを誘われた。
「失礼、私はジャン・ピエール・デュポン。昔はピアニストだったこともある。
 今は・・・・特に何も。さぁ、君は?」
わざわざ手振りを添えて、少々大袈裟に自己紹介する。
「私は・・・・アイリーン。アイリーン・ガーネット。」
少女の口から出た名前に、ジャンは傍目にも解るほどに青褪めた。
「アイリーン?アイリーン・・・・ガーネット?」
「そうよ。それが私の名前。」
少女は目を伏せたまま早口で答えた。
ジャンは、黙って懐から一枚の写真を取り出す。それを一瞬見つめてから、テ
ーブルに置いた。
「この娘を知っているのか?知っていて、私の前でその名前を名乗るのか?」
少女は顔を上げ、写真に目をやった。
「・・・・これ・・・・どうしてあなたが?」
心底驚いて、少女が問う。
 端の擦り切れた写真には、金の髪を長く伸ばした、1人の少女が写っていた。
その面影は、今ジャンの目の前にいる少女によく似ている。どちらかといえば
写真の少女の方が大人びているだろうか。
「アイリーンを、知っているね?君は誰だ?どうして私に近づく?」
先程までの優しい態度とは打って変わって、ジャンが詰問する。少女は動揺を
隠せないまま、写真を手にとった。
「アイリーンは・・・・私の姉・・・・です。」
やがて出た、小さな答えに、ジャンは息を呑む。
「私の本当の名前は、シャーロット。アイリーンは一番上の姉で・・・・3年前に
 ・・・・。」
「ああ、その場に私もいた。」
「!?」

 3年前、暑い夏の午後。今よりも心持ち長めの髪だったジャンは、1人の少
女と待ち合わせをしていた。彼女の名はアイリーン。
 吹き付ける排気ガスの中でも、白い肌を焼くような日差しの中でも、彼女を
待っているという事実だけが彼を幸せな気持ちにさせた。約束の時間まであと
5分。そろそろあの交差点の反対側に、アイリーンの姿が見えるはずだ。いつ
もなかなか変らない信号を何度も見上げながら、通りの反対にいるジャンに小
さく手を振るアイリーン。
 しかしそのなんでもない日に、悲劇が起こってしまった。いつもと同じよう
に姿を現したアイリーンは、信号無視で突っ込んできた乗用車にはねられた。
悲鳴、血、クラクション、野次馬、アイリーンの金の髪、そして救急車のサイ
レン。待ち合わせ場所の店の前からとうとう一歩も動けないまま、アイリーン
を載せた救急車は去っていった。
 金、名声、才能、容姿、全てにおいて恵まれた、幸運な男の唯一の不幸がこ
んな形で襲ってくるとは、ジャン本人も思いもしなかった。ピアノを弾くこと
もやめ、自暴自棄になった2年間の間、想うのはアイリーンの事ばかり。その
うち叔父の死と財産の相続という出来事が降り掛かり、今に至るのだった。未
だ彼女の残した傷は癒えてはいない。

 そして今、彼女の妹を名乗る少女が目の前にいる。同じ色の髪をして、出会
った頃のアイリーンの面影で。
「そんな・・・・あなたが姉の・・・・。あの頃、お付き合いしている男性がいるって
 こっそり聞いたけど、名前は知らなかったから・・・・。」
シャーロットは突然降って沸いた現実に、何を言って良いか解らなくなってい
るようだ。無理もないだろう、こんな偶然はそうそうあるとは思えない。
「シャーロット、だったね。」
「・・・・はい。」
「君は・・・・何故ここに?」
ジャンが叔父の遺産を素直に継いだのは、この屋敷が以前いた街から離れた所
にあるから、という理由もある。彼女を思い出すような物の何一つないこんな
場所に、シャーロットがいるのは不自然だった。
「姉の・・・・絵が、盗まれたんです。」
「絵?」
「はい。アイリーンの、肖像画が盗まれたんです。」

 アイリーンとシャーロット、そして彼女の兄弟達の生まれたガーネット家は、
それ程裕福でもなく、かと言って生活に困るほど貧しくはない、庶民の家庭だ。
慎ましい両親の生活は派手ではなかったが、ただ一つの贅沢が、祖先から受け
継いだいくつかの品々を金に変えずに守っていることだった。
 祖先は裕福だった時があったのか、身分の高かった時があったのか定かでは
ないが、宝石やグラスなどの細々とした美術品が数点、ガーネット家の家宝と
して残っている。子孫達の手入れは丁寧で、そのどれもが保存状態もいい。そ
のうちの一つに、宝石のちりばめられた額があった。細工は精巧で年代も古く、
ガーネット家にある家宝の中でもさぞ、値打ちのあるだろうと思われる品だっ
た。
 その額にはアイリーンの肖像画が飾られていた。16才の頃、亡くなる2年
程前に父親が描いたもので、美術的な価値はないものの、暖かい家庭の象徴と
もなる絵であった。それがアイリーンが亡くなってすぐに、額を目当てに忍び
込んだ泥棒によって盗まれた。しかし犯人は未だ不明、額も表向きには見つか
っていない事になっている。

「でも、本当はどこにあるか、わかっているんです。」
「何故警察は動かない?」
「・・・・権力のある人がもみ消してしまっているんです。額を、手放したくない
 んでしょう、きっと。」
少女はひざの上のこぶしを握り締めた。
「私それが悔しくて・・・・。さっきは、その家に忍び込もうとして見つかったん
 です。」
「額を・・・・アイリーンの絵を、盗み返そうと?」
「はい。」
「誰の家に、絵が?」
「オズワルド家に・・・・。」
ジャンは、しばし腕組みで考え込んだ。
「わかった。私も協力しよう。」
「え?」
「私としても、アイリーンの肖像画があんな男の家にあるのは耐えられない。
 ・・・・そうだな、明後日の夕方、またこの家に来たまえ。」


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