■ 時 代 ■

著: 文月瑠那

「もうすぐ、私律ちゃんの家にお嫁に行くの」
 由紀さんがそう言ったのは、私が高校を卒業する日の朝だった。一足早く短大の卒業式を終え、町に帰ってきていた由紀さんは、通い慣れた私の通学路の途中、朝靄の中に立っていた。
「それじゃあ、今度からは先輩じゃなくて義姉さんと呼ばなきゃいけませんね」
 今の今まで、私は兄と由紀さんがお付き合いをしていた事を知らなかった。複雑な思いを胸に、私は小さく微笑んだ。

「そうね」
 そんな私の思いには気付かず、由紀さんは朗らかに笑っている。
 微かに花の匂いのする春風に、由紀さんのすっきりとした細身のワンピースの裾が揺れていた。二年間町を離れ都会で生活していた由紀さんの服装は、同じ高校の制服を着ていた時と比べて格段とあか抜けていて、急に私は、自分の長く野暮ったいスカートが恥ずかしくなった。
「でも、残念だわ。律ちゃんは東京の大学に行ってしまうのね」
「本当に。先輩が帰ってくると分かってたら、地元の大学を受けたのに」
「あら、それはいけないわ。私を基準にするなんて」
「意地悪ですね」
 軽く唇を尖らせる私の言葉を受けて、由紀さんはまたころころと笑う。思い返してみれば、昔からよく笑う人だった。
「律ちゃん、先生からとても期待されていたんでしょう」
 三年前、貼り出される成績上位者のリストの中に、いつも律ちゃんの名前を見ていたわと、由紀さんは青空を見上げ懐かしそうに言った。
「もう、卒業式なのね」
 唐突に、私を振り仰ぎ由紀さんは言う。
「はい。今日の十時から」
「あの小さかった律ちゃんがねえ」
 そう言って微笑む由紀さんと私が出会ったのは、私が高校に入学してからである。
「もう、成長期は終わっていましたよ」
「表情がね、大人っぽくなったわ。十八歳の顔ね」
「先輩は、ますます綺麗になりました」
「いつの間にか、口まで上手になってるわ」
 抜けるような、青い空と由紀さんの笑い声。
「式は十時からだと言ったわね」
「はい」
「もう九時半。そろそろ行きなさい」
 由紀さんは私の頬をふんわりと両手で包み込み、囁くようにして言った。
「式が終わったら、私の部屋にいらっしゃい。律ちゃんの卒業祝いしましょう」
 囁かれる言葉と一緒に、甘やかな花の香りの香水が、私の鼻腔を心地よくくすぐる。初めてかいだ香りだったけれど、由紀さんにとても似合う気がした。
「私の家、忘れていないでしょう」
 由紀さんは、私の頬からゆっくりと手を離す。指が離れていく瞬間、私はそれを少し残念に思った。

 

 

