空色のヴィーナス   著: 薊野佑子  

 


1*

 わたしを知る人が、誰も居ない場所へ、行きたいと思うことがある。
 けれど、わたしを知っている人なんて、
ほんとうのところ、ひとりも居ないかもしれないのだ。

 ラヴェンダー色の便箋が、細かな花びらのように無残にちぎられ、宙を舞った。
「アナは、どうしてラブレターをもらうとそんなに怒るんだよ。」
 タスは、そのラブレターがクラスの男子生徒が書いたものだと知っていたので、痛ましそうに眉をよせた。
「だってみんな、わたしの見た目ばかりをほめちぎってバカみたい。まるであたしは顔や髪の毛だけのお化けじゃないの!」
 放課後の人気のない教室中に、アナの高い声が響く。アナは、ブロンドの髪とまばゆいような白い肌をしている。十三の彼女はまだあどけなく、人形のようなその姿に、学校の男子生徒たちはおおかた夢中になってしまう。
「ほめられてるんだからいいじゃないか。変だよおまえ。」
「あんたみたいな、チビのガキにはわかりゃしないのよ!」
 タスも十三歳。まだ発育途上で、女の子のアナより三センチほど背が低い。「チビのガキ」などと叫ばれてタスはむくれたが、それ以上何も言わなかった。他の奴に言われたら、絶対に黙ってはいないが、幼なじみのアナはヒステリーを起こすと、すぐに人の気にしていることを言いたがるのをタスはよくわかっていた。それは、本人が気にしているから彼女がつけこむのであって、彼女自身は思ってもいないことだったりする。
「アナ、怒りがおさまったら、この紙吹雪を掃除しておいてね。」
 ため息をつきながら言ったのは、ガラ。優等生の女子生徒で、アナよりさらに五センチは背が高いのっぽだ。つまりタスとは八センチもの身長差があり、しかも頭のいい彼女に見下ろされるのが、タスはあまり好きではない。
「あー、めんどくさい。なんであたしったら、こんな風に散らかしちゃうんだろう。いつも片付ける時まで、気づかないのよね。」
 教室の床に散乱した便箋の欠片を見つめて、アナは心から嫌そうな顔をする。
「でも、ガラはわかってくれるでしょう?女の子の顔のことばかり気にする男の子って、最低よね?」
「かわいそうに。アナは、可愛いから苦労するわね。」
 ガラは、黒い縮れた髪をしていて、肌も黒でも白でもないくすんだ色をしている。しかし頭が良くて性格もしっかりしているため、先生には何かとひいきされる。それをよく思わない生徒は、ガラのことを「ブス」とか「オオオンナ」などと言って蔑もうとする。当人はそれを気にしていないのかどうなのか、態度にまったく感情を表さない。アナはそんなガラの頭の良さにあこがれていて、学校ではいつも彼女と離れない。ガラも人懐こいアナが可愛いのか、それを自然に受け入れている。
「やっぱりわたしのことわかってくれるのって、ガラだけだわ。」
 アナは満足そうに言って、掃除用具入れからほうきを取り出した。一本を、当たり前のようにタスに渡す。あまりに自然な動作だったので、タスはついそのほうきを受け取ってしまった。
「…なんだよ、これ。」
 タスはアナにほうきを返そうと差し出した。
「あんたも手伝いなさいよ。」
 アナはそう言ったきり、自分のほうきで床をはきはじめ、タスがぶつぶつ文句を言っても無視をした。そして、タスが黙ってほうきを用具入れに戻そうとすると、アナはすばやく振り返って、ほうきの柄で彼のおしりを叩いて睨みつけた。ガラは、そんなことは気にとめず、先生に言われた通り、黒板にそなえつけられた小さな抽斗にチョークをつめこんでいた。

「ねえ、アナ。あなたの家の近くに美術館があるでしょう。」
 家までの道を歩きながら、ガラが言った。
「ええ、あるわよ。公園前美術館でしょう?あそこは、あたしの家よりもタスの家の方が近所なの。ね。」
 アナはタスに向かって返事をうながしたが、タスは美術館にはあまり興味がなかったので、そう言われても何を答えていいか分からなかった。
「まあな。でも俺一度も行ったことがないから知らないよ。」
 言いながら背の高いガラの見下ろすような視線と出会って、タスは奇妙な敗北感を覚えた。
「タスは美術館に行ったって見るものなんかないのよ。わざわざバスで隣町の博物館に行って、飛行機の模型なんか見るのがおもしろいんんですって。」
 アナは、まるで理解できないといったふうに付け足した。ガラは特に表情を変えずにうなずいた。
「それじゃ一緒に行ってみない?今度の日曜、美術館。」
 ガラに言われてアナは、少し戸惑った。実のところ、アナも美術館にはさして興味がなく、図書館で漫画を読むほうが好きだった。けれどガラに誘われると、その計画はとても知的で優雅なことのように思えてきた。
「ガラは美術館が好きなの?」
 目を輝かせてアナはたずねた。
「しょっちゅう行くわけじゃないけど。今、公園前美術館にはスペインの有名な画家の作品が展示されているのよ。」
「へえ、なんだか素敵。ガラと一緒なら見に行きたいわ。」
 アナは、ブロンドの髪を宙に広げながらはしゃいでいた。
「うん。でも場所がよくわからないから、もしアナが知っていたら案内してもらおうと思ったの。」
「タス、知ってるでしょ?案内しなさいよ。」
 アナは、そ知らぬ顔をしていたタスの注意を無理矢理自分に向けて言う。
「え、俺も行くのか?ふたりで行ってこいよ。」
「だって、あたしも公園前美術館なんて、どこにあるのかよく知らないんだもの。」
「わかったよ、案内だけすればいいんだろ?」
 しぶしぶとタスは承諾した。日曜にはまだ誰とも約束がなかったから、まあ仕方がないと心の中で思っていた。
「いいじゃない。タスも一緒に見ましょうよ。飛行機ほどじゃないかもしれないけど、とっても面白いはずよ。絵だけじゃなくて彫刻やオブジェもあって楽しいわよ?」
 ガラが言うと、アナもとってつけたように賛同した。
「わかったよ。」
 アナにはいつもいいように言いくるめられてしまうタス。しかもアナは、たいていガラの言うことには賛成する。だからタスは、なんとなくふたりに逆らえない。

 


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