人形の夢と目覚め

著: アララギ紗夜ノ

 引っ越しの準備はもうできた。大きなこうりには愛子のお洋服も、絵本も、教科書も、お茶碗もみんな入っている。肩から掛けるバッグには手拭いと救急袋、それに明日になればお母さんが作ってくれるおにぎりも入ることになっていた。
「ローズちゃんはわたしが抱っこしていってあげるね」
 愛子は机の上に行儀良く座っているフランス人形のローズに話しかけた。
本当はこうりの中に入れなさい、とお母さんに云われていた。
「外国のお人形を他の人に見せてはダメよ。私たちがお国の敵だって云われてしまうの」
そうお母さんは説明したが、愛子は納得しなかった。
「だってこんなに良いお人形よ。みっちゃんだってさっちゃんだってうらやましいって云ってたわ」
でもそれは伯父さんがローズちゃんをくれたときの話でしょ、とお母さんは云ったが、愛子の一度云い出したらどういっても聞かないことを思い出して、外からは絶対に見えないように風呂敷に包んで抱っこしていくことを許してくれた。
「こうりの中なんて窮屈だもの。ローズちゃんは絶対わたしが抱っこしてあげる。北上って良い処よ。ローズちゃんもきっと気に入るわ。明日が楽しみね」
(冗談じゃないわ。あたしにはそんな田舎は似合わない。だいたい旅行の支度が整ってないじゃないの。あたしは裸足でお出かけなんかしないわ。あたしの靴を早く返してちょうだい)
 ローズは悪態をついたが、相変わらず机の上で優雅に微笑んでいた。だから愛子は何も気づかない。
「それに汽車もとっても素敵よ。北上までは遠いからまるまる一日かかるわね。ずっと座ってるとお尻が痛くなっちゃうんだから。あ、でもローズちゃんは大丈夫よ。わたしの膝の上に座ってるの。とっても快適よ」
 愛子はすっかりローズとのおしゃべりに夢中だったが、ローズの方はそうでもなかった。
(ああ、もうこのお馬鹿さんたらちっともあたしの話を聞きやしない。あたしは靴を履きたいのよ。レディに裸足で旅をさせるなんてなんて失礼なの?)
 ローズは部屋の隅に置かれた小抽斗を見遣った。明日、あの箪笥は持っていかないことになっている。このまま愛子に思い出してもらえなかったらとても恥ずかしいことになる。
「ああ、もうこんな時間。明日は早いわ。おやすみなさい、ローズちゃん、いい夢を見てね。」
(ちょっと、勝手に寝ないでよ。まだ忘れてることがあるでしょ。さっさと思い出しなさい、お馬鹿さん)
 電気が消えた愛子の部屋で、ローズはいつまでも行儀良く微笑んでいた。



 潮音は窓際の椅子に腰掛けて、ローズと秘密の「お喋り」をしていた。深夜11時30分。箱入りの潮音にとってはとても深夜だった。BGMはフォーレの歌曲集。近所のクレームが面倒だからボリュームは絞ってあった。それがまた秘密のムードを盛り上げる。
「もうちょっと待ってちょうだい。きっとローズちゃんに似合うお靴を探してきてあげるわ」
 潮音はちょっとおろおろしながら話しかけた。このところローズの機嫌が悪い。人形の機嫌が悪いなんて変だけれど、ローズは潮音にとって特別の人形だった。なにしろローズはお喋りができるのだ。はじめてローズが喋ったときは驚いて落としそうになった。あの時落としていたら、と思うと、潮音は背筋が寒くなる。ローズはとっても我が儘な人形だ。生意気で自分勝手でいつも潮音を困らせる。でもそれが潮音の母性を擽るのだということに気づいているのは潮音ではなくローズの方だった。
(いつまで待たせるの?あなたってほんとに愚図のお馬鹿さん。あたしは早く歩き回りたいの。)
「ああ、ローズちゃん、そんなに焦らせないでちょうだい。きっと素敵な靴が見つかるわ。そうすれば歩くのはもちろん、走り回ることだってできてよ」
 ローズはちょっと考えた。それはとても素敵なことかもしれない。
(そう、いいわ。あたし走り回りたい。だから早く靴を探してきて。黒いエナメルでできているのよ。)
 ローズは少しだけうれしくなった。うれしいってこんな気分のことをいうのだったらの話だけれど。潮音もほっとした。ローズの機嫌が良いのは良いことだ。周りの空気から刺々しさが少なくなる。こんなに優しい夜は久しぶりだ。
「さあ、ローズちゃん、もう夜も遅いわ。明日もお仕事にいかなくちゃいけないのよ。一緒に行ってくれるでしょ?それじゃあおやすみなさい。いい夢を見てね。」
(あたしは夢なんか見ないの、知ってるでしょ。)
 潮音は何も答えずに電気を消した。今夜のローズはとても優しい。こんな日は決まっていい夢が見られた。ローズは窓際の決まった場所に行儀よく腰掛けていた。