 卒業式が終わり、その後の昼食会も終わると、生徒達は三々五々に散らばり始める。仲の良い友人同士、高校時代最後の思い出を作りに行く者、式を見に来た家族と出掛ける者、真っ直ぐ家に帰る者。
 私も、クラスで仲良くしていた友人達に喫茶店へ誘われた。
「ごめん、先約があるの」
「おうちの人と?」
「ううん、由紀さん」
「由紀さん…?」
 友人は、しばし考え込んでいたが、
「もしかして、私達が一年生の時三年生だった?」
 由紀さんの事を思い出したのだろう。軽く首をかしげて問い掛けてくる。
「そう。由紀さん、こっちに帰ってきたんだ」
「そう」
 彼女は、私の言葉を繰り返す。
「そういえば、律子あの人のお気に入りだったもんね」
 私は、微かに笑った。
 私達が一年生だった時、美人で大人っぽい由紀さんに憧れていた下級生は少なくなかった。何故由紀さんが私を選んでくれたのかはわからないが、由紀さんはよく人気のない教室で、おかっぱ頭の私の髪を撫でた。
「また、次の機会に誘ってね」
「うん」
「それじゃあ、卒業おめでとう」
「おめでとう」
 手の代わりに卒業証書の入った筒を降ってさよならの挨拶をすると、私は足早に教室を後にした。昇降口を抜ける頃には、早足は駆け足のようになっていて、私は筒をリレーのバトンの様に握りしめて、由紀さんの家への道を急いだ。
 私に、三年間通った学校と別れる淋しさがなかったわけではない。高校生活は楽しかったし、校舎にもそれなりの愛着はある。けれど、今はその寂寥感に浸るよりも、由紀さんに会う方が私にとっての重要事項だったのだ。
 軽く弾む息に合わせて、顎のラインで切り揃えた髪が揺れている。白い線の入ったセーラーカラーを流れる由紀さんの艶やかな長い黒髪に憧れて、私も一時期髪を伸ばしてみた事があったのだが、太く丈夫な私の毛ではあまりにも似合わなくて、すぐに元通りに戻してしまった。
「おかえり、今日は卒業式かい?」
 通り過ぎざまに田圃から、近所のおばあちゃんが声を掛けてくる。
「そうだよ、ただいま」
 私は少し歩みを緩めると、握りしめていた筒を二三回振ってみせた。そしておばあちゃんに昔語りをさせる隙を与えず、また歩く速度を上げる。
 町のはずれの方にある私の家よりも更に奥。こんもりとした裏山の森の入り口に、由紀さんの家はある。由紀さんの家は、木造の平屋が建ち並ぶこの辺りでは珍しい、白い漆喰を塗った二階建ての洋館だった。

 

 ドアに付けられたライオン型のノッカーを、私は少しドキドキしながら打ちつける。洋館とノッカーの組み合わせは、私に物語の中の都会や欧羅巴の景色を彷彿とさせた。
「律ちゃん、いらっしゃい」
 すぐに、由紀さんが二階の出窓から顔を覗かせ、私の事を呼んだ。
「お邪魔します」
 玄関に入ると、そこにはひんやりとした空気が溜まっている。しんと静まり返った家の中の雰囲気が、ますます肌に触れる空気を涼しいものへと変えていた。
「私の部屋に上がっていてちょうだい」
 パタパタとスリッパの音を立てて、由紀さんが階段を下りてくる。出されたお客様用のスリッパを履いて、言われたとおり由紀さんの部屋に入る。床に置かれたクッションに腰を下ろして、壁に貼られた外国の街並みを写したポスターを眺めていると、お盆にフルーツケーキを乗せた由紀さんが戻ってきた。
「私が焼いたの。律ちゃんの卒業祝いよ」
 すぐに焼きたてのケーキの香ばしい匂いが、私の元まで流れてくる。
「美味しそう」
 思わず私が弾んだ声を上げると、
「自信作よ。上手く焼けたと思うわ」
 由紀さんはにっこり微笑み、切り分けたケーキとアールグレイの紅茶を私の前に並べてくれた。
「いただきます」
 ケーキは、決して甘すぎない上品な味付けで、舌触りはふんわりとしていた。
「美味しい!」
 私が笑うと、由紀さんもよかったと嬉しそうに笑った。

 

 ケーキを食べて紅茶を飲んで、離れていた二年間の分もたくさんおしゃべりをして、気が付けば外はもう夕暮れになっていた。
 由紀さんの部屋は西側に大きな窓があるため、薄暗くなってきた室内は、うっすら赤い光に包まれている。
「もう、こんな時間…」
 私が驚き声を上げると、由紀さんも同じ表情でうなずいた。
「楽しい時間は、本当に経つのが早いわね」
 ため息混じりに呟き、立ち上がった由紀さんの動作は、私には壁にしつらえた電灯のスイッチを入れるためだと思えた。けれど意に反して、由紀さんはスイッチがあるのとは反対の方角に歩き、机の上に乗せてあったカメラを取り上げる。
 由紀さんは、数冊の本を脇にのけて、隙間を開けた本棚にカメラを置いた。
「写真、撮るんですか?」
「ええ。律ちゃんと一緒に」
 そのカメラには、自動シャッターの機能が付いているのが、私のところからでも見て取れた。
「でも、暗くありません?」
「このくらいがいいのよ」
 由紀さんはやんわり微笑んだ。
「私、夕焼けが好きなの。お天気の良い日のほんの僅かな一時だけ、それも一瞬一瞬その姿を変える夕焼けが」
 確かに、学校帰りに見る夕焼け空の美しさに息をのんだ事が、私にも何度もある。
「窓を開けていても素敵だけど、こうやってカーテンを閉めていても綺麗でしょう」
 厚地のレースのカーテンを通して差し込む光は、やわらかなえんじ色をしていて、室内の物達をシルエットの様に浮かび上がらせている。
「瞬間を切り取るには、最高だと思わない?」
 指し示されたカメラを見て、私は一つうなずいた。
 私の了承に、由紀さんはゆっくりと私の元に歩み寄る。そして、私の目を見て微笑んだ。
「律ちゃん、キスしましょう」
 私は、唖然と私よりも少し背の高い由紀さんの顔を見上げる。
「嫌?」
「…いいえ」
 とても驚きはしたが、不思議をそれを嫌悪する気持ちはなかった。
「律ちゃん、今までにキスしたこと、ある?」
「ないです」
 私は正直に答える。
「じゃあ、私が律ちゃんのファーストキスをもらえるのね」
 由紀さんはもう一度私と目を合わせると、私の瞳の奥をのぞき込むような仕草をした。
「私のファーストキスも、律ちゃんのものよ」
 私は、軽く目を見開いた。
「でも、兄と…」
「義隆さんはとても紳士的な方。結婚するまで、私には決して触れないと約束して下さったわ」
 町役場に勤める兄の、父譲りの生真面目な顔を、私は唐突に思い出した。
「律ちゃん」
 由紀さんが、私の名を呼ぶ。
 白くて長い指が、一本一本ゆっくりと私の頬に触れ、三本になったところでそっと頬を撫でられた。
 その動きがくすぐったくて、私はくすくすと笑う。由紀さんもくすりと笑い、私に額を合わせてくる。私達が高校生の時、私達はよくこうやって、指を、手を、頬を、髪を、額を触れ合わせて遊んだ。
 由紀さんの手が、するりと私の胸元を流れる黒色のネクタイを引き抜く。そのごわごわとした手触りを楽しむかのように、右手にネクタイを掴んだまま、由紀さんは私に「いい?」と訊いた。私は、黙ってうなずいた。
 由紀さんは身振りで私に机に座るように言う。木製の大きな机に腰掛けると、厚地のスカートを通して、私の太ももにひやりと固い感触が伝わってきた。
 何も言われなかったけれど、私は自ら目をつむった。
 目を閉じている私の耳に、由紀さんがカメラの自動シャッターをセットしている音が、気配として聞こえてくる。
「律ちゃん」
 片手を私の肩に乗せ、もう片方の手をいつもの様に私の頬に当てた由紀さんが、ゆっくりと私の名を紡ぐ。
 声に促されて目を開けると、目の前に優しい光があった。
「由紀さん」
 私も、ゆっくりと由紀さんの名前を紡ぐ。先輩でもなく、義姉さんでもなく、初めて由紀さんを名前で呼んだ。
 神妙な表情で、長い睫毛に彩られた由紀さんの目が閉じられるのに合わせて、私も再び目をつむった。
 私達は、触れ合うだけのキスをした。
 それは、まるで何かの神聖な儀式のように思えた。
 カシャリと音を立てたカメラのレンズだけが、私達の秘密の儀式を見守っていた。

 

 

 由紀さんと兄の結婚式が後一週間と迫った日、由紀さんは私の家に来た。
「随分片付いてしまったわね」
 昼間の明るい陽光に照らされた部屋をぐるりと見回し、開口一番由紀さんは言う。
「必要な物は、ほとんど向こうに送ってしまいましたから」
 由紀さんと兄の結婚式の翌日に、私は十八年間住んだ町を離れて東京へ行く。
「向こうでは、どんなところに住むの?」
「大学の寮に入るんです」
「私も、短大に行っていた時は寮に入っていたわ」
 由紀さんは、少し遠い目をした。
 視線の先には、私の知らない由紀さんの二年間があった。
「律ちゃん」
 私に視線を戻した由紀さんが、ハンドバックの中から出した一通の白い封筒を差し出す。
「私に?」
「ええ」
 私が封筒を受け取ると、由紀さんはもう一通同じ封筒を取り出した。
「こっちは、私の」
 由紀さんは封筒を抱くように胸にあてる。
「同じ物が入っているのよ」
 私が早速封筒を開けてみるのを、由紀さんは黙って見つめていた。
 元からすぐに開けてもらうつもりで持ってきたのだろう。糊付けされていないそれの中には、一枚の写真が入っていた。
「ネガはうちの庭で焼いたわ。写真は、この世の中に二枚だけ」
「一枚は先輩で、もう一枚は私…」
「この封筒を、鍵のかかる抽斗の中にしまいましょう。私と、律ちゃんだけの秘密よ」
 由紀さんの言う秘密という単語は、微かな甘さを伴って私の胸に落ちた。
「私は、鏡台に入れるわ」
「私は、勉強机に」
 私達は顔を見合わせ、共犯者の笑みを浮かべた。

 

*        *        *

 

 車窓を流れる風景は、広がる緑から次第に都会のそれへと変わっていく。見慣れた林や田畑の緑がコンクリの灰色に変わっていくのは、私の心を少し悲しませた。
 ハンドバックを片手に、私は布の張られた固い木の座席から立ち上がり、デッキへと向かう。ドアを抜けると、車内の喧騒がすっと遠ざかっていった。
 デッキに誰もいないことを確認すると、私はがたんがたんと揺れる壁に寄り掛かり、ハンドバックの中から白い封筒を出す。そして、指先でそっと中の写真を取り出した。
 四角に切り取られた薄暗い画面は、ぼんやりと朱に染まっていて、そこに写された物も人も、よく見ないとシルエットの様に見える。実際に見るより、写真にした方が世界は暗くなっていた。
 写真の下三分の一くらいに広がる暗い塊は机だ。その脇には、飾り棚らしき影も見える。
そして、中心に二人の人物。
 口付けを交わす、私と由紀さんの姿だ。
 そこには、数時間前駅まで見送りに来てくれた義姉の姿はない。時間を切り取られた空間の中にあるのは、私が好きだった先輩の姿だ。
 由紀さんが兄を選んだ様に、私もいずれ誰かを選び、その人の腕にこの身をゆだねるのだろう。どんな人を選ぶことになるのか、今の私にはわからないが、ただ、一つだけわかっている事がある。
 あんな気持ちで口付けをする事は、もう一生ないという事だ。
 あの時、口付けはキスという行為であり、行為以上のものだった。
 触れ合うだけの口付けを交わしながら、私達は何かの終わりと始まりを感じていた。
「失礼」
 ふいに耳に入ってきた声に、私ははたと我に返る。満帆に膨れた旅行鞄を手にした、灰色のコートを着たの男が、丁度デッキに入ってくるところだった。
「もう、着きますか?」
「ええ」
 男の言葉に重なるように、車掌のアナウンスが響きわたる。
「ありがとうございます」
 私は急いで写真を入れた封筒をハンドバックにしまうと、自分の席へととって返した。
 かたん、かたんと規則正しい音と振動を立てながら、レールの上を真っ直ぐにひた走る電車は、もうすぐ東京の駅に着こうとしていた。

 

〜終〜

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