*
それが、なぜこうなったのか。アナは東へ、走っていた。タスは西へ走っていた。ガラは北へ走っていた。空の色を集めるために走っていた。
三つの空の色は、ヴィーナスのドレスの色で、それを解放してしまった三人は、それを取り戻さなければいけなくなった。冗談じゃないわ、なぜわたしたちが?アナはまずそう思ったはずだし、こんなおかしな課題はどんな授業でも出されたことがないと、ガラも思った。タスだって、思った。アナですらこんな突拍子もない要求を自分にしたことはない。それでも、三人は走らなければならなかった。
はじまりは、小さな出来事から。その重なり合いが、不思議な符号となって、何かの鍵を開けてしまったらしかった。
その時アナは、木の枝にひっかかってとろけている時計のオブジェを眺めていた。金属でできている時計が、あまりにも柔らかそうに垂れ下がっているので、その雫を受け止めるように、そっと掌を差し出してしまった。
その時タスは、「抽斗のあるミロのヴィーナス」を見ていた。胸やおなかに抽斗がついていて、ほんの少しそれが開いているのだ。タスは、その抽斗が、本当に引き出すことができる「本物の抽斗」なのかどうか、確かめたくてたまらなかった。それで、ヴィーナスの膝の抽斗に手を伸ばしたのだった。
その時ガラは、ヴィーナスの膝に手を伸ばしているタスを見つけて、慌ててそれを止めようとした。けれど、通りかかった紳士の黒い革靴につまずいて、左脇にあった、ふたつのタイヤの中心に人間がおさまっている銅像に肩をぶつけてしまったのだ。
アナが時計に触れて、タスが抽斗に触れて、そしてガラがタイヤに触れた。そしてその時、そこは公園前美術館ではなくなっていた。
*
ミロのヴィーナスは怒っていた。
「あなたたちね、わたしのドレスを奪い取ったのは。」
そこは大理石のタイル張りの広間で、不恰好な棒切れとしか言えないような枝に垂れ下がる、いくつもの懐中時計があった。そのほかはただひとつ、純白のミロのヴィーナスが立っていた。正確に言うと、サルヴァドール・ダリの「抽斗のある、ミロのヴィーナス」が立っていた。彼女は抽斗のついた石膏の白い額に、不自然なしわを寄せて怒っている。
「あの、あなたは」
と言ったのはガラ。アナは口をぽかんと開けたまま凍りついている。タスも何か自分が悪いことをしたらしいという事を察したのか、逃げ腰になっている。
「わたしは、ミソラ」
彼女は言った。
「ミロのヴィーナスじゃなくて?」
アナがやっと口をきいた。けれど、ヴィーナス(彼女いわくミソラ)が睨んだので、慌てて両手で口を覆った。
「ダリのヴィーナスじゃなくて?」
ガラもたずねた。
「誰の彼のと、うるさいわね。わたしがミソラだと言ったらミソラなの。ヴィーナスのミソラ。」
さすがのガラも返す言葉がなかった。
「ヴィーナスって、名前じゃなくて、何かの種類だったのか?」
タスが、小さな声でガラにたずねる。
「さあ…」
「わたしの名前なんてどうでもいいの。問題は、あなたたちがわたしのドレスを奪ったってことなの!」
ミソラは今度は泣き始めた。
「ごめんなさい。でも、あたしたちあなたのドレスなんか盗らなかったわ。」
アナは、少し同情してできるだけ丁寧に言った。
「いいえ、その子がわたしの抽斗を開けたでしょう。」
ミソラは、タスをあごで示した。
「なんですって?タス、あなたのせいなの?」
ミソラよりも怖い声でアナは言った。タスは、びくりとしてなにも答えなかった。
「その子だけじゃないわ。この子がタイヤに触れたでしょう。」
今度はガラが示された。
「まさか、ガラが…」
アナはショックの表情を隠せない。
「あれは、つまずいて…すみません」
ガラは少し慌てて答えた。
「それにあなたもよ!」
最後にアナが指差されて、彼女は飛び上がりそうに驚いた。
「え、あたし…」
「あなた時計に触ったわね。」
ミソラは、あふれる感情を押し殺そうとしているのか唇が震えている。
「アナまで」
今度はガラが落胆の色を隠せない。
「ああ、もうおしまいだわ!」
ミソラは泣き伏した。三人は途方にくれた。
「でも、どうしてそれが、あなたのドレスを奪ったことになるのか、ちっともわからないわ。」
アナは言った。
「タスっていったかしら。あなたが開けた抽斗には、わたしのドレスの色が入っていたのよ。その色は、あなた、」
ミソラはガラを睨む。
「…ガラです。」
ミソラが自分を睨んだまま言葉を続けないので、気まずそうにガラは名乗った。
「そう、ガラ。あなたが転がしたふたつのタイヤとひとりの奴隷に乗せられて、あっという間に一目散に、遠くへ行ってしまったの。その上あなた、」
と今度睨まれたのはアナ。
「はい、あ、あたしはアナです。」
アナは慌てて名乗ったが、ミソラは聞きもしないで後を続けた。
「あなたが、凍っていた時計に触れてしまったから、時間が流れ出してしまったじゃないの。わたしのドレスは空の色なの。ほらごらんなさい。」
言ってミソラが、柔らかくなってだらしなく伸びている金の時計を、胸の抽斗から取り出す。
「もうすぐこの時計は溶けきってしまうでしょう。そうなったら夜なのよ。わたしのドレスはすべて真っ黒に汚れてしまうわ!」
「夜?!」
アナは、ミソラとはまったく違うことを考えていた。
「夜になる前にうちに帰らなきゃ、お母さんに怒られるわ!」
それを聞いてタスも思った。
「まずいよ。そんなことになったら夕飯を食べさせてもらえない!」
ガラは一瞬、明日までの宿題のことを思い出したが、ミソラの険しい表情に気づいて他のふたりがしゃべるのをやめさせた。
「ごめんなさい。わたしたち、あなたにそんな迷惑をかけるつもりなんてなかったんです。」
ガラが努めて冷静に詫びた。
「悪気はなかったって言って、それですまされると思っているの?空の色のドレスっていうのは、わたしそのものなのよ。女ならわかるでしょう?ドレスは、自意識そのもの、アイデンティティーそのものであって、女としてのわたしの魂なのよ!」
ミソラはヒステリックに叫んだ。「アイデンティティー」という言葉を聞いて、ガラは「我思う、ゆえに我あり」という哲学者の言葉を思い出しただけだった。ただ重大なことだというのは飲み込めた。アナは、「ドレスは女としてのわたしの魂」というあたりが、とてもよくわかるような気がした。タスは、彼女の言う意味はさっぱりわからなかったが、ドレスを汚したらアナでも泣き叫ぶだろうということを想像した。
「それじゃあ、わたしたちはどうすればいいの?」
アナがたずねた。
「とりもどしてきて」
ミソラは、話をばっさりと切り捨てるように言い放った。
「どこに?」
タスはめんどうそうにたずねた。
「ひとつはタイヤに乗って東へ、ひとつはタイヤに乗って西へ、もうひとつは奴隷といっしょに北へ。夜になる前にここに戻ってこないと、わたしは死んだも同然になるのよ。」
「でも、『色』ってつかまえることができるの?」
アナはよくわからなかった。
「逃げ出すことができるくらいだから、つかまえることもできるんだろ?」
タスが言ったが、ガラはどう考えていいのかわからず黙っていた。
「これでつかまえればいいわ。」
ミソラが言うと、おなかの抽斗がひとりでに開いた。そしてミソラがちょっと息を殺して、お腹に力を入れるような様子をすると、そこから銀色の筒状のものが、三つ飛び出した。三人は、慌ててその筒を受け止めた。
「カレイドスコープよ。」
それは望遠鏡のようにのぞくことができて、カットされたガラスのレンズに、向こう側のものが無数に映って見えるものだった。
「空の果ての突き当たりに、逃げ出した色が映っているはずよ。スコープでそれをのぞきこんで、色が見えたら、レンズにふたをするの。それで、色がつかまるはずよ。」
三人は手の中のカレイド・スコープに、まだ呆然としていた。「色をつかまえに行く」その言葉の響きになじめないでいたのだ。
「急がないと夜になってしまうわ!早く!」
ミソラは切なそうに叫んだ。
「走らないと間に合わない?」
アナは心配そうにたずねた。
「かもしれないわね。」
ミソラがそっけなく答える。
「わたし走るの苦手なのに」
困り顔で、アナはちらりとタスを見た。
「どうしても三つとりもどさなくちゃだめなのか?どれも空の色なんだろ?俺だけ行ってくるよ。」
タスは、進み出てそう言った。
「わたしも行くわよ。わたしたちのせいなんだもの。」
ガラは、タスの言葉をさえぎって言った。
「だめよ。三人とも行くの。三つともなくちゃだめよ。」
そのミソラのつんとした言い方にタスは少し腹が立った。
「俺たちだって悪気はないんだから、それぐらい多めに見ろよ。アナだってそこまでわがまま言わないぞ。」
タスの言葉にアナは少し赤くなって「もういいよ」と言ったが、それよりも大きな声でミソラが泣き叫んだ。
「わたしのことなんか何も知らないくせに!」
アナはなんだか、それを聞いて胸が痛んだ。自分がラブレターを破いたときに言った台詞と一緒だったからだ。
「すみません、わたしたちできるだけ努力しますから。ね」
ガラが、アナとタスを見て同意を求める。アナは「うん」とガラにうなずいてみせた。それでもミソラはおさまらなかった。
「あなたたち、空の色のことをちっともわかっていないわ。だめなのよ全部なくちゃ。そうじゃなきゃわたしじゃないの。」
ミソラがあんまり嘆くので、タスもすっかり悪いことをした気持ちになってうなだれた。
「ごめんなさい。わたし、頑張って色をつかまえてきますから。」
アナは必死でミソラに言った。
「こうなったら、時間がもったいないわ。アナは東へ、タスは西へ行って頂戴。わたしは北へ行くから。」
ガラはすばやくふたりに指示を出した。
「方向は、北はどっち?」
ミソラがしゃくりあげ、涙をぬぐいながら「まっすぐが北よ」と言った。
「それじゃあ、急ぎましょう。」
覚悟を決めたガラが言い、それを合図に三人は走り出した。木の枝にぶら下がっている時計が、ぽたりと一滴、大理石の床に滴り落ちた。
*
床はどこまでも白い大理石で、天蓋は深い茶色のモザイクだった。霧のようなもので遠くのほうはほんの少しかすんで見える。ミソラは、もうすぐ夜だと言ったが、そんな時間の気配はまったくない。あちこちに溶けかけてたれさがる金時計が、春の雪融けのように滴るだけだ。
空の色は、まだどこにも見えない。
アナは、東へ走っていた。彼女は運動なんて大嫌いだった。いつからそうなったのかは、思い出せない。小さい頃は、走り回ったりもしていたような気がする。
「アナ、木に登ろうよ。」
タスは言ってあっというまに、アナが見上げるような場所にいた。アナは、自分もそこへ行こうとしたが、エナメルの靴はすべって登れない。それに、
「アナ、お洋服を汚すような遊びはやめてちょうだいね。あなただって、このスカート好きだって言っていたじゃない。お行儀の悪い子には、もう着せてあげないわよ?」
ママはいつもわたしに素敵な服を着せてくれた。わたしもそれが好きだったけど、そのためには、決して外を走り回ったり木に登ったりなんか、してはいけなかった。
「アナは、可愛くてお行儀もいい子だね。」
うちに来るお客様に、そう言われていればママは喜んだ。わたしだって、可愛くていい子だと言われるのは嫌じゃなかった。ただ、応接間の窓から見える庭の木の上に、いつのまにかタスがいて、大人たちにむかってにこにこしているわたしを見ているのに気づいた時。わたしはふいに気分が悪くなった。綺麗な服を着てちやほやされている自分は、まるで偽者に思えた。
アナは、力いっぱい走っていた。静かな広間の空気が向かい風になって、彼女のブロンドを後ろへと流す。杏色のフレアースカートも彼女の膝にまとわりつきながら、めまぐるしく踊っている。まるでリレーのバトンのように手に握られたカレイド・スコープが、かすかに汗でべたついていた。
*
タスは、西に走っていた。ブルージーンズの足がしんとした大理石の床の上を、かき回すように躍動している。スニーカーのゴムの靴底が、ときおりキュっと音を立ててる。タスの視界の両端を、とろける時計が飛ぶように後ろへ回る。
アナは、ちゃんと走っているだろうか。タスは、走りながらふと思った。
「チビ」
アナが意地悪く言う顔が目に浮かぶ。
確かに僕はアナよりも背が低いけど、でも走るのはアナよりもずっとずっと速い。勉強だってガラみたいにできなくても、走るのはきっと僕のほうが速い。
「タスって、ちっともわかってないんだから。ガラなら絶対わかってくれるのに。」
これもアナの口癖。たとえばアナの誕生日に、ガラがリボンをプレゼントしたときにも、あいつはそう言った。僕があげたのは、キャラメルだった。アナにリボンをあげれば喜ぶことくらい、僕だってわかっていた。アナの好きな色だって知っている。プレゼントにリボンを選んで買うくらい簡単だ。でも、なぜかそうすることができなかった。もしも貯めていたおこづかいで、本当にアナの気に入るリボンをプレゼントしていたら、アナはどんな顔をしただろう。喜んだだろうか。アナの喜ぶ顔は想像できなかった。なぜか、ひどく困らせてしまうような気がしたのだ。それで黄色い箱のキャラメルを見た時思ったんだ。これをあげたらアナがどんな顔をするか。それはすぐに想像できた。僕のことを睨みつけてひったくるように受け取る。そして、ぶつぶつ文句を言いながらそれを口の中に放り込む。それでいいや。それがアナだもの。だから、僕はアナにリボンをあげないで、キャラメルをあげた。
アナこそ、ちっとも俺のことわかってないじゃないか。
タスは、更に強く大理石の床を蹴った。体が熱く、汗がふきだし始める。
早く戻って、そしてアナを迎えに行ってやらなきゃ。
タスはその時、誰よりも速く走りたいと思っていた。自分では気づかずに、そう思っていた。Tシャツの背中には、汗がにじんでいた。
*
ガラは、北へ走っていた。長い足の動きが、そのスピードとは裏腹にかわるがわる優雅に伸びる。縮れた黒髪がふわふわと上下に揺れる。ガラは、運動も好きだった。けれど、こんなに全速力で走ったのは久しぶりのように思う。五十メートル走のタイムを計ったときも、全速力ではなかった気がする。運動に関して、ガラには競争心が欠如していた。勉強に関しても別に競争心があったわけではないが、一度手にした優等生の称号は、なぜだか守らねばならぬものと相場が決まっていた。そして、幸い全力を尽くさなくても、その称号は今にいたるまで守られている。
全速力で走るような理由が、彼女には何もなかった。そんな態度がときに、クラスメイトの劣等感をかきたてるということも、いつからかガラは承知していた。けれどガラは、ますます全力を尽くすことをしなくなった。
そうだ、一年ほど前、わたしは全速力で走った。
電車を乗り継いで行った町の広い本屋で、本をながめていた。クラスの女の子たちが話題にしていた少女小説の棚。わたしの手の中には、すでに買い求めた文芸書が茶色い紙袋に入れられおさまっていた。パステルカラーの背表紙の少女小説を手にとって眺める。わたしは、そういう小説にも年並に興味があったのだ。けれど買う気にはなれなかった。おこづかいが足りないわけでもない。ただ、買うに値しないが、読んでみたい本だった。立ち読みをするには時間がかかりそうだったし、貸してくれる女友達も思いつかない。その時、なぜか悪いことのように思えなかった。万引きをするということが。まるでバス停に置き忘れられた傘を持ち帰ってしまうみたいな気分だった。わたしは人目につかないようにそれを抱え込んだ。そしてかすかに緊張しながら、本屋の入り口から二、三歩外へ出た時、誰かがわたしの肩を叩いて呼び止めたのだ。
「ちょっと…」
それでわたしは、全身の血が足元まで引いていくような気がした。声をかけた相手の顔も見ずに走り出していた。
あの時、自分の背後に何かが迫るのを恐れながら、死に物狂いで走った。万引きした小説は、結局読みもしないで捨ててしまった。わたしは、ただちょっと器用なだけで、みんなが思うような優等生ではなかった。
「ガラってすごい!」
アナは、いつも目を輝かせながらそう言った。可愛い女友達、アナ。彼女の前では、ガラはまるで全知全能の存在だった。そんなふうに扱われることが、最初は後ろめたかった。けれど、彼女の一片も悪意のない無邪気さが、いつのまにかガラを気負いから解き放っていた。アナの前で完璧でいられるように努めることは苦痛ではない。アナの賞賛は、全力を出さなくなっていたガラにとって励みだった。
あの時、後ろから追ってくる誰かから逃げていたのと、今は違う。今、前に向かって全力で走ることができるのは、もしかしたらアナのおかげなのかもしれなかった。
*
「いたっ…」
アナは、皮のむける嫌な感触に走るのをやめた。勢い余って二、三歩バタバタと走ってから立ち止まる。足を見るとくるぶしが赤く染まっていた。サンダルで靴擦れをおこしたのだ。普通に歩くだけならこんなことはなく、しっかり足に合っていると思っていた。あるいは、彼女の皮膚が弱かったのかもしれない。アナは急に情けなくなって、涙が出た。
「もう…。ママに買ってもらったサンダルなのに。」
言葉に意味はなかったが、黙っているとみじめだった。走る気力を失って、うずくまり、手の甲で涙をぬぐう。
「…どうしよう」
サンダルをぬいで裸足になり、辺りを見回す。相変わらず、枝にぶら下がった時計が液状になってとろけている。文字盤が半分以上溶けてしまって行き場を失った針が、糸をひくように床に向かって伸びている。夜は、近いのだろうか。
「どうなるんだろう…」
ぽつりと呟く。もしもミソラのドレスの色が三つそろわなかったら、どうなるのだろうか。ガラもタスも、きっと間に合うだろう。
「わたしだけかな…」
先に戻ったふたりが、東を向いて自分を待っている様子を思い浮かべる。余計に情けなくなってアナは涙が止まらない。自分は、頭もさして良くなければ、運動も苦手で、なんのとりえもないように思えてくる。「可愛い」なんて、なんの役にも立たないではないか。うずくまっている自分自身に無性に腹がたってくる。アナはサンダルを放り出して、髪のリボンをほどいた。耳の上にかかる辺りの髪をすくうようにして結っていたのを、ひとつにまとめてポニーテールにする。
「ちゃんと…。わたしだって、ちゃんとしなきゃ。」
涙声で自分に向かって言うと、アナは裸足のまま走り出していた。
タスの行く手は、かすかな霧に包まれている。それは、あるいは雲だったのかもしれない。視界が悪くて足元も良く見えない。タスは走る速度を緩めながら進んだ。白く煙る水蒸気が、頬や耳にそっとまといつく。右も左も目に映るものがどんどん白く塗りつぶされ、自分がどれくらいの速度で走っているのかもよくわからなくなってくる。しかし、白い視界がだんだんとまぶしさを帯び、向こう側に日が差している気配がしてきた。スニーカーの靴底がキュッキュと音を立てるのが妙に耳につく。まるで靴と床だけが存在しているみたいだ。
ふいに視界が開けた。まぶしさにタスは目が眩んで、立ち止まった。そこに何があるのか、認識するまで時間がかかった。
そこは、つきあたりだった。空という壁につきあたった。目の前は青くて、透明で、どこまでも青くて、向こうへは進めないと、なぜかわかった。足元の床も、境目がなく空の色に溶け合っていた。
「青」
タスは、無意識にそう言った。
やっぱり、空の色って青なんだ。
ガラは、自分がつきあたったことになかなか気づかなかった。
「ほんとうに?」
霧が晴れても、晴れていなかった。立ち止まったまま、不思議なグラデーションの壁を見つめた。青鼠色、淡紫、灰色、…白。
「白い空」
それは、曇り空だった。けれどその色は、奥のほうから光り輝く不思議な美しさで、ほんわりとしたファー(毛皮)のようでもあった。
「素敵なドレスだわ」
ガラは小さく呟いて、カレイド・スコープをのぞきこんだ。
「どうしよう、間に合わないかもしれない…」
アナは、息を切らせ足を引きずるようにしながら歩いていた。視界は霧に包まれ、方向があっているのかどうかすらあやしい。
「もう、夜になっちゃうのかもしれない…」
アナは、涙目で自分に言う。
「ガラもタスも、もうとっくに戻ってるかもしれない。」
泣きべそをかきながらも、アナは立ち止まらずに歩いた。裸足の足の裏に、大理石の冷たい感触がする。そしてアナが、涙でべとべとになった頬を手でこすって、もう一度前を見据えた、その時だ。霧がかすかに薔薇色に染まっていた。最初は目の錯覚かと思った。しかし、その色は歩くうちにだんだんと強さを増していき、途端に目の前が開けた時、アナは息を飲んだ。
黄金をちりばめたような朱色だった。
「夕焼け?」
アナは、その真っ赤な色に塗りつぶされている視界を、呆然と眺めた。
それじゃあ、間に合ったのね。
笑顔になって、その色に見ほれた。
「きれい…こんな色のドレスなんて、とっても素敵!」
こんな空の色も、あるんだ。
*
それぞれの空の色に背を向けて、霧の中に戻る。霧を抜けると、そこはもうヴィーナスの前だった。
タスは全速力で走っていたので、ミソラに突進してしまうところだった。
「うわ!!」
「おかえりなさい。早かったわね。」
まるで母親のような何気なさで、ミソラは言った。タスはしばらく、後ろを振り返ったりしてきょろきょろしていたが、どうやら本当にスタート地点に戻ってきたのだと悟る。
「他のふたりは?」
「あなたが一番よ。」
それから間もなく、ガラが突拍子もなく戻ってきた。タスの時と同様、本人が一番驚いている。それから、安堵のためか腰を抜かしたように座り込んだ。
「アナはまだかな。」
タスは、ガラの顔を見るなりそう言わずにいられなかった。
「やっぱり、アナが最後ね。」
まだ整わない呼吸のまま、ガラも心配そうにそう言った。
「間に合うかな、もうすぐ夜になるんだろ?」
タスは言いながら辺りを見回す。出発した頃には時計らしい形をしていたものが、ほとんど溶けて木の枝から流れ落ちている。
「だいじょぶそうよ」
ミソラが軽い調子でそう言った。泣いたりわめいたりしていた時のミソラが、まるで嘘のようだ。
そして彼女の言ったとおり、ややあってアナが現われた。
「あ…れ?」
彼女は、ふいにスタート地点に戻ってきたことを驚いたり喜んだりする気力もなかった。
「ガラ、タス…」
かすかに微笑んだまま、その場にへたりこんだ。
「アナ!」
ふたりが、アナにかけよった。アナの手には、しっかりとカレイド・スコープが握られている。これで三つのカレイド・スコープが、ミソラの元に戻ってきた。
「空の色は何色だった?」
ミソラは、はっきりとした声でそう言った。タスは答える。
「青かったよ」
ガラが答える。
「白かったわ」
アナが答える。
「赤かったの」
ミソラは、うなずいた。
「それで、どれが本物だと思う?」
三人は戸惑った。
「わからないの?」
ミソラは、静かに言った。
「みんな、みんな本物でしょ?」
アナが、苦しそうな呼吸をなんとか落ち着けながら答えた。その時、
『そう、全部本物だ。』
ふいに聞こえた声は、ミソラの声ではなかった。どう考えても隠れる場所などないように見えるミソラの後ろから、ひとりの男の人がひょっこりと現われたのだ。
「あーー!」
タスは叫んだ。それは、彼が美術館の入り口でさんざん大笑いした、くるりと巻いた口ひげのおじさんだったのだ。
「…ダリ?」
ガラも目を丸くして言った。
『それで、誰が空の色を知っていた? みんな知っていた? そして誰も知らなかった。』
大きな目を見開いたその人物は、驚いているとも笑っているともつかない表情で、言葉をつむぎだした。外国映画の吹替えのような声で、そして大げさな身振りで演説した。
『空は、青くて、白くて、そして赤くて、いつか誰かが、虹の色すべてを空に見つける。それはすべて本物の色で、そしてそれが、すべてではない。』
三人はただその迫力に負けて、呆然と聞き入った。
「すべての色は、わたしの屈折で、裸を隠す、服の色なの。」
ミソラは、そう言って三人の持ってきたカレイド・スコープを抽斗にしまう。
「取り返してくれて、ありがとう。すべての色が戻ったわ。だから、もう夜。」
ミソラが言い終わらないうちに、辺りに霧のような闇が立ち込める。三人ともそれに飲まれる。
『さて、諸君。誰が君のことを知っているだろうか。そして君は、いくつの色を持っているかね。』
最後に三人は、闇一色の視界の向こうから、その声を聞いた。
*
「あいた!」
ガラは、ふたつのタイヤに囚われている奴隷の像に左肩をぶつけた。周囲の人が驚いてざわめく。そのざわめきに、びくりとして、タスは引き出しに伸ばした手をひっこめる。アナもガラの方を振り返って、時計の雫に伸ばしていた手を止めていた。部屋の隅で、パイプ椅子に腰掛けていた学芸員が、ゆっくりした動作で立ち上がり、ガラに近づく。
「気をつけてくださいね。」
「ごめんなさい」
ガラは赤くなって立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。それから我に返って、アナとタスの顔を探す。ふたりはすぐに、ガラのほうへ駆け寄ってきた。三人は、お互いの顔を見合わせた。戸惑っているガラ。タスも落ち着かない様子で、ポケットに手を入れたりしている。アナが言った。
「ねえ、空の色は何色?」
それを聞いたガラとタスの表情が変わり、アナもそれを確認した。
*
みんなの知っているわたしは、嘘だと思うことがある。
そしてわたしを知っている人なんて、ほんとうのところ、
ひとりも居ないと、思うことがある。
いつか誰かが、違うわたしを見つけるかもしれない。
「空は青くなかった」
「空は白くなかった」
「空は赤くなかった」
そう言ってくれる誰かに逢うかもしれない。
けれど、本物の空の色は、ひとつではなかった。
誰かの目に映るひとつの色は、本物だが、すべてではない。
みんなの知っているわたしも、本物で。
だけどそれは、全部ではないだけ…。
ガラは帰りがけ、展示されているパネルの解説を読んだ。
『サヴァドール・ダリは、亡き兄と同じ名を付けられ、その亡霊に苦悩した。そして彼は、自らを安心させるために多くの絵を残した。無口な子供、気まぐれな子供、失禁症の子供、非常に早い頃から人の注意を引きたがる子供、自分の肉体の中に驚くべき孤独な感情を見出した子供、ダリの幼年時代の存在はずっしりと重い。』
それは、抽斗のあるミロのヴィーナスや、溶けかけた時計のオブジェを見ただけではわからない、ダリの一面だった。
『すべての色は、わたしの屈折で、裸を隠す、服の色なの。』
今は幻のような、その言葉をガラは胸に刻みこんだ。
*
三人に起きたことは、本当の出来事。そしてそれから、三人は少しずつ変わった。
「なあアナ、最近、ラブレターをもらっても怒らないんだな。」
アナの手の中には、スミレの花模様の便箋があった。
「しょうがないでしょ?だってあたし、もてるんだもん。」
アナは意地悪く笑って言う。
「タスもラブレター、書いてみたら?あたし読んであげるわよ。」
タスは、ふんと鼻をならして肩をすくめた。
「冗談。寒気がするよ。俺、作文できないもん。」
「わたしが教えてあげましょうか。」
日誌をつけながら言ったのはガラ。
「まあ、あたしガラのラブレターだったら、是非読みたいわ!」
アナが目を輝かせたので、ガラは苦笑し、タスはアナにわからないよう、顔をそむけてひとりむくれた。
「さ、今日はもう帰りましょう。」
ガラが日誌を閉じて立ちあがる。アナも荷物を持って歩き出す。それを追うタスの視界に、西日に光るアナのまつげが見えた。
「あれ…」
タスはつぶやいた。それは今まで見えたことのない視界で…
「どうかした?」
アナのつんとした視線を受けながらタスは思った。(俺、背が伸びたんだ…。)
「なんでもない」
言ってタスは、自分の荷物をふりまわしながら、アナを追い越して教室を出た。
アナは、ラブレターを破かなくなったし、ガラはますます勤勉になった。タスも、自分の背をもう気にしなくなった。
公園前美術館のダリ展は終わって、今はいつもどおりの風景画や彫刻が、のんびりと並んでいるのだった。