良く晴れた日曜の朝。ただそれだけでも特別な朝だった。アナは、学校へ行くしたくの倍以上の時間をかけて、今日のしたくをしていた。
「アナどうしたの、今日は?ボーイフレンドとでもでかけるの?」
「違うの、ママ。今日は公園前美術館に行くんだから。」
誇らしげに言いながら、鏡の前のアナはやっと選び出した臙脂色(えんじいろ)のリボンを髪に結んでいた。
「まあ、あなたが美術館なんて、どういう風の吹き回し?」
ママは、テラスの鉢植えに水をやりながら軽く笑った。
「スペインの画家の美術展を、ガラと一緒に見に行くの。」
ガラというのは、クラス一頭のいい女子生徒で、アナの大好きな友達だ。
「まあ、ガラとふたりで?」
あいづちついでのように、ママがたずねかえす。アナはちょっと考えてから「うん、まあね」と返事をした。幼なじみのタスが美術館まで案内してくれることになっているけれど、それは言う必要がないだろうと考えていた。
いつも通り、着古したブルージーンズと、洗いすぎて色が薄くなったお気に入りのTシャツを着たタスは、友達からの電話をとった。
『あのさ、今日川に遊びに行かないか?今年まだ泳いでないだろ。今日なら天気もいいから、気持ち良いよ。』
タスは窓から外をのぞきみた。晴れ渡った青空が見える。
「そうだなあ。」
川へ行くにしても、今日はアナとガラを近所の美術館まで案内してからだ。
「俺ちょっと、用事があるんだけど…」
ふたりを思い描きながら、タスが言いかける。
『用事、いつ終わるんだ?まさか夕方までかかるってことないんだろ?』
タスは「うーん」とうなりながら、想像した。
「タス、あんたってどうしてそう、気がきかないの?」
なにかにつけてアナが言う台詞だ。今日もなにかしら文句を言われて、すぐには帰してもらえないかもしれない。
「ちょっとわかんないや。他のやつ誘って行っててよ。用事が早く終わったら、後から行くよ。」
ガラは珈琲を口に含んで、新聞の切抜きを眺めた。
『公園前美術館、大使館のバックアップを受けて、過去最大の展覧会。鬼才アーティスト、ダリの世界。』
モノクロの写真で不思議な絵が記事に載っている。時計がハチミツのようにとろりと溶けている絵。
(うん、おもしろそう)
ガラは満足そうに微笑んで、腕時計で時間を確認した。とうに準備はできてしまったのに、時刻はまだ、でかけるには早すぎる。実のところもう五分ごとに同じことを繰り返していた。友達と美術館へ行くのははじめて。ガラは落ちつかなそうに、空の珈琲カップをキッチンに運んだ。
実際この日は、三人が思っている以上に、本当に特別な日曜になった。
*
ラヴェンダー色の便箋が、細かな花びらのように無残にちぎられ、宙を舞った。
「アナは、どうしてラブレターをもらうとそんなに怒るんだよ。」
タスは、そのラブレターがクラスの男子生徒が書いたものだと知っていたので、痛ましそうに眉をよせた。
「だってみんな、あたしのことなんてなんにも知らないくせに!見た目のことばかりをほめちぎってバカみたい。まるであたしは顔や髪の毛だけのお化けじゃないの!」
放課後の人気のない教室中に、アナの高い声が響く。アナは、ブロンドの髪とまばゆいような白い肌をしている。十三の彼女はまだあどけなく、人形のようなその姿に、学校の男子生徒たちはおおかた夢中になってしまう。
「ほめられてるんだからいいじゃないか。変だよおまえ。」
「あんたみたいな、チビのガキにはわかりゃしないのよ!」
タスも十三歳。まだ発育途上で、女の子のアナより三センチほど背が低い。「チビのガキ」などと叫ばれてタスはむくれたが、それ以上何も言わなかった。他の奴に言われたら、絶対に黙ってはいないが、幼なじみのアナはヒステリーを起こすと、すぐに人の気にしていることを言いたがるのをタスはよくわかっていた。それは、本人が気にしているから彼女がつけこむのであって、彼女自身は思ってもいないことだったりする。
「アナ、怒りがおさまったら、この紙吹雪を掃除しておいてね。」
ため息をつきながら言ったのは、ガラ。優等生の女子生徒で、アナよりさらに五センチは背が高いのっぽだ。つまりタスとは八センチもの身長差があり、しかも頭のいい彼女に見下ろされるのが、タスはあまり好きではない。
「あー、めんどくさい。なんであたしったら、こんな風に散らかしちゃうんだろう。いつも片付ける時になって、気がつくのよね。」
教室の床に散乱した便箋の欠片を見つめて、アナは心から嫌そうな顔をする。
「でも、ガラはわかってくれるでしょう?女の子の顔のことばかり気にする男の子って、最低よね?」
「かわいそうに。アナは、可愛いから苦労するわね。」