 3年B組の教室で、のばらは時計と睨めっこをしていた。1限の始業まであと15分。数学の宿題がまだ終わっていない。昨夜は報告書に追われて宿題どころではなかったのだ。早く終わらせないと、誰もが認める蒼百合学院きっての優等生の名に傷が付く。しかしさっきから教室を出たり入ったりするクラスメイトに気が散って、なかなか集中できないでいた。今日はなぜか騒がしい。
「おっはー」
「おはよう」
 俗メディアに影響されたらしい独特の挨拶と、ごく普通の挨拶がのばらの上に同時に降ってきた。柳澤市子と双子だ。
「おはよう」
 のばらはとりあえず挨拶だけして、問13を片づけてから顔を上げた。そこにはまだ市子・双子の双子の顔があった。ショートカットにコンタクトの市子はいかにも健康そうな少女で、時代錯誤のおさげにアンティークな眼鏡姿の双子はどこから見ても気の弱そうな少女だった。顔のパーツも体格もそっくり同じこの双子がここまで正反対に見えるのが、のばらにはいつもおかしかった。まだ指摘したことはないが、とてもいい加減なネーミングの双子だ。でも本人たちはあまり気にしていないようだった。もしかしたらそのいい加減さに気づいていないのかもしれない。
「なんか今日、騒がしいね」
 のばらは二人に話しかけた。ここまで辛抱強く待っていたということは何かニュースを握っている証拠だ。何かあったの、なんてわざわざ聞くまでもない。
「転校生よ!転校生が来るの。うちのクラスなんだって」
「さっき平角先生に会ったの」
「裕子はもう見たんだって」
「すごい美人だって」
「ちょっと日本人じゃないみたい。絶対ハーフよ」
「頭良さそうな顔してたしぃ」
「潮音に目ぇつけられそうなタイプ?」
 いつの間にか他の生徒も集まっていたが、のばらはあまり気にしなかった。
「ふうん、こんな時期に、珍しいね」
 あまり興味がなさそうに返事をしたものの、のばらは嫌な予感がしていた。
「何言ってるの、のばらだって去年の今頃転校してきたじゃない」
「まあね」
 それが嫌な予感の種だった。まさか、とは思うが、1年も経っているということはあまり良い成績ではない。もちろん言い訳はいっぱいあるけれど。それにおおかた順調に進んでいる。昨日の報告書にもそう書いた。ちょっとは嘘も吐いていたが。
 始業のチャイムと同時に担任の平角分三子と、見知らぬ少女が入ってきた。平角は時間に正確だ。無駄を嫌う。いつも女だか男だか分からない格好をして、名簿の角みたいな顔をしている。
「おはよう」
 ございます、と言うのが彼女にとっては無駄なのだ。
「おはようございます」
 バラバラと返事が返る。平角は厳しい教師だが、嫌われてはいない。つまらないことにこだわって注意するような無駄なことはしないからだ。
「転校生です。自己紹介」
 しなさい、が略されている。のばら達にとっては当たり前のこのやりとりに、転校生は臆した風もなく名乗った。
「瑪瑙いるかです。父の転勤でこちらに越してきました。よろしくね」
 簡潔な挨拶だ。少々馴れ馴れしい。すらりと伸びた四肢、日本人らしからぬ華やかな貌立ちに鳶色の眼。柔らかくウェーブの効いた髪は胸元まで揺れている。なるほど、潮音に目をつけられるタイプだ、とのばらは思った。
「絵園さんの隣ね。あと、任せた」
 転校生への質問の時間などという無駄は平角の辞書にはない。当たり前のように隣の空席に座るいるかを見て、のばらはそっと溜め息を吐いた。わざとらしくも昨日の席替えで隣が空席になった時に気づくべきだった。上のやりそうなことだ。嫌な予感はすべて的中した。
「絵園、のばらさんね。よろしく」
 いるかが微笑む。
結局、のばらの宿題は終わらなかった。

 

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