ガラは、黒い縮れた髪をしていて、肌も黒でも白でもないくすんだ色をしている。頭は良くて、しっかり者。だから学校の先生は、何かと彼女をひいきする。それをよく思わない生徒は、ガラのことを「ブス」とか「オオオンナ」などと言って蔑もうとする。当人はそれを気にしていないのかどうなのか、態度にはまったく感情を表さない。
アナはこんなガラの頭の良さにあこがれていて、学校ではいつも彼女と離れない。ガラも人懐こいアナが可愛いのか、それを自然に受け入れている。
「やっぱりわたしのことわかってくれるのって、ガラだけだわ。」
アナは満足そうに言って、掃除用具入れからほうきを取り出した。一本を、当たり前のようにタスに渡す。あまりに自然な動作だったので、タスはついそのほうきを受け取ってしまった。
「…なんだよ、これ。」
タスはアナにほうきを返そうと差し出した。
「あんたも手伝いなさいよ。」
アナはそう言ったきり、自分のほうきで床をはき始めた。タスがぶつぶつ文句を言っても、おかまいなし。そしてタスが黙ってほうきを用具入れに戻そうとすると、アナはすばやく振り返って、ほうきの柄で彼のおしりを叩いて睨みつけた。ガラは、そんなことは気にとめず、先生に言われた通り、黒板にそなえつけられた小さな抽斗(ひきだし)にチョークをつめこんでいた。
「やだ、なにこれ?」
床をはき終えたアナは、掃除用具入れを開けてほうきをしまうところだった。タスが、ほうきをぶらぶらさせながら、アナが眺めている掃除用具入れをのぞきこんだ。
「ねえ見てよ、これ。先生の似顔絵じゃない?」
おかしそうにアナが言った。用具入れのふたの裏側、ぶらさがっているほうきの影に、その落書きはあった。
「ほんとだ、そっくりだ」
タスは息を殺しながら笑いをこらえている。
「なあに、落書きなの?」
興味をひかれたガラまで、用具入れをのぞきこむ。そこには、牛のような角を頭に生やして、目が飛び出しそうなほどの形相で怒っている…確かに見覚えのある先生の顔だった。
「ね、似てるわよね」
まじまじと見ているガラに向かって、アナが無邪気に笑う。遅れて、ガラが口をおさえながら吹き出した。そのガラを見てアナもタスも、つられて笑いがこらえきれなくなった。
「ガラでも、こんなの見て笑うんだな。」
本格的に大笑いしながら、タスが言った。
「いつもこんなに笑うわけじゃないけど、わたし絵を見るのは好きよ?」
ちょっとせきばらいをして、ガラが言った。
「だって、落書きだろ?」
タスは言いながらもう一度用具箱をのぞきこみ、またおかしくなって笑った。
「落書きと思えるようなものでも、立派な芸術であることもあるわ。」
「まあたしかに、これは傑作だよな。げーじゅつ、げーじゅつ。」
「誰が描いたのかしら。この人の美術の成績を、知りたいわ。」
アナも笑いすぎて涙目になっていた。
「あら、すごくいい成績かもしれないわ。」
騒ぎにきりがないので、ようやくガラが掃除用具入れのふたを閉じる。それからガラは、アナやタスにとって意外なことを言い出した。
「ねえ、アナ。あなたの家の近くに美術館があるでしょう。」
アナは少しきょとんとしてから、やっと冷静に答えた。
「ええ、あるわよ。公園前美術館でしょう?あそこは、あたしの家よりもタスの家の方が近所なの。ね。」
アナはタスに向かって返事をうながした。しかしタスは、美術館には少しも興味がなかったので、何と答えていいか分からなかった。
「まあな。よく知らないけどな。」
しかたなく言いながら、タスは背の高いガラの、見下ろすような視線と出会って奇妙な敗北感を覚えた。
「タスは美術館に行ったって、見るものなんかないのよ。わざわざバスで隣町の博物館に行って、飛行機の模型なんか見るのがおもしろいんですって。」
アナは、まるで理解できないといったふうに言った。ガラは、アナの言葉は特に意に介さずうなずいた。
「それじゃ一緒に行ってみない?今度の日曜、公園前美術館。」
ガラに言われてアナは、少し戸惑った。実のところ、アナも美術館にはさして興味がなく、図書館で漫画を読むほうが好きだった。けれどガラに誘われると、その計画はとても知的で優雅なことのように思えてきた。
「ガラは、よく美術館へ行くの?」
目を輝かせてアナはたずねた。
「しょっちゅうじゃないけど。今、公園前美術館にはスペインの有名な画家の作品が展示されているのよ。」
「へえ、なんだか素敵。ガラと一緒なら見に行きたいわ。」
アナは、ブロンドの髪を宙に広げながらはしゃいだ。
「うん、でも場所がよくわからないから。もしアナが知っていたら案内してもらおうと思って。」
「タス、知ってるでしょ?案内しなさいよ。」
アナは、そ知らぬ顔をしていたタスの注意を無理矢理自分に向けて言う。
「え、俺も行くのか?ふたりで行ってこいよ。」
「だって、あたしも公園前美術館なんて、どこにあるのかよく知らないんだもの。」
「わかったよ、案内だけすればいいんだろ?」
しぶしぶとタスは承諾した。(日曜にはまだ誰とも約束がないから、まあ仕方がない。)と心の中で思っていた。
「いいじゃない。タスも一緒に見ましょうよ。飛行機ほどじゃないかもしれないけど、とってもおもしろいはずよ。絵だけじゃなくて彫刻やオブジェもあって楽しいわよ?」
ガラが言うと、アナもとってつけたように賛同した。
「わかったよ。」
いつもアナにはいいように言いくるめられてしまうタス。しかもアナは、たいていガラの言うことには賛成する。だからタスは、結局ふたりに逆らえない。
*
日曜は、それから三日後。とても天気が良かった。タスは、朝かかってきた友達の電話を切った後、やっぱり外で遊ぶほうを優先すれば良かったと、ほんの少し後悔したくらいだ。
アナは、初めて行く美術館に心踊り、めい一杯のおしゃれをした。朝ごはんを食べることよりも、ブラッシングとリボンを選ぶことに朝の時間を費やした。
ガラも、彼女なりに浮かれていた。朝ごはんを食べ終わったあと、新聞から切り抜いた美術展の紹介記事を何度も読み返した。
それから三十分後、大通りの分かれ道に三人は集合した。女の子ふたりは、それなりにおしゃれをしていて、ガラは、ベージュのシャツに黒くて品のいいズボンをはいていた。アナは、杏色のフレアースカートを着て、臙脂(えんじ)のリボンをつけていた。少し遅れて走ってきたタスは、いつも通りよれよれのTシャツに、着古したブルージーンズをはいていて、「汚らしいかっこうね」とアナに文句を言われた。「案内するだけなんだから、別にいいだろ」とタスは息をきらせながら答えたが、それがアナに聞き入れられるはずもなかった。
明るい日差しの中を歩いて数分後、公園前美術館の入り口に着いた。結構な人出で混雑している入り口には、展示のタイトルを示した大きなパネルがあって、くるりと巻いた口ひげをはやしたおじさんの写真が飾られていた。
『サルヴァドール・ダリ展』
その写真のおじさんは、大きく目を見開いておどけているような、驚いているような妙な顔だ。その表情にはインパクトがあり、タスは人目もはばからず大笑いした。
「ちょっとやめなさいよ。」
大人たちの目を気にして、アナがタスをこづく。けれど笑い転げるタスを見て、ガラはかえって満足そうだった。
「ね、おもしろそうでしょ?タスも一緒に見ましょうよ。」
ガラが言った。この時タスは、アナにふりまわされるのを予想して友達との約束を断っておいて良かったと、かすかに思っていた。せっかくだからと、結局美術館に入ることにした。
彼らくらいの年齢の子供は少なく、大人に混じってチケットを買うのに、アナは少し緊張した。しかし、ガラが窓口でてきぱきと三人分のチケットを買い求めてくれ、そんな彼女の堂々とした態度に、アナはうっとりしていた。その様子を尻目に、タスはなんとなく面白くなかった。
中へ入った瞬間、アナは目を丸くした。彼女のイメージしていた美術館とは全然違っていたからだ。彼女のイメージは、たとえばルノワールやモネのような印象派の、淡い色彩でしっとりとした、上品なものだったのだろう。タスのイメージも似たようなもので、小太りな裸の女の人が、寝そべっている絵だとか、そんなものだった。アナは、イメージとのギャップになれるまで少し戸惑っていたが、タスのほうはむしろ目を輝かせ始めた。そこにあるのは、ハイヒールと写真のコラージュを使った奇妙なオブジェだったり、羽の生えたカタツムリの銅像などだった。
「すっげー」
タスは、素直に感嘆の声をあげた。展示品の数々は、彼を興奮させるのに十分な遊び心やいたずらっぽい精神に満ちていた。アナも、次第にそのおもしろさになれてきた。足の長い象のオブジェに乗せられた水晶の四角錐は、薄紅色をしていてとても彼女の好みだった。ガラは「ポルト・リガドの聖母」とか「空間のイヴ」という、幻想的で、しかもものすごい存在感のある絵に釘付けになっていた。
「ねえ、おもしろいでしょ?」
普段めったにはしゃぐことなどないガラが、明るい声でアナに言った。
「うん、なんだかとっても不思議!」
アナも、この美術展の楽しみ方がようやくわかったところだった。タスはふたりを離れて好き勝手に展示品を眺めている。ガラは、ふたりと来ることができて本当に良かったと思った。以前にも美術展に行ったことはあったが、同い年の友達と一緒に来るのは初めてことだった。両親と来た時は、隣につきっきりで「何年になにをモチーフに描かれた」とか「どこが見所だ」とか「どれが有名だ」とか散々説明を聞かされ、落ち着いて見ることができなかった。ただ、「おもしろい」と一緒に言ってくれる友達が彼女には嬉しかった